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村山知義は下落合に住んでいた。 [気になる下落合]


 どうも、なにかがおかしい。村山知義と村山籌子夫妻は、月見岡八幡のすぐ南側(当時)、上落合186番地の三角アトリエClick!で暮らしていたことになっている。でも、1927年(昭和2)に発行された、「アサヒグラフ」3月9日号には、有名なふたりそろった上掲の写真が掲載されているのだけれど、キャプションには「氏と夫人、下落合の自邸で」となっている。これだけなら、またしても下落合と上落合で地名を取りちがえている、よくあることだと片づけられるのだが・・・。
 新宿区歴史博物館が昨年の秋に出版した、『新宿ゆかりの文学者』(2007年)を参照すると、やはり「上落合186」のみで下落合の記載はない。鎌倉への疎開を経て、戦後は柏木4丁目へと転居したことになっている。ところが、ある方から貴重な情報をお寄せいただいた。村山知義は、下落合で暮らしていたことになっているのだ。昭和初期から刊行される『美術年鑑』(朝日新聞社)には、1927年(昭和2)から1930年(昭和5)ごろまで、下落合735番地の住所が記載されている。下落合735番地といえば、諏訪谷Click!に面した曾宮一念アトリエClick!の目と鼻の先だ。
 したがって、上掲の1927年(昭和2)に撮影された「アサヒグラフ」の写真は、キャプションのとおり下落合の「自邸」という可能性が高いことになる。上落合186番地へ、1923年(大正12)に建設した自宅&アトリエがあるのに、これはいったいどういうことだろうか? 家の建て替えにしては、4~5年間というのがあまりにも長すぎる。仕事場として、別に借りていた別邸だった・・・と解釈するのも、どこかとても不自然だ。つかの間の仕事場だとしたら、アトリエのある本邸のほうを『美術年鑑』には掲載するだろう。同年鑑への掲載は、年度ごとの“自己申告”制なのだから。
 このころの生活が、村山知義にとってどのようなものだったのか、『演劇的自叙伝』あるいはその周辺の資料からたどると、なにかが見えてきやしないだろうか?
 
 以下の文章は、1999年(平成11)に出版された斎藤憐『昭和不良伝・越境する女たち篇』(岩波書店)からの引用だ。1928年(昭和3)3月14日、つまり共産党員や支援者たちが大量に検挙された「三・一五事件」Click!の前日、村山知義はどこでなにをしていたのかがうかがえる一節だ。
  
 (前略)「藤間静枝という有名な舞踏家が是非私に会いたい、という伝言を数日前くれて、この夜の公演を見に来たあと、赤坂だか新橋だかの、私が長十郎につれて行かれたのとはちょっと上の待合にお供した。兎に角、たった二人切りで、さんざんお酒を呑まされて、とまってしまった」。
 昭和三年の「三月十四日に、前衛劇場は早稲田公会堂で、私の「進水式」の公演をし、そこで藤間静枝と一晩だけ、妙なことになった。ところがその翌日、共産党に対する大弾圧が行われるという、「三・一五」事件が勃発した。私はむろんまだ共産党とは何の関係もなかったが、党に対しては、イデオロギッシュに大いに共感を持っており、畏敬していたから、大きな衝撃を受けた」。
 つまり、小林多喜二の『一九二八年三月一五日』にも書かれている、寝込みを襲われ、泣き叫ぶ赤子の横で共産党員とそのシンパが逮捕された朝、トムさんは静枝と布団の中で抱き合っていたのだ。/トムさんは二年前に籌子という女性と結婚しており、かつ演劇研究所に入って来たロクベエという十七歳の少女、花柳はるみ、S・F女史、その他との行きずりの恋を白状し、「待合とか、当時やっと流行り出した怪しげな連れ込みホテル(それは警官の臨検の危険にしじゅうさらされている)とかを利用した」と楽しそうだ。 (同書より)
  
 藤間静枝とは、もちろん藤蔭静樹(せいじゅ)のこと。永井荷風の元愛人、のちに妻となった女性のことで、この当時はとっくに離婚していた。そのとき27歳の村山知義は、48歳の藤蔭静樹と付き合っていたことになる。また、築地小劇場から出発した人気女優の花柳はるみはわかるが、17歳のクロベエとかS・F女史とは、いったい誰のことなのだろう?
 
