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「森たさんのトナリ」の空はやっぱりどんより。 [気になる下落合]

 佐伯祐三が描いた『下落合風景』Click!のカラー画像が、新たに1点見つかった。1926年(大正15)10月10日(日)に、小雨模様の中で描かれたとみられる「森たさんのトナリ」Click!のカラー画像が残っていた。朝日新聞社版『全画集』でも講談社版の『全画集』でも、本作はモノクロのみで掲載されていたので、とうに戦災などで失われたものとばかり思っていた。ところが、1991年現在に本作はポジフィルムに複写されて、カラー画像が残されている。
 掲載されていたのは、展覧会の図録でも画集でもない。講談社カルチャーブックス27巻、朝日晃が監修した『佐伯祐三 絵と生涯 ~パリに燃えつきた天才画家の芸術~』(1991年)だ。同時に、『絵馬堂』(1926年現在のタイトルは『堂』)のカラー写真も掲載されているが、こちらは「行方不明」とされているので、カラー画像が撮られたのは1991年のことではない。『絵馬堂』については、また後日、新しい発見もあるので改めて記事にしてみたい。
 下落合630番地あたりを描いたとみられる、「森たさんのトナリ」を詳しく観てみよう。1926年(大正15)の10月10日は、東京気象台の記録によれば小雨となっているが、モノクロ画像でしかうかがい知れなかった空模様をカラーで観ると、やはりどんよりとした雨雲に覆われているのがわかる。手前に見える白い垣根のようなものが、カラー画像ではより強調されているような印象を受ける。
 
 現在は、聖母大学の学生寮と付属のテニスコートになっているあたりの敷地だが、1926年(大正15)当時はちょっとした原っぱの空地だったとみられる。昭和初期になって、1936年に撮影された空中写真を確認すると、この敷地には大きな西洋館らしい白い建物が建ていられている。だが、この作品を観るかぎり、原っぱの右手(南側)にはすでに住宅など、なんらかの建物が存在していたように見える。草地を横切る道のような筋が、画面の右手から左手にかけて描かれているが、もともと空地を横切る“近道”でもあったのだろうか。それとも、右手に建っていた家の北面へと通う小路だろうか。1926年(大正15)の「下落合事情明細図」には、この空地全面に草地記号が記入されていて採録されていないが、前年の1925年(大正14)制作と思われる「出前地図」には、空地の南側に小さな家が2軒あったことが収録されている。
 モノクロ画像でもことさら暗い絵と感じたけれど、色がついてもその印象は変わらない。10月7日(木)に描かれた、制作メモClick!によれば「松の木のある風景(○○が畑/細道)」の日も、気象台の記録は曇天となっているので、この数日間は低気圧が通過していたのだろう。ひょっとすると、遅めにやってきた台風の影響かもしれない。
 
 本作のカラー画像を観ると、佐伯の構図の取り方や建物の描き方から、やはり左手の2階屋が里見勝蔵の借家のように思われる。佐伯の美術学校時代の恩師である森田亀之助Click!の自宅は、画面のさらに左枠外にあるはずだ。この2軒の家屋の向こう側(東側)には、南北に入る路地があり、それが森田邸の南側の入口へと通じている。また、描画ポイントの背後には、やはり南北に走る道(現在の聖母坂の原型となった細道)があり、いくつかの角を曲がると佐伯アトリエにたどりつける。佐伯アトリエと森田邸は、直接距離でわずか100mとちょっとしか離れていない。
 この「森たさんのトナリ」(20号)には、絵具が盛りあがった佐伯お得意の厚塗りがあまり見られない。下の絵具がまったく乾かないうちに、上からどんどん薄めに塗り重ねられており、サッと描いてパッと引き上げたような印象を強く受ける。時間的にも、きわめて短時間で仕上げられたのだろう。佐伯が公言Click!するように、20号を「そうやな四十分ぐらいやろな」ということなのかもしれない。
 佐伯がイーゼルをたたんで、大急ぎで里見邸の西に拡がる空地を引き上げたのは、途中から雨が降り出したからではないだろうか?

■写真上:1926年10月10日(日)の小雨模様の中で描かれた、佐伯祐三「森たさんのトナリ」。
■写真中:同作の部分拡大。は草原で、は住宅の一部。
■写真下は、「下落合事情明細図」(1926年)の森田邸周辺。は、前年の1925年(大正14)制作とみられる「出前地図」。森田亀之助は、いまだ下落合へ引っ越してきていないようだ。


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ChinchikoPapa

ある方から、ご指摘をいただきました。
「出前地図」で、草原のほうへはみ出しているように見える2軒の家(塚原家/生駒家)ですが、そもそもこの2軒の間に少し幅広の路地が通い、森田亀之助邸へとつづいていた・・・と解釈することが可能です。周囲の山田家や三上家などと合せて考えると、確かにそう解釈したほうが自然なように思います。「出前地図」は、かなりいい加減な描き方をしていて、距離感などもメチャクチャなようです。「下落合事情明細図」に見る森田家などの家々は採録されておらず、空地の広さが極端に狭く描かれているようですね。
ということは、「出前地図」(1924年)でも「事情明細図」(1926年)でも、空地原っぱのなんらかの構造物は、採録されていない・・・ということになります。
by ChinchikoPapa (2007-09-06 15:23) 

ChinchikoPapa

takagakiさん、ありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2007-09-06 15:23) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2010-04-05 11:03) 

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