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ばあや、少しお水を飲んでしまったわ。 [気になる下落合]

 「まあ、お嬢様っ、お久しゅうございますう!」
 「・・・ばあや、なにをお言いなの? 毎日ずーーっと、のべつまくなしに顔を合わせてるじゃないの」
 「おや、そうでございましょうかしら? あたしゃまた、ずいぶんとこっち、ご無沙汰しちまってるような心持ちがいたしましたもんですから、つい・・・」
 「ばあや、お願いだから、この暑いのに、わけのわからないこと言わないでおくれ」
 「とうとう、お嬢様。いよいよ、あれまあれま、ついについに20歳の夏、でございますねえ」
 「・・・・・・」
 「17歳の夏は、遠くなりにけり、でございますよ」
 「・・・ばあや、それにしても暑いわねえ」
 「そいえば、お嬢様が18歳の夏も、たいそうお暑うございました」
 「ど、どうして、いちいち夏に、わたくしの歳をつけて言うのです!?」
 「ばあやの、口ぐせでございますよ。ずっとお育てしてまいりましたから。この先もず~っと・・・」
 「わかったから、ねえ、ばあや、少し静かにしていておくれ」
 「おや、お嬢様、読書でございますか。あれまあ、なにをお読みで?」
 「少し前に、武田泰淳先生が発表された、とっても深刻な小説なのです」
 「ああ、あれでございますか。・・・えっと、いかず後家でございましょう? ほんと深刻」
 「ひ~っ、ひかりごけです!」
 「おや、そうとも申しましたかしら。ところで、お御足の具合は、いかがでございます?」
 「・・・・・・大丈夫、もうなんともなくてよ」
 「あたしゃ、お嬢様がスキー場Click!で脚を折られたときにゃ、どうなることかと思いましてす」
 「あれは、ばあやが悪いのです。いい歳して、スキーをやりたいなんて言うから・・・」
 「あれまあ、あたくしはお嬢様をお助けしようとして、お身体を懸命に支えたんでございますよ」
 「ウソおっしゃい! わたくしに、いきなりしがみついてきたんじゃないの」
 「いいえ、お嬢様。お嬢様が、ゲレンデから外れてモミの木と正面衝突しそうになったので、ばあやが、これは危急存亡の一大事とばかり、一所懸命お嬢様をお支え申したんでございますよう」
 「それでは、どうしてばあやがピンピンしてて、わたくしが脚を骨折して入院などしてたのです!?」
 「それはそれは、ご災難でございましたねえ、お嬢様」
 「ば、ばあやが、やったこともないスキーを無理やりはいて、あたしゃアルプスのトニー・ザイラーだ~!・・・とかなんとか、わけのわからないことわめきながら、危ない谷間のほうへ流されていくから、わたくしが急いで助けにいったんじゃないの。そうしたら、いきなりわたくしにしがみついてくるものだから、わたくしのほうがバランスを崩して、モミの木に正面衝突してしまったのでしょう?」
 「お嬢様がおっしゃるような解釈も、まあ、できなくはないようでございましょうが」
 「ほかに、いったい、どのような解釈ができるっていうの、ばあやっ!」
 「まあ、人それぞれ、さまざまな想いがあるものでございますよう、お嬢様」
 「あの事件からわずか半年で、どうしてわたくしとばあやの立場がアベコベになってしまうの!?」
 「まったくでございますよ、お嬢様。災いは、どこに転がっているか知れたもんじゃございません」
 「ねえ、ばあや、他人事じゃないのよ」
 「それにしても、お嬢様。なんともおいたわしい、ご災難でございましたねえ」
 「ですから、ばあや、みんな、丸ごと、すべて、残らず、あなたのせいなのです、あ・な・たの! 災いは、どこにも転がっていないの。わたくしの目の前に、いつもいるのです!」
 「それにしましても、お嬢様はご苦労された甲斐がおありで、大庭先生ともお親しくなられて・・・」
 「それとこれとは、お話が別です!」
 「まあ、ばあやにまで、お隠しになってはイヤでございますよう。青年医師と下落合のお嬢様、とってもお似合いでございますよ。片手にメスの心臓外科医なんて、ちょいとイカスじゃござんせんか」
 「そ、それは、たまたま入院したからそうなってしまった、結果のお話です!」
 「まあ、お嬢様、頬を染められて。これで、あたくしも、お世話した甲斐がありましてす」
 「だ・か・ら、いったい、ばあや。わたくしのことを、いつ、どこで、なにを、どのように、お世話してくれたっていうのです!?」

