絶版になった親父座右の本2冊。 [気になる本]
親父がいつも身近に置いていた本のひとつに、1969年(昭和44)発行の『東京生活歳時記』(社会思想社)がある。東京各地に残る風俗や習慣、祭事、行事、暮らし、地誌などを大著にせず、コンパクトにまとめたわかりやすい「江戸東京・暮らしの手帖」のような本だ。数日に一度、この本を開いては確認して出かけていたので、きっと仕事の合い間にでもどこかへ立ち寄っては、東京各地の風物誌を楽しんでいたものだろう。
この本が出る前によく開いていたのは、1936年(昭和11)に出版された『大東京史蹟名勝地誌』(地人社)だ。1960年代半ばまで使っていたようだが、東京オリンピック前後に記述の古さが気になったのだろう、『東京生活歳時記』に変えている。ちなみに、『大東京史蹟名勝地誌』は紹介する現地を徹底取材して書かれており、その中で淀橋区下落合(当時)の氷川明神が紹介されている。そして、「奇稲田姫を祀る」と書かれているのが興味深い。戦前においてさえ、クシナダヒメ1柱の明神社として認識されており、明治以後の他の神2柱は登場していない。
なぜ、60年代末に『大東京史蹟名勝地誌』を書庫入りにして、新たに『東京生活歳時記』を買いなおしたのかといえば、東京オリンピックを境に東京の町名や地名が大きく変ってしまい、使い勝手にかなりの不便さを感じたからだ。戦後、東京35区が23区に変っただけで、各地の地名や町名はもとのままだった。旧区名を23区名に置き換えるだけで、特に不便は感じなかったのだろう。ところが、新たに買い直した『東京生活歳時記』もすぐに古びてしまう。たとえば、1月の項目で、新宿区の御霊神社の「おびしゃ」祭りClick!が写真入りで紹介されるが、1969年(昭和44)の時点では中井御霊神社Click!とは書かれていない。もちろん、「下落合御霊神社」だ。葛ヶ谷御霊神社に対して、下落合の丘上にある同社は当然のことながら下落合御霊神社だった。町名が変更されたばかりの2年後に出版されたので、昔からの呼称をそのまま踏襲して記載したものだろう。
東京オリンピックの2年前、1962年(昭和37)に施行された国の法に「住居表示に関する法律」がある。この法律により、東京から数多くの町名や地名が消滅、あるいは変更されていった。施行のおもな理由は、オリンピックで来日する外国人に対して、細々とした地名や住居表示が存在するのが「わかりにくいし恥ずかしい」から・・・というものだった。わたしは、この法律を推進した当時の為政者の心根のほうが、よっぽど恥ずかしいし情けない。東京弁でいえば、「恥っつぁらし」な連中だ。自分の地域または街の謂われや歴史が営々とこもる名称を、ことさら貶しめ蔑視してはばからない彼らを、心底「恥ずかしい」と思う。
東京では、町名の56%が変えられたところで、その作業がピタリと止まった。当然のことながら、住民たちがさすがに堪忍袋の緒を切って怒りだし、各地の自治体が抗議の嵐にさらされたからだ。すると、1983年(昭和58)に当時の自治省は手のひらを返したように、「住民の意見を尊重し、みだりに従来の町の区域を改変したり、町名を全面的に変更することがないよう指導」することになった。各自治体の態度もコロリと豹変し、「町名尊重」などと言い出すことになる。
地名・町名変更に対する抵抗が、もともと都内でも大きかった新宿区でさえ、角筈や柏木、花園といった重要な町名が消滅している。このとき、すでに下落合の地名は大きくいじられ、その西部が「中落合」や「中井2丁目」という不可解な地名に改変されてしまっていた。だから、先の御霊神社はもちろん、石橋湛山、安倍能成、佐伯祐三、松本竣介、金山平三、会津八一、刑部人、川口軌外・・・などなど各邸や各アトリエが、下落合に「存在しない」ということになってしまった。
