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近衛作品を抹殺したかった成田為三。 [気になるエトセトラ]

 『赤い鳥』で犬猿の仲といえば、近衛秀麿と成田為三の作曲家同士だ。これほど徹底して仲が悪いClick!と、むしろ深刻さを通り越して滑稽ですらある。『赤い鳥』に掲載する歌について、成田は学校で唄える児童の唱歌にこだわり、近衛は日本の芸術的な歌曲にこだわって作曲をつづけ、ついにふたりは最後まで折り合うことはなかった。近衛は、初期に曲を提供しただけで、やがて『赤い鳥』から弾き出されてしまう。おそらく、音楽教師をしていた当時の成田には、お坊ちゃん育ちの学生風情がなにを言うか・・・という思いもあったのだろう。
 成田は酒に酔うと、のべつまくなしにしゃべりつづけるクセがあったらしく、鈴木三重吉Click!はうんざりしていたようだ。もっとも、鈴木自身も相当に酒グセが悪く、酒を飲むと泣くか怒るかしていたようだ。師の夏目漱石でさえ、酔った鈴木をもてあましていたらしい。鈴木の酒グセの悪さは、『赤い鳥』関連の記録を少しめくると、あちこちにエピソードとして紹介されている。鈴木がうるさい仔猫を投げつけながらポロポロ泣いているかと思えば、同じ漱石門下の安倍能成Click!がタンスの上へのぼって正座し「山上の垂訓」をたれている・・・などと、およそふたりのイメージからはほど遠い飲み会が行われていた。
 成田が酔っ払ってしゃべりが止まらなくなり、うんざりしながら応対している鈴木の様子が、『鈴木三重吉への招待』(1982年/教育出版センター)に掲載された野町てい子の文章に記録されている。赤い鳥社が主催し、帝劇で開かれた「赤い鳥音楽会」のあと、打ち上げの飲み会での情景だ。
  
 そのてんやわんやの中で成田為三先生が、鈴木三重吉先生を相手にいっしょうけんめいしゃべりつづけていらした姿を思い出す。
 成田先生は興奮して赤い顔をしていらした。鈴木先生は上着を召していらしたように思うが、成田先生はワイシャツだけで、ひとりで先生を相手にしゃべりつづけていた。いつも、ご自分が主になってお話をなさる鈴木先生が黙って、熱心ではないが、成田さんの話を聞いていらした。興奮して、先生の顔を見上げて止めどなく早口でしゃべる成田さんの赤い顔。成田さんは、二十六、七歳であったろうか。  (野町てい子「赤い鳥音楽会」より)
  
 
 成田為三が、近衛秀麿をいかに嫌っていたかを髣髴とさせる“証拠”に気がついた。1919年(大正8)から刊行され始めた、『「赤い鳥」童謡集』の曲目リストを眺めていたときだ。成田はかなり執拗に、あとあとまで根に持つタイプだったのだろうか、この童謡集から近衛を徹底的に排除している。近衛が『赤い鳥』の童謡づくりに参加し、ほどなく作曲した有名な歌に北原白秋の「ちんちん千鳥」がある。♪ちんちん千鳥の啼く夜さは~・・・ではじまるこの歌は、当時から全国的にヒットして、いまでも「日本のうた」などの童謡集で聴くことができる。成田は、これがずっと面白くなかったのだ。
 1921年(大正10)8月に、『「赤い鳥」童謡第五集』の編集が進められているとき、成田はヒットした近衛の曲を完全に無視して、新たに「ちんちん千鳥」へ自分の曲をかぶせて発表している。もちろん、いまでも「ちんちん千鳥」としてよく唄われるのは近衛作品のほうであり、成田の曲はほどなく忘れ去られてしまった。近衛の仕事を、すべて消してしまおうとした成田の思惑は、残念ながら成功しなかったようだ。
 こうして当時、「ちんちん千鳥」はふたつの曲を持つ歌になってしまった。のちに、こちらも近衛といろいろあった山田耕筰も作曲しているので、現在では3つとなっている。『「赤い鳥」童謡集』から、近衛の名を消したかった成田は、ほかにも近衛の曲へ自分の新しい曲をかぶせてしまった作品があるのではないか? 『「赤い鳥」童謡集』の序に、鈴木三重吉は書いている。
  
