SSブログ

またまた未知の「下落合風景」を発見。 [気になる下落合]

 この写真は、いつ撮影されたのか正確な記録がない。でも、展示作品の様子から推察すると、1927年(昭和2)6月17日から同30日まで開かれた、1930年協会「第二回展」の会場ではないかと思われる。手前のベンチに腰かけ、足を投げ出しているのは里見勝蔵、その隣りに座っているのが佐伯祐三だ。佐伯の左隣りで足を組んでいるのは、いつも和服の木下孝則のようだ。
 1926年(大正15)5月に開催された1930年協会の「第一回展」に、3月に帰国したばかりの佐伯は「下落合風景」Click!を出品していない。出品されたのは第1次滞仏時の作品ばかりで、もちろん「下落合風景」はまだ描かれていなかった。だが、「第二回展」には1926年(大正15)から翌年にかけて、下落合のアトリエ周辺で描かれた風景作品が、5点ほど出品されている。その内訳は以下のとおりで、作品のタイトルは出展時のもの、キャプションは当該の作品を表している。
 「風景」・・・上落合の橋の附近/寺斉橋バージョンClick!
 「風景」・・・八島さんの前通り/冬景色バージョンClick!
 「落合村風景」・・・門/八島さんの門Click!
 「落合村風景」・・・セメントの坪(ヘイ)/諏訪谷大六天Click!
 「落合村風景」・・・
のちに①の実物を日動画廊のご好意で間近に拝見し、朝日新聞社版『佐伯祐三前画集』のモノクロ画像とは遠景がまったく異なる風景画であることが判明した。描画ポイントは、またしても「八島さんの前通り」(1927年6月ごろ)であり、詳細はこちらの記事Click!で。
 この中で、写真に写されている作品の2点が、すぐにもどれだか特定できる。ひとつが、写真左側の人物ふたりにはさまれた制作メモClick!にみる「上落合の橋の附近」の寺斉橋バージョンだ。そして、その左上に架けられた少し小さめの絵が、の八島さんの前通りを南に向いて描いた雪景色の「下落合風景」。西坂方面から歩いてきた人物が描かれている。の「門」との「セメントの坪(ヘイ)」も、すぐにどの作品だか特定できるのだけれど、残念ながらこの会場写真には写っていない。
 
 
 問題は、リストの「落合村風景」。この作品がどのような絵なのか、まったくわからない。のちに「下落合風景」と、シリーズ名で呼ばれるようになった作品の1点であることは間違いないが、描いた風景の様子がわからなかった。ところが、この会場写真にはもう1点、見慣れない風景画が佐伯作品を並べたと思われる壁面に写りこんでいる。それが、写真左端に偶然とらえられた作品だ。
 こんな構図の「下落合風景」を、わたしはいまだかつて目にしたことがない。画面の中央には電柱とともに、大きな西洋館が描かれている。そして、細めの道をはさんで反対側には、樹木か建物のような影がチラリと描かれているらしい。右側には土手か山の斜面のような盛り上がりが見え、それを拓いた切通しのような道が、大きな西洋館のほうへと向かっている。絵の様子からすると、この道は手前へとやや下っている坂道のようだ。
 
 この作品を観て、わたしは旧・下落合のあるポイントをすぐに思い浮かべた。目白文化村ではなく、現在の目白駅に近い下落合側でもない。この作品にも、やはり強い既視感が湧いたのだ。それは、急な六天坂をバッケ下の中ノ(野)道側から上がって尾根に近づくあたり、傾斜がなだらかになった道の右手向うに、佐伯がこれを描いた1926年(大正15)の時点でも、オレンジ色の屋根をしたスパニッシュデザインの大きな西洋館が見えたはずだ。ギル邸にあった黄色いモッコウバラがいまでも咲きほこる、下落合地域に残る近代建築の中でも、わたしがもっとも好きなN邸Click!を南側、つまり六天坂への下り口あたりから描いたものではないか?
 
