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不可解な尾崎翠の「旧居跡」。 [気になるエトセトラ]

上落合850.jpg 上落合842.jpg
 全集の年譜など資料類に見られる、尾崎翠Click!が暮らした旧居跡の記述が不可解でおかしい。どこかに、大きな錯誤が含まれているようだ。武者小路実篤邸Click!と同様、またまた地番変更による混乱なのだろうか? まず、昭和初期の住所とともに、事実関係から見ていこう。
 尾崎翠は、1927年(昭和2)4月に親友の詩人・松下文子とともに、豊多摩郡落合町(大字)上落合(字)三輪850番地へと引っ越してきている。妙正寺川が北へ大きく蛇行(当時)する、氾濫を繰り返してできた中洲のような低い窪地だ。現在の住所表記でいうと、上落合3丁目30番地と同16番地にかかる川端、あるいは川の中だ。大正期に、中村彝Click!に師事した洋画家・鈴木良三Click!が、ちょうどこのあたりの川筋を描いている。1940年(昭和15)前後に行われた、妙正寺川の浚渫・直線化工事によって、上落合850番地の敷地の大半は水没している。ちなみに、林芙美子の『落合町山川記』Click!を読むと、まさに尾崎が住んだ川沿いの借家へ1930年(昭和5)5月、尾崎自身の紹介によりそのまま林が入居しているのがわかる。
 1928年(昭和3)6月に、同居していた松下文子が結婚して出ていくと、尾崎は上落合三輪842番地へと転居している。同850番地の家から南へ歩き、最初の十字路を左折してすぐの、直線距離で50mほどのところにあった2階家だ。現在では、「三の輪通り繁栄会」商店街の道筋にあたる。近所の大工が建てて貸していたというこの家に、尾崎は東京を離れるまで暮らしつづけている。いまの住所表記でいうと、上落合3丁目17番地の北側道路に面した一画だ。尾崎が暮らしていた1929年(昭和4)当時の「落合町全図」を参照すると、目と鼻の先へ引っ越したのがわかる。
 わたしがおかしいと感じたのは、今年(2008年)1月に明治書院から出版された、籠谷典子・編著『東京10000歩ウォーキング』シリーズのNo.15「落合文士村・目白文化村コース」を読んでいたときだ。同書では、まったく違う場所(現・上落合3丁目20番地)が、尾崎の旧居跡(旧・上落合三輪850番地)と紹介されていたからだ。わたしも、同シリーズの出版を楽しみにしている読者のひとりだけれど、尾崎翠のページはいったいどうしたことだろう? 誤りは、旧居跡ばかりではない。
 尾崎は、現在の表記でいえば鳥取県岩美町の出身であり、同書に記載された「島根県岩美町」ではない。島根県に岩美町は存在しない。また、死亡についても「鳥取市湖山の老人ホーム」としているが明らかに誤りで、老人ホームを退寮してから3年後、鳥取駅近くの生協病院で老衰により逝去している。問題の旧居跡については、上落合三輪850番地=現「上落合三-20-19辺」として、住宅街の現状写真(まったく異なる街角)まで掲載されているのだが、これにはどのような根拠があるのだろうか? 同住所は、尾崎が暮らした当時は旧・上落合三輪825番地だったはずだ。ほかにも、目白・下落合界隈の記述について気になるところがいくつか散見される。わたしは同シリーズの長年にわたるファンなのだけれど、籠谷氏はどうされてしまったのだろう?
 同様に、目白学園女子短大国語国文学研究室が1984年(昭和59)に出版した『落合文士村』(双文社出版)の記載もおかしい。同書には、文士たちが暮らした旧居跡の地図が添付されているのだけれど、尾崎翠の旧居跡が林芙美子の旧居跡(上落合850番地)とは別に描かれている。位置的には、『東京10000歩ウォーキング』の現・上落合3-20辺とも違っていて、三の輪湯のさらに西側、「牧成社牧場」Click!もほど近い「キング牛乳」販売所のあたりに設定されている。
尾崎火保図1938.jpg
①.jpg ②.jpg
③.jpg ④.jpg
