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江戸幕府を鎌倉幕府へ仕立てなおし。 [気になるエトセトラ]

 江戸芝居の世話物や白浪物には、鎌倉が頻繁に登場する。いや、鎌倉ばかりでなく江ノ島や藤沢、大磯、小田原などの地名もよく表れる。舞台を鎌倉に設定するのは、幕府からの上演禁止をまぬがれるためだった。当時の歌舞伎は、体制への批判や皮肉、揶揄を多く含む筋立てが喜ばれたが、江戸幕府そのものを直接的には描けなかったので、時代を一気に500年ほどさかのぼらせて、鎌倉幕府の時代に背景を設定する。でも、役者の衣装や舞台の書割(背景画)は、どう見ても江戸の街や風景なので、町奉行所は常に目を光らせていた。
 幕政批判が目にあまると、さっそく芝居小屋を管轄する町名主(芝居小屋の数から3~4名の場合が多い)が町奉行所へと呼ばれ、台本の書き直しや部分削除、最悪の場合は上演禁止の通達を受けた。町名主たちは奉行所からもどると、さっそく座元(座長)や主だった役者、そして立作者(脚本家チームの代表)を集めて通達を伝えることになる。上演禁止になったら小屋が大打撃を受けるので、作者はレッドカードを避けるために四苦八苦するのだけれど、いちばん手っとり早いのが「これは現在の大江戸(おえど)のお話ではなく、遠い昔の鎌倉のお話」・・・と、空っとぼけてしまうことだった。でも、そのごまかしもすぐに通用しなくなってしまうのだが・・・。
 
 黙阿弥が書いた芝居に、『船打込橋間白浪(ふねへうちこむ・はしまのしらなみ)』(通称「鋳掛け松」)がある。貧乏な鋳掛屋の松五郎は、滑川(なめりがわ)にかかる花水橋の上から、おカネ持ちが遊女たちとたわむれる遊覧船を見て、「あゝあれも一生これも一生、こいつぁ宗旨を変えにゃならね~」と、橋上から鋳掛道具をさっさと川へ放りこみ、いきなり白浪(泥棒)になる決心をする。鎌倉の市街地を流れる滑川は、もちろん大江戸の中心を流れる大川(隅田川)、花水橋は大橋(両国橋)に見立てている。ちなみに、花水橋は大磯と平塚の間を流れる、花水川(途中から金目川)にかかる橋名。湘南サーファーには知られる、河口にハナミズポイントのある川だ。
 同じ黙阿弥の作品に、「鋳掛け松」以前に書かれた『小袖曾我薊色縫(こそでそが・あざみのいろぬい)』(通称「十六夜清心」)がある。こちらは、極楽寺の所化(修行僧)の清心が、稲瀬川の遊山舟を見て、「超バカバカしくって、マジやってらんね~」と白浪になる決心をする。こちらは、幕府の御金蔵破りの描写があったので(事実、千代田城の金蔵が破られる事件があった)、公演中止に追いこまれている。後年書かれた「鋳掛け松」では、レッドカードが出ないよう、黙阿弥はずいぶんと筆運びに腐心しているようだ。
 河竹黙阿弥は、1816年(文化13)に日本橋通二丁目(式部小路)で生まれた。ちょうど、日本橋高島屋のある1本北側の道だ。近くに、幕府の御殿医だった式部少輔の屋敷があったのでこう呼ばれたのだろう。実家は、湯屋(銭湯)の株を売買する仲買人、のちに芝の金杉で質屋を経営していたようなので、比較的裕福だった。14~5歳のころ、放蕩や道楽にあけくれた黙阿弥は、親類預かりとなり家から追放されてしまう。それから5年、作者見習いとして市村座へ勤務する20歳まで、黙阿弥は遊びと道楽の好きな読書Click!に暮れる毎日だったらしい。この5年間に経験したことや、巷間で見聞きしたことがすべて、のちの黙阿弥作品の肥やしとなったようだ。
 