先日も、中井2丁目の方とお話しているとき、「ここは下落合で、中井なんて町名じゃない」ことを再三強調されていた。当然のことだろう。下落合教会も下落合みどり幼稚園も、そのまま「中落合」で健在だ。おそらく、千年近くもつづいていた地域名を、役人の机上の思いつきでお手軽勝手に変えられたのだから、40年近くたっても怒りが収まらないのだ。自宅の表札横の住所表記Click!を改めないばかりか、新たにマンションが建てられると、下落合の旧番地を名称にした建物Click!さえある。わたしは、このサイトの「気になる下落合」という分類に、当初から「中落合」と「中井2丁目」のエリア、つまり本来の下落合全域を含めている。佐伯祐三が散策していた時代、「下落合」と認識されていたエリアすべてをカバーしたい。
歴史や民俗が豊かにやどる町名あるいは地域名を、国外に対して「恥ずかしい」と思う感覚、わたしには逆立ちしてもとうてい理解できない性根だ。旧・下落合全域にお住まいのみなさん、40年前の為政者のオバカな妄想などうっちゃって、もう一度ちゃんとした元の町名・地域名にもどしませんか? 10年前なら、郵政省や区内の郵便局がこぞって抵抗したかもしれないが、いまなら代わりに宅配便がキチンととどけてくれるだろう。
■写真上:1969年(昭和45)に出版された『東京生活歳時記』(社会思想社)。何度か改版が重ねられたが、ほどなく絶版となった。当時の価格で800円だから、やや高価な本だった。
■写真中:左は、1936年(昭和11)に出版された『大東京史蹟名勝地誌』(地人社)。豪華な函入り装丁で、5円とかなり高価だった。右は、下落合4丁目(現・中落合4丁目)の石橋湛山邸。
■写真下:左は、下落合4丁目(現・中井2丁目)の林芙美子邸。右は、その建築中の様子。
お久しぶりです。おひさ、とネットでは書くのが定番かな。フラワーショップ・アベーユです。ウチは昔も今も下落合だからアレですけど。町名変更はまったく酷い。旧牛込区に行くと、見事に残っていて感動する。細工町とか南山伏町だったかな、何軒もないところも残っている。江戸の町名はどこだって変えがたいはずだったのに。誰でも知っていたメジャーな町名でも消えたところが沢山ある。交差点の名前で残っていたりするけど。牛込の他には神田のそばに少し残っていますね。
新興住宅地の昔は畑だったナントカヶ丘じゃないのだから、なんとかして欲しいよ。時代小説愛読家。
by テツオ (2007-03-18 07:41)
テツオさん、ご無沙汰です。文化村方面からの散策の帰りなど、ときどきショップの前を歩きながら、緑のいい香りで深呼吸をさせていただいてます。(^^
うちの会社も、飯田橋駅前の旧牛込区側にあるのですが、この界隈は江戸期からまったく変わらずの昔ながらの町名ばかりです。牛込御門のすぐ外側、旗本屋敷が軒を連ねていたあたりの旧山手ですね。
神田界隈は、町名変更をしようとする区に反対して、住民が区長宅にまで押しかけて徹底抗議(三崎町ケース)した土地柄ですので、かなりよく残っています。でも、神田多町2丁目だけ残って多町1丁目が存在しないなど、もう少し本来の町名を元にもどせなかったものでしょうか。町名の維持・継続は、そこに住んでもいない役人の仕事でも、郵政公社の配達の利便性でもなく、その町の住民の意思だと思うのです。
目白駅近くでは、「雑司ヶ谷」→「西池袋」という町名変更が最高裁まで争われたようですが、現状なら決して「西池袋」なんて地名にはならず、雑司ヶ谷6~7丁目のままだったんでしょうね。
by ChinchikoPapa (2007-03-19 01:29)
>千年近くもつづいていた地域名を、役人の机上の思いつき
全く仰るとおりで、実に腹立たしいことです。記録の残っているうちに、早くもとの名前に戻すべきです。
川崎市の区の名前を決める時にも、私の済んでいる麻生区になるときには、村長をしていた人が柿生(かきお)と言う名前に拘り、柿生区に強い執着を示しました。岡上区を掲げた人もあったような気がします。ことほどさように、住民には受け継いだ思い出、思い入れがあるものです。
by アヨアン・イゴカー (2009-03-13 00:34)
アヨアン・イゴカーさん、コメントとnice!をありがとうございます。
町名変更や地域名への抗議は、山手よりも下町のほうが強烈でした。千代田区長の自宅を住民たちが包囲してしまったり、中央区役所に連日抗議に出かけたりと、その地名・町名への愛着度や執着度はケタ違いでした。