 もちろん、実際の作品を観てみないと、これが佐伯祐三が描いた「下落合風景」の1作であると断定はできないし、少なくともカラー画像を確認しなければ、西洋館の屋根がオレンジ色であるかもわからない。でも、わたしの中では建物のフォルムと周囲の風情が、六天坂の上で見られたあるポイントへ、とてもスムーズに一致している。この作品も、諏訪谷の「セメントの坪(ヘイ)」と同様の、とても強い既視感(デジャビュ)があるのだ。
 残念ながらこの作品は、講談社と朝日新聞社の『佐伯祐三全画集』にも掲載されていない。1924年(大正13)に竣工したN邸は、戦災をくぐり抜けて美しい姿をいまにとどめているけれど、佐伯の作品はどこかで焼けてしまったのかもしれない。

■写真上:1930年協会「第二回展」の会場を撮影したとみられる写真。
■写真中上は、会場に架けられた作品。は、その当該「下落合風景」作品。
■写真中下は、「下落合風景」と思われる作品。右上は、六天坂上にある南側から見たN邸。
■写真下は1936年(昭和11)、は1947年(昭和22)の空中写真にみるN邸あたり。


読んだ!(2)  コメント(24)  トラックバック(7) 
共通テーマ:地域

読んだ! 2

コメント 24

ナカムラ

お久しぶりです。またまた凄い発見ですね。モチーフのN邸は私も大好きな建築です。ときどき散歩で伺っています。佐伯祐三は大正15年の3月に帰国なんですね。前に少し書きました挿絵画家・竹中英太郎の調査から同じ時期の佐伯のアトリエそばの様子がみえてきました。竹中が下落合のどこに住んでいたのかを特定する決定的な資料には未だに出会えておりません。但し、ご本人が熊本日日新聞のインタビューで「下落合に住んでいたことがあること、作家の小山勝清のつながりから小山の家の隣であったこと、美濃部長行が同居していたこと」を回想しています。小山は義弟が下落合に住んでいたために下落合に住むようになりました。熊本時代、小山は同人誌で橋本憲三や高群逸枝と知己でした。橋本が下落合に住んでいた下中弥三郎の平凡社に入社、関東大震災のあとに勤務先に近い住居を探したところから、二人も落合地域の住人になります。高群の日記には「小山さんの紹介で上落合の新築の家にすむことになった」とあります。その後、東中野に転居、しかし夫婦喧嘩で高群が家を飛び出してしまい、また小山の紹介で今度は小山の家のそばに仲直りした夫婦が住むことになりました。大正15年のことです。この下落合のくらしの様子を高群は『火の国の女の日記』に記述しておりますが、住所はありません。但し、二軒長屋の隣の家は芸術家が集まって住んでいるアトリエになっていて、この時期に詩人の春山行夫がいたとの記載があります。春山の詳しい年譜を確認するとまさに大正15年に下落合1445番地鎌田方を自らの雑誌の発行場所として奥付表示していることがわかりました。落合第一小学校のすぐそば、佐伯のアトリエのちょっと南です。「居間は南に面しており、道をへだてて植木畑になっていた」「近くには鶏卵を買いに行く農家もあって」「洋館のところでまっていると夫が中井田圃を抜けて下落合への坂道を登ってくるのを見ることができた」などの記載があり、最後の部分などは霞坂を橋本憲三がのぼってくる様子を描写しているのではと思います。橋本憲三は平凡社で「大衆文学全集」の企画を進め、下中社長とともに白井喬ニを訪ねている張本人。コストはかかるけれども挿絵を多数挿入することを社長に相談なく決めてしまったのも橋本でした。この大正15年、竹中も小山の誘いによりこの地域に転居してきたものと確定していいと思います。画家への夢ももっており、勉強もしようとした竹中のことですから佐伯の活動に無関心ではなかったものと想像します。今となっては確認できませんが、高群の家の隣のアトリエには春山以外に誰がいたのでしょうか。高群も「この新開地は芸術村との別称もあって・・」と日記に書いています。昭和になる前には橋本・高群夫妻は沼袋に転居してしまうのでつかのまの下落合住民だったわけですが。竹中がいつまで下落合に住んでいたのかは不明です。小山も中野に転居しているので、この大正15年に佐伯のアトリエ周辺に一瞬集まった才能たちがあったということなのかもしれません。ちなみに竹中は橋本が企画し、下中が発行した平凡社・大衆文学全集に挿絵を描いています。プラトン社倒産(昭和3年)のあと、雑誌「新青年」の横溝正史編集長に紹介したのが白井喬ニであったこともあわせて、下落合に住んだ大正15年の存在が挿絵画家・竹中英太郎に与えた影響は小さくなかったと思います。
by ナカムラ (2007-06-01 13:00) 

