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主なきあとの中村彝アトリエ。 [気になる下落合]

 

 1925年(大正14)にアトリエ社から発行されていた『ATELIER(アトリエ)』2月号Click!には、中村彝Click!の追悼特集とともに、死去(1924年12月24日)した直後に撮影したとみられる彜アトリエの写真が掲載されている。2月号は、1月中に書店へ並ぶので、おそらく彝が逝って数日後の1924年(大正13)の末か、翌年初めあたりに撮影されたアトリエの姿だ。写されているのは、アトリエ西側の壁面。標準よりは少し広角め、35mmぐらいのレンズで撮られているようだ。
 壁面の中央には、いかにもレンブラント風に描かれた初期の『帽子を被る自画像』(1910年)が架けられている。彜は、この自画像を生涯手放さなかったようだ。左手にドアが見えるが、このドアを開けると右手にはトイレ、左手には岡崎きいのいる小部屋がある。さらに廊下の向う、左手には台所があって、西側の玄関へとつづいている。このドアをよく見ると、一面になにか模様のようなものが描かれているのがわかる。いったい、なにが描かれているのだろう? 西側のドアということで、来迎図でも描いたものだろうか。それとも、これがドアに描かれた女性像だろうか?
 また、写真の右手にもアトリエ北側へと出られるドアが写っているが、厚手のカーテンのような布切れで覆われていて、ふだんから使われていなかったようだ。このドアを開けると、目白福音教会の宣教師館=メーヤー館Click!が、木立を透かして畑地越しによく見えただろう。(関東大震災以降は、外側に物置きが付加されたようだ) ドアの前には、額縁かキャンバスが重ねて置かれているので、彜生前から開かずの扉だったようだ。北側ドアのさらに右手が、大きな採光窓となる。
  
 
 アトリエの床面には、いろいろなものが置かれている。大小のイーゼルをはじめ、額や作品、イスやソファ、サイドテーブル、モチーフに使われたとみられる折りたたみ式のパーティションなどが見える。大きなイーゼルの陰には石炭ストーブがあり、そこから排煙管が天井を吊られて、北側の採光窓の上部へと伸びている。また、左側にちらりと見えているイスは、晩年のキリストのような風貌をした有名なポートレートに写る籐椅子だろう。現在、左手のドアと画室との間は壁で仕切られており、このドアはいまの玄関から眺めると、廊下の突き当りとなっている。
 西側の壁面には、腰高の板壁のすぐ上に壁龕(へきがん)と呼ばれる、彜アトリエ独特の壁穴が2つ見えている。左側(南側)の穴には、金属製の水差しが置かれているのが見え、右側(北側)の穴には、白っぽい小さなスタンドが置かれている。そのすぐ前に置かれたイスは、岡崎きいをモデルに描かれた『老母像』(1924年)の制作に使われたイスだろう。これらの壁龕は、現在は2つとも石膏で埋められているが、その痕跡ははっきりと確認できる。
 この1枚の写真から、いろいろなことがわかる。まず、彝晩年のポートレートが撮影された場所。彜は籐椅子を、南側の壁龕に近い位置に据えて撮影に応じていたのがわかる。つまり、身体が冷えないようストーブのまん前に、北東を向いて座っていた。横目の眼差しは、採光窓のほうへと向いている。また、壁龕が画面の中に登場する作品の描画位置も、この写真から想定することができる。晩年の『老母像』もまた、南側の壁龕に近いストーブの前に、岡崎きいを座らせて描いている。

 
 そして、もう1作の『カルピスの包み紙のある静物』(1923年)。これが、ちょっと困ったことに“わけあり”なのだ。この作品の背後には、やはり西側の壁にうがたれた壁龕が描かれている。でも、このような光の射し方をする場所は、西側の壁際には存在しえない。光は描き手のうしろ、つまり彝の背後左寄りから射しているのであり、この作品のような位置関係で西側の壁龕が見えることはありえない。画室の南側にあった、応接室(居間)へと抜ける壁をすべてぶち抜けば、南からのこのような光が得られたろうが、画室内でこのような光を得ることは不可能だ。写真でも明らかだが、西側の壁面へ向かえば、光は必ず右手から射していたはずだ。
 実は、この作品の画像を“裏焼き”にすると、その秘密がとける。彜は、『カルピスの包み紙のある静物』の背景に、やはり南側の壁龕を取り入れていた。だが、彼は南の壁龕前に、カルピスの包装紙や花、キリストの祭壇パネルなどの静物を置いて描いてはいない。あらかじめ、南側の壁龕からドアあたりにかけての様子をスケッチし、それをわざわざ表裏反転させた大きな絵を新聞紙へ描いた。そして、光が背後左手から当たる位置に静物を置き、そのうしろに南側の壁龕を写した新聞紙を垂らして描くという、非常に手のこんだことをしている。キリスト教の祭壇パネルも、彜自身がわざわざこしらえたものだ。また、左上に見える帽子掛けは、あとから描きこんだものかもしれない。
 おそらく、彜はこの静物画を描くとき、背景に西側の壁龕のひとつをどうしても取り入れたかった。でも、そのまま描くと背後右手からの光となってしまうため、想い描いたとおりの画面が制作できない。そこで、静物の背景に仮想の空間を創り出そうとしたのだ。のちに、「仮象」と呼ばれるこの技法は、病状が進んで思うように外出ができず、アトリエにこもって制作せざるをえない彜が、その単調になりがちな構図や光を避けるために考え出した、苦肉の技法といえるかもしれない。

 画室の天井には、面白いかたちの照明器具が写っている。この乳白色の照明を支えていたのが、当時のランプとしていまのアトリエに伝わる、天井吊り下げ型の部品なのかもしれない。このような照明だけでは、日が暮れるとアトリエは薄暗かったと思われるが、佐伯祐三とは異なり夜間に画室で仕事をしなかった彜には、これで充分だったのだろう。

■写真上:彝の死の直後、1924年(大正13)末か翌年の初めに撮影された画室。
■写真中上左上から右下へ、なにかが一面に描かれた画室西側のドア、画室の天井に吊られたユニークなデザインの照明、当時からいまに伝わる天井吊り型の照明部品、西側の北側にうがたれていた壁龕(へきがん)、現在の石膏で埋められた壁龕跡(北側)。
■写真中下は、1924年(大正13)に撮影された彜晩年の肖像。は、同年の『老母像』(習作)。
■写真下:1923年(大正12)に制作された『カルピスの包み紙のある静物』と、その左右反転画像。


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ChinchikoPapa

takagakiさん、いつもありがとうございます。
by ChinchikoPapa (2007-09-02 18:05) 

ChinchikoPapa

昔の記事にまで、nice!をありがとうございました。
 >一真さん
 >kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-07-19 18:15) 

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