旧・池田邸をカラー写真で観察する。 [気になる下落合]
佐伯祐三Click!が、目白崖線(バッケ)の丘上から描いたとみられる池田邸Click!を、ほぼ同じ丘上から撮影した貴重なカラー写真が残っている。谷間のユリさんが、わざわざ探し出してくださった。わたしは、記事内では一貫して「池田邸」と書いているけれど、戦後は大きな洋風建築なので米軍に接収され、長い間、軍属の住まいとなっていたようだ。戦後はずっと、旧・池田邸には外国人が住んでいたという証言を、谷間のユリさんからいただいた。
1970年前後に撮られたとみられるカラー写真を詳細に観察してみると、屋根はかなりくすんだエンジ色(おそらくもともとは赤色)で、外壁はベージュに塗られているのがわかる。1964年(昭和39)ごろに撮影されたとみられる空中写真には、東側にウィングが伸びたようなかたちをした、旧・池田邸の姿を確認することができる。この建物のフォルムは1947年(昭和22)、ちょうど米軍に接収されたころに撮られた空中写真とも一致している。
また、東京オリンピックが開かれた1964年(昭和39)に、目白崖線の下から撮影された同邸の写真も残っている。ちょうどこの年に発見された、下落合横穴古墳群Click!の発掘調査の際に、調査団によって撮られたものだ。空中から撮られた写真とも、もちろん家の形状は一致している。
ところが、1936年(昭和11)に陸軍が撮影した写真とは、家のかたちがどうやら異なっているのだ。久七坂沿いに車寄せがあり、池田邸が東西に伸びているのは同じなのだけれど、洋館(?)と東側に伸びたウィング(母屋?)とが分離しているように見える。東側の相対的に低い建物の形状は、戦後に撮られた写真の建物と同じようなデザインに見えるが、西側の洋館(?)の形状がかなり異なっている印象を受ける。ひょっとすると、大正期から太平洋戦争がはじまる直前ぐらいまでの間に1回、ないしは複数回にわたって建て替えあるいは増改築が行われているのではないか?
谷間のユリさんの貴重なカラーの池田邸は、レンズを南側へ向けて大きな洋館部を写したものだが、佐伯が描く崖線のすぐ下あたりの邸のかたちと、建物のかたちがまるで一致していない。作品画面の左手に見えている、小さな家々の眺望らしい表現を考慮すると、池田邸の東側に分離していた、洋館に比べて相対的に低い建物を描いたとも解釈できる。この低い建物が、大正期には屋根に鴟尾(しび)が載るような和館(母屋?)に近い風情で、のちに西側の位置へ洋館を建てたか、あるいは洋館を建ててたあと、さらに和館とつなげる増改築をしたのではないだろうか?
わたしが、この「下落合風景」Click!において、なぜ久七坂の池田邸にこだわるのかというと、このような手前に道路あるいは空き地のようなスペースがあり、バッケ(崖線)から大きく一段低く下がったところ、つまり丘の中腹に巨大なお屋敷のある風情は、旧・下落合地域広しといえども池田邸ぐらいしか見あたらないからだ。大正時代に建てられた大きな屋敷は、たいていバッケの上、つまり尾根筋にできた平地に建てられることが圧倒的に多く、バッケをおそらく垂直に切り取ったであろう“二段め”に建てられているのは、次の昭和時代に入ればそこかしこで見られるようになるけれど、佐伯が描いた時代には非常にまれでめずらしいケースだからだ。
戦前のある時期、あるいは戦後すぐのころかもしれないが、この池田邸の上は住宅地として開発され、尾根上が丸ごと平らに削られているものと思われる。したがって、尾根筋から眺める池田邸は、2階上部から屋根あたりだったものが、戦後の写真で見るように1階部までが眺められるようになった・・・、そんな想定もすることができる。
谷間のユリさんのお家は、江戸幕府が開かれるかなり以前、ひょっとすると鎌倉街道(サイトの記事では旧・下落合の東部は雑司ヶ谷道、西部は中ノ道と地元の呼称で表現している)が通い、いまは井上哲学堂Click!が建っているバッケ上(和田山)に、鎌倉幕府の有力御家人である和田氏が城をかまえたころから代々、下落合に住まわれつづけているのかもしれない、地元では最古参の元祖・下落合人だ。昔日の下落合界隈を撮影した写真が数多く残っていたそうだが、火災に遭われてアルバムを焼失されているのがなんとも残念でならない。
たいへん貴重な写真の数々を、ほんとうにありがとうございました。>谷間のユリさん
■写真上:左は、1970年(昭和45)前後に撮影された、久七坂沿いのバッケ斜面に建つ旧・池田邸の洋館部。右は、1970年代半ばに丘上から南の新宿西口方面を眺めたところ。
■写真中上:左は、1964年(昭和39)に新宿区が上空から撮影した旧・池田邸。右は、同時期に目白崖線の下から撮影された同邸。当時はまだ、十三間通り(新目白通り)は存在しなかった。
■写真中下:左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる池田邸。右は、1926年(大正15)に描かれた佐伯祐三『下落合風景』。制作メモClick!に残された“タイトル”は「見下し」か?