 黙阿弥の作品へ頻繁に登場する鎌倉だが、彼は江戸期に鎌倉を実際に訪れていたかどうかは、ちょっと怪しい。相模(神奈川県)の絵図(地図)を見ながら、好みの地名や川名、寺社名をピックアップしていた可能性が高い。もっとも、大江戸の身代わりの鎌倉なのだから、それでよかったのかもしれないが・・・。有名な『青砥稿花紅彩画(あおとぞうし・はなのにしきえ)』(通称「白浪五人男」)には、5人の白浪が勢ぞろいする「稲瀬川の場」がある。鎌倉の地元では「いなのせがわ」だけれど、江戸東京の芝居では昔から「いなせがわ」と呼ばれている。黙阿弥は、絵図の川を見ながら字面の「いなせ」という音に惹かれ、この川の土手に五人男を勢ぞろいさせたのだろう。もちろん、彼の頭の中には大川土手(墨田堤)Click!が描かれており、舞台の書割はいかにも大川橋(吾妻橋)あたりの風情に演出されている。でも、実際の稲瀬川は、土手などできるはずもない小流れだ。
 同様に、極楽寺の山門へのぼった五人男の首領・日本駄右衛門(にっぽんだえもん)が、青砥藤綱とのかけあいを演じる芝居の大詰め。舞台の大道具や書割で表現された極楽寺は、まるで上野寛永寺か芝増上寺のような巨刹なのだけれど、実際の極楽寺は鄙びた切通し脇の小寺にすぎない。たまたま、白浪の大詰め舞台として、黙阿弥は「極楽寺」という寺名が気に入っただけなのだろう。別に黙阿弥の作品に限らず、鎌倉を舞台にした芝居の数々を、設定どおり実際の鎌倉に引き写して観ようとすると、アタマが混乱するばかりだ。そこは、ひそかに観客たちが、大江戸の街角を想像しながら観なければならない“お約束”になっていた。
 
 明治維新を迎え、河竹新七(黙阿弥)は芝居作者を引退することになる。これには、1866年(慶応2)に盟友の四代目・市川小団次を失った影響が大きいといわれている。ところが、世間はこの稀代の芝居作者を、ご隠居として放っておいてはくれなかった。黙阿弥が55歳になった1870年(明治3)に、早くも芝居の台本書きへ復帰させられている。せっかく芝居の世界から足を洗ったはずなのに、これでは「元の黙阿弥さ」ということで、このときから“河竹黙阿弥”と名乗るようになった。
 それ以来、1893年(明治26)に脳溢血で死ぬまで、今日の舞台でも頻繁に演じられる人気の江戸歌舞伎を、次々と世に送り出していった。そして、明治以降は舞台の大江戸を、もはや鎌倉に仕立てなおす必要もなくなっていた。

■写真上:鎌倉の主要河川、浄明寺ヶ谷(じょうみょうじがやつ)近くを流れる滑川。
■写真中上は、とても遊山舟など浮かべられない、長谷から由比ヶ浜へと流れくだる稲瀬川。は、大町の市街地を流れる滑川。こちらも、遊覧船を浮かべるのは困難だ。
■写真中下は、1863年(文久3)の尾張屋清七版「八丁堀霊岸島日本橋南絵図」にみる、日本橋通二丁目(式部小路)界隈。は、死ぬ前々年に撮影された1892年(明治25)の河竹黙阿弥。
■写真下は、昭和30年代半ばごろの極楽寺。子供のころ、ほんとうに滑るのかと境内のサルスベリに登り、住職に叱られた憶えがある。は、戦後すぐのころの「白浪五人男」の大詰め極楽寺。日本駄右衛門は二代目・尾上松緑、青砥藤綱は襲名したばかりの三代目・市川左団次。


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ChinchikoPapa

今日の記事にも、ご評価をいただきありがとうございます。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2007-10-20 16:17) 

ChinchikoPapa

Qちゃんさん、いつもお読みいただきありがとうございます。
by ChinchikoPapa (2007-10-20 16:17) 

ChinchikoPapa

わざわざご評価をいただき、ありがとうございす。>一真さん
by ChinchikoPapa (2007-10-20 23:21) 

krause

内容深く興味があるテーマです。これからちょくちょく訪問して、勉強させて頂きます。
by krause (2007-10-21 07:58) 

ChinchikoPapa

Krauseさん、わざわざコメントをありがとうございました。
つれづれ思うに任せて綴っているブログですので、それほど深くはありませんが、これからもよろしくお願いいたします。また、nice!をありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2007-10-21 10:33) 

SILENT

こんにちは 黙阿弥が書いた明治23年新富座で3月に興業の
「名大磯湯場対面」を調べています。松本順は今戸で歌舞伎役者にも公平に診察したという事で役者達にも好かれたようです。
何かわかればと思案中です。
by SILENT (2009-05-25 13:46) 

ChinchikoPapa

SILENTさん、コメントとnice!をありがとうございます。
「名大磯湯場対面」は、親父から「お虎」の話とともに聞いてはいるのですが、実際に芝居を見たことも、台詞集を読んだこともないです。「黙阿弥全集」(春陽堂)の第24巻には、同作のシナリオが収録されているようですね。
早稲田大学の演博データベースには、国貞作の芝居絵が収録されていますが、こちらも常設展示されていませんので見たことがないです。
by ChinchikoPapa (2009-05-25 14:07) 

SILENT

ありがとうございます
早速24巻図書館で取り寄せ中です

by SILENT (2009-05-25 20:21) 

ChinchikoPapa

最近、親父の古い書棚を整理しているのですが、芝居の台詞集や全国の寺社の資料などが出てきて、つい読み始めてしまうと1日が終わってしまいます。古い本や資料類は、なかなか棄てられないですね。
by ChinchikoPapa (2009-05-25 23:03) 

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