ChinchikoPapa

ナカムラさん、竹中英太郎関連その他の詳細な情報をありがとうございました。
いろいろ調べてきますと、下落合の中でも、当時の物書きたちがまとまって住んだエリア、あるいは画家たちが集まって住んだエリアなどがところどころに存在していたようです。中村彝や佐伯祐三たちのように、自分でアトリエを持てる幸運な画家ではなく、おカネがなくて安い賃貸料で下落合に住める場所を探した結果、偶然その界隈に集中してしまったか、あるいは口コミで画家や作家たちが集まってきた・・・と思われるような、特別なエリアです。下落合1445番地も、おそらくそのようなエリアのひとつだったのかもしれませんね。
貧乏な画家たちが、出たり入ったりを繰り返してたと思われる場所のひとつに、第一文化村の北側、第二府営住宅と目白文化村とにはさまれた、小さなエリアがあります。番地でいいますと、下落合1384~1388番地あたりにかけてです。特に、下落合1385番地という住所は、画家たちの一時住居として資料のあちこちに登場してきます。ここは、大正末の時点では箱根土地の所有地だったと思われ、第二府営住宅のエリアのはずなのですが、借家やアパートがたくさん造られたものでしょうか、貧乏な(?)画家たちが一定期間、どうやらかたまって住んでいたようです。ちょうど、目白通りをはさんだ向かい側、長崎の「アトリエ村」のような存在だったのかもしれません。先に「下落合を描いた画家たち」でご紹介しました松下春雄も葛ヶ谷(西落合)へ移る前に一時ここに住んでおり、また近々ご紹介予定の吉屋信子お気に入りの洋画家・甲斐仁代や、中出三也なども、バッケが原の上高田へと転居する前、下落合1385番地に一時アトリエ(といっても森田さんのトナリの里見勝蔵と同様、単なる借家なのかもしれませんが)を構えています。
また、作家のほうの出たり入ったりが多いのは、やはり第三文化村の北側に接した、「目白会館文化アパート」(下落合1470番地)のようですね。中でも、矢田津世子がいちばん有名ですが、ほかにも“1470番地作家”が何人かいるものと思われます。先の画家たちが集まった1385番地と、「目白会館文化アパート」があった1470番地ともども、いずれも1455番地の鎌田邸界隈とは徒歩5分前後ぐらいのところに位置し、三角形を形成していてとても近いですね。佐伯祐三の「男の顔」で有名な笠原吉太郎の自宅&アトリエも、鎌田邸から50mと離れていない位置にありました。ひょっとすると、これら3点間でいろいろな人たちの交流があったのかもしれません。

> 「居間は南に面しており、道をへだてて植木畑になっていた」
これは、南側を東西に横切っていた4m道路のことですね。この道路を東へ行くと八島さんの前通りへと出て、笠原吉太郎邸+アトリエが右手すぐのところに見えたと思います。植木畑は、ずいぶんあとまで残っていたようです。

> 「近くには鶏卵を買いに行く農家もあって」
これは、佐伯アトリエの南、2軒隣りにあった鶏卵場のことではないかと思います。きっと、佐伯一家はニワトリの声で目を醒ましたでしょうね。

> 「洋館のところでまっていると夫が中井田圃を抜けて下落合への坂道を
> 登ってくるのを見ることができた」
これはナカムラさんおっしゃるとおり、秋艸堂に隣接した霞坂が該当しそうですね。そうすると、この西洋館というのは加藤邸あるいは宇田川邸あたりになるのでしょうか。
記事末に、下落合1445番地界隈の空中写真(1936年)を掲載してみました。この中で、「植木畑」は1938年(昭和13)時点でもそのままだったようです。1445番地に見える家の裏手は、すでに1446番地のエリアで、1938年現在は天理教会となっています。1445番地の右手、つまり東側が1936年の写真ではなにかの建物跡、1938年の「火保図」では空地となっていますが、「下落合事情明細図」(1926年)には名前が記載されていますので、ここになんらかのアパートのような建物が、大正末には建っていたのかもしれません。
by ChinchikoPapa (2007-06-01 16:41) 

