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松下春雄の「下落合風景」は悩ましい。(4) [気になる下落合]

 

 大正末から昭和初期にかけて、下落合界隈を連続的に描いた洋画家・松下春雄Click!の作品には、『下落合文化村』とタイトルされた絵がいくつか残っている。その中で、すぐにもピンときて描画ポイントが特定できる作品もあるが、いくらじっくり眺めてもどこを描いたのかわからない作品もある。それは、松下が「文化村」と考えていたエリアが、本来の目白文化村を外れ、その周辺も広く含まれているのではないか?・・・という疑問を、先の記事Click!で書いた。
 上の作品は、1927年(昭和2)ごろに描かれた『下落合文化村』と題する作品だ。以前の水道タンクと同様に、この作品もすぐにどこを描いた情景なのかが特定できる。正面に見えている大きな建物は、1927年つまりこの絵と同年の4月に落成した(落成する?)、落合尋常小学校(現・落合第一小学校)の昭和新校舎Click!だ。この校舎は空襲にも焼けず、戦後もずっと使われつづけたので、実際に目にされた方も多いだろう。校舎の写真Click!も、たくさん残っている。
 “Г”状に建てられた落合小学校の校舎を、西北側から、つまり箱根土地本社(描かれた時点では中央生命保険倶楽部)側の庭園あたりから眺めた情景だろう。だから、ちょうど第一文化村を外れたところから、いまだ住宅が建設されない第四文化村の敷地あたりの風景ということになる。この新校舎は、佐伯祐三が二度と帰国できない第2次渡仏の4ヶ月前に完成しているので、彼も頻繁に目撃していたにちがいない。おそらく、佐伯の『下落合風景』シリーズClick!の、行方不明となっている「小学生」Click!に、完成間近な同校舎が描かれていると想像している。
 正面の校舎と庭園との間には、画面を左右に横切る小路が通っており、左から右へ下り坂になっているはずだ。その坂の両側が、第四文化村の敷地として大谷石の築垣で整備されていた。でも、第四文化村は販売を終えていたものの、実際に家々が建てられるのは、もう少し時代がくだってからのことだ。画面の右枠外には、第一文化村の湧水源である弁天池から流れ出し、旧・箱根土地の庭園(不動園)にあった池を経て流れる、小川が通う谷間が口を開けている。前回ご紹介した、『五月野茨を摘む』に描かれた、画面の左手に見えている深い谷間がそれだ。佐伯が描いた、文化村の「スキー場」Click!の急斜面がある谷間でもある。
 
 モノクロの画像で、はっきりとはわからないけれど、手前にはやはり花を摘んでいるらしい少女たちの姿が見え、野バラのような花が咲いているところをみると、季節はやはり4~5月なのかもしれない。一時期、文化村の尾根筋に沿った風景を描きつづけた佐伯祐三は、少女のいる背後のあたりを何度も往復していただろう。松下春雄がこのあたりをスケッチしているとき、佐伯がキャンバスを手に実はウロウロClick!していなかっただろうか。お互い、顔をあわせて目礼ぐらいはしただろうか?
 もうひとつの『下落合文化村』は、1927年(昭和2)に描かれたもの。これは、モノクロの画面とあいまってちょっとわかりにくい。目白文化村の内部に、このような風景や地形に見えるところは存在しない。最初は、弁天池のあった前谷戸の谷間かと疑ったけれど、谷の深度が合わない。だから、文化村の外部から文化村方面を眺めたところではないかと考えた。文化村の近くでこれだけ深い谷間、しかも文化村の家並みがほとんど見えない位置となると、わたしの想定では1ヶ所しかない。会津八一の秋艸堂があった、いまでは霞坂と呼ばれる斜面の谷底から、第四文化村そして箱根土地本社(第一文化村)の方面を眺めた風景だ。
 正面の尾根上の左右には現在、山手通りが貫通している。佐伯の描いた「スキー場」は画面の左手、さらにその左には市郎兵衛坂が通う小さな丘に、第一文化村の水道タンクから第二文化村へと通う道があるはずだ。したがって、右手の崖上に描かれている建物は、完成したばかりの落合小学校の講堂ということになる。この直後、講堂の崖下はほぼ垂直に造成しなおされ、文化村の町会である「廿日会(二十日会)」が学校プールを建設、寄進することになる。
 
 ただし、この2作品には気になる点もある。落合小学校の校舎を描いたほうの作品では、この視点からすると校舎の右手に、講堂の姿が少し見えていなければならない。1927年(昭和2)の花咲くころには、すでに講堂も完成していたはずだ。また、秋艸堂の谷間を描いた作品のほうでは、手前の地面に小川の流れのような描写がなされている。講堂がこの角度で見える位置に、「不動園」から流れ出た渓流が、このようには見えていなかったはずだ。
 それら実景と作品との齟齬が、ひょっとすると松下独自の創作、画面の再構成なのかもしれない。

■写真上は、1927年(昭和2)ごろに描かれた松下春雄『下落合文化村』。は、昭和30年代の落合小学校の旧校舎。ちょうど松下が描いた校舎の反対側、校庭から眺めたところ。
■写真中は、1927年(昭和2)に描かれた『下落合文化村』。は、現在の谷間の状況。奧へとつづく細い路地は、暗渠化された渓流のあった道筋。
■写真下は、「下落合事情明細図」(1926年)にみる描画ポイント。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画ポイント。第四文化村に、ようやく家々が建ちはじめているのが見える。


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コメント 5

ChinchikoPapa

はじめまして、ご評価いただきありがとうございます。>「金持ち母さん」さん
by ChinchikoPapa (2007-12-13 18:35) 

ChinchikoPapa

いつもお読みいただき、ありがとうございます。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2007-12-13 18:37) 

ChinchikoPapa

いつもnice!をいただき、ありがとうございます。>一真さん
by ChinchikoPapa (2007-12-13 18:39) 

ChinchikoPapa

わたしも近々、下落合のクリスマスイルミネーション巡りを掲載する予定です。nice!をありがとうございました。>komekitiさん
by ChinchikoPapa (2007-12-13 18:41) 

ChinchikoPapa

東京の「看板娘」は、イヌよりもネコのほうが多いような気がします。
nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2007-12-13 18:43) 

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