■写真下:1960年代の池田邸。井戸水を活用していたのか、小型の水道タンクが見えている。
Krauseさん、nice!をありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2008-02-17 18:15)
異なる木材同士にも、昔から相性があるのですね。
nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-02-17 18:16)
わたしもチラチラ、つい見てしまうそうです。(笑)
nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-02-17 18:19)
昔、庭になっていた柘榴を親がよく「収穫」してくれたのですが、食べるのが苦手でしたね。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-02-17 18:37)
nazelさん、nice!をありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2008-02-17 18:40)
「池田邸」は、今の目白シティハウスのあたりでしょうか? 庭付きのめちゃくちゃ広い家ですよね。僕が昔の風景(昭和3.40年頃)が好きなのは、こういう広い庭があり、なんとなく余裕が感じられるところが好きだからなのでしょうか。
今現在、その場所はどうなっているのでしょう? 気になります。どうせ、狭い家がギスギス建っているんでしょうけど(笑)
by ももなーお (2008-02-20 15:45)
ももなーおさん、コメントをありがとうございます。
久七坂筋の旧・池田邸は、現在の「エンブレム下落合」の建っている敷地全域です。このマンションが建つ前までは、自民党の政治家・河本敏夫の大きなお屋敷が建っていました。確か亡くなってからほどなく、邸は解体されてマンションになったと記憶しています。
七曲坂筋の「目白シティハウス」は、ミツワ石鹸の3代目・三輪善太郎邸跡です。わたしの学生時代から建っている古いマンションですが、建物高が低く周囲の風情ともよく調和して、住みやすそうな雰囲気ですね。中へお招きいただいたことがあるのですが、スタンダードで落ち着いたデザインのいいマンションだと思いました。
by ChinchikoPapa (2008-02-20 16:59)
ミツワ石鹸の話は聞いたことがあります。10年くらい前まで、今の目白御留山デュープレックスの土地を持っていた人が知り合いにいて、よくミツワ石鹸の話は出てきました。
by ももなーお (2008-02-21 17:56)
今ググったら、河本敏夫さんは2001年に亡くなっているんですね。じゃあ、エンブレム下落合は、その後にたったマンションなんですね。「エンブレム」は前を何度か通ったことがあるのですが、できれば解体前に一度家を見ておきたかったと思い残念です。
下落合には花王の創業者の方もいらっしゃるんですよね。僕はこのブログを見るきっかけになったのも、実は花王の創業者って誰なんだろう? と思って調べてみたのがきっかけです。小さいながらもまだ長瀬邸(でしたっけ?)は残っていました。ちょっと嬉しかった(笑)
全然関係ないことですいませんがついでに聞きますが、目白堂ってCDショップなくなっちゃったですよね。あれ何でなんでしょう? あと、下落合4丁目にある目白堂が、目白堂って書いてある郵便受け(詳しくはももなーおの目白台ブログを参照してください!)には下落合2丁目になっています。
これは何でなんでしょう? 目白一の博学のChinchiko Papaさんに聞いてみまーす(笑) 長々すみません。
