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ドキュメント1924年(大正13)のクリスマス。 [気になる下落合]

 中村彝が死んだとき、洲崎義郎Click!は1918年(大正7)より柏崎にあった比角(ひすみ)村の村長をつとめていた。1924年(大正14)12月24日(水)の午後4時ごろ、たまたま比角小学校にいた洲崎は、自宅からの緊急連絡で電話室に呼び出されることになる。
 きょうは、わたしの文章でいつもの記事風にはまとめず、1924年(大正13)12月24日(水)から翌25日(木)にかけての様子を、その現場に立ち会った洲崎自身のドキュメントとしてご紹介したい。出典の初出は、1925年(大正14)に出版された『木星-中村彝追悼号-』の洲崎義郎「彝さんの藝術」だが、その文章を現代表記に改めた『中村彝・洲崎義郎宛書簡』(新潟県立近代美術館/1997年)の「ツネさんの芸術」から引用してみよう。
  
 それは私の一生に取(ママ)って永久に忘るゝ事の出来ない大正十三年十二月二十四日の午後四時頃の事で有った。『ツネさんが死にました』 何んという暗い冷酷な陰惨な電話の響きだろう、私は暫くの間は受話器を持った儘、茫然と其所に侘立した。それは悲しみとか苦しみとか、失望とかいう感情や言葉を絶した灰色の、行方も知らぬ谷底へでもふんわりと落込んで行くような、空虚に似た感じで有った。私の心は電話室を出る事を罪におののく者か日光の前に出るのを嫌うように怖れおののいた。それがどんな感情や心から来て居るか私は知らない。恐らくは私の空洞のような神経や潜在意識が直覚的に全身にそんな命令を発したものに違いない。私は暫くしてふらふらと電話室を出た。
  
 涙は流さないが、滅入るような寂しさに襲われながら、洲崎は自宅へともどってくる。
  
 妻の政子も悲痛な顔をして涙ぐんでいた。そうだ彼女も且て私と共に目白のあの平和な光りと影との交錯するツネさんの家の庭の芝生で、一生に只一度ではあるが極めて楽しい意義深い会見をした後、尚引続いて贈物や、私とツネさんの通信やを通して相共に知り合って居た親友で有るんだもの。而もツネさんが其優しい心から、彼女に贈ったハンドスケッチの雪の絵は、キラキラとして彼女の目の前に光って其心を語っている。私達両人は互に顔を見合う事を怖れて、強いて目を反らして黙した。私の頭の中は廻燈籠のように涯しも無く追想と追憶とが跳梁した。
  
 しばらくして、岡崎キイが家出の最中に、彝アトリエでほんのわずかな期間“ばあや”をつとめた土田トウが、目を真っ赤に泣きはらしながら洲崎邸を訪問している。
  
 『目白の旦那さんが死になさいましたってね!』と言って其所に泣き崩れた。私も思わず眼の中が熱くなった。『あゝ』と力無い返答をしながら又黙った。すると婆さんは『そう言えば昨晩わしの所へは知らせが有りましてさ、目白の旦那がわしの家へ来なすって話をしなすったが、御宅へはなんの知らせも有りませんでしたでしょうか』と言うた。私は『あゝ何の知らせも無かった』と言えば言ったが、考えるとなんだかツネさんの魂にすら見放された様な気がして、やる瀬ない寂しさと嫉妬の念を禁ずる事が出来なかった。
  
 土田トウは、中村彝が昨夜自分のところへ訪ねてきたと言っている。23日夜半といえば彝はまだ生存しており、トウは柏崎から東京へと出て強烈な印象を抱いたであろう下落合での暮らしのことを、たまたま夢に見たのだろうか。それとも、迷信深かったに違いない当時の年寄りのことだから、にわかに彝の死を聞いて訪ねてきたような気がしただけだろうか。洲崎は土田トウをともなって、大急ぎで東京行きの汽車へ乗り込むことになる。
 
  
 私達は目白に着いた。(中略)あの落付(ママ)いた、ものさびた、平明な目白の冬は葉が散った桜の並木やそれをすかして見える武蔵野の空にひしひしと感じられるけれども、私が限りなく敬愛したツネさんは今はいないと思うと運ぶ足さえも渋り勝ちとなった。生きている内は殆ど開かれる事の無かった表門が主人を失った喪という呪わしい文字で開かれようとは誰が知ろう!
 ツネさんが今の目白の画室を建築中に私宛に書いた書翰の中に『門を赤い練瓦(ママ)にして庭は芝生で敷詰め中央に椿や木精(ママ)を植える計画だ』という、まるで子供のように悦んでいた其等のものも、今は只悲しい遺愛の品となって無心に艶々しく立って居るのがたまらなく胸を打って来た。私は其憂愁をぢっと胸にいだきながら歩を運んだ。いつも入る裏門のとびらを開く私の手は鉄の門でも開くように重かった。岡崎のおばあさんや(鈴木)金平さんにあった時、始(ママ)めて私の眼からは涙が留度も無く流れ出た。
  