 「ねえ、ばあや。ほんとうに、こんなところに冷たくて清廉なプールなんてあるの?」
 「はい、ございますとも、お嬢様。木立ちに囲まれた、それはそれは静かなプールでございます」
 「でも、わたくし、そのようなプールのこと、いままで一度も聞いたことがないわ」
 「そりゃそうでございましょうとも、お嬢様。お嬢様は、いつも歩かれずに、おクルマでお出かけでございましょう? ですから、すぐ近くの地元のことには案外、疎くてらっしゃるんでございますよう」
 「そうかしら。・・・でも、ばあや、誰か来やしない?」
 「それは、大丈夫。下落合の人間でも、ほんのひと握りしか知らないのでございますから」
 「水着姿を、誰かに見られたら恥ずかしいわ。でも、こう暑くては、もうガマンができないのよ」
 「はい、お嬢様。ここは、ばあやにいっさいがっさい、おまかせくださいまし」
 「・・・それが、いちばん、不安なのだけれど。・・・ねえ、まだなの? 下が水着で歩きにくいのよ」
 「それ、そこの林の中でございますよ、お嬢様」
 「・・・まっ、なんてきれいなプールなのでしょう!」
 「そうでございましょうとも、お嬢様」
 「でも、プールのような設備がぜんぜん見えなくてよ。なんだか、普通の池のような感じだわ」
 「そこが、誰も知らない、秘境プールのゆえんでございます」
 「まわりも、草むらと土ばかりだわ。でも、底まで透きとおって見えてよ!」
 「だから、誰にも知られずひっそりと、泉から湧く清水を静かにたたえているんでございますよ」
 「まあ、冷たくて気持ちがいいわ! ねえ、誰も見ていない? ばあや、すぐに入りたいわ」
 「ええ、大丈夫でございますとも、お嬢様。お洋服は、こうして、あたくしがお預りいたしますです。ここで、ちゃんと見張っておりますから、お嬢様はごゆっくりと涼まれてくださいまし」
 「まあ、ばあや、ありがとう。・・・それにしても、ばあやにお礼を言うのなんて、何年ぶりかしら?」
 「あれまあ、お嬢様、イヤでございますよう。お礼だなんて・・・」
 「まあ、気持ちがいい! 身体の不快な暑気が、泉の清水の中に溶け出してゆくようだわ」
 「おやまあ、お嬢様、泳ぎがお上手ですこと。でも、中ほどは深いので、お気をつけあそばせ」
 「わたくし、これでも女学校時代は、クラスメートから“目白のアユ”と呼ばれていたのよ」
 「あれまあ、“目白のサンマ”でございますか。目黒じゃなくて?」
 「アユですってば! ばあや、急に耳が遠くおなり?」
 「あれまあ、アユでございますか? お嬢様のお泳ぎになる姿に、ピッタリでございますよう」
 「ねえ、ばあやも入らない?」
 「あたくしは、水の中でなんぞで泳ぎません。温泉のほうが、性に合ってますです」
 「ふふふっ、さすがのばあやも、あたしゃワイズミューラーだぁ!・・・なんてことはないこと?」
 「あれ、イヤでございますよう、お嬢様。年寄りを、からかわないでくださいまし」
 「・・・あ、ねえ、ところで、ばあや。大庭先生のお名前、調べてくれて?」
 「はいはい」
 「お返事はひとつでしょ、ばあや。お手紙を差し上げるのに、ご苗字だけでは失礼ですもの」
 「はい、ちゃんと病院へ手をまわして、お調べいたしました」
 「そう、それで、ばあや、なんというお名前だったの?」
 「はい、それが、ちょいと古めかしいお名前なんでございますよう」
 「古めかしい?」
 「はい、江戸時代のようなお名前でございましてす」
 「江戸時代? ・・・先生は、なんておっしゃるの?」
 「嘉門様と申されるのだそうです」
 「カモン様? なんだか、わたくしに英語でお優しく、“おいで”って言われているようだわ、うふふっ。でも、ほんとうに、お侍のような、いまどきおめずらしいお名前だこと」
 「はい、オオバカモンでございますよう」
 「・・・・・・ブクブク」
 「あれ、お嬢様が沈んじまった。お嬢様!? ねえ、お嬢様!? 大丈夫でございますか!?」
 「ゴホッゴホッ、ば、ばあや、ゴホッ、もう少しで、溺れる、ゴホッ、ところだったわ。ゴホッゴホッ」
 「あれまあ、たいへん! お嬢様、しっかりしてくださいまし!」
 「少し、お水を、ゴホッゴホッ、飲んでしまったわ、ばあや。ゴホッゴホッ」
 「おやまあ、おいたわしいこって! 大丈夫でございますか、お嬢様!?」
 「わ、わたくし、大庭先生とのこと、ゴホッゴホッ、もう少し、考えたほうがよさそうだわ。ゴホッ」
 「はい、お嬢様。ばあやも、そのほうがおよろしいかと。ごゆっくりお考えなすってくださいまし」

