今度は校庭で投石合戦なのだ。 [気になる下落合]
目白中学校はなにかとケンカの多い学校で、もう好きになってしまう。当時は、夏目漱石の『坊ちゃん』ならずとも、中学生同士のケンカは多かったのだろう。目白通りで投石合戦Click!をした、東京同文書院の中国人留学生たち(一部ベトナム人留学生も混じっていたかもしれない)、今度は校庭で開校したばかりの目白中学校の生徒たち相手のケンカだ。近所の中学校同士が対立し、空き地や河原へ集まってのケンカ・・・なんてシチュエーションはよく耳にするが、同じ敷地内の同一校舎で勉強する学校同士がケンカしたなんて、当時でもめずらしいことだったのだろう。1913年(大正2)10月4日の「読売新聞」が、その様子をさっそく三面記事にして報じている。
でも、「読売新聞」のこの記事、しょっぱなから誤報だ。目白中学校を「小石川目白台」にあると書いている。目白台にあったのは、目白中学校の初代校長だった細川護成侯爵邸で、目白中学校は東京同文書院と同じ下落合の近衛邸敷地に建っていた。短い記事なので、全文引用してみよう。
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目白中学の喧嘩騒ぎ -日支学生の小衝突-
昨日午前九時頃小石川目白台なる目白中学校生徒数名は運動場に於て機械体操を為し居りたるに数名の支那留学生来り運動の邪魔となりたるより日本学生の一名は暴言を吐きたるに支那学生等は大に憤り直に隊を組みて右暴言を吐ける学生等の教室第三班室に乱入せんとして硝子窓を破砕し其の硝子片を日本学生目蒐けて投げ附け日本人学生も亦之に応戦せんとする形勢を示せるが教職員の慰諭にて漸く沈静せるが支那人等は中華民国を侮辱したものなりとて容易に静まらず遂に同十時の休憩時間に至り再び日支両学生数名は運動場に出で互に投石し撲り合ひを始めたるより教職員仲に入り漸く両者を引分けたり其際府下豊多摩郡高田村一一一四橋本館止宿湖南人朱懇奎(一八)は硝子を打割らんとして自ら右手に傷つけたりと而して学校当事者は「何に一寸した喧嘩で何でもありません」と語れり (大正2年10月4日「読売新聞」より)
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暴言(その中身は記録されていない)を吐いた目白中学生も相当悪いが、すぐに実力行使をした岸田劉生Click!なみにケンカっぱやい、東京同文書院の中華民国留学生も程度が低くて幼い。ひょっとすると、日ごろからの対立が少しずつ鬱積していて、このとき一気に爆発したものだろうか。どっちもどっちなのだけれど、ガラスを割ろうとして手を切っている、唯一の“重傷者”らしい中国人留学生が情けない。
校舎をかなり壊されたらしいにもかかわらず、「なぁに、ちょっとしたケンカでなんでもありません」・・・という、学校当局のコメントがどこか妙におかしい。確かに、もう少し時代がくだってから登場する目白中学の“不良”生徒たちは、こんなものではなかったようだ。
ほとんどが目白中学校となってしまった東京同文書院の校舎だが、一部教室Click!を利用して留学生たちの授業はいまだつづけられていた。当時の留学生には、中国人のほかベトナム人もかなり含まれていたようだ。近衛篤麿らを中心に東亜同文書院が始めた、この日中の交換留学生事業は、日中戦争が始まるころまでつづくことになる。
このケンカから12年後、1925年(大正14)の秋、近衛邸敷地の売却が決定すると、翌1926年(大正15)の夏に目白中学校と東京同文書院は練馬へと移転していく。夏休みをはさんでの引っ越しだったようで、ほんの2ヶ月ほどの工事で練馬校舎が完成している。やはり、練馬の校舎Click!は目白中学校の建物をそのまま移築活用したものだろう。
■写真上:旧・目白中学校の南側敷地に建つ西洋館。この一画だけ、戦災から焼け残っている。
■写真中:目白中学校のケンカを報じる「読売新聞」記事。句読点がないので読みにくい。隣りの「憐れな花嫁」記事も気になるが、「夫に棄てられて迷ふ」・・・とか読売の三面はこんなのばっかりだ。
■写真下:移転直前、1926年(大正15)夏に行われた、練馬における目白中学校の地鎮祭。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。>takagakiさん<(_ _)>
by ChinchikoPapa (2007-07-15 23:40)