下落合を描いた画家たち・三代豊国/二代広重。 [気になる下落合]
下落合を描いた絵には、江戸期の浮世絵もいくつか残っている。安藤広重の『名所江戸百景』には、第116景に「高田姿見のはし俤の橋砂利場」が描かれ、正面に描かれている小高い丘Click!が下落合の丸山(御留山)あたりだ。だが、この作品は下落合を描いたというにはやや遠すぎる。蛍狩りの名所となった下落合のエリアへ、実際に足を踏み入れて描かれたのが、1864年(元治元)の三代豊国(歌川国貞=本人は二代豊国を自称)と二代広重の合作による、『書画五十三次・江戸自慢三十六興(景)』のうち、第30景の「落合ほたる」だ。
浮世絵も幕末に近づくにつれ、ひとりの絵師がすべてを描くという手法ばかりでなく、人物が得意な絵師と風景が得意な絵師とのコラボレーションによる、合作の手法が多く見られるようになる。『江戸自慢三十六興』の連作もそのひとつで、人物を三代豊国が、風景を二代広重が担当している。安藤広重(初代)もそうだが、風景画には抜群の才能を発揮したものの、人物の大写しにはイマイチこれといった作品が見当たらない。同じ工房の二代広重も、風景画はお手のものだったろうが、人物の大絵には二の足を踏んだのではないか。また、版元にしてみれば、高名な絵師の合作として売り出したほうが話題性があり、評判も高まるとの読みもあったのだろう。
さて、「落合ほたる」に描かれた情景を見ると、正面に見えているのは間違いなく目白崖線の丘だ。手前を川が流れ、左手には質素な橋の欄干が描かれている。下落合のバッケ(目白崖線)下を流れる川は、神田上水(神田川)と妙正寺川のどちらかだ。橋も江戸期には、欄干がありそうなものはふたつしかなく、ひとつが神田上水に架かっていた田嶋橋Click!、もうひとつが妙正寺川に架かっていた西ノ橋(にしのはし)だ。この桃割れ娘に妹と思われる女の子が遊ぶ橋は、はたしてどちらだろうか?
背後の景色をよく観察すると、2箇所に建物らしい描きこみがあるのに気がつく。舞台が夜なので色が載せられておらず、森林の緑や源氏雲に隠されてはっきりとは見えないが、屋根らしい線のかたちが挿入されているようだ。おそらく、いちばん下の版木(刷り)に刻まれた線ではないだろうか。ちなみに、晩年の安藤広重は体力や気力が衰えたのか、遠景の細かな風景描写をすることが少なくなり、この源氏雲の描法を多用している。平たくいえば、細密描写を省略した明らかな手抜きだ。二代広重も、まだ30代と若いくせに晩年の初代に倣ったのか、盛んに源氏雲を多用しているところがいただけない。多い注文をこなすための、やむをえない処理だったのだろうか? この雲がなければ、どこを描いたのかより鮮明にわかっただろうに・・・。また、安藤広重は夜景を描いても、建物の屋根には必ず別の色を載せているけれど、二代広重はそれさえもまま省きがちだったようだ。
画面右手の、山裾のこんもりした森の中に描かれている建物は、おそらく下落合の氷川明神だろう。最初は藤稲荷Click!も疑ったけれど、藤稲荷の建物は御留山の中腹にあり、これほど下のほうに見えたとは思えないからだ。また、画面左手の山の中腹にも、なんらかの建物を描いたらしいかたちが見えている。こちらは、現実の地形とはやや合わず不自然な気もするが、方角や崖の落ちこみ方を考慮すると、久七坂の尾根筋近くの薬王院ではないか。ちょうど、師匠である安藤広重が描いた「高田姿見のはし俤の橋砂利場」の御留山を、まったく逆方向から眺めた構図となる。ひょっとすると二代広重は、師匠の作品とその構図を強く意識していたのかもしれない。
氷川明神と薬王院が、このような関係の見え方をする描画ポイントは田嶋橋ではありえない。ふたりが蛍狩りをしながら遊ぶ橋は、神田上水ではなく妙正寺川の西ノ橋ということになる。しかも、ちょうどふたつの川筋が落ち合う、地名の発祥地となった“三角洲”あたりだ。現在の西(ノ)橋は、下落合のすぐ駅前、旧・ホテル山楽へと向かう道筋にあるが、妙正寺川の整流化やコンクリートの護岸工事が行われたあとも、ほとんど元の位置を動いてはいない。
