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下落合はこんな夢をみられる街。 [気になる下落合]

 
 上の写真は、いわずと知れたパリ近郊のオーヴェル・シュル・オワーズに建つ、ゴッホの作品で有名な教会だ。手前、ちょうどゴッホが画架をすえた描画ポイントには、『オーヴェルの教会』(1890年)の画像とともに説明プレートが設置されてたりする。イーゼルの三角点も埋められていたかな? これ、佐伯祐三の『下落合風景』Click!をベースに、目白・下落合界隈でもやってみたら、半端じゃなくとても面白そうなのだ。
 『下落合風景』サインプレートを描画ポイントに立てるメリットは、街の景観や美観、風情といったものを多くの人々が気にするようになることだろうか。不動産会社の無茶な再開発(破壊)や、建設会社が違法スレスレのマンションを建てるケースも、このような街の雰囲気を意識して、少しは減ってくるかもしれない。街の風情や緑を大切にする機運も、自然に湧いてくるのではないだろうか。いつまでも廃止にならない補助73号線Click!の計画も、これでトドメを刺せそうだ。地域の環境を保全するためには、「守る」一方ではなく、たまには「攻め」なければならないのは、下町の“町殺し”を見てきたわたしの実感。
 そして、このサインプレートの最大のメリットは、オーヴェル・シュル・オワーズが世界じゅうから人々を集めているように、芸術に興味のある人たちを日本じゅうから呼び寄せられる点にある。商店街を含めた地域の“町おこし”には、格好のテーマとなりえそうだ。
 いや、佐伯に限らず、下落合風景を描いている中村彝Click!曾宮一念Click!林武Click!里見勝蔵Click!松本竣介Click!松下春雄Click!笠原吉太郎Click!など(まだ他にもたくさんいる)、ゆかりのある画家たちの描画ポイントも網羅して立てたら、目白・下落合界隈は全国でもまったく類例のない、地域丸ごとが「美術の街」に変身してしまうだろう。まさに、日本のオーヴェル・シュル・オワーズといったところ。なにしろ、ホンモノの佐伯祐三アトリエだって、中村彝アトリエだって現物が下落合に保存(>新宿区さん?)されているのだから・・・。あっ、目白バ・ロック音楽祭も毎年行われているし、タヌキも頻繁に出没するので、「音楽と美術とタヌキの街」ですね。(^^;
 
 
 大きな公園や緑が多く、もともと散歩とショッピングと喫茶にはもってこいの街だし、それにも増して、よく見かける“箱モノ”のヘタな美術館などを造るよりも、よほど気がきいていると思うのだ。交通の邪魔にならない、小さめで趣味のよいサインプレートを道端に設置するだけだから、土地の買収も建築費も大きなコストはほとんどかからない。そのくせ、ニュースバリューは圧倒的に高く、この「芸術の街」目白・下落合の名前は、たちどころに全国へと拡がるに違いない。「目白・下落合風景公募展」なんてイベントも、すぐに思いつきそうだ。・・・そう、もうひとつの美術的な切り口、わたしの大好きなシブい江戸友禅染めのふるさと、というのもあった。
 観光バスが押し寄せても困るけれど、ちょいとシャレた山手の街を散歩する人たちの数は、確実に増加していくだろう。有名画家の作品を急いで買い漁って開館する、ありがちな美術館とは次元がまったく異なる、イキでスマートな地域おこしといえないだろうか。なにしろ、これらの作品が描かれたアトリエ付きの“その現場”が、目の前のあちこちに展開しているのだから。

■写真上は、パリの北近郊、オーヴェル・シュル・オワーズに建つ教会。ゴッホは自殺するまでのわずか2ヶ月の間に、「オーヴェル風景」を70点ほど描いている。は、佐伯祐三『オーヴェルの教会』(1924年・大正13)。鳥取県美術館所蔵で、戦後は長い間行方不明になっていた作品だ。
■写真下:「こんな邪魔なサインプレートを道の真ん中に立てられたら、うちのクルマはどうやって通ればいいんですの!?」 写真はあくまでもイメージですので、気にしないでください。(爆!)


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Nylaicanai

あけまして、おめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

イーゼルの三角点? というアイデアは素晴らしいですね。
散歩途中に立ち位置なぞを見つけられれば、ますます地域に対する興味が湧いてきます。
by Nylaicanai (2007-01-02 08:05) 

ChinchikoPapa

Nylaicanaiさん、おめでとうございます。
実は、渋谷区では似たようなことをやってまして、代々木時代の岸田劉生が描いた『道路と土手と塀(切通之写生)』(1915年・大正4)の描画ポイントに、木製の記念碑を建ててますね。岸田ファンに限らず、多くの方が見に立ち寄るようですので、これを目白・下落合界隈でやれば強烈な話題性があると思うのです。
by ChinchikoPapa (2007-01-02 13:14) 

うつぎ・れい

このアイディアいいと思います。
何とか実現したほうがいい。
こないだのカキコでも書きましたが、新宿区には都庁もあるので、芸術志向を標榜している石原都知事は一応狙い目な直接交渉先だとおもいますよ。
色々と問題を抱えてはいるものの、無理解な役人よりは利用価値があるので、使えるモノは使わないと…。

