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アトリエには“生き神様”もやってきた。 [気になる下落合]

 新宿区とアトリエ所有者の方との交渉が本格化しているようなので、彝アトリエに関する記事は、これでひとまず一段落としたい。昨年は写真展とマップ、今年は「アトリエ保存会」の設立と、地元のみなさんをはじめ多くの方々からの熱意が高まる中、ぜひ保存が実現されればと願うばかりだ。
  
 中村彝のアトリエClick!には、結核治療の名目でさまざまな人間が出入りしている。最終的に遠藤繁清医師Click!の治療に落ち着くまで、あらゆる「療法」が試みられた。“ばあや”としてアトリエに住みこんでいた岡崎キイ自身も、彝の喀血が止まらないと「方角が悪い」といって、一時的に彝を連れて雑司ヶ谷へ引っ越したり、風呂桶をアトリエに運んで据えつけ、杉の葉を詰めた水風呂に彝を入れたりしている。迷信だといったらそれまでだけれど、結核に効くといわれることなら、彝はなんでも試してみたようだ。
 曾宮一念に「豪傑」とあだ名された気合術の行者は、天狗のような一本歯の下駄をはいて現れ、正座した彝の前で奇声を発しながら体内の結核菌を「殺し」た。また、予言者と称する男は、アトリエの壁に張りついて彝の体内から結核菌を「吸収」した。やがて、彼らにつづいて巣鴨の高名な巫女がやってくる。米倉守『中村彝~運命の図像~』(日動出版/1983年)から引用してみよう。
その後、「今日も日暮里富士見坂」さんの研究で、逮捕された岸本可賀美(男性)は「池袋の神様」であり、「巣鴨の神様」は山田つる(女性)であることが判明している。小熊虎之助をはじめ、中村彝について書いた書籍の多くが、「巣鴨の神様」と「池袋の神様」を混同して記述しているようだ。詳細は、「今日も日暮里富士見坂」さんの当該ページClick!を参照されたい。
  
 「巣鴨の神様」という巫女もきた。坐った彝の前に御神体と称してガラス玉を置き、呪文を唱え、彝に拝礼を繰り返させた。
 周囲の画家たちは笑ったが彝は別に気にしなかった。「巣鴨の神様」などはのちに警察につかまり、東京帝大地質学研究室の鑑定で、御神体は地中に埋れていたラムネ玉と判明したりもした。
                                           (同書「内なる美」より)
  
 江戸東京の町場には、古くから政治(まつりごと)と生活(たつき)をつかさどる、それぞれの巫女Click!がいたことは前にもここで書いた。どこか沖縄の社会に通じる、原日本の姿を色濃くとどめた母権的な習俗だけれど、それら巫女の系譜は、明治以降あるいは戦後になると、予言者や占い師、祈祷師、霊能力者、新興宗教の教祖などへと「転職」していく。この「巣鴨の神様」と呼ばれる巫女も、その系統の一流だったのだろう。

 彼女の名前は岸本可賀美、当時は東京じゅうに聞こえた「生き神様」だったようだ。岸本は、「御宝石」と名づけた宝玉を所持し、これを用いてさまざまな難病の治療を行っていた。彝の親友である小熊虎之助Click!は、『心霊現象の科学』(芙蓉書房/1974年)の中で、彝アトリエにやってきた彼女のことについても触れている。小熊は心霊現象を、予断と偏見を持たず科学的に検証するにあたり、「色いろの種類の錯誤と詭妄」を捨象していく過程の一例として、「巣鴨の神様」事件を取りあげている。本書を執筆をしていたとき、彼女が中村彝を結果的にたぶらかしたことに対して、改めて憤りをおぼえていたのかもしれない。
  
 (前略)いわゆる巣鴨の神様、岸本可賀美の有名な事件などもある。読売新聞の調査によると、岸本はもとは天理教の教師あがりで、ある稲荷神社の神主の所にいた時に、その神主が臨終に予言めいたことを発言したので、早速それを速記して、それを「お口先」と称して、信者に崇拝せしめだしたのだそうである。この岸本の天然社、その至誠殿には金紐に金無垢の金具のついた桐の三重箱に納められた御宝石なるものがあった。それは治療的な霊力を有するものとして吹聴されていた。岸本の拘引後、帝大の地質学教室で研究してみたらそれはラムネの玉であることが発見された。その出所を訊問されたら、ある農家の庭から発見されたもので、総体が曇って、傷などのために色も変化し、岸本自身もそれがラムネの玉であることを自覚していなかったそうである。
                      (同書「心霊現象の一般性質とそれに対する研究態度」より)
  
 
 岸本可賀美は、詐欺の容疑で警察に逮捕され、懲役6年の実刑判決を受けて服役した。もともと稲荷社が関係しているところをみると、岸本はいわゆる「狐憑き」の流れをくむ女性だったのかもしれない。彼女の「治療」行為が、不治の病に苦しむ患者を救済するための“善意の詐欺”だったのか、それとも営利を目的とした意図的で悪質な詐欺だったのかは、いまとなっては判然としない。ただ、農家の庭先から掘り出した「御宝石」が、ラムネのビー玉だったことを知らなかった様子をみると、あながち計画的な確信犯とは言いにくいような気もする。刑期を終えた岸本可賀美が、その後どうなったかは記録にないので不明だ。
 本書の言葉を借りれば、岸本は小熊心理学における「憑きもの」の「自働現象」によって突き動かされていた可能性が高く、彼女自身は自己の行為を大マジメに信じていたのかもしれない。はたして、中村彝の前でラムネのビー玉に向かい、彼女はどのような呪文を唱えたのだろうか。

■写真上
:「予言者」の男が張りついたアトリエの壁。どうやって張りついたのだろうか?
■写真中:1924年(大正13)12月27日に神式で行われた中村彝の葬儀。祭壇の前で合掌するのは岡崎キイ。棺には絵道具や人形とともに、大島椿と水仙などが入れられた。
■写真下は、中村彝『カルピスの包み紙のある静物』(1923年・大正12)。は、整理中のアトリエに出現した、同作の背後にも見えるアトリエの壁面にうがたれたアーチ状の窪みのひとつ。


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ChinchikoPapa

takagakiさん、いつもありがとうございます。<(_ _)>
by ChinchikoPapa (2007-05-10 13:48) 

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