 地番変更後に作成された、1938年(昭和13)の「火保図」を調べてみよう。妙正寺川の大規模な工事をひかえ、上落合850番地の界隈に建っていた家々が取り払われて空き地となっている。そして、同850番地という地番そのものが丸ごと地図から消滅しているのがわかる。また、もうひとつの旧居跡である上落合842番地の表記も消滅し、同841番地の表記へと統合されている。つまり、尾崎翠が暮らした住所は、地番変更の直後には両方とも“消滅”しているのだ。ただし、1941年(昭和16)前後に850番地は一時復活したが戦後になって消え、842番地は戦後少し範囲を南に拡げ、再び地番として地図上に復活していた。そのかわり、今度は841番地が消滅している。
 『東京10000歩ウォーキング』が「旧居跡」としている、現・上落合3-20-19あたりはどうだろう? ここは、妙正寺川の河岸段丘が形成する北斜面の高台で、上落合850番地からは150mほど南に位置している。地番変更前の表記は上落合825番地で、変更後は824・825番地の混在区画となり、戦後は再び825番地へと統合されている。ここが、850番地の尾崎翠旧居跡とされた経緯が、どう調べてもまったく見えてこない。どこかの「公式」記録か資料で、最初に誰かが所在地の特定ミスをしたものが、まったく検証されずに今日までそのまま踏襲されつづけてしまったのだろうか?
 改めて図書館で、調べられる限りの関連資料を参照してみると、筑摩書房の『定本尾崎翠全集』(1997年)をはじめ、尾崎翠に関連した書籍のほとんどが、上落合三輪850番地=現・上落合3-20あたりとしていることがわかった。つまり、『東京10000歩ウォーキング』に限らず、過去の資料にみられる旧居特定のほとんどすべてが間違っている・・・ということになる。彼女が暮らしていた当時(1927~1932年)の地図を見れば、そのような錯誤は起きなかったはずだけれど、1935年(昭和10)前後に作られた一部の地図を参照していたとすると、上落合850番地と同842番地とがともに“消滅”していたと思われ、なんらかの事情で特定ミスや混乱が起きやすくなっていたのかもしれない。わたしの知りうる限りでは、旧居跡を誤らずに妙正寺川の川岸あたり、林芙美子の上落合旧居跡と同一として正確に記載(地図上へポイント)しているのは、新宿区が出版した『新宿ゆかりの文学者』(2007年)の1冊だけだった。
 そして、もうひとつの大きな課題は、一度活字になった旧居跡の“権威”ある「公式」記録が、おそらくその後、誰からもまったく検証されないままひとり歩きし、単純かつ機械的に書き写されてきた、あるいは信じられてきただけ・・・という点だ。これは、わたしが何度も当サイトでしつこいほど書いてきている、「公式」記録と地元の伝承や史的事実とが乖離していくという、危うい現象のひとつの典型だ。当時の地図を見なくても、上落合の現場へ実際に足を運び、当時を知る方へ少しでも取材・裏取りすれば、上落合850番地が妙正寺川に“水没”していることはすぐにも判明しただろう。尾崎翠にまったく関係のない街角の写真を、書籍に掲載する錯誤は容易に避けられたはずだ。
古家1.jpg 古家2.jpg
 上落合を取材してまわると、まるで下町Click!を歩いているような感覚をおぼえる。みなさんとても親切で、1929年(昭和4)の「落合町全図」と1938年(昭和13)の「火保図」をお見せすると、すぐに目的の旧・上落合三輪842番地の区画へと案内してくださった。その方は、お祖父様が早稲田で商売をされていて、昭和の初めに上落合へと移って来られたのだそうだ。「牧成社牧場」のこともよくご存じで、乳牛だけではなく馬もかなり飼われていたとのこと。牧成社牧場は、戸山ヶ原にあった近衛騎兵連隊Click!とも、なんらかの関係があったものだろうか? ご近所からは家畜の糞尿処理をめぐり、臭いの苦情がずいぶんと出ていたようだ。
 目白崖線(バッケ)のアビラ村(芸術村)Click!を指さしながら、「わたしらも、丘の斜面のお屋敷街を眺めて暮らしましたよ」と、ご夫婦そろって話されたのが印象的だった。