ところで、どうも場所が特定できないのですが、中村彝アトリエの場所は今の何処にあたるのでしょう。
私は葛ヶ谷の谷戸の尾根ということで鹿島のアパートや区民プールの十三間道路を挟んだ向かい側の裏手あたりから、落合南長崎駅方向の何処かと判断したのですが、違うのでしょうか? 番地が分かればよいのですが。
by うつぎ・れい (2007-01-20 14:37) 

ChinchikoPapa

いろいろとお気遣い、ありがとうございます。
中村彝アトリエは、目白駅から500メートルほど西へ入った、下落合の旧・林泉園の尾根上にあります。目白通り側からいいますと、つい先日、移築・解体されてしまったメーヤー館(日本聖書神学校)のちょうど裏手にあたります。
住所を掲載してしまいますと、お住まいの方が困られることもあるかと思いますので、下記のページをご参照ください。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-12-03
この界隈にお詳しいうつぎさんなら、見当がつくかと思います。
by ChinchikoPapa (2007-01-20 15:37) 

うつぎ・れい

>この界隈にお詳しいうつぎさんなら…
ハハ…どころか全然方向音痴ですねえ。
西落合の西の端の傾斜地形と下落合の林泉園を取り違えてました。
長崎村南西の古い葛ヶ谷の地形に似てたもので…もう大間違い!
勝手に頭の中で作ってしまってたイメージを、大急ぎで入れ替えないといけない。

なるほど、林泉園というのは昔々の御留山の北側の傾斜地なのか…
凄いな。この辺も、もう至るところに谷戸があったんだ。そういえば落合とは水が落ち合う低地の意味で付けられた名前だとも聞いた事があるな。確かに聖母病院背後の坂は登るのが結構大変で、何でこんな処にこんなに急な坂があるんだ…とか良く思って上ってたっけ。
下水道の完備というのは確かに便利なんだけど、実に風景をつまらないものにしてしまいますね。
まさしく見る影も無い。そしてコンクリート舗装のせいで大地に水が殆ど染み込まないから、総ての湧き水も枯れ果てる。降った雨は全部ゴミの如くドブに棄ててしまう。航空写真で空から東京などの都市を見ると、大地に広がるカビのように見えて少しも美しくない。( まあ集積回路のようにも見えますが ) 池袋西口北側のビル群は私にはエイリアンの都市のように見えて、その上を UFO に乗って飛び回るとゾッとします。 ↓ これね。( 但しWindows IE でマウスダイヤル使用者限定ですけど。)
http://www.geocities.jp/netreal_bookbox/bird_eyes/nagasakimura_wide.htm
いつも直ぐにご回答いただき有り難うございます。
ちょっと離れてますが今度行ってみます。
でも、そうすると目白、落合、長崎、池袋…というのは本当に当時の芸術家たちの一大集積地帯ですよね? その真中に十三間道路が通されたことによって分断されてしまった感があります。
一定以上の巾の車道には十分に文化破壊力があると思います。有楽町線「小竹向原」のように地下に潜らせるという方法もあったのに…とも思うけど、開発効率と利権優先の政治家にはそんなことは思いつく筈もない。
この「落合文化史」そろそろ本になる分量ではないでしょか?
でわでわ
by うつぎ・れい (2007-01-21 04:02) 

ChinchikoPapa

>まさしく見る影も無い。そしてコンクリート舗装のせいで大地に水が殆ど染み
>込まないから、総ての湧き水も枯れ果てる。

区ではいちおう、雨水浸透システムを推奨しているようですが、条例的な義務ではないので、なかなか普及していないようです。大型マンションのような、全体をコンクリートで固めてしまうような造りの場合、周囲の住民が強く要望すれば建設業者は設置してくれるケースがあるようですが、あくまでも業者の「誠意」や「良心」に頼っているような現状だと、限界があるのは目に見えてますね。業者も、多くはアリバイ的な規模でしか設置しません。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2005-10-06

>でも、そうすると目白、落合、長崎、池袋…というのは本当に当時の芸術家
>たちの一大集積地帯ですよね? その真中に十三間道路が通されたこと
>によって分断されてしまった感があります。

目白通り(旧・清戸道)を挟んで、池袋・上屋敷・雑司谷旭出・長崎側から下落合へ、また下落合側から通りの北側へ・・・と、特に画家たちが行ったり来たりしてますね。十三間通りに分断されて、いちばんダメージが大きかったのは目白文化村でしょう。
空襲で130棟が焼けたとはいえ、それでもひとつの街としてのおもむきは失われずにいたものが、1967年の道路貫通から統一感も風情も、そしてなによりも日本の住宅建築史にとって歴史的な実験場、かつ特別な場所であるという記憶もいまや失せつつあります。
現代日本の先駆け的な住宅建築や、いまにつながる生活スタイルのほとんどが形成された街なのに、これほど“地味”になってしまった地域もめずらしいと思いますね。
by ChinchikoPapa (2007-01-22 10:53) 

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