by ももなーお (2008-02-21 18:21)
はい、ももなーおさんのサイトをさっそく拝見しました。
わたしも、目白堂へは南長崎にアパートを借りていた学生時代から、何度となく立ち寄っていましたので、閉店はとても残念です。理由は、やっぱりネット配信やレンタルショップの影響と、配送料無料のネット通販の浸透とで、売り上げが大きく落ちこんでしまったのではないかと想像しています。わたし自身も、店舗に寄ってCDやDVDを購入するという機会が、ここ10年ほどめっきり少なくなりました。
地元のお年寄りたちに比べたら、ぜんぜん博学などではありません。(汗)
「目白堂」郵便ポストは、1966年12月31日以前に販促ツールとして目白堂がお得意さんに配ったのではないかと思います。下落合2丁目568番地が、当時の目白堂の所在地表記だったはずで、現在は下落合4丁目に変わってしまってますね。店舗の場所は変わっておらず、所番地が地番変更で変わってしまいました。ちょうど、十三間通り(新目白通り)ができたころです。このとき、下落合エリアの西部に、「中落合」とか「中井」とかいう不可解な地名が登場したんですね。下落合4丁目はいまの「中井2丁目」のことで、下落合2丁目とは、本来聖母坂をはさんで東側一帯のことでした。
花王石鹸にミツワ石鹸も下落合ですから、ミヨシ石鹸もどこかにいらっしゃらなかったかと、探しているのですけれど・・・。(笑)
by ChinchikoPapa (2008-02-21 18:54)
コメントをブログに載せさせて頂きました。いろいろご教示頂きありがとうございました。
by ももなーお (2008-02-21 19:48)
いいえ、こちらこそ珍しい目白堂ポストの写真をありがとうございました。
もうひとつ、今週のから神田川の向こう側にある、銭湯の「世界湯」がずっと閉まったままなのが気になってます。改装ならいいのですが、閉店ならまたまた寂しいですね。
by ChinchikoPapa (2008-02-21 21:21)
ご無沙汰しました、ものたがひです。「池田邸」の戦後の家のかたちの一致している様子に、写真を伝えることの貴重さを感じます。でも、1936年の空中写真に見られる家の形が、それらと異なるというご判断には、クエシチョンマークです。『鴟尾か鯱がのる赤屋根の豪邸。』に載せられた、隣り合う2枚の空中写真を比較すると、36年の方では影が濃く写っているけれど、同じ形の建物のように見えます。これについての傍証になると思われるのが、1938年の火保図で、この時点で、1947年の空中写真の家とほぼ同じシルエットの建物が認められます。無論、38年は36年より後ですが、38年に住んでいる方が池田さんではなく、「堀越さん」になっている事に、私は注目しました。つまり、私は、1930年代半ばまでに、住人が池田さんから堀越さんに替わり、その際に家の建替えが行われた、と考えるのです。
さて、肝心の、佐伯祐三の絵にある赤い屋根の家ですが、手前に破風があるようにも見え、その向うの屋根の様子・高楼も、構造が、これらの写真の家とは随分違いますね。また、一万分の一地形図では、1920年代初頭に、ここに家が認めらません。
しかし、私は、C.P.さまの「手前に道路あるいは空き地のようなスペースがあり/丘の中腹に巨大なお屋敷のある風情」の希少性の御指摘は尊重すべきと考えるのです。すると、ここにあった佐伯の描く「鴟尾か鯱がのる赤屋根の」家は、1926年には、まだ建って日が浅く、その後10年も経たずに建替えられてしまった、という事になります。少し早いですが、あるいは、高楼付きの、かなりユニークな間取りであった事が、建替えを促したのでしょうか?
