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佐伯祐三の「テニス」を細見する。(中) [気になる下落合]

 さて、キャンバス地の表面ではなく、描かれた作品そのものを仔細に観察してみよう。この「テニス」で真っ先に描かれたのは、佐伯の『下落合風景』Click!としてはめずらしく晴れ上がった、1926年(大正15)10月11日・月曜日の秋空だ。東京気象台に残る大正期のデータでは、この日はなぜか「曇り」と記録されているが、前日の小雨をもたらした低気圧が早めに通過し、西から晴れ間が拡りはじめていたのだろう。前日、10月10日(日)の「森たさんのトナリ」Click!は、小雨模様の中で描かれた。佐伯のパレットに、空を塗るためのブルー系絵具が置かれるのはめずらしかったろうが、この作品では大量のブルーを刷毛を使ってダイナミックにキャンバスへ刷いている。でも、「テニス」の空はすぐに絵具が乾くよう、かなりの薄塗りとなっている。これは、濃いブルーからホワイトへと変化するグラデーション全体についていえることだ。
 佐伯の『下落合風景』を、数多く間近で仔細に観察したわけではないので断定はできないけれど、佐伯の空の乾きやすい薄塗りは、各作品に共通した手法のように思われる。なぜなら、空が早く乾いてくれなければ、その下に展開する風景がなかなか描けないからだ。特に、空色のようなブルー系の色は、風景色とは異質なカラーなのでなおさらだ。下の絵具が乾かないうちに仕事を始めると、当然だが上下の絵具が混じってしまい、思いどおりの色が載らないことになる。
 佐伯は青空を乾かしている間、茶褐色の鉛管を選んでパレットに並べていたのかもしれない。さらに、空とは離れたテニスコートの地面を塗り始めていたのかもしれない。それとも、空がよく乾き切ってしまうまで、テニスの試合をぼんやりと観戦でもしていたのだろうか? いずれにしても、速乾剤を多めに加えていたと思われる空の絵具が乾くまで、それほど長時間はかからなかっただろう。
 地面を塗り始めていたかどうかは別にして、佐伯の描画手順はきわめて計画的かつ几帳面だったのがわかる。「テニス」の筆跡を間近で観察していくと、佐伯の仕事ぶりが少しずつ見えてくるのだ。彼はまず空を乾かし終えると、テニスコートの西側にあった第二文化村の外側、昔ながらの和風の家=中央にある2階建て家屋の描写にかかったようだ。おそらく佐伯は、キャンバスに下描きなどしていない。ぶっつけ本番で、一気に作品を仕上げていく手法らしい。
 
 家のかたちを大雑把に縁どったあと、まず2階家の1階奥の部分から絵具を載せ始めている。軒の屋根を描き、壁と窓を描いたあと、今度は手前の1階部をその上に重ねて厚塗りしていく。つづけて2階の主要部を描き、左側に張り出した物干場のような軒部を描写していく。まるで、佐伯の仕事ぶりを端から眺めているかのように、なぜこれほどハッキリと描写の手順がわかるのかといえば、絵具の上塗りの様子や下塗りとの混ざり具合を微細に観察すれば、彼の仕事の手順がかなりの正確さで想定できてしまうのだ。
 生乾きの絵具の上に、異なる色の絵具を重ねて載せれば、当然だが下の絵具が混じり合い、溶け合って表面に出てくる。この絵具の混合を、画面上で細かく検証していけば、速描きの佐伯がどのように「テニス」を仕上げていったのかが、おおよそ把握できてしまうのだ。芸大美術部出身の専門家をお誘いしたのは、実はこの『下落合風景』におけるスピード描画の具体的な手順と、絵具がかなり乾いてから(すなわちアトリエへキャンバスを持ち帰ってから)の加筆の様子を、どうしても細かく知りたかったからだ。
 佐伯は、中央の日本家屋と右寄りにある物置きのような建造物を描き終えると、また少し休憩したか、あるいは地面の描写にもどっただろうか。なにしろ、いつもの『下落合風景』とは異なり、「テニス」は描き慣れない50号もの大きさがある。この日、佐伯の道具箱には大量の鉛管が入れられて、ずっしりと重たかったに違いない。厚塗り表現の多い彼は、いつもの倍の絵具を用意していたかもしれない。屋外で50号キャンバスをほぼ仕上げるためには、かなりの重装備で第二文化村の尾根沿いの道までやってきたのだろう。
 日本家屋が少し乾いたところで、彼はパレットナイフを手に2階の壁面と1階の窓へホワイトでハイライトを入れ、線を描き入れて再びひと息ついただろうか。それとも、ホワイトを出したついでに空に浮かんだ雲を描くため、チューブから直接キャンバスへ絵具をなすりつけたりはしなかっただろうか?
 