ChinchikoPapa

takagakiさん、ありがとうございました。<(__)>
by ChinchikoPapa (2007-06-01 18:34) 

ナカムラ

航空写真の掲載をありがとうございます。春山行夫の雑誌「謝肉祭3」(大正15年5月に発行)編集後記には「当分府下下落合1445鎌田方に書斎を移す」とあります。高群逸枝の年譜を再確認しましたら大正14年9月19日に東中野の家を出離、下落合に仮寓とあり、大正15年11月には上沼袋に転居していました。彼女の『火の国の女の日記』の「42.下落合界隈」には「私たちの住居は部屋が三つ。東の小部屋は朝から陽が射してあたたかく、私はそこを専用勉強部屋にした。不良貸家で新築のくせに壁土がぼろぼろ落ちるので、Kが松葉紙を買ってきて張りめぐらしてくれた。居間は南面し、すぐ前は植木畑であるのが私たちを和ませた。」「勝手口からすこし離れたところに四世帯共同の井戸があったが、そこには地下足袋をはいた職人ふうの人や荷車を引っぱった人や、物売りの人なども街道から立ち寄って水を飲んだり、休んだりしていた。」「植木畑を抜けて古屋さんという学者の洋館の横で待っていると、彼が中井の田圃を通って下落合への坂道をのぼってくるのがうれしかった。下落合の日日はしあわせだった。」
とあります。大正末期に商店街が作った住宅地図のような地図があり、この中に鎌田さんの家の表示がありました。鎌田さんの家は4m道路から奥まっており、手前は小泉さんとなっています。但し、大正14年秋の時点で新築と言っているので、地図の小泉さんが大家さんかどうかは不明です。この地図では裏は滑川さんとなっています。
by ナカムラ (2007-06-02 20:00) 

ChinchikoPapa

『火の国の女の日記』に「下落合界隈」という章があるのでしたら、これはぜひ読んで見なければなりません。近々、目を通してみます。高群逸枝の下落合生活は、わずか1年2ヶ月の短い時間だったんですね。だとすると、近所との交流も短かったでしょうから、この界隈に住んでいた他の人たちの日記やエッセイ、あるいは記憶にも残りにくかったかもしれません。これが、もう少しあとの無産婦人芸術連盟の結成あたりに住んでたとしたら、かなり印象が強くなったものでしょうか。

> 大正末期に商店街が作った住宅地図のような地図があり、
> この中に鎌田さんの家の表示がありました。
このサイトで、「出前地図」としてご紹介してきた赤墨2色の地図でしょうか。仕事場に置いてあっていまは確認できませんが、来週、さっそく確認してみます。ありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2007-06-02 22:13) 

ナカムラ

私の見たのは「出前地図」のことだと思います。赤黒2色の地図ですので。ご指摘のように高群も当時はまだ女性問題に関する本格的な執筆に入るか入らないかの時期ですし、小山勝清も最初の本、しかも農村問題に関する本を出したばかりの頃。少年文学を書くようになるのはもう少し後のことですので、おそらく記憶や記録にもあまり残っていないものと考えます。竹中英太郎にいたってはまったくの無名でしょう。ただし面白いことに小山が堺利彦の書生であった時期があり、足尾銅山や釜石製鉄所のストライキに関連していたように、竹中は熊本で無産労働運動に関わっており、五高社研に所属していた林房雄や徳永直と交流があったようなのです。坂下の上落合に多くのプレタリア作家たちが集まってくるのは、もう少し後のことですが不思議な縁も感じます。

作家が集まっていたであろう1470番地には武田麟太郎も住んでいたみたいですね。
by ナカムラ (2007-06-03 16:22) 

ChinchikoPapa

ナカムラさんが書かれた高群逸枝の言葉、「古屋」という学者と「中井田圃」という言葉がひっかかってました。それで、きょうはちょっと五ノ坂あたりを歩いてきたのですね。下落合1445番地の南側、霞坂の下あたりが「中井田圃」と呼ばれた例を、わたしはいままで一度も聞いたことがなかったからです。「中井田圃」はバッケが原の東側、ちょうど林芙美子記念館の前の妙正寺川両岸あたりが、そう呼ばれていたのではないかと思われます。そして五ノ坂上、下落合2113番地には古屋芳雄(こやよしお)という学者が住んでいました。南欧風の古屋邸は、いまも五ノ坂上にありますね。この古屋芳雄ですが、ベルハーレン著の翻訳「レムブラント」(岩波書店/1921年)を通じて、中村彝や佐伯祐三とも、おそらくつながってしまうのではないかと思います。
高群逸枝が、中井田圃を見わたしながら待っていた坂とは、おそらく古屋邸の洋館のある五ノ坂上ではないかと思います。古屋芳雄の訳書は、彝や佐伯ともおそらく直結してしまいますので、今度、ちょっと詳しく調べて書いてみたいテーマですね。