いえ、もう一歩、考えを進めるのが、いいのかもしれません。「高楼」ですが、佐伯祐三の描いた家は、一階建て高楼付き、だったのではないでしょうか。戦後も見る事のできた家と全く別物として検討するならば、その方が、なにかと自然です。「高楼」は三階ではなく二階の事であれば想像しやすい建築物になるし、ほとんど平屋の家だったならば建替えをする必然性も出てくるだろうし、池田邸北の空地は、明治・大正期に宅地であった時期もあり、後から、そこが削られ眺めが変わったとは、考えにくい事とも符合してきます。事情明細図のお名前以外、直接の情報のない「池田邸」ですが、一階建て一部二階屋が描かれた、と考えてみるのも一案ではないでしょうか。
by ものたがひ (2008-02-22 00:39)
ものたがひさん、コメントをありがとうございます。
写真の件ですが、わたしには1936年(昭和11)の空中写真に見る、西側の洋館部(日本家屋だったかもしれません)の形状が1964年(昭和39)の空中写真とは一致していないように見えます。記事末に、各時代の池田邸の空中写真を掲載してみました。まず西側の洋館部から見ていきますと・・・
1944年(昭和19)=1947年(昭和22)=1964年(昭和39)
というように見えます。ところが、1936年(昭和11)の空中写真に写る西側の洋館部の建物は、どうしても一致しているようには見えません。また、もうひとつの重要なポイントは、東側の和館部については、以下のように見えます。特に、和館南側の屋根上に写っている張り出したような突起状の影にご注目ください。すると、東側の和館については・・・
1936年(昭和11)=1944年(昭和19)=1947年(昭和22)
となり、1964年(昭和39)の写真のみ、この突起状のような、あるいはなにかの張り出しのようなものがまったくなくなっていることに気づきます。東側の和館部は1階建て+高楼付きだったという可能性は、多分にありそうですね。
1938年(昭和13)に作成された、「火保図」のシルエットは微妙です。住宅を建て替えるとき、住民は敷地のかたちに合わせて同じような位置に、同じような形状の建物を建てるのが一般的に見られる傾向であり、1936年(昭和11)の池田邸洋館部=1938年(昭和13)の「火保図」のかたち・・・とは、ものたがひさんが建て替えの可能性を考えられているように、限らないからです。むしろ、大正末の池田邸から、「火保図」の時点での堀越邸に変わったときに、西側の建物を建て替えている・・・と解釈したほうが自然なようにも思います。
以上のようなことを勘案しますと・・・
●1936年(昭和11)~1938年(昭和13)または戦前のある時期→西側建物の建て替え
●1947年(昭和22)~1964年(昭和39)→東側建物の大規模な改装
・・・という経緯が想定でき、こう想定するのがいちばん妥当なんじゃないかと考えています。
by ChinchikoPapa (2008-02-22 17:20)
詳しいリプライありがとうございます。
なにか話が噛み合ないな〜、と思っていましたが、ようやく理由が分かりました。「高楼」の推定位置が、違っていたのです。汗。
わざわざ追加して下さった画像には、、やはり画像を使ってご説明しないと、いけないですね。いささか留守にしておりました別館(http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2008-02-22)へ、どうぞお越し下さい。
by ものたがひ (2008-02-23 00:41)
ものたがひさん、わざわざアップくださりありがとうございます。
ただし、なにかははっきりしませんが、屋根より突き出ているらしい突起は確実に存在しています。のちほど、もっと西側から撮影された斜めフカンの池田邸写真を、記事末にアップしますね。
その前に、「別館」へのリプライから・・・。(^^
by ChinchikoPapa (2008-02-23 17:09)
さっそく記事末に、比較用の写真をそれぞれアップしてみました。
これらの写真つきましては、ものたがひさんのサイトで・・・。
それから、TBをありがとうございました。金山平三の「秋の庭」のほうへの「池田邸」TBは、消してもよろしいですね? こちらからもTBを差し上げます。
by ChinchikoPapa (2008-02-23 17:51)
たびたびの、ご丁寧なリプライありがとうございます。また、なにかTBで、ヘンな事をしていたようですみません。…金山先生、好きなもので、つい? 別館のコメントで、お返事いたしました。
by ものたがひ (2008-02-24 00:09)
金山じいちゃんへのコメントもぜひ・・・。(笑)
さっそく、別館へ立ち寄らせていただきます。
by ChinchikoPapa (2008-02-24 12:57)
記事末に再び1点、突起物位置の空中写真を掲載しました。
わたしが指摘しているのは、この部分です。下のコンクリートテラスの
平面的な敷地部分についてではありません。ご参照ください。
by ChinchikoPapa (2008-02-24 13:47)
C.P.さま、こんばんは。「まだまだ突起物」というファイルを作って、画像を整理しようかと、考えだしています…。爆!
