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御船千鶴子が目白にやってきた。 [気になる下落合]

 1910年(明治43)9月9日、ある女性が新橋駅へと降り立った。熊本から京都を経由してようやく東京へ着いた彼女は、旧藩主の細川家からの招待を受けていた。招聘したのは、細川護立男爵夫妻だ。夫妻は4年前に結婚していたが、なかなか子供ができずに悩んでいた。そこで、博子夫人が彼女に一度、身体を診てもらおうと考えたようだ。
 当時、細川護立は分家である男爵家へと養子に入り、小石川指ヶ谷(現・文京区白山)に邸宅をかまえていた。細川護成の死とともに、細川護立が侯爵家を継いで高田老松町(現・文京区目白台)へともどるのは、1914年(大正3)以降のこと。また、護成の後任となる目白中学校Click!の二代目校長に就任するのは、翌1915年(大正4)のことだ。
 熊本からやってきた女性の名前は、御船千鶴子。いまでは、鈴木光司『リング』(角川書店)に登場する、“山村志津子”のモデルになった女性として有名になってしまった。当時、千鶴子はきわめて強い「千里眼」の持ち主とみられており、地元熊本ではその能力を活かした病人治療も行っていた。彼女の「人体透視」にもとづく治療術は、新聞報道により熊本ばかりでなく、すでに全国的に知られるようになっていた。明治末のこの時期、X線と同等の放射線が彼女の目から出ていると、研究テーマとして取り上げる学者さえいたようだ。
 「千里眼」の御船千鶴子が、細川夫人を「人体透視」してどのような治療を行ったものか、記録が残っていないのでわからない。細川男爵邸での「人体透視」施療のあと、彼女は9月12日に清浦奎吾子爵邸へ招かれ、「透視」実験を行い成功している。そして翌13日に、千鶴子は目白へとやってきた。目白台の細川護成侯爵邸から招かれ、ここでも同様の「透視」実験を行っている。細川邸では、金属缶の中に入れた名刺を透視し、見事「的中」してみせて周囲を驚かせた。はたして、これらの「透視」実験がトリックだったのか、あるいは彼女には缶の中身がほんとうに透けて見えていたのか、いまとなっては検証のしようがない。
 立てつづけの成功に気をよくしたのか、目白の細川邸を辞した千鶴子は、その夜、懇意にしていた帝大助教授の文学博士・福来友吉夫妻とともに芝居見物に出かけている。
 
 9月14日の午後、帝国大学理科大学物理学科の研究室から、ひとりの学者が麹町中六番町にあった大橋新太郎邸へと向かった。午後2時から、御船千鶴子による「透視」の公開実験が予定されていたからだ。6年後、1916年(大正5)に還暦を迎えて帝大を辞めるとき、弟子の寺田寅彦たちから肖像画をプレゼントされることになる、この物理学者の名前は田中館愛橘。寺田に頼まれて肖像画Click!を描いたのは、同年に下落合へアトリエを建てた中村彝Click!だ。
 田中館博士は、公開実験に立ち会う学者9人のひとりとして麹町へと俥を飛ばした。だが、当日の千鶴子は精神的に動揺していて集中力を欠き、「透視」を行うことができず実験はことごとく失敗してしまう。おまけに、練習用の箱と実験用の箱とを取り違えるという、いかがわしい“事故”まで起きてしまった。でも、翌9月15日に千鶴子が泊まっていた神田の関根屋旅館で行われた、マスコミ相手の公開実験ではことごとく成功している。さらに翌々日の9月17日、改めて関根屋旅館で行われた学者相手の公開実験では「的中」となり、居合わせた学者たちを唖然とさせることになる。
 もちろん、この公開実験の席にも田中館は参加していた。だが、一度の実験では納得せず、追試を求める彼の様子が新聞記事でも紹介されている。当日の模様を、「東京朝日新聞」(明治43年9月18日号)から引用してみよう。
  
 話の中心は矢張り名物の田中館博士 諸博士の中央に胡座をかいて胡麻塩角刈りのサンドウイツチ髭を撫しつつ金縁眼鏡を光らせて右手に陣取つた山川博士と論談中だ 「成程、見事な成功だ 併しエキザクト サイエンスと言われるものは一度ではどうも合点が行かぬ 疑いはせんさ併し僕は今一度試らして見たい 賽子(さいころ)を二つ取つてこうカラカラスポンと伏せたのを当てて貰えば夫で満足だ」と言うと背後で莞爾々々(にこにこ)して居た井上巽軒博士はクリクリした愛くるしい目を見はつて「田中館君 何処かで賽子の修行を積んで来たと見えるね」とポンと田中館博士の背広服の肩を叩く 如何に真面目腐つた博士学者達と雖も天下の奇跡を面前に控えて居ては多少は面食らつて居るものと見えて十人十家の解釈を下さんと努めつつある間にも、盛んに笑声が四方から湧く
  
 
 この記事からも、田中館は納得していない様子がうかがえる。何度でも実験を繰り返し、高い確率で「的中」が出るのであれば偶然ではなく、なんらかの必然的な法則だととらえる、いかにも科学者らしい姿勢だ。不十分な「透視」実験に対する不満は、のちに中村彝の親友である小熊虎之助Click!も、『心霊現象の科学』(芙蓉書房)の中で繰り返し指摘している。ちなみに、田中館博士は幽霊や超能力といったテーマが大好きだったようで、井上円了Click!が帝大内に結成した「不思議研究会」にも、賛同人として積極的に参加している。
 田中館博士が参加するサイコロを使った「透視」実験は、ついに実現することはなかった。公開実験から4ヵ月後、翌年の1911年(明治44)1月、25歳の御船千鶴子は重クロム酸カリを飲んで自殺してしまう。自殺の原因は、マスコミから「インチキ」だと叩かれたことによると説明されることが多いけれど、この時点で彼女の「千里眼」を非難する記事は登場していない。自裁の原因として、「千里眼」をめぐる父親との激しい軋轢があったことが、今日では指摘されている。

■写真上:高田老松町(現・目白台)にあった細川護成邸跡。いまは新江戸川公園となっている。
■写真中は、「透視」する御船千鶴子。だが、彼女は正面を向いて「透視」をすることは稀だったようなので、マスコミ向けのサービス写真のように思われる。は、ちょうど千鶴子がやってきた1910年(明治43)の「早稲田新井1/10,000地形図」に見る、高田老松町の細川侯爵邸あたり。
■写真下は、御船千鶴子のポートレート。は、文化勲章受賞時の田中館愛橘。


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ChinchikoPapa

takagakiさん、Krauseさん、ありがとうございました。<(__)>
by ChinchikoPapa (2007-06-05 15:26) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-03-03 14:58) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2015-01-24 14:22) 

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