>1470番地には武田麟太郎も住んでいたみたいですね。
はい、「落合文士村」には武田の名前も見えますね。
by ChinchikoPapa (2007-06-03 22:45) 

ナカムラ

古屋さんの件、ありがとうございます。五ノ坂上とは・・・周辺をさがしても名前がないわけです。高群はそんなところまで夫を迎えに行っていたんだと思うとなんだかかわいいです。でも、橋本はどこから歩いていたのだろう、と思ってしまいました。昨日は私も妻と四ノ坂あたりからの散歩をしておりました。
by ナカムラ (2007-06-04 12:33) 

ChinchikoPapa

わたしも、あまりに1445番地から離れていますので、最初は違うのかな?・・・と思ったのですが、「古屋」という姓と「中井田圃」とで、やっぱりそうじゃないかと思うようになりました。古屋芳雄は、「落合町誌」によれば1932年(昭和7)の時点では、千葉医科大学助教授と紹介されています。でも、高群逸枝はちょっとけなげですね。(^^ 中央線の東中野駅あたりから、連れ合いさんは帰ってきていたのでしょうか。

> 昨日は私も妻と四ノ坂あたりからの散歩をしておりました。
あれ、わたしも昨日は、六天坂から一ノ坂~五ノ坂めぐりをしていました。どこかですれ違ったかもしれません。(^^ 坂を歩きすぎて、ちょっときょうは腰がだるいです。(汗)
by ChinchikoPapa (2007-06-04 13:28) 

ChinchikoPapa

『火の国の女の日記』をさっそく読んでいるのですが、ちょっとひっかかったところが2点ほどありました。ひとつが、「植木畑を抜けて古屋さんという学者の洋館の横で待っていると」という表現です。これは、植木畑と古屋邸がそれほど離れていないという、近めの距離感を感じさせます。確かめてみますと、「事情明細図」では古屋邸の北と東が植木畑を表す記号で埋められています。どうしても、四ノ坂と五ノ坂の間あたり・・・という感触をおぼえました。
もうひとつが、当時1445番地界隈は「芸術村」と呼ばれただろうか?・・・という点です。むしろ、第三文化村分譲地の南側ですので、「文化村」という呼称のイメージのほうが強かったのではないかという気がするのです。むしろ、「芸術村」と名づけるとすれば、画家たちが立てつづけに土地を取得し、実際にアトリエを建てていた金山平三もいる、東京土地が開発した「アビラ村」のほうではないかな・・・という感じをおぼえました。
ちょうど、五ノ坂から古屋邸の上の尾根沿いの道へ出ると、いまでも見ることができますが、もともとアトリエとして大正12年に建てられた赤い屋根のO邸の建物が、すぐ目の前に見えたはずです。でも、奥付に1445番地鎌田方とあるのが、ちょっとひっかかりますね。
邪馬台国の比定ではないですが(^^;、高群逸枝の文章を1445番地にとらわれずに読みますと、1925~26年(大正14~15)当時の様子も踏まえれば、なんとなく四ノ坂よりも西ではないかな・・・という風情といいますか、空気を感じてしまうのです。
あっ、それからもうひとつ、ビックリするような事実もわかりました。近々、記事を書きたいと思っています。(^^
by ChinchikoPapa (2007-06-08 18:44) 