落合地域についていえば、わたし個人的にはいまからでも、上落合と下落合ふたつの、ちゃんとした元の街名にもどしてほしい・・・と思いますね。ただし、旧・葛ヶ谷地域にお住まいのみなさんは、現状の西落合という名称を気に入ってらっしゃる方が多そうですので、それはそれでいいのではないかな・・・と思うのです。
神田に丁目欠番の事例がありますけれど、中井2丁目が下落合に復帰して2丁目が欠番になってしまったとしても、別にいいんじゃないかとも思いますね。
by ChinchikoPapa (2009-03-13 11:51)
ChinchikoPapa様、はじめまして。
私も東京の下町に育ち、町名変更で育った町名を失いました。
どこもここも訳のわからない西やら東やらのついた町名になったことを嘆いております。
先日、白山あたりを散策して旧町名の名残を2,3見つけて自分のブログに書きました。
そして思いついて検索したところこちらにたどり着きました。とても同感しました。嬉しかったです。
私のブログは始めたばかりの雑記帳のようなものですが、もし許して頂けるならこちらのブログを紹介したいのですが如何でしょうか。
自分の力の足りなさを人様に頼るようですが、知り合いにも読んで欲しかったので…。
よろしくお願いします。
by maricoro88 (2009-05-03 19:35)
maricoro88さん、はじめまして。コメントをありがとうございます。
街を歩いてまして、元の町名を掲げるお宅を見つけると、わたしも「あ、こだわってる方がいらっとゃる」・・・と、うれしくなります。^^
街の名前は、自身が生まれ育った“場”として、アイデンティティの形成と切っても切れない関係にあるはずですが、当時の“恥っつぁらし”で「自虐的」な為政者には、地元・東京と関係のない人々が多かったのでしょうね。わたしでさえ腹が立つのですから、親の世代から上の「地付き」の方々は、それこそ腹わたが煮えくり返ったんじゃないかと思います。もうそろそろ、あちこちの町内で元にもどす運動がスタートしてもいいように思うのですが。^^
さっそく、TBさせていただきました。また、読んでるブログにも登録させていただきました。
by ChinchikoPapa (2009-05-03 20:47)
早速に有難うございます。大変素晴らしいブログなので嬉しいです。
東京人は早呑みこみで勝手に良い方に解釈をして後悔することがあるように思います。日本橋の上を無情に塞いだ高速道路も、協力的だった地元の方々は出来て初めてびっくりだったようです。うまく取り外せるといいのですが、一度出来上がったものを元に戻すのはなかなか難しいのかも知れません。
確かに地元に愛着のない人々には効率が一番だったのでしょうね。淋しい話です。
by maricoro88 (2009-05-03 22:32)
maricoro88さん、重ねてコメントをありがとうございます。
日本橋上の高速道路をなんとかしよう・・・というのは、親の世代の方々がめざした課題のうち、最後に残ったひとつなのですが、なかなかスムーズには進捗しませんね。両国の花火大会復活(1978年/これは少し上流になってしまいましたが)、神田明神の将門の主柱復活(1984年)・・・と、いくつかの課題実現は果たせたものの、親父はかんじんの地元である日本橋のみ、実現するのを見られずに逝ってしまいました。とても残念だったと思います。
日本橋のたもとには、すいぶん以前から高速道路をとっぱらった景観予想図や、周辺の緑地化など整備青写真が貼り出されていますけれど、いったいいつになったら実現することやら。わたしの世代では、さらに課題が付け足されて増えているのですが^^;、日本橋はひょっとするとわたしの子供たちの世代になるのかもしれません。
by ChinchikoPapa (2009-05-03 23:31)
いつも、たくさんのnice!をありがとうございます。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-09-18 13:02)