 要するに、怒り狂ったオカズコねえちゃんClick!から三角アトリエを追い出され、やむなくほとぼりが冷める期間だけ、下落合735番地で暮らしていた可能性が高いように思える。おそらく、村山の自叙伝にあるようなことが籌子の耳にも入って、上落合186番地の自宅&アトリエを放り出された。そして、少なくとも4年間にわたり、その怒りがとけなかったように思えるのだ。
その後、村山夫妻は上落合186番地の村山邸を全面リニューアルするため、4年間だけ下落合735番地のアトリエで暮らしていたことが判明している。その姿は1927年(昭和2)3月の初め、「アサヒグラフ」のカメラマンが訪問して2葉の写真に記録されている。
 東京朝日新聞社から「無産派文藝運動の闘士」という企画で、「ご夫婦そろって取材したい」という連絡が入ったとき、村山は下落合で頭を抱えたにちがいない。そこで、村山籌子を拝み倒して下落合735番地の「自邸」へ来てもらい、並んで撮られたのが冒頭の写真ではなかったか?
  
 村山知義氏/新日本の画壇に、劇壇に、又文壇に諸種の新らしい問題を提供して勢力しつゝある人。/【写真】氏と夫人、下落合の自邸で  (「アサヒグラフ」昭和2年3月9日号より)
  
 家庭にまで次々と「問題を提供」していた村山知義は、なんとかオカズコねえちゃんに来てもらえて上機嫌のように見えるが、隣りに座る村山籌子Click!の目が微笑んでなくて、怖いのだ。・・・というのが、ふたりの置かれた当時の状況からみた、わたしの“明るい”勝手な想像だ。
 それとも、『演劇的自叙伝』に書かれているように(下落合735番地に移ったとは書かれていないが、同書「3」にそれらしい記述が見えている)、少しずつ精神を病んでいったらしい実弟との確執か、あるいは嫁姑の問題が原因だろうか? でも、実弟は母親といっしょの御宿療養から松沢病院へと入院しているので、4~5年もの長期にわたる三角アトリエの不在と下落合生活の説明がつかない。そして、なによりも『演劇的自叙伝』を文字どおり、どこまで信用していいのかはなはだ疑問なのだ。

■写真上:1927年(昭和2)の「アサヒグラフ」3月9日号に掲載された村山知義と村山籌子。三・一五事件の約1年前であり、諏訪谷付近では佐伯祐三が歩きまわって作品を描いていたはずだ。
■写真中は、1925年(大正14)の「豊多摩郡落合町市街図」。は、1938年(昭和13)の「火保図」。下落合735番地の範囲が、地番改正でかなり拡大されている様子がわかる。
■写真下は、東側から斜めフカンでとらえられた、1936年(昭和11)のめずらしい空中写真にみる諏訪谷あたり。点線の部分が、昭和初期における下落合735番地。は、同番地の現状。
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コメント 7

ChinchikoPapa

雪の中のマレーグマは、さすがに寒そうですね。
nice!をありがとうございました。>納豆(710)な奇人さん
by ChinchikoPapa (2008-03-04 23:41) 

ChinchikoPapa

家の周囲でも、最近メジロを頻繁に見かけますね。
nice!をありがとうございました。>komekitiさん
by ChinchikoPapa (2008-03-04 23:42) 

ChinchikoPapa

浅川マキとかアケタの店とか、70年代前半の匂いがプンプンしますね。
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-03-04 23:48) 

ChinchikoPapa

なかなか冬が離れてくれませんね。明日から、こちらも厳寒がもどるそうです。
nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-03-04 23:53) 

ChinchikoPapa

「自分が死んだあとにも、そのつくったものが残るんだから、死んでも人に迷惑かけるな」というのは、いまでは忘れられがちな職人の規範ですね。nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-03-04 23:58) 

ChinchikoPapa

資料として昔の雑誌を探したりしているのですが、人気のあるものだと高くて手が出ません。こちらにも、nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2008-03-08 02:17) 

ChinchikoPapa

ずいぶん昔の記事にまで、nice!をありがとうございました。
 >kurakichiさん
 >kiyoさん
by ChinchikoPapa (2011-03-26 00:06) 

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