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中村彝と金山平三の接点。 [気になる下落合]

 

 ともに下落合に住んでいた中村彝と金山平三だが、さまざまな書籍や資料をひっくり返してみても、お互いの接点が見つからない。金山の親友である満谷国四郎Click!は、彝が洋画を学びに通っていた太平洋画会の創立メンバーのひとりであり、彝の“師匠”格でもあったので、下落合に住むようになってから一度だけ、彝の生前にアトリエを訪問Click!している。でも、同じ下落合にいた金山平三が彝アトリエを訪れた形跡はない。
 金山平三が東京土地住宅から敷地を購入し、二ノ坂上の一画にアトリエを建てて住んだのは、1922年(大正11)から1923年(大正12)にかけてのこと。隣接する敷地は満谷国四郎が購入し、ふたり並んでアトリエを建てる予定だった。このとき、金山は少し離れているとはいえ、1916年(大正5)から下落合に中村彝のアトリエが建っているのを、当然知っていただろう。下落合ではまったく接点が見つからず、交流していた記録も見つからないけれど、このふたり、大正期の「画壇」では非常に近接してすれ違っている。
 ちょうど中村彝が、1916年(大正5)に林泉園の尾根上へアトリエClick!を建てているころ、金山平三は4年間のヨーロッパ遊学から帰国し、帰朝展を企画したが悩んだすえに断念。文部省美術展(文展)もしばらく悩んだあげく、『巴里の街』と小豆島の海を描いた『夏の内海』の2点を出品している。一方、彝は同年7月に完成したばかりの『田中館博士の肖像』を出品した。同年の第10回文展は、それまで作品に1等賞から3等賞、さらに褒賞を選んでいた4段階級賞を廃し、「特選」制へと移行した記念的な年でもあった。
 
 新聞各紙や美術誌の前評判では、圧倒的に彝の『田中館博士の肖像』の人気が高かった。金山平三はといえば、出品時には2作のうち『巴里の街』の入選を期待していたようだ。ところが、2作品とも評判はあまりかんばしくなかった。1916年(大正5)に発行された『中央美術』11月号の金山作品評は、とても厳しいものだった。
  
 新帰朝の人として金山平三氏の二作は風景画の間に最も注意されて居る。けれどもそれは場内にあつて決して引立ちもしない。『巴里の街』と云ふ留学中の作は鈍澁にして生気を欠いて居る。帰朝後の作たる『夏の内海』は丁寧の描写であり、地平のあたり白雲の水に倒映する処などに多少の情趣もあるが、同じく生気を欠いて居る様に思はれる。
  
 審査の段階で、かろうじて『巴里の街』が入選となっているだけだった。ところが、のちに黒田清輝が『夏の内海』を観たとたん、「特選ものじゃないか!」と発言したことで、いきなり「特選」の二席に推されることになったのだ。「特選」の一席は、大方の予想どおり中村彝の『田中館博士の肖像』だった。金山は後年、官製画壇の権威主義的あるいは官僚主義的で不透明な腐敗体質に対して、正面から叛旗をひるがえすけれど、画壇へ本格的なデビューをするきっかけが、権威の象徴として見られることが多かった黒田清輝のひと言だったのは、なんとも皮肉なことだ。
 
 こうして、金山平三と中村彝のふたりは文展「特選」の一・二席に選ばれ、個別の撮影だけれどふたり並んだポートレートと作品名が後世へ残ることになった。唯一現存する、ふたりの稀少な“ツーショット”だ。彝は1916年(大正5)現在の撮影でなく、明治末あたりに撮られた写真を文展へ送ったようだ。対する金山は、妙なポーズをとりながらニヤけて微笑む、なんともいえない表情をしている。彝のマジメな雰囲気に対し、のちの金山じいちゃんClick!の洒脱さやひょうきんさが、もうこのころから感じられるめずらしい写真なのだ。

■写真上:金山平三アトリエの東側切妻()と、中村彝アトリエの同じく東面の切妻()。
■写真中は、1916年(大正5)に描かれ特選二席に選ばれた金山平三の『夏の内海』。は、同年に描かれ特選一席に選ばれた中村彝『田中館博士の肖像』。
■写真下は、第10回文展資料に掲載された、ふたりのめずらしい“ツーショット”。金山平三のニヤニヤ表情と、左手のポーズが面白い。は、特選に選ばれた作品と画家たちのリスト。
  


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ChinchikoPapa

記事をお読みいただいた美術史家の方から、第10回文展の目録をお送りいただきました。ありがとうございました。<(__)>
これによりますと、中村彝の『田中館博士の肖像』は第21室、金山平三の『夏の内海』は第23室に展示されており、2作品とも出口のすぐ近く。彝の作品は非売品ですが、金山平三の作品は500円となかなか“強気”です。会場内を観てまわり、かなり疲れたころにこの2作品を鑑賞することになりますね。「出口近くに展示されてた、田中館博士の絵がよかった」・・・という感想を、当時の資料からいくつか見かけていましたけれど、なるほどこれで納得しました。
金山平三と同じ部屋に、会津八一が片想いしつづけたあこがれの恋人、渡辺ふみ(文)子の作品『食後』も展示されています。会津先生は、入口から会場へ入ったあと、ずーっと素通りして真っ先に出口近くの第23室へ行ったのではないかと思われます。(^^; そこでたまたま、第21室に展示されていた、同じ町内の彝の作品も目についたのかもしれません。(爆!) 
by ChinchikoPapa (2007-09-04 11:28) 

ChinchikoPapa

Qちゃんさん、ありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2007-09-04 11:29) 

かもめ

 え~と、休息所のところ、あの"ふうげつどう"なんでしょか? 大正5年かぁ。お茶と菓子は何が出てたのか、そっちが気になってしまいました。(笑)
 会場のほとんどは日本画だし、西洋画っていい方にも時代を感じますね。写真の金山さん、今の吉本興行の芸人みたいで、かわいいです。現代に生まれても、きっと多くの人に愛されるキャラだったでしょうね。全体に重苦しい絵画の中で、"夏の内海"の明るいのびやかさが好きです。
by かもめ (2007-09-04 21:37) 

ChinchikoPapa

いつもありがとうございます。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2007-09-04 23:37) 

ChinchikoPapa

はい、確かに「風月堂」と書いてあります。東京カステラとかバームクーヘンと、お茶でも出していたものでしょうか。わたしは、文明堂のカステラだったらかなり惹かれますけれど・・・。(^^;
展覧会のこういうところで、うっかり満谷国四郎が休んでいますと、風月堂の番頭さんか小使いさんにやっぱり間違えられて、「おーい、お茶にドラ焼き」・・・とか言われてしまうんでしょうね。(笑)
『夏の内海』の遠景は、まだはっきりと描かれていますけれど、だんだん風景画の遠景がボヤケてくるのは表現法の推移や変化ではなく、「だって、近眼が進んで遠くがよく見えんのじゃ!」というのも、金山じいちゃんならではの言い草です。(笑)
by ChinchikoPapa (2007-09-04 23:38) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-02-01 13:58) 

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