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目白文化村の分譲絵はがきの裏側は? [気になる下落合]

 箱根土地が1923年(大正12)に配布した、目白文化村の分譲案内絵はがきの実物を、新宿歴史博物館のご好意で拝見させていただいた。わたしが気になっていたのは、この絵はがきの表側に印刷された第一文化村の写真自体Click!の質ももちろんだが、その裏側に書かれた情報だった。この絵はがきは、いったいいつ、誰あてに郵送され、どのようなことが書かれていたのだろうか?
 いまでは1枚しか残っていない貴重な絵はがきを、手にとってじっくり拝見する。まず、貼られていた切手は1銭5厘、スタンプの消印は「大正12年4月10日」の早稲田局のものとなっている。あて先は、当時「小石川区小日向臺(台)町」(現・文京区小日向)に住んでいたYSという人物だ。でも、目白文化村地割り図にも、また『落合町誌』の人物誌にもYSという人物は掲載されていないので、箱根土地から案内はがきはもらったものの、おそらく目白文化村の敷地を買うことはなかったのだろう。
 以下、はがき裏面のコピーを全文引用してみよう。ちなみに、はがき裏面の広告文は、『新宿区の民俗』第四巻(新宿区教育委員会)にも掲載されている。わたしが、ずいぶん前に読んだにもかかわらず、失念していただけだ。
  
 ウイルソンは「住居の改善は人生を至幸至福のもたらしむる」と断言致して居ります、目白文化村は健康と趣味生活を基調として計画致しましたが今や瀟洒な郊外都市として立派な東京の地名となつて仕舞ひました。
 高台地のこの村は武蔵野の恵まれた風致――欅や楱の自然林、富士の眺め――をそのまゝに道路や下水を完備し水道や電熱設備倶楽部テニスコート相撲柔道場等の設備が整つて居ります。文化村は住宅地として市内以上の設備が整つて居ります。
 倦み疲れた心身に常に新鮮な生気を与へ子女の健やかなる発育を遂げる為めに目白文化村の生活は真に有意義のものであります、今回第二期の新拡張を合して文化村は三万五千坪に達しました。
 実地御視察の節は本社に御休憩を願ます、土地住宅に関する事は何に依ず御相談に応じます。
                                        東京市外下落合(目白文化村)
                                         箱根土地株式会社(以下略)
  
 
 1923年(大正12)4月10日の配布にもかかわらず、「本社に御休憩を願ます」と書かれている。この時点で、第一文化村入口に建っていたレンガ造りの2階建て本社屋Click!は、いまだ建築中だったはずだ。ここでいう「本社」とは、写真の左端に写る倶楽部の敷地に建てられた、1階建ての建築物(仮本社屋)ではないだろうか。目白文化村の絵はがきに印刷された、第一文化村の人着(人工着色)モノクロ写真の風景は、数多くの書籍や資料に紹介されている。でも、たいがい両端が多少トリミングされているのに、今回、実物の絵はがきを拝見して改めて気がついた。
 特に、倶楽部のある左側が大きくカットされていることが多い。実物の絵はがきを仔細に観察してみると、このカットされた倶楽部の周囲に、文化村の住宅とは思われない建物がいくつか見えている。箱根土地の庭園「不動園」沿いの三間道路に面して、まるでキャンピングカーかバスの“お尻”のようなフォルムの物体が、横づけされているように見えている。この部分がトリミングされてしまった画像が多いので、いままで気がつかなかったのだ。箱根土地が目白駅から現地まで運行した、見学用の乗合自動車(海外製)だろうか? ちょうど、この倶楽部の向かいには、落合尋常小学校の並びに本社屋が完成したのちまで、箱根土地の車庫Click!がずっと建っていたはずだ。
 また、実物の写真は、複写されて書籍や資料類へ印刷された画像と比較して、はるかに鮮明だった。色合いも、現在のオフセット印刷で4色分解された印刷画像とは、かなり異なる印象だ。書籍や資料類へ引用されている画像は、青版が強すぎたり黄版が強すぎたりと、実物の色とはだいぶ違うことがわかった。また、複写する際のカメラのピントが甘かったせいか、あるいは製版機の性能のせいだろうか、現代のオフセット印刷の写真に比べ、80年以上前に刷られた現物の絵はがきのほうが、はるかに鮮明かつ精細だったのだ。




 写真の左手には、11戸の敷地造成がいまだ手つかずの谷間、前谷戸の姿が東側(左端)にかけて、よりワイドかつ鮮明にとらえられている。第一文化村は、1922年(大正11)に販売予定の敷地をわずか半年間で完売してしまう。その人気の高さと売れ行きに喜んだ箱根土地は、さっそく第一文化村の拡張計画を立案したのではないか。翌1923年(大正12)のおそらく下半期に、この谷間の東側をさっそく埋め立て、敷地を増やして売り出したのだ。さらに、大正末にかけ谷戸の西側も徐々に埋め立てられていくのだが、豊富な水量の池や湧水源があったせいか、1936年(昭和11)の空中写真Click!を見ても、谷戸西側の谷間にはそれほど住宅が増えていないように見える。
 湧水や池が暗渠化され、この谷間が本格的に再開発されたのは、昭和10年代に入ってからのようだ。でも、ひとたび大雨が降ると、まるで昔日の弁天池がよみがえったかのような水たまりが出現する現象は、1955年(昭和30)以降までつづいていた。

■写真上:大正12年4月10日付け早稲田局の消印がある、目白文化村分譲絵はがきの裏面。
■写真中は、コピーがびっしり印刷された絵はがきの裏面。は、非常に鮮明な写真でびっくりした表面の第一文化村の人着写真。倶楽部の部分を拡大したところで、左端には建物に横づけされたバスかキャンピングカーのような物体が見えている。
■写真下:弁天池があった、第一文化村の谷戸の現状と撮影ポイント。空中写真は、文化村空襲の直前に撮影された1944年(昭和19)の谷間。道路沿いに家々が建ち並んでいる。


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ChinchikoPapa

いつもありがとうございます、takagakiさん。<(__)>
by ChinchikoPapa (2007-08-24 13:22) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2008-12-06 21:46) 

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