SSブログ

行商が通う文化村の「スキー場」。 [気になる下落合]

 

 さて、わたしが気づかずにいて、ある方からモノクロ画像をお送りいただいた「下落合風景」と思われる作品のひとつ。ご指摘を受けて東京近美のライブラリーで見直したところ、朝日新聞社版の『佐伯祐三全画集』の最初のほうに、しっかりとカラー図版で『雪景』として掲載されていた。でも、これはいわゆる佐伯の「下落合風景」シリーズが描かれた1926~27年(大正15~昭和2)の作品ではなく、佐伯が下落合へアトリエを建てた翌年、1922年(大正11)の冬に描かれたものだ。同年の2月には娘の彌智子が産まれているので、佐伯は間違いなく下落合のアトリエにいた。
 気象庁の記録を調べてみると、1922年(大正11)の東京地方の降雪は1月~3月にかけて数えるほどしかなく、暮れには雪が一度も降っていないことがわかる。
 ・1月1日・・・5.7mm
 ・1月9日・・・13.3mm
 ・1月14~16日・・・のべ25.8mm
 ・1月18日・・・8.7mm
 ・2月27日・・・17.6mm
 ・3月7日・・・7.7mm
 以上が、1922年(大正11)の雪日のすべてだ。作品を改めて眺めてみると、屋根に積もった溶けかけの雪のかたまりが見えるなど、ほんのわずかな降雪のようには思えない。もっとも可能性が高い日付は、1月9日の翌日=10日、あるいはかなり降りつづいたあとの1月16日ないしは19日のあとの数日間・・・というのがリアルな制作日付ではないかと思われる。つまり、娘が産まれる約1ヶ月ほど前だ。ほぼ同時期に描かれたとみられる作品に、冬枯れの木立を描いた『目白自宅附近』Click!(1922年・大正11)がある。この作品も、降雪の前後に制作されたのかもしれない。
 佐伯はアトリエにいて、雪景色を描きに外へ出たとすれば、下落合の丘上からそう遠く離れてはいないように思われる。ましてや、この年は臨月を迎えた米子夫人(実家の池田家へもどっていないとすれば)、あるいは仮に産まれたばかりの娘が家にいたことを考慮すると、なおさら遠出をしたとは考えにくい。当時、佐伯がおかれていた家庭の生活環境や、同時期のモチーフの選び方などから類推すると、アトリエ近くの風景である可能性がきわめて高いように思うのだ。
 
 そういう視線で改めてこの作品を見ると、ひとつの描画ポイントが自然に浮かび上がる。この作品を描いてからほぼ5年後の、やはり酷寒の冬日に、佐伯は同じエリアにイーゼルをすえていなかっただろうか。しかも、その日も5年前と同じように雪が積もっていたはずだ。崖上の尾根筋らしいところに、横長の建物が並んでいる。左手にも、小屋の壁面のような影が見える。吹きっさらしの斜面なのか、強風で変形したらしいケヤキのような樹木が中央に生えているが、まだ枝が堅くならない若木のようだ。枝の向きからすると、手前あるいは右手が北で、画面の右手向こうが西側だとすれば、その光の映じ方から午後早い時間に描かれた作品だろう。 
 中央のケヤキの右側には、なにかを担いだ人物らしき影が描かれているように見える。背にしているのは、下落合で採れた野菜類だろうか、それとも角ばっているので家々をまわる行商の商売道具だろうか。この崖上を通って、人物はどうやら佐伯を振り返りながら、南へ向かって歩いていくようだ。景色のところどころに白っぽいハイライトが入っているので、空から薄日が射している情景だろう。ほぼ5年後の1926~27年(大正15~昭和2)の冬、まさに『雪景色』Click!というタイトルで佐伯はこの崖線の下から、横長の家々を仰ぎ見て描いてはいなかっただろうか。
 
