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古屋版『レムブラント』とその周辺の画家たち。 [気になる下落合]

 

 1921年(大正10)に出版された、詩人エミール・ベルハーレン著の『レムブラント』(古屋芳雄訳/岩波書店)は、古い著作にもかかわらずわずか1,000円台で入手できた。詩人の翻訳本ということで、全ページがレンブラント論かと思っていたら、約半分のページが良質な光沢紙を使ってレンブラントの代表作品画集となっている。当時としては、小版ながらかなり貴重な本だったのだろう。巻頭には、カラーグラビアで1660年ごろに描かれたレンブラント『自画像』が掲載されている。(上掲作品) ページ上部に金箔がほどこされた本書は、定価は2円50銭とかなり高価だ。大正中期だったら、カレーライス(7~10銭)が30皿ほども食べられただろう。
 フランス語の原著のドイツ語版(シュテファン・ツワイグ訳)をもとに翻訳したのは、大正末より下落合に住んでいた古屋芳雄Click!だ。本書が出版された1921年(大正10)ごろ、古屋は下落合2113番地ではなく、いまの雑司ヶ谷霊園の付近、雑司谷亀原63番地に住んでいた。このあと、ほどなく下落合に自宅を建てて引っ越しているようだ。本訳は、ものたがひさんのご教示によれば「白樺」への連載中(1917年8月~1918年4月)から、肖像画においてはレンブラントの影響が顕著な中村彝Click!をはじめ、下落合界隈に住んだ数多くの画家たちが目を通していたはずだ。ほんの一時期の通過点にすぎないけれど、レンブラント風の自画像を描いていた学生時代の佐伯祐三Click!も、おそらく読んだだろう。デューラー好きの岸田劉生Click!でさえ、古屋の『レムブラント』を手にしたのかもしれない。古屋は、本書の冒頭でこう書いている。
  
 (前略)私には此書を翻訳して私たちの国の芸術の愛好者たちに贈りたいといふ希望が燃えてゐる。それはレムブラント其人の芸術に対する私の無限の崇拝から来て居るのである。すなはち私は、多くの偉大なる画家のうちでも、特に彼の真面目がより多く、より正当に世に理解せらるゝことを望む特別の理由を持つて居る。このことは文芸家としてのゲエテ、音楽家としてのベエトーベン等に就いても言へる。私は、実際彼等の面目がモダーンの多くの芸術家の友に、血と成り肉となるが如き状態に於て理解せらるゝ為めには、何んな労力をも惜しみたくないと思ふのである。
                                             (同書「小序」より)
  
 
 非常にていねいな装丁と良質な用紙が使われていて、出版から90年近くがたっているにもかかわらず、本書は本文ページがやや黄ばんでいるのを除けば、ほとんど褪せてはいない。昭和初期に出版された本の多くが、色褪せがいちじるしくポロポロなのに比べ、大正期の書籍はとてもていねいに作られている。昭和に入ると、それだけ本の大衆化や低コスト化が進んだということなのだろう。大正期の読書人は、それほど多くなかったにちがいない。
 レンブラントとルノワールの表現に強く共感し、北欧ルネッサンスの画家たちにはきわめて批判的だった中村彝は、死後の1926年(大正15)に出版された『芸術の無限感』(岩波書店)の中で、こんなことを書いている。
  
 レンブラントの芸術が、デュラーやホルバイン芸術に比して遥かに生命感が強く、無形なるものゝ不思議な威力が旺溢して居るのは、つまり彼が前に述べた様な、生命の権威ある応顕の作用を現実の上に視ることを知つて居たからである。
 デュラーやホルバインの芸術が、あれ程の鋭い洞察と深い静観とに拘らず、遂に現実の上に心霊の飛躍を視ることが出来なかつた理由は、つまり彼等の魂が知識と物質とに縄はられて、その活顕の力を失つて居たからである。  (同書「無形を見る眼」より)
  
 彝が否定するデューラーやエイクの影響を受けた、岸田劉生Click!ら草土社の仕事を意識した、これみよがしの批判なのだろう。
 
 この時期、新宿中村屋裏のアトリエで、彝は夜っぴいて岸田劉生と論争し、終電がなくなった劉生をアトリエへ泊めたりもしている。ふつう人と人が争ったりすると、かえってその違いを双方が深く認識し合い、逆に親しく交流することがある。江戸っ子同士では、そんなことも多いのだけれど、気短かでガンコな江戸っ子の劉生と、強情な水戸っぽの彝とでは、さすがにいかんともしがたかったのだろう。劉生に殴られなかっただけでも、彝はめっけもんClick!かもしれない。そのすぐあと、劉生は友人から「中村は結核なんだぞ。泊まって君にうつったらどうする?」と忠告され、以降、泊りがけの論争はしていないようだ。
 わたしは、彝のレンブラント風の作品と、劉生のデューラー風の作品とを比べると、そのどちらにも次元の異なる“生命感”はあると思うのだが、その後の表現推移を含めると、どちらかといえば偏屈な劉生のほうが好きだ。自己の表現や好みとは対極にある創造物・成果物を、人は往々にして必要以上に過小評価したり、否定したりしがちだ。それが、ある時期にもっとも意識しあうライバル同士の関係がからんでいた場合は、なおさらなのだろう。
 
 中村彝や岸田劉生が、もし50歳まで生きていたとしたら、はたしてレンブラントやデューラーのことを、どのように評価していたのだろうか?

■写真上は、本書の巻頭グラビアに掲載されているレンブラント(1606~1669)が描いた『自画像』で、1660年ごろの作品と思われる。は、『レムブラント』を翻訳した旧・古屋芳雄邸あたり。
■写真中上は、中村彝の『自画像』(1909年・明治42)。は同『自画像』(1916年・大正5)。
■写真中下は、佐伯祐三が1922年(大正10)ごろ描いたとみられる『自画像』。は、1924年(大正13)にフランスで描かれた同『立てる自画像(パレットを持てる自画像)』。何点かバリエーションが存在するようだが、これは山本發次郎コレクションの1作で、戦災により焼失したと思われる。
■写真下は、中村彝には酷評されつづけた、岸田劉生のデューラー風『麗子五歳之像』(1918年・大正7)。は、1929年(昭和4)ごろに撮影された、15歳でおめかしの岸田麗子。


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ChinchikoPapa

いつもご評価をいただき、ありがとうございます。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2007-10-05 10:54) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2010-06-30 11:50) 

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