 「ねえ、ゴホッ、ところで、さっきから、プールの向うで、なにか洗ってる人たちがいるのよ」
 「まあ、お嬢様、どこでございます?」
 「ゴホッ、プールの向こう側だわ。誰も来ないって、言ったじゃないの、ばあや。ゴホッゴホッ」
 「・・・ああ、あれは、お嬢様、別に心配ござんせん。ご近所の、お百姓でございましょう」
 「なにを、洗ってるの?」
 「ここいらで採れた、ダイコンやゴンボウでも洗ってるんでございましょう」
 「ゴ、ゴンボウ?」
 「このプールには、別名“洗い場”てえ名前がありましてす。その水のきれいさから、地元の農家が採れたての野菜を洗うのに、ときどき利用してるんでございますよう」
 「ま、まあ、泳いだりして、大丈夫かしら? わたくし、いまお水をかなり飲んでしまったわ」
 「ぜんぜん、心配こざいませんです、お嬢様。まあ、野菜を洗うなんてえ、近ごろじゃめずらしいんでございますよ。それに、ときどきタヌキが、水を飲みにやってくるぐらいですから」
 「タ、タヌキ!?」
 「はい、人もめったに寄り付かない、だからこそ清廉な秘境プールてえ寸法なんでございますよ」
 「な、なんだか、ばあや、気味が悪いわ」
 「・・・あれっ?」
 「な、なあに、今度はなんなの、ばあや?」
 「おやまっ、そいえば、つい先ごろ誰かから、ここで肥え桶を洗ってるてえ話も聞いたかしら」
 「・・・・・・ブクブクブク」
 「あれまあ、たいへん! お嬢様が、また沈んじまったじゃないのさ。ねえ、お嬢様!? ちょいと、お嬢様ったら!? あれまっ、あぶくばかりがのぼってくるよ。ねえ、お嬢様~!?」

ジョニー・ワイズミューラー(米国)は戦前の水泳選手、トニー・ザイラー(オーストリア)は戦後すぐのころのスキー選手で、ともに引退後は映画俳優へ転向している。


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ChinchikoPapa

takagakiさん、またまたありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2007-08-29 12:09) 

risu

いえいえ、
大変、内容濃い記事を掲載され、
脱帽しております。
ちなみに昨夜は、
月蝕がみられずにへこんでます。
しくしくしくしく・・・
by risu (2007-08-29 17:56) 

ChinchikoPapa

わたしも期待して、暗くなってからときどき空を見上げていたのですが、
雨がしとしと、まったく見えませんでした。takagakiさんは、カメラを構え
て手ぐすねを引かれていたでしょうから、ほんとうに残念ですね。
by ChinchikoPapa (2007-08-29 22:59) 

ChinchikoPapa

とっても昔の記事にまで、わざわざnice!をありがとうございます。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-02-10 11:56) 

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