 ここで、彝自身が手紙に書いた「門」と、洲崎が書いた「表門」と「裏門」が出てくるが、彝の書く「門」とはアトリエが建造された当初(1916年8月)、玄関のあった場所すなわちアトリエの西側に接した道の門のことで、洲崎が書く「裏門」にあたる。洲崎が「表門」と書いているのは、関東大震災後にアトリエの東側に小部屋と第2の玄関が設置(1923年秋)され、そのときに造られた林泉園側の道に接した“開かずの門”Click!のことだ。
 岡崎キイは、彝の友人たちがのべつまくなしにアトリエへ出入りし、彝が制作活動以外のことで疲弊消耗するのを阻止するため、この「表門」に鍵をかけて一度も開放しなかった。だから、この門が開かれ使われるようになったのは、彝の葬式以降のことになる。
  
 土田の婆やは声を揚(ママ)げて泣き伏した。両人は金平さんに導かれてツネさんの死に顔を拝みに行った。遺骸の安置して有った室は私達に取(ママ)っては忘るゝ事の出来ない例の南向きの寝室であった。(中略)
 私達の這入った時は既に室は綺麗に取り片づけられて、鈍い冬の薄れ日が溶けるように、白を基調とした死の室に柔かく浸み入る様に流れていた。私の眼にはどうしたわけかもう涙の影すらなかった。私の視線はいつの間にか寝室の上の白いシーツ掛けの布とんでおおわれた其遺骸に鋭く注がれて居た。 (中略)私の五官は総ゆる他の刺撃(ママ)と注意から拒絶され開放されて一向に其死顔に面接せんが為に極度に緊張した。軈て静かに取り去られた白布の下から、死と言うよりは寧ろ眠っているといった方が良いような懐かしいあのツネさんの顔が露(ママ)われた。其顔には最早死の苦痛の一片すら見出す事の出来ない安静とすこやかさが宿っているのではないか。私の心は思わず『キリスト』のようだとつぶやいた。白ろうのように半透明に薄曇れるノーブルな其輝き、深くくぼんだ愛とえゝ智を象徴する其眼、色あせたザボンを思わせるような今にも語り出しそうな其くちびる。 (中略)十数年の間不治の病苦と孤独を相手に戦ってきたあの偉大なる天才のみが持つ精神力の輝きが面やつれした顔に露(ママ)われる神々しさ。私は思わず瞑目して合掌した。
  

 洲崎たちが柏崎から駆けつけたのは、翌25日のクリスマスの日だったので、すでに中村彝の遺体は清められ、死後の表情なども整えられていたと思われる。臨終のとき、鶴田吾郎がスケッチClick!したように、彝は目を見開いたまま左横へ顔を90度傾け、血の付着した口は半ば開いたままの状態だった。
 おそらく、24日に保田龍門がデスマスクを取ったときに顔を仰向けにされ、「安静とすこやかさが宿っている」ような表情へと直されたものだろう。

■写真上:91回目の春を迎えた、中村彝アトリエの赤い屋根。
■写真中は中村彝『自画像』。この絵の制作年は、1921年(大正10)説と1923年(大正12)説があるようで、画集のキャプションが一定しない。は洲崎のいう「表門」から見た、1929年(昭和4)ごろの彝アトリエで、大震災後の玄関が見える。人物の左が、当時住んでいた洋画家の鈴木誠。
■写真下:1925年(大正14)の『木星-中村彝追悼号-』に掲載された、臨終直後の中村彝。


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コメント 4

risu

生から、
物体へと変わる。
神々しくなる。
まるで、
問いかけても、
応えてくれぬ神さまのように。
by risu (2007-04-26 01:07) 

ChinchikoPapa

takagakiさん、コメントとnice!をありがとうございます。<(_ _)>
by ChinchikoPapa (2007-04-26 14:42) 

nogu.j

昨年から特別なイブになって~
今年はどんなイブを迎えるのでしょう。
貴重な記事を感謝しています。
by nogu.j (2007-04-26 22:11) 

ChinchikoPapa

わたしも、クリスマスが来ると、さまざまな彝の作品を思い出すようになってしまいました。S様のお宅ではその昔、クリスマスになると送り主にまったく憶えのない花束がいくつもとどいたのだそうです。
こ家族でクビを傾げられたそうですが、ほどなく「中村彝さんの命日」に気がつかれたとか。花束は、アトリエに供えられたようですね。
by ChinchikoPapa (2007-04-26 23:04) 

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