芹沢邸で燃えた佐伯の50号。 [気になる下落合]
小説家・芹沢光治良は、1927年(昭和2)の暮れにフランスから帰国している。彼はパリで恩師の言いつけを守り、できるだけ現地へ溶けこむために、ほとんどパリ在留の日本人とは付き合わなかったが、数少ない例外が佐伯一家だった。芹沢は、フランスへと渡る船で佐伯祐三Click!の兄・祐正Click!と一緒になり、マルセイユで出迎えた佐伯一家と親しくなっている。
パリの佐伯について、芹沢の証言がきわめて貴重なのは、彼が同業=美術分野の人間ではなく、まったく異なる立場や視点で誇張や粉飾、思い入れなどをまじえず、佐伯をクールに観察していたと思われるからだ。佐伯が昼間写生してもどったあと、夜になって加筆をしないと気がすまなかったという証言Click!は重要で、絵具がある程度乾いてから手を加えていた様子がわかる。
芹沢は帰国後、上落合の月見岡八幡(移転前)の裏手、上落合八幡耕地206番地の家へ住むことになる。佐伯アトリエから、南へ800mほど下ったところだ。佐伯が同年夏、2回目のパリへと出かけたのとほとんど入れ違いで帰国しているが、芹沢はパリへもどった佐伯と街角で偶然に遭遇している。翌年の1928年(昭和3)1月、芹沢は事実上のデビュー作である『ブルジョア』を書き上げ、同年7月に改造社から出版(新鋭文学叢書)された。その後、1932年(昭和7)に東中野へ家を建てて引っ越しているので、芹沢の落合生活は5年間ほどになる。
1947年(昭和22)に発表された『戦災者』の記述から引用してみよう。ちょうどこの時期、空襲下の惨状を描いた彼の作品が、GHQからの激しい検閲をうけて頻繁に削除されている。
●
(略)廿年の五月廿五日の朝のこと、ほど近い省線電車の路線の堤の蔭にやつと避難して、わが家の焼けおちるのを狂つたような強風と濃い煙を透して眺めてゐて、複雑な感慨にふけつたものだ。/その一ケ月ばかり前、たしか四月十三日の夜、彼の家のあの岡下の一帯と岡上の地区との焼けるのを、やはり岡の一角の樹木の蔭に避難して眺めた時とは、およそ似もつかない感慨であった。あの夜は空襲警報が解除されると、組長さんの、家の三階の物見台にのぼつて、辺り一面火の海の凄まじい美しさに見惚れて、階下でふるへてゐる二人の娘をむりに三階につれのぼつて、生涯の思ひ出にもとその美観を眺めさせたほどだが・・・(講談社版「日本文学全集」より)
●
もちろん、この描写は上落合ではなく、東中野の家が5月25日未明の空襲で焼ける様子なのだけれど、このとき、芹沢邸の階段に架けられていた佐伯のパリ作品(50号)が灰になっている。
それは、第1次渡仏時の佐伯が、パリから日本へ帰国する際にくれたものの1点だった。佐伯が下落合へともどる2ヶ月ほど前、1926年(大正15)の1月10日前後のことだろう。芹沢はその作品を、住んでいたアパルトマンの地下室に棄ててきた(!)のだけれど、その後、友人が忘れ物だと思ってわざわざ日本へ送りとどけてくれている。彼はいくばくかのカネを佐伯に用立てていたので、その礼の意味をこめて作品をとどけたのだろう。
1955年(昭和30)に発行された『文藝春秋』1月号から、芹沢の証言を引用してみよう。
●
出発の朝、佐伯君がお別れにタクシーを私の宿に乗りつけた。二枚の絵を持つて来た。荷造りをしてしまつてからできたものだが、すてて行くのは惜しいから持つて来たと云つた。そのうち一枚は五十号ぐらいあつた。あまり気にいつていないから、君が邪魔ならすててくれ、君には必ず気に入つた一番いいのをやるからねと、その時も念をおした。その五十号は実際パリ滞在中もてあまして、日本へ帰る時、ボァロー街の家の地下室へすてて来たが、後に椎名其二さんが東京へ送つてくれた。それを、私は小滝町の家の階段の大壁にかけておいたが、戦災で焼いてしまつた。
●
地下室へ棄ててきた佐伯の絵が、芹沢を日本まで追いかけてきたわけだ。佐伯が芹沢へ渡した2作品のうち、セーヌ河畔の街並みを描いたといわれている風景画(50号)は、母屋の階段に架けていたため空襲で灰になってしまった。でも、もう1点の『パストゥールのガード』は焼け残り、今日でも展覧会や画集で目にすることができる。
東中野の芹沢邸は、母屋は全焼したが書庫はかろうじて焼け残った。おそらく、『パストゥールのガード』は書庫に収納されていて助かったのだろう。