ナカムラ

私も古屋さんの件から気になって別な角度から調べました。春山行夫に関してはやはり下落合1445番地で間違いありません。いた時期も大正15年ですので時期も一致します。一方、古屋さんは大正末期には五ノ坂上に住んでおいでですので、これも確実。では高群の勘違い?・・・春山が隣にいたのが勘違いなのか、古屋さんの洋館が勘違いなのか?で、まずは小山勝清が大正14年に刊行した『或村の近世史』を調べました。結果、この時期、小山は2194番地に住んでいました。最初は、高群があとから、当時の日記がわりのノートをみながら『火の国の女の日記』を書いているので、親しい小山の家を中心にしての勘違いだろうかと思いました。ですが、小山は自宅の近くの借家を橋本、高群に紹介したとしていることから考え、1445番地はあまりに離れすぎていると私も疑問に思いはじめました。どうやら「春山行夫が隣にいたらしい・・・」の回想の方がむしろ怪しそうです。この時期に高群が刊行した『恋愛創生』と夫の橋本憲三の筆名である相馬健作の『文壇太平記』(大正15年)について確認してみようと思っています。
でも、さすがですね、高群の文章を一読されて四ノ坂よりも西だと感じられるとは。
一方、小山勝清の住所が特定できましたので、畑を隔てて隣同士だった家に住んでいたはずのこの時期の竹中英太郎についてもほぼ場所特定ができました。竹中の家には同郷の美濃部長行が同宿しており、小山の養女と台湾に駆け落ちしたようです。これは竹中自身が80年8月1日の熊本日日新聞のインタビューで答えていますので信じていいでしょう。そうすると、多くの論者が「下落合のいわゆる熊本人村」で片付けていた場所が、四ノ坂上あたりに特定できたことになります。これも私にとっては成果です。

ビックリするような事実、楽しみにしております。
by ナカムラ (2007-06-09 14:55) 

ChinchikoPapa

ナカムラさん、さすがの取材力ですね!
下落合2194番地という住所は、ちょうど四ノ坂と五ノ坂との中間、尾根筋の道沿いの北側にある小野田金之助邸の敷地にあたりますので、高群逸枝の活写した周囲の風情ともかなりリアルに一致してきます。ちょうど古屋芳雄邸の周囲に拡がる植木畑の北東角にある建物群と、小野田邸敷地は道を挟んで隣接、ちょうど向かい合わせの位置になりますね。
下落合2113番地の情景を前提に『火の国の女の日記』を読みますと、記述の中で唯一おかしな表現は、「椎名町から目白方面にゆく街道筋にある長屋群」というところでしょうか。ここに描写された「街道」は、アビラ村の尾根筋の道というよりは、いま風に考えますと「八島さんの前通り」のほうが表現的に合致しているようにも思えます。でも、尾根筋の道も広い概念で考えますと、途中から椎名町方面あるいは目白方面へ向かう分岐がいくつかありますので、いちがいに「違う」とは言い切れない気もします。

> 小山勝清の住所が特定できましたので、畑を隔てて隣同士だった家に住んで
> いたはずのこの時期の竹中英太郎についてもほぼ場所特定ができました。
すごいです! ついに・・・という感じですね。おめでとうございます。(^^ わたしも、高群逸枝のエピソードをいろいろと勉強させていただきました。ありがとうございます<(_ _)>
by ChinchikoPapa (2007-06-10 01:47) 

ナカムラ

ありがとうございます、私も多くの研究者が調べておられること故、このように特定ができるとは思っておりませんでした。日曜日に実際に五ノ坂を歩いてみました。現地を歩いて初めて理解できることも多いですね。それこそ駄目もとですが、2194番地には米屋さんがありましたので(日曜日で休みでした)、昔の記録とかないか聞いてみようと思っています。五ノ坂の道は東中野からのほぼまっすぐな西椎名町に続く道で、おそらくはこの道沿いは便利だったろうなと感じました。道ぞいにその後の時期に尾崎翠、林芙美子、山田清三郎、板垣鷹穂、直子、壇一雄、尾崎一雄などが住んだ地域と直結、結構至近な一角だと気がつきました。橋本・高群夫妻も最初の上落合、次の東中野、下落合の次の上沼袋と考えると一連の転居ルートというかつながりが見えてきて興味深いです。彼らの下落合居住時代に刊行した書籍から住所を探すつもりですが、現地を歩いてみて、ほぼ場所はここだろうという場所の目星はつけています。私も高群の文章で最後まで「椎名町から目白方面にゆく街道筋にある長屋群」がどうしてもひっかかっておりました。今も腹におちて納得ではありませんが、1445番地ではないように思っています。様々な面でご教示いただき感謝しております。本当にありがとうございました。
by ナカムラ (2007-06-11 12:32) 