『江戸自慢三十六興(景)』は、三代豊国と二代広重の晩年作といってもいい時期に描かれている。多作で駄作が多いといわれる三代豊国(歌川国貞)は、この作品が描かれた1864年(元治元)の暮れに79歳で没している。また、二代広重は作品からわずか5年後の1869年(明治2)に、まだ43歳の若さで急死している。
■写真上:左は、1864年(元治元)に三代豊国と二代広重によって描かれた、『書画五十三次・江戸自慢三十六興(景)』第30景「落合ほたる」。右は、妙正寺川に架かる現在の西(ノ)橋。高いマンションが建ち崖線が見えず、御留山はいまや下落合駅のホームClick!に立たなければ望めない。
■写真中:背景の目白崖線クローズアップ。左が氷川明神、右が薬王院と思われる描きこみ。
■写真下:上は、幕末に中野の大名主で触次役の堀江家が作成した「下落合村絵図」より。下は、1910年(明治43)の「早稲田・新井1/10,000地形図」より。
Qちゃんさん、ご評価いただきありがとうございます。
by ChinchikoPapa (2007-10-12 18:40)
一真さん、nice!をいただきありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2007-10-12 18:41)
「めんどくせぇ はしょってまえ」ってぇわけではないでしょうが、ぼかしは重宝な表現ですよ。多用すると、しまりの無い絵になってしまいますけど。
デッサンで柔らかい表現に悩んでいた頃、師匠から藤田嗣治のデッサンを見せられました。以後、ぼかしまくりまして、紙がぼろぼろに。 (^-^ヾ
橋に欄干がなかったんですか。じゃあ、暗い夜道では橋から落ちる人なんかもいたかな。着物や手提げの重箱からすると芸妓さんでしょうかね。
by かもめ (2007-10-13 10:37)
あっ、重箱じゃなくて虫籠、ホタル籠というものなのか。脚付きのきれいな細工もの。工芸展でみたような。(食いしん坊がばれた)
by かもめ (2007-10-13 10:42)
かもめさん、コメントをありがとうございます。
安藤広重の最晩年作に『名所江戸百景』119景があるのですが、『東海道』とともに広重人気の双璧であり、わたしも大好きなシリーズではあるものの、最盛期の作品に比べたら源氏雲をやたらめったら使いまくり大会で、実は作品の描画的な質の面から観れば、往年の表現からは見る影もないほど粗雑で、いい加減なものになってますね。つづかなくなった根気を、そのぶん構図の斬新さや、視座の意外性で補っていたんじゃないかと思います。やはり、年を取ってからの細かな描き込みは、体力気力ともにきつかったんでしょうね。
江戸期に欄干のない小さな橋は、単に「土橋」とか「木橋」と呼ばれて、正式な橋名は付けられないことも多かったようです。それが近くに複数存在する場合には、「○○土橋」というように付近の地名を付けたようですね。ごく狭い町内や村内で造作した「私的」な橋だったり、小川や灌漑用水に架かる農作業用に造られた小さな橋だと、絵図(地図)にも採集されなかったりもしたみたいです。高田の姿見橋(俤橋)は、大きな橋だったにもかかわらず、絵で見る限り欄干がありませんので、おそらく落ちた人はいたでしょう。欄干があるのに、ごく最近まで酔っ払って神田川へ落ち、亡くなっている方もいるくらいですから。(汗)
わたしも、最初は遊女か芸者だと思ったのですが、髪が桃割れに結われているのと櫛笄簪のデザインから、振袖姿のちょっとふけた娘(^^;と妹・・・という想定をしてみたのですが。
by ChinchikoPapa (2007-10-13 12:22)