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中村彝のあきれた夕食づくり。 [気になる下落合]

 岸田劉生Click!がときどき訪れていた、中村彝の新宿中村屋裏にあったアトリエとは、どのような様子だったのだろうか。いままで、下落合のアトリエのことばかりを書いてきたけれど、新宿中村屋における彝の日常的な暮らしを紹介した資料は、思いのほか少ない。この時期のことが語られると、どうしても相馬黒光(良)や娘の俊子とのドラマチックなエピソードClick!が中心になり、なかなか彝がアトリエですごしていた普段の様子が紹介されることが少ないのだ。
 ところが、面白い資料が出てきた。新宿中村屋裏の中村彝アトリエを訪問した、記者のレポートだ。1912年(明治45)4月に発行された『現代の洋画』第1号に、「画室訪問録」というコーナーがあって“美術記者”が執筆している。「或る寒い日の暮れ近く」に訪問したとあるので、同年の冬の取材だったのだろう。
  
 友人から『新宿の終点で電車を降りるとすぐだ』と、兼て聞いてゐたから、教はつた通りに『中村屋』と云ふ大きなパン屋に隣つた小路を這入ると、すぐ突き当りが医院で、鍵の手に曲つた奧が故荻原守衛氏の碌山館で、其手前の角家が即ち彝者(君)、中村氏の画室である。
                                    (「中村彝氏を其画室に訪ふ」より)
  
 柳敬助が暮らしたあと、しばらくしてそのアトリエに引っ越してきたばかりの中村彝を訪ねたわけだ。誤植だらけなのが気になる文章だが、記者の「それはさうと此画室は夏は涼ひでせうね」という問いに、「僕はまだ此で夏を送らないから知らないんですが、前の持主であつた柳(敬助)君が、そー云つてゐましたから」と答えているのでもわかる。
 
 この記事を読んでいると、なかなか絵画の話題に入っていかず、世間話ばかりに終始しているのがおかしい。この連載記事の趣旨が、画家の日常を訪ねてちょいと画室を拝見・・・というようなことだったのだろう。ようやく「白樺の展覧会へ御出掛になりましたか」と記者が訊ねるころには、もうインタビューはおしまいなのだ。記者は、油絵作品のひとつを借り受けて彝アトリエをあとにし、次の訪問先、当時は柏木(現・北新宿)にあった三宅克己アトリエへと向かっている。
 この記事の中で、中村彝が夕飯を作っているシーンが描写されている。雑誌記者の取材を受けているまっ最中に、「僕は一寸失礼して夕飯をやりますから」と炊事をはじめる彝もかなりおかしいけれど、せっかくのアトリエ訪問記なのに、それを細かく描写する美術記者も相当に変だ。この『現代の洋画』という美術誌、早々につぶれたのではないだろうか? なにしろこの記者、中村彝が夕飯を食べる姿を見て感動しているのだ。
  
 ストーブの脇にあつた牛乳を瓦斯の火に翳して『お茶を入れゝばいいのですが、この方がよいでせう』とコツプに注いで感じのよいテーブルの上に運ばれて『碌なお菓子ぢやありませんが、およろしかつたら一つお摘みください、僕は一寸失礼して夕飯をやりますから』と隅の方からアルミニユムの手鍋と子(ネ)ギとを持ち出して小さいナイフで縦に幾つも筋を入れてそれを又横に切つてお鍋に投り込む(ママ)と、瓦斯七輪の青い火の上に掛けられた。
  
 ・・・と、どうでもいいような会話や動作の描写がエンエンとつづく。お茶の代わりに牛乳というのも、すごいお客のもてなし方だけれど、牛乳瓶をストーブにかざして温めるところが、思いやりのある彝らしいところ。ストーブのそばにずっと置かれていたらしい牛乳は、腐ってはいなかっただろうか? そして、彝の夕飯レシピが明らかになる。