ChinchikoPapa

五ノ坂界隈を歩きますと、妙正寺川の「堤防」や東中野の方面が見える場所はこのあたりで、きっと高群逸枝が立ったのはこのあたりのポイントとか、職人さんたちが休んだ街道沿いの井戸はきっとこのへん・・・とか、いろいろなことがリアルに「見えて」きます。(^^ 古屋邸の2階では、「また、あの女の人があそこに立ってるよ」なんて会話が交わされたかもしれませんね。
「椎名町から目白方面にゆく街道筋にある長屋群」ですが、いまの感覚で考えてしまいますと、どうしても目白通りや山手通り、十三間通り、西武新宿線などの交通ルートの概念が先立ってしまいますが、当時はおそらくまったく違う概念だったと思います。だから、このような表現もありえたのかもしれませんね。
こちらこそ、貴重な情報をいろいろとありがとうございました。<(__)> 今週にでも、古屋邸と高群夫妻について、ひとつ記事を書こうかなと思っています。
by ChinchikoPapa (2007-06-11 18:16) 

ChinchikoPapa

ナカムラさん、ひとつリプライし忘れました。O精米店の赤い屋根の瀟洒な建物は、アトリエを模した1923年(大正12)の建築ですが、現在地にお店を出されたのは戦後だったと思います。以前、取材にうかがったときに、そんな話をされていたような憶えがあります。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2005-06-27
ちょうど、高群逸枝が下落合に住むころから戦前まで、O精米店は南長崎の二又交番の少し西側の、下落合側にありました。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2007-05-24
by ChinchikoPapa (2007-06-11 18:58) 

ナカムラ

O精米店の件ありがとうございます。承知しました。
by ナカムラ (2007-06-12 10:45) 

Itou

1930年協会を調べていて、こちらにたどりつきました。
一番上の写真、私もほしいです。木下孝則の後ろは前田寛治さんのようですが?興味深く、拝見いたしました。ありがとうございます。
by Itou (2007-08-24 01:11) 

ChinchikoPapa

Itouさん、こんにちは。
山高帽にメガネの人物は、どうやらおっしゃるようにそれがトレードマークの前田寛治のようですね。この写真は、あまり見かけることが少ないのですが、『太陽』の特集・佐伯祐三号に、確か撮影年月日が不明のまま掲載されていたように記憶しています。
by ChinchikoPapa (2007-08-24 13:21) 

Itou

コメント、ありがとうございました。
和歌山県立近代美術館で1980年に開催された、1930年協会の作家たち展のカタログをいただきました。そこにたくさん写真が掲載されていました。佐伯祐三さんのこと、お詳しいようなので、ひょっとして、写真を持ってらっしゃるのかとおもいまして、、、、。佐伯さんの作品のこと、下落合のこと、少しずつ読ませて頂いています。これからも楽しみにしています。
by Itou (2007-08-24 23:42) 

ChinchikoPapa

Itouさん、こんにちは。
来年は、佐伯祐三歿後80年ですので、さまざまな企画が予定されているようです。佐伯の作品に親しむ機会が、これから増えてきそうですね。
記事には、まだまだ調べたりないところがたくさんあり拙文ではありますが、よろしければお立ち寄りください。
by ChinchikoPapa (2007-08-25 21:26) 

ものたがひ

ご無沙汰しました。ナカムラさんがこちらへのコメント中で言及された、芸術家が集まって住んでいるアトリエ、の事が気になっていましたところ、1445番地鎌田方などで、春山行夫と共に画家の松下春雄・大澤海蔵が住んでいた、という記述に出あいました。
松下が1445番地に居たのは1925年頃からで、その前年には池袋大原(今の豊島区西池袋。徳川黎明会と西武池袋線を挟んで向かい合う位の所)の知人宅に同居し、1926年秋(おそらく9月の二科展の始まる前)には下落合1385番地に移っているようです。このあたりで仲間と暮らしながら、1925年の帝展入選作「6月近くの目白の文化村」を描いた『五月野茨を摘む』はじめとする、1926年・1927年にかけての、『下落合風景』『徳川別邸内』『下落合文化村』等々の水彩画を描いているようですね。佐伯とは少し異なった下落合風景ですが、これだけご近所の同時期だったら、どこかで絵の道具を抱えて、すれ違っていたりしたのかも。ちょっと面白い交叉が、ありそうな、なさそうな…?
なお、春山行夫は松下と親しく、「東京へきたときには、目白の松下君の下宿にはいった。…それからおなじ目白で松下、大沢の両君といっしょに共同生活をしたが、…なにしろ三人のほかに大阪の若い画家も同じ家にいて、夜になると附近にいる画家の誰かがやってくるので、にぎやかな生活だった。…」そうです。
by ものたがひ (2007-11-02 20:53) 

