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目白に住んだ劉生の知人たち。 [気になるエトセトラ]

 

 先に谷間のユリさんから、岸田劉生の下落合における友人宅の存在を示唆する貴重な情報をいただいた。おそらく「十六歳之麗子像」Click!のひとつ、あるいはその習作と思われる作品が眠っていた、目白通りの杉山宅だ。そして、できたばかりの中村彝アトリエにも姿を見せていた可能性についても、少し前に記事Click!にした。ところが、このテーマを少し掘り下げてみると、目白・下落合界隈には劉生の友人知人たちが案外多く住んでいたことがわかってきた。その人脈をつなげるキーワードは、もちろん「白樺」だ。
 「白樺」に深く関わり、草土社にも参加した洋画家のひとりに、河野通勢(みちせい)がいる。彼は、代々木に住んでいた劉生が自宅付近で「切通し」シリーズを描いているとき、たまたま近くで樹木の写生をしていて偶然に知り合った。ふたりは「白樺」を通じて、すぐに共通の“白樺同人”を知ることになる。河野は、当時“日本一のカネ持ち”といわれた、住友財閥の御曹司である住友寛一とも交流があり、劉生を住友に紹介したりもしている。劉生にしてみれば、住友がパトロンになってくれれば、一生食うに困らないと思ったのかもしれない。
 ところが、住友は「劉生の絵はダメだ」といって相手にしなかったようだ。河野は、それでもなんとか住友を説得して、劉生に「首狩り」(肖像画制作)をさせるまでの段取りをつけた。そのときの様子を、『武者小路実篤記念館/講演記録集・第三集』(調布市)から引用してみよう。
  
 ちょうどその頃は、劉生が一番肖像画で細密描写――顔のところへ目をくっつけて、その人の肌の色やなんかをかく、という時代でございまして、「古屋博士の像」という有名な作品がございますけれども、その作品の頃です。いい調子に仕上がっていたのですが、ところが、寛一さんは寛一さんですから、「あ、ちょっとやせて」といってしまったのです。当時、やせてかくといわれていたときですから、だから、ついそれが頭にあって、「やせて」と。劉生はカァッと怒って筆でメチャメチャにしちゃった・・・。今それがありせば、大変な傑作になったのだろうと思うのに、寛一さんは惜しいことをしたと僕は残念でならないのですが。  (河野通明「『白樺』のその後に就いて」より)
  
 またまた劉生は、いつものカンシャクClick!を起こしてしまった。さすがに、住友を「なぐってしまう!」とまではいかなかったようだが、せっかく描きかけの画布をグチャグチャのメタメタにしてしまい、あとはプイッと住友寛一を志賀直哉と同じように無視したことだろう。
 
 河野のつながりも含め、劉生が「白樺」を通じて知り合った仲間に、千家元麿一派もいる。その中に、劉生の数少ない友人のひとりとなる、詩人の佐々木秀光も混じっていた。この人物が、少しあとの大正末に目白で花屋さんを開店している。花がしおれても、「昨日までは実に元気でございました」と気にせず売りつづけた、とんでもなくのんびりした営業だったらしい。また、この店の2階には、「白樺」の“新しき村”へも参加した写真家の坂本万七が、「坂本美術写真」(河野通明・講演による)のオフィスを開業していた。のちに「桃源社坂本写真場」、さらに美術写真家として高名になると、オフィスを「坂本万七写真研究所」へと改称している。
 この2階建て店舗の看板を描いたのが、ほかならない近所にいた河野通勢だった。大正の終わりごろ、河野は長崎村字荒井1867番地に住んでいた。ちょうど、現在の「目白の森公園」があるあたりだ。大正末のこの時期、すぐ南には鈴木三重吉の「赤い鳥社」Click!(長崎村1880番地)があり、少し東へと歩けば大久保作次郎Click!がアトリエ(下落合540番地)をかまえ、またその南側(下落合538番地)には川島浪速と跡見高女へと通う養女の芳子Click!が少し前まで住んでいた。
 この「佐々木花店」と「坂本美術写真」は、大正末に目白駅のかなり近くにあったことが、坂本万七のご子孫の方にお訊ねして判明した。そして、「高田町北部住宅明細図」(1926年・大正15)から、それらしい店舗を見つけることができた。目白駅の西側、高田町1702番地の目白通りに面した店で、河野通勢アトリエからもほど近い。ところが、佐々木秀光の営業不熱心から、花店はほどなく傾いてしまったようだ。
 
 2階の坂本万七は、先の河野通明による講演「『白樺』のその後に就いて」によれば、写真が売れないと2階でいつもギターを弾いていたようだ。河野通勢の子供たちとも、盛んに交流したらしい。坂本は、「高田町北部住宅明細図」が印刷された同年の暮れごろ(昭和元年)に、学習院馬場(現・目白小学校)裏の通りへと転居し、改めて「桃源社坂本写真場」を開業している。おそらくほぼ同じ時期に、1階にあった佐々木秀光の花屋も閉店しているのではないだろうか。
 京都時代はともかく、藤沢時代そしてのちの鎌倉時代の岸田劉生は、「白樺」を通じて知り合った河野通勢をはじめ、これらの人々をしばしば上京を繰り返すついでに、おそらく時おり訪ねていただろう。そして劉生の愛娘の麗子も、戦後は「白樺」のあとを継承した「大調和」の流れへと、やがて合流していくことになる。
 でも、劉生自身の「白樺」への傾倒は、長くはつづかなかった。武者小路を訪ねた劉生は、もじもじしながらなにも言わず、そのまま黙って「白樺」を去っていった。

■写真上は河野通勢『自画像』(1917年・大正6)、は岸田劉生『自画像』(1914年・大正3)。
■写真中は、岸田劉生と洋画家仲間による1918年(大正7)の記念写真。左から河野通勢、岸田劉生、椿貞雄の順。は、“新しき村”のメンバーによる記念写真で、撮影は坂本万七。前列右から千家元麿、笹本寅、佐々木秀光、後列右から永見七郎、小国英雄(前のめり)。小国英雄は、黒沢明の映画作品には欠かせない脚本家として、『七人の侍』をはじめ数多くの作品を残している。
■写真下:いずれも、1926年(大正15)発行の「高田町北部住宅明細図」より。


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ChinchikoPapa

バスーン♪さん、さっそくTBいただき、ありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2007-04-12 13:15) 

バスーン♪

こちらこそ、トラックバックありがとうございました。
by バスーン♪ (2007-04-12 21:26) 

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