  
 『自炊は何時迄も此調子で続けたいのですよ――これつ位ひ自由な生活はありやしませんからね』とグラグラ白い湯気の上つて来る鍋の蓋を取つて中を一寸覗ひて、これでよいと云つた顔付をして、ストーブの蔭に忍ばしてあつた赤い色の土釜を引きづり出すや、ベツタリと其前にお臀を下して『一寸失敬します』と、それは実に世話の入(ママ)らぬ簡単な夕食である。
 その簡単な生活の中からは実に中村君の飾りつ気のない純粋な生活が伺はれて奥ゆかしい。中村君のこの快愉な生活を見せられた記者は実に羨まずには居られなかつた。そして少くとも真の芸術家は不断、こんな態度でありたいと、つくづく思はれた。
  
 ちょっと待ってよ・・・と言いたくなる取材記事。中村彝の夕飯は、いったいなんだったのだろう? ネギを細かく切って鍋に入れただけで、味つけはどうしたのだろう? 味噌を溶くか、醤油でもたらしたのだろうか。ストーブの陰にあった土釜は、もちろんご飯が入っていたはずなので、おかずといえばネギのみじん切り汁だけ・・・ということになる。「奥ゆかし」くて「快愉な生活」と記者は言うけれど、こんな食生活をつづけていたから栄養失調になって結核に罹患してしまったのだ。
 
 彝がもう少し栄養学の知識を持ち、食生活の重要さに気を配って、絵が売れると代金のすべてを画集購入なんかに当てず、いくらかはちゃんとした夕飯を作れる食材を手に入れていたとしたら、確実に寿命は伸びていただろう。
 記者は、「芸術家は不断、こんな態度でありたいと、つくづく思はれた」などと、おためごかしを書いているけれど、ネギと飯とカスミを食っていては生きられない。死んでしまっては芸術も表現もへったくれもない、元も子もないのだ。

■写真上:新宿中村屋のチキンカリー。「カレー」ではなく、中村屋はどこまでも「カリー」だ。
■写真中上は、現在の新宿中村屋本店。は、戦前の中村屋。
■写真中下:1917年(大正6)、完成したばかりの下落合アトリエにおける中村彝。背後には、レンブラント風の『帽子を被る自画像』(1910年・明治43)が置かれている。東側のドアClick!のところにも絵が架けられているので、この時期はドアを利用していなかったように思える。
■写真下は、アトリエの応接室から庭木を見上げる。は、1917年(大正6)の『美術』3月号の、奥付近くに掲載された画家の「消息」欄。偶然、中村彝と岸田劉生の消息がふたり同時に掲載されている。「中村彝氏:一時病気重態なりしが頗る快方に赴けり/岸田劉生氏:去月下旬一家を挙げて鵠沼Click!に赴きたるが六月頃まで滞在する予定なりと」。ロダンの危篤が伝えられたが、まったくの誤報だったことも記載されている。


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sig

こんにちは。
高尚な記事や難しいお話には手が出ませんが、こういうお話はようやく理解できそうです。(笑)
上記の記者は中村彝氏の制作時間ではなく、たまたま食事時間に訪ねたので、やむを得ずこういう内容になったのかもしれませんね。いやね最初から画家の私生活を取材する狙いで出かけたのかな。
それにしてはChinchikoさんの記事のように突込みが足りませんね。
当時の芸術家と言われる人種同様、記者などというものも、意外にアバウトなところがあったのでしょうか。なにかのどかな空気も伝わってきます。
by sig (2008-09-29 16:34) 

ChinchikoPapa

sigさん、昔の記事にコメントとnice!をわざわざありがとうございました。
ぜんぜん高尚などではなく、わたしの記事は非常に俗っぽい視点や観察で書いていますので、くれぐれも誤解をされませんよう。^^;
おっしゃるとおり、くだんの記者はひょっとすると画家の日常生活が見てみたくて、わざと食事どきをねらって訪ねているのかもしれませんね。 あるいは、この当時は貧乏な中村彝のアトリエでは無理そうですが、大家の邸を食事どきに訪問すると、ご馳走にありつけるなんてさもしい根性があったものでしょうか。(笑) このあと、当時から水彩の大家だった三宅克巳アトリエでは、夜間訪問になったはずですから、食事がお銚子つきで出されたかもしれませんね。w
by ChinchikoPapa (2008-09-29 18:39) 

ChinchikoPapa

こちらにもnice!をありがとうございました。>まるまるさん
by ChinchikoPapa (2009-06-23 10:55) 

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