 建物の絵具が少し乾き始めたころ、彼の仕事は目に見えてスピードアップしたようだ。益満邸の敷地にめぐらした塀を描き、その周囲の樹木や草を描き、手前にも草原を一気に描き入れる。それは、塗ったばかりの絵具の上へ、かまわずに次々と別の絵具を重ね塗りしていく。下描きの色が混じろうが、ごちゃごちゃに溶け合おうが、まったくおかまいなしに作業はつづけられていく。いや、その混じり合いの効果を充分に見こしたうえでの描画法だっただろう。50号の「テニス」を描く佐伯の身体が、もっともダイナミックに躍動した時間だったにちがいない。
 『下落合風景』の随所に登場する木立や草原を表現するとき、試行錯誤の研究を重ねて獲得した、それは彼の計算された重ね塗りの技法だったのだろう。とても計画的に練られたと思われるこの描画法は、『下落合風景』の全シリーズ作品において、地面の表現に、草原の質感に、樹木や木立の描写に、建物の風情に、いたるところ活かされていたに違いない。一塗り一塗り、佐伯はすべて効果を予測しながら使い慣れた絵具を選び、思いどおりの色彩や質感を構成していったのだろう。佐伯は最後に、電柱をスーッとまるで書や墨絵の線のように描き入れ、プレイする人物たちを残りのホワイトで描き添え、テニスのネットや草原の一部などを、乾かぬ絵具の上からスクラッチで一気に表現し終えた。このあと、手前の草原や向うの木立へ、最後の仕上げとして少し手を入れているようだ。
 
 これら一連の仕事のリードタイムは、はたしてどれぐらいだったのだろうか。制作メモClick!では、10月11日は「テニス」の1作のみで、丸1日の仕事のように思えるけれど、空の刷毛塗りは別にしても、おそらく風景の部分は数時間で仕上げてしまったのではないだろうか。さまざまな絵具の色は、下塗りがまったく乾いていないうちに、無造作に重ねられていく。テニスをする人物たちは、下の地面色が乾いてない上から、ホワイトを載せて手早く描かれているのが歴然としている。この描画の勢いが、佐伯の作品に他にはまったく見られない、独特なダイナミズムやリアリズム、活きいきとした新鮮な画面をもたらしているといえそうだ。佐伯祐三Click!の真骨頂というべきだろうか。
 ただし、佐伯は益満邸の建っていたあたり、テニスコートの右手(北側)のみ、絵具の塗り重ねをしなかった。ここには白っぽい、なんらかの構造物があったせいか、彼はこの部分だけほとんど塗り残すことになった。もちろん、表現としてのある効果をねらった、なんらかの工夫のひとつだろう。そのおかげで、佐伯のキャンバス地そのものを、今日でも目にすることができるのだ。
                                                    (つづく)

■写真上:日本家屋の壁面で、パレットナイフの跡が生々しい。絵具が乾いていないのもまったく気にせず、どんどん上から異なる色の絵具が塗り重ねられていく。
■写真中上は、1926年(大正15)10月11日の晴れ上がった、第二文化村の西に拡がる秋空。は、日本家屋の1階窓に入れられた光の反射で、建物の表現にはナイフが多用されている。
■写真中下左右とも、塀の向こう側に繁った樹木の表現。日本家屋と重なる位置の木立や電柱は、家屋の塗りが少し乾いてから描かれているように思える。
■写真下左右ともテニスをする人物描写で、ネットはいかにも手早いスクラッチ。人物を間近で拡大して観察すると、ひどくデフォルメされているようでリアルには見えないのだが、画面から少し離れて眺めると、とても写実的で人体が躍動している瞬間のように見えるのが不思議だ。


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