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『中村彝作品集』は大赤字? [気になる下落合]

 中村彝の死後に、彼の書いた原稿や書簡をまとめた『芸術の無限感』Click!(岩波書店/1926年・大正15)が出版された。このタイトルは、どうやら鶴田五郎が決めたらしい。わたしはいままで、昭和に入ってからの重版をいつも参照していたのだけれど、先日、改めて初版を手に入れて気がついた。初版本には、中村彝の遺作をまとめた『中村彝作品集』という、会員限定500部の画集のチラシが挟まっていた。
 この画集は、中村彝のアトリエを「中村彝作品集刊行会」の事務局として会員を募り、500名分が集まったところで刊行しようと企画されたらしい。1925年(大正14)3月1日に、同会の発起人たちが集まって、46×36cmの大判仕様の『中村彝作品集』を編集した。発起人たちとは、伊藤隆三郎、堀進二、遠山五郎、渡辺光徳、鶴田吾郎、前田慶蔵、洲崎義郎の7人だ。チラシには、次のような呼びかけ文が印刷されている。
  
 宝玉の様な光りと輝きとを持つてゐる中村彝君の芸術を皆様と共に永久に此の世に飾りたいと云ふ私等の止むに止まれぬ要求から今度故人の遺志を参酌して遺作中の最も代表的作品五十点を選んで精巧なる印刷複製として御頒ち致す計画を建てました。
 出版に就ては我国製版界に最も信望と経験ある辻本写真工芸社に嘱し私共は直接監督の任に当り内容、質、体裁共に可及的最善を尽し経費も亦出来得る最低の実費を以て会員制度により出版する事にしました。                           (「中村彝作品集出版趣意書」より)
  
 ところが、人気が高かったはずの中村彝画集なのに、なぜか会員500名がすぐに集まらなかったようだ。「会員五百名を限り五百部を限度とし再販せず」とうたったにもかかわらず、1年間で会員は300名余だったらしい。このチラシには、画集の価格が記載されていないけれど、かなり・・・というかべらぼうに高価だったのではないか? 問い合わせてきた中村彝ファンも、予定価格を聞いて二の足を踏んでしまったのかもしれない。
 原色版(グラビア印刷)×20枚、単色版(コロタイプおよびグラビア印刷)×30枚で、特製アート紙に印刷され、さらに各印刷画は特注あつらえの漉き紙台紙に貼られる・・・という、メチャクチャ凝った装丁なのだ。会員がなかなか500名に達しなかったのに、シビレを切らした中村彝作品集刊行会では、300人を超えたあたりで刷り始めてしまったらしい。そして、不足分の会員募集を、『芸術の無限感』の中に募集チラシを挟むことで埋めようとした。
 会員の「五百名を限り五百部」を印刷するはずが、このチラシの末に「右残本百部余あり御希望の方は至急左記申込所に御申込ください」なんて、取って付けたように書いてある。「至急」というところが、豪華すぎる画集を多く作りすぎて、資金の回収に焦っているのがヒシヒシと伝わってくるのだけれど、ちゃんとすべての部数が捌けたかどうかは記録がないのでわからない。
 
 このように、中村彝の死後も下落合のアトリエは、彝にちなんださまざまな企画の拠点として、あるいは「目白派(目白グループ)」と呼ばれていた周辺の画家たちの拠りどころとして、そのまま保存されつづけることになった。1927年(昭和2)7月に発行された『美術新論』の、中村彝たちを追悼する「盆会供養号」で、鶴田吾郎は次のように書いている。
  
 (彝が)永年住んでゐた画室も、未だにあの儘となつてゐる。愛読した書物も、描き残した絵もその儘保存されてある。いまはM君が留守居といふ調子で住んでゐるが、これも友人達の希望で画室倶楽部といふことにして毎月一回づゝ例会を開いてゐるのだ。また倶楽部員で画室を有たぬ者の為に、自由製作の場所に使用したり、或は絵の上に就いて互いに意見を述べあつたり、生活の上のことにも親切と便宜を与え合ふといふ様な機関の積りで未だに例会は継続されてゐる。
                                (鶴田吾郎「中村君とその後の画室」より)
  
 これを読むと、いまだ斜陽になっていなかった今村繁三Click!らの好意からか、彝アトリエが生前とまったく同じ状態で保存されていたのがわかる。下落合や目白に住んだ画家たちは、中村彝の「画室倶楽部」員になってアトリエへ参集し、彝の遺作展の企画や自分たちの表現上の議論など、夜が更けるまでつづけたのだろう。『中村彝作品集』も、そんな中から生まれた企画に違いない。
 ちなみに、この『中村彝作品集』を現在手に入れようとすると、限定500部がきいたのか、古書店では最高額が26万円超で売られている。いまでも、とても手が出ない。

■写真上:『芸術の無限感』に挟まれていた、『中村彝作品集』の刊行会員募集チラシ。実は、このときにはすでに500部が刊行されていて、100部を超える売れ残りが出ていた。
■写真下は、中村彝アトリエの北面にある採光窓。きちんと補修されて、保存される日が待ち遠しい。は、『美術新論』(1927年7月)の「盆会供養号」。中村彝の追悼には、遠山五郎、鶴田吾郎、曾宮一念、大久保作次郎の4人が原稿を寄せている。


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