 崖上に建ち並ぶ横長の建物は、目白文化村を建設するために箱根土地が建てた、建築用の資材置き場(倉庫)、あるいは作業員の飯場(宿舎)ではないかと想像している。5年後の作品『雪景色』を細かく観察すると、その細長い倉庫のような建物の様子が、さらによくわかる。この建物群の右手(北側)すぐのところには、箱根土地の広大な本社敷地がある。第一文化村の敷地も、これら細長い建物のすぐ背後のところまで伸びてきていたはずだ。また、この斜面は急激に深い谷間へとくだり、急斜面の反対側の丘上には落合尋常小学校Click!が建っていた。そして、落合小学校に接した西側の谷間には、ほどなく第四文化村が造成されることになる。ちなみに、1927年(昭和2)の『雪景色』は、大雪が降った2月13日あるいは2月19日近辺の制作ではないかとにらんでいる。
 雪が降ると、文化村の住人たちはこの急斜面を利用して、スキーや手づくりのソリ遊びを楽しんでいた。その情景は、5年後の下落合風景である『雪景色』にとらえられている。冒頭の作品が描かれた1922年(大正11)当時は、箱根土地が第一文化村をの販売を開始した時期で、第二文化村の造成も翌年の販売を控えて急ピッチで進んでいたころにあたる。ひょっとすると第三文化村の買収も終え、敷地の造成に着手していたかもしれない。佐伯は、文化村の工事現場や、この谷間の風景がよほど気に入っていたものか、何度もこのあたりを訪れていたのだろう。それは、市郎兵衛坂からアビラ村の尾根沿いの道へとつづく、「下落合風景」のスケッチの足跡を見ても、彼がこのあたりを頻繁に往来していたことがうかがえるのだ。

 いま、尾根上の建物群の位置には、拡幅工事が進行中の山手通りが走っている。また、この斜面にはマンションや住宅がぎっしりと建ち並んでいて、当時の面影を想像することはむずかしい。ただ、ときどき建物の建て替えが行われるときなど、ふいにこの「スキー場」の跡が姿を表わすことがある。戦前に撮影された空中写真を見ると、かろうじて佐伯が歩いた当時の様子をしのぶことができる。では、この作品を描画ポイントClick!の一覧に加えてみよう。

■写真上は、1922年(大正11)の佐伯祐三『雪景』。は、現在の「スキー場」跡を山手通りから撮影。すぐ下に2階屋の屋根が見え、いかに急激に落ちこんだ斜面だったのかがわかる。
■写真中上は、1927年(昭和2)ごろに描かれた『雪景色』。ピンクの矢印は、1922年(大正11)の作品の描画方向。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる2作品の描画ポイント。
■写真中下は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」。は、「スキー場」跡を下から見上げたところ。山手通りに面しているので、ビルが林立している。
■写真下:1960年(昭和35)前後、落合第一小学校の校庭から見た「スキー場」の斜面。


読んだ!(6)  コメント(5)  トラックバック(3) 
共通テーマ:地域

読んだ! 6

コメント 5

komekiti

地形はあれども元の景色にはあらずなんですね( > < ;)
本の件御回答頂きありがとうございます。
探してみます。
最近の乱読がたたって、購入したはずの津本陽の本が
積み上げてある本のどこかに紛れてしまいました。( > < ;)
ちゃんと整理しないといけないですね。
しかし、大正時代の降雪記録があるなんて・・・。
整理整頓と記録は重要ですね。
by komekiti (2007-11-21 14:30) 

ChinchikoPapa

Krauseさん、いつもお読みいただきありがとうございます。
by ChinchikoPapa (2007-11-21 19:03) 

ChinchikoPapa

わたしも、本はおろかサイト用の資料類がうまく整理できずに、行方不明のものがたくさんあります。(汗) なくしてはいませんので、きっとどこかに埋もれているのだと思うのですが、一度大整理をしないと収拾がつかなくなりそうです。
いっそのこと、画像データベースでもつくって、片っぱしから登録していこうか・・・とも思うのですが、その膨大な入力量と「ひもつけ」作業に、すぐにも気持ちが萎えてしまいますね。(^^;
nice!をありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2007-11-21 19:07) 

ChinchikoPapa

一真さん、またまたnice!をありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2007-11-21 19:08) 

ChinchikoPapa

takagakiさん、ご評価くださりありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2007-11-22 14:30) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 3

トラックバックの受付は締め切りました