 「赤い鳥」の童謡の価値と実際の牽引とは、最早多くの選ばれた人々の間に宣伝されてゐるやうである。私は学校の課業や、家庭又は音楽会の演奏や、街々の蓄音器や、戸外の児童の群について、常に「赤い鳥」の謡を聞く。(中略) われわれは今歌なるものゝ全き乾季の或ものが、はじめて子供たちの生活の上に持ち来され、その愉悦が、われわれ大人の上にまで流布しつゝあるのを見て、非常に愉快に思つてゐる。 (鈴木三重吉「序」より)
  
 
 『「赤い鳥」童謡集』シリーズに描かれた歌の挿絵は、洋画家・清水良雄が描いたものが多いが、中には同じ洋画家の清水七太郎が監修し、近くの下落合にあった近衛邸の敷地に建つ目白中学校Click!の生徒たちに描かせた挿絵もある。「こんこん小山」や「ちんころ兵隊」、「かちかち山の春」、「涼風小風」といった作品群がそれだ。
 でも、子供たちに夢を与える歌づくりの現場で、成田為三の鬱々とした執念深い思いが沈殿していたことなど、「非常に愉快に思つてゐる」と書く鈴木の文章を目にした読者には、まったく知るよしもなかっただろう。

■写真上:1919年(大正8)10月に出版された、『「赤い鳥」童謡第壱集』の「雨」に添えられた清水良雄による挿絵。♪雨がふります 雨がふる~ 遊びに行きたし 傘はなし~・・・。
■写真中は近衛秀麿、は成田為三。どこまでも反りが合わなかった、このふたり。
■写真下は、近衛の「ちんちん千鳥」が抹殺された『「赤い鳥」童謡第五集』の曲目リスト。は、1920年(大正9)3月の『「赤い鳥」童謡第弐集』に収められた「舌切雀」の清水良雄による挿絵。♪舌切雀はどこへ行た~ どこへ行た~・・・。「赤い鳥」童謡を、ほとんど唄える自分が怖い。(爆!)


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ChinchikoPapa

takagakiさん、いつも恐縮です。<(__;)>
by ChinchikoPapa (2007-05-22 17:29) 

日本科技大野球部員

2年連続で甲子園出場の秋田商業の校歌も成田為三作曲ですね。
自分は分かりやすくて軽やかなメロディに校名が一切出ない歌詞が気にっています。

♪秀麗の山鳥海は 久遠の雪の影浄し
浩滔の水雄物川 永遠に流れて色深し
この精霊の気を享けて清浄たりや矢留城♪


by 日本科技大野球部員 (2013-08-12 19:06) 

ChinchikoPapa

日本科技大野球部員さん、コメントをありがとうございます。
成田為三は、おそらく子供に「わかりやすくて憶えやすい」メロディラインを提唱したのに対し、近衛秀麿は子どもと大人をあえて区別するところに意味を見いだせず、「美しくて芸術性に富んだ」音楽を創造したかった・・・そんな気がします。
by ChinchikoPapa (2013-08-14 21:11) 

take-konnno

服部公一著 子供たちの音楽手帳「童謡はどこに
消えた」(2015年6月 平凡社)に

「ちんちん千鳥」は近衛秀麿と思っていましたが、
本書には成田為三作曲と書かれていたので調べて
みました。成田が徹底して近衛を嫌っており、対抗
したつもりなのでしょうが、この曲に関しては成田
の負け。いつの間にか消えてしまいました。

服部公一が書いたことは間違いではなかったのですね。
でも普通は近衛秀麿の曲だと思いますよ。
   

by take-konnno (2018-10-26 20:35) 

ChinchikoPapa

take-konnnoさん、昔の記事にコメントをありがとうございます。
この記事を書いたあと、ずいぶんたってから知ったのですが、北原白秋の「ちんちん千鳥」は近衛秀麿や成田為三だけでなく、多くのプロやアマの作曲家たちが曲をつけているんですね。
ひょっとすると、近衛作と成田作の2曲存在することが、両者合意のうえで仲良く競作……とでも勘ちがいされたのでしょうか、どこか作曲の「腕だめし作品」のような扱いを受けたのではないかと想像しています。
by ChinchikoPapa (2018-10-26 22:09) 

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