ChinchikoPapa

ものたがひさん、ご無沙汰です。(^^/
第一文化村の北側、第二府営住宅に隣接した下落合1385番地ばかりでなく、1445番地にも松下春雄が住んでいたのですか・・・。作品の場所特定との絡みもあり、あまりあちこち引っ越さないで欲しいものなのです。(爆!) 確かに佐伯祐三と、どこかで擦れ違っていたかもしれませんね。ただ、佐伯の資料類には松下春雄の名前が登場したものを、いまだ目にできないでいます。
ちょうど、1925~27年(大正14~昭和2)と、佐伯が下落合風景シリーズを描いていた時期と、ほぼシンクロしていますので、松下の「下落合風景」作品にはとても惹かれます。ただ、佐伯とは異なり、どこまでが実景でどこまでがデフォルメ、あるいは彼が付け加えた想像上の風景なのかが、松下の場合とても悩ましい課題ですね。以前、「下落合を描いた画家たち」で松下春雄を取り上げたときも、結局、曖昧な描画位置や当時の風景を想像する範囲を出ませんでした。
『徳川別邸内』や『下落合文化村』など、具体的なタイトルが付いていると想定は比較的に容易なのですが、『風景』とかだとサッパリわかりませんね。佐伯ほどリアルではないし、また水彩と油彩の違いもあるのかもしれませんが、松下の表現は非常に曖昧でいつも悩んでしまうのです。
今度、再び「下落合を描いた画家たち」で松下春雄を取り上げようと思っていますけれど、彼の作品を観てますと眠れなくなってしまいそうなほど、悩ましいですね。(^^;
by ChinchikoPapa (2007-11-04 17:36) 

ものたがひ

ところで、この1930年協会第二回展の会場写真ですが、写真の正面やや左手の二人の白っぽい帽子をかぶった少女の間に見える絵のうちの、下の方は、長谷川利行の『陸橋みち』ですね。「フーテンとしゆき」(http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2007-11-11)を拝読しながら見直して、気付きました。
この展覧会の目録や会員による合評は、展示の順番になっていて、写真は第3室、会員の林武(9点)・里見勝蔵(9点)・佐伯祐三(5点)のほか、一般入選者7名の1〜3点の作品が展示されているようです。
3点の佐伯の右には、恐らく、
 喜多善之「石橋」
 長谷川利行「公園地域」「陸橋みち」「郊外」
 岡崎信夫「初夏風景」
 乾正知「墓を眺めつ暮す家」
があり、
左手写真の外に、あと2点の佐伯の作品があるのでしょう。
このうち乾の作品について、佐伯は「自分にはとても好きな畫である。木の葉や空には感心しきつゐてる。…」と、至って平明率直な賛辞を贈っていますし、利行と喜多善之についても、前田寛治によると「佐伯が大いに好んだ作品だ」そうです。小難しい事など言わずに、好きだ、といえる佐伯に、利行は却って屈折するのでしょうか。
by ものたがひ (2007-11-11 18:26) 

ChinchikoPapa

あっ、ほんとうだ! さっそく、利行の『陸橋の道』を、記事末に掲載してみました。ものたがひさん、ご指摘ありがとうございました。<(_ _)>

> 左手写真の外に、あと2点の佐伯の作品があるのでしょう。
『(八島さんの)門』と『セメントの坪(ヘイ)』の画面は、すぐに目に浮かびますね。

こうしてみますと、佐伯と長谷川利行は意外に近い位置にいるのですね。ひょっとすると、展覧会会場で言葉を交わしているかもしれません。
by ChinchikoPapa (2007-11-12 00:28) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 7

トラックバックの受付は締め切りました