■写真上は、上落合三輪850番地の現状。おそらく、敷地の大半は“川の中”だ。は、上落合三輪842番地の現状。戦前からお住まいのご近所の方が、すぐに教えてくださった。
■写真中:1938年(昭和13)の「火保図」と各写真の撮影ポイント。上落合850番地は、妙正寺川の工事をひかえて消滅し、上落合842番地は同841番地へ統合されている。また、『東京10000歩ウォーキング』で旧居跡とされた区画は、上落合824・825番地混在の敷地となっている。
■写真下:いまも古い家々を見かけるが、線路沿いは空襲を受けているので戦後の建築だろう。


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ChinchikoPapa

北海道の納豆は、まだ食したことがありません。
nice!をありがとうございました。>納豆(710)な奇人さん
by ChinchikoPapa (2008-04-03 11:26) 

ChinchikoPapa

ソメイヨシノの故郷、染井地域での花見は、そういえばまだしたことないですね。
nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-04-03 11:42) 

ChinchikoPapa

九段会館の屋上で、一杯やりながら花見というのもいいですね。
nice!をありがとうございました。>komekitiさん
by ChinchikoPapa (2008-04-03 11:46) 

ChinchikoPapa

掲載されている海辺の風情を見ますと、わたしの場合どうしてもボサノヴァが聴こえてきます。(^^ nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-04-03 11:57) 

ナカムラ

尾崎翠の住んでいた場所、すなわち彼女の小説が書かれた場所についての疑問、とても興味深く拝見しました。私は尾崎の文体だけではなく、描いた世界(まるで少女マンガのようなものも含めて)が好きですし、なにより臭覚を小説世界にとりこんだ感覚の新鮮さを感じてきたものです。まさか自分が大学時代に札幌で読んだ尾崎の小説が実際に書かれた場所のそばに住むことになろうとは思ってもいなかったので感慨深いです。代表作といわれる「第七官界彷徨」は映画になっていますが、上映機会がほとんどないと聞いています。「こおろぎ嬢」を含めて実際に尾崎が書いた落合地域で上映したり、尾崎について地元鳥取ばかりではなく、たとえば目白大学でシンポジウムのような研究会が実現できないものかと考えてしまいます。目白大学文学部のご関係の方、読まれていましたらご検討いただけないでしょうか?
by ナカムラ (2008-04-03 12:45) 

ChinchikoPapa

ナカムラさん、コメントをありがとうございます。
わたしは『第七官界彷徨』を読んでからというもの、苔を見るとつい表面をジッと胞子の有無や飛沫具合を確認するクセがついてしまいました。(笑) 尾崎翠ならではの、独特な「エロスの世界」と解釈される方もいるみたいですね。
わたしも、『第七官界彷徨~尾崎緑を探して~』(1998年)を観たいのですが、まず映画館ではかかりませんね。DVD化もされなかったようです。「負け犬」さんなら、この作品を絶対にご覧になっていると思うのですが・・・。
by ChinchikoPapa (2008-04-03 14:11) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。
 >takagakiさん
 >kimukanaさん
 >kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-06-28 13:24) 

井上雅子

 北海道在住で音訳(視覚障がい者のための朗読)をやっていますが、上落合三輪の「三輪」の読み方がわからず、メールいたしました。ミワ、ミノワ、サンワ、サンノワ・・・、現在は地名として残っていないようですね。
 
 ネットで調べていて、このブログに行きつきました。

 教えていただけると大変ありがたいです。よろしくお願いいたします。
by 井上雅子 (2014-06-13 12:44) 

ChinchikoPapa

井上雅子さん、コメントをありがとうございます。
読み方は、「みのわ」です。東京の台東区にも「三ノ輪」という地名が残っていますが、同じ読み方です。上落合の字である「三輪」は、戦後まで残りませんでしたので「ノ」がふられることはありませんでしたが、台東区の三輪は地名として現在まで残ったため、のちに「ノ」がふられて読みやすくしたのだと思います。
上落合の三輪に残る銭湯は、やはり読みやすいように「三の輪湯」と表記してますね。お役に立てたでしょうか。
by ChinchikoPapa (2014-06-13 13:13) 

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