さて、こちらにアップして下さった、桃色の「長方形の屋根状突起」を見つつ、「西側斜めフカン」の画像を眺めると、屋根の上に設置する温水器のような、薄い箱が乗っているように、見る事ができました。ただ、突起の上の面が、水平には見えないので、一体何だろう?ホントに温水器?と思ってしまいます。一方「真フカン」の画像に突起を求めると、もっと小さな煙突ほどのものが、右下にあるように見えますが、それは、あまり高さのない東館の屋根より低いものです。
しかし、なにもないと考えた時には、それはそれで、似たような傾きの他の屋根の部分と同じように見え、画像の若干のムラがあると捉えられます。
何らかの改修を経ているのは確かでしょうが、仮に「温水器」状、ないし「小さな煙突」があったとしても、佐伯の絵と結びつけにくいです。桃色の破線の部分に「高楼」を、しっかり建てるとなると、1階部分との関係に、かなりの困難を感じます。…ここはひとつ、東館部分の全面建替えをしませんか?
p.s. 別館の方に、参考画像を追加しました。
by ものたがひ (2008-02-25 01:07)
わたしも、最初はソーラー発電?・・・などと思ってしまったのですが(笑)、当時そのようなものは存在しませんね。わたしは温水器に近い、給水タンクではないかな?・・・という想像もしていました。
谷間の百合さんからいただいた画像に、コンパクトな水道タンクが写っていますが、これこそが屋根上にあった給水タンクが傷んだので、戦後、別のタワー状のものに造り替えたのではないか・・・とも想定できます。ご承知だとおもいますが、水道タンク(温水タンクも同様かもしれませんが)はたいへんな重さです。それを設置するには、家の設計上、特別に強化された構造が存在しなければなりません。これが大前提です。
あらかじめ、そこになんらかの強化された構造があったからこそ、水道タンクにしろベランダにしろ、あるいは屋根裏部屋にしろ何にしろ(「高楼」のままも含む)、そこに突起物が存在しているのだと考えます。つまり、ものたがひさんの視点とは順序がまったく逆で、戦後の屋根から想定して「1階部分との関係に、かなりの困難を感じ」るのではなく、わたしはその前になんらかの構造があったからこそ、この屋根部分に特別な何かを設置できてきたのではないかな・・・と考えるのですね。
そのベースとなっているのは、1926年(大正15)の時点で佐伯が描いた、「高楼」状のものであり、家の構造が特に強化された一画だった・・・ということになります。
わたしが1926年(佐伯画面)→1936年(陸軍空中写真)との間に、この邸の全面リニューアルを想定しないのは(それを想定すると楽なのに、したくないのは/笑)、佐伯が描く建物のかたちや風情と、空中写真に写る邸とがあまりに近似しているからです。そして、改築や増築がなされているかもしれないとはいえ、そこに描かれた家が撮影されて残っているのに、安易に「建てかえられたあとだ」とはしたくないからなんですね。
再び、別館へ立ち寄らせていただきます。
by ChinchikoPapa (2008-02-25 10:58)
たまには昼間に、こんにちは。
発想の前提の違いが、漸く、もう一つ分かりました。C.P.さまは「佐伯が描く建物のかたちや風情と、空中写真に写る邸とがあまりに近似している」とされていますが、私は「似たような場所にある、似たようなかたちの建物だけれど、空中写真の建物を、佐伯の描いたものの改造前の形とは看做せない」と思っています。斜面の中腹を整形し、家の土台を造ったならば、建替えても、平面的な輪郭が似てくる事は、大いにありえると思います。しかし、立体的な造り、屋根などは、変わってくると思います。絵の中の家と空中写真の家が、なぜ違うと思ったのか、別館に分析をupしますね。
by ものたがひ (2008-02-25 14:24)
あと数分で、So-netは3日間のメンテに入ってしまいますが、別館にリプライできるでしょうか?(^^;
by ChinchikoPapa (2008-02-25 14:55)
別館への、ご丁寧なコメントありがとうございます。限られた伝存情報を、異なった目で、そうとう検討したように思います。見解の一致には至らないけれども、この場所の描画ポイントとしての適格性は、より強く感じるようになりました。ともあれ、破風と△傾斜面に関する考えを別館に記しました。
by ものたがひ (2008-02-27 22:19)
「下書き」の見たままリッチテキスト入力と、実際にアップしたあとの構成画面が一致しなくなってしまいました。とてもおかしなインタフェースですね、先週まで書きだめしていたページは、いろいろなタグがおかしくなるし、使いにくくありませんか?>ものたがひさん
by ChinchikoPapa (2008-02-27 23:14)