■写真上:左は、芹沢邸のあった上落合206番地の現状。右は、ピアノを弾く戦後の芹沢光治良。
■写真中:左は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる上落合206番地で、村山知義アトリエClick!の目と鼻の先だ。たびたびリャクClick!の標的になったらしく、その様子を1933年(昭和8)の『橋の手前』で詳細に記している。右は、現・月見岡八幡前の道で芹沢邸は前方左手にあった。
■写真下:左は、講演会の記念写真で左から芹沢光治良、片岡鉄兵、岸田国士Click!。右は、佐伯が1回めのパリを離れる直前に描かれた『パストゥールのガード』。画集で1925年(大正14)作とされているが、芹沢証言から荷造りを終えた1926年(大正15)1月の制作ではないだろうか?
「牛のゆで内」が食べてみたいですね。(笑)
nice!をありがとうございました。>Krauseさん
by ChinchikoPapa (2008-04-11 12:25)
これから100年間、人口は減りつづけるのにビルばかり建てて、ほんとうにどうするのかと思いますね。2100年には総人口5,000万人ですか・・・。明治末か大正時代へ逆もどりですね。nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-04-11 12:41)
mwainfoさん、nice!をありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2008-04-11 12:44)
数寄屋橋下の地下通路は、ときどき通ります。(^^
nice!をありがとうございました。>komekitiさん
by ChinchikoPapa (2008-04-11 12:47)
東京下町の職人言葉で、「あばよ」はつかいますね。神奈川県の海岸べりでは、そのまま「あば!(じゃあな)」というのは現役です。nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-04-11 12:50)
芹沢光治良の、1925年7月から1926年1月にかけての佐伯との交流や、彼から贈られた絵についてのいくつかの記述を読むと、出来事の前後関係等には揺れがあるものの、佐伯の絵に対する姿勢を明確に捉えているように思えます。パリで初めのうち描いていた不本意な作品も見せながら、今自分が描いている絵は純粋か、と芹沢に問う佐伯の率直さに驚きます。「どんなに完成したつもりでも、夜筆を加えなければ、繪に魂がはいらない」と、佐伯は芹沢に衒わず語ったように思えます。激情のままに一気に描き上げることを佐伯の天才の証のように見なし、加筆を全く認めようとしない言説には、フィクショナルな夢を感じますね。C.P.さまの御指摘は、もっともだと思います。
空襲で焼けてしまった作品については、芹沢は別の文章で30号のパリ風景ともしており、そうだとすると、この記事のタイトルは『芹沢邸で燃えた佐伯の30号』になってしまいますね。ちょっと絵が小さくなってしまって残念な気がします。(爆!)今となっては、どちらが事実か分かりそうもありませんが、50号という普段よりかなり大きいキャンバスに、パリを発つ直前に向ったのかどうか、ちょっと気になるところです。
by ものたがひ (2008-04-11 22:10)
ジャコ・パストリアスが死んだと聞いたときは、わが耳を疑いました。
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-04-11 23:42)
ものたがひさん、コメントをありがとうございました。
きょう、実はNHKが1980年に放映した『襤褸と宝石』のシナリオとスチールを、ようやく入手したのですが、このドラマあたりから佐伯が一気呵成に作品を仕上げて、スケッチから帰るや否やそれを完成作品として人にホイホイあげていた・・・というようなイメージというか、“神話”が大きく形成されたのではないかと思いました。クタクタになって写生からもどると、そのまま明日の作品を夢みる・・・というような感触です。でも、暗くなってからアトリエで丹念に筆を加える余力は残していたはずで、佐伯画面の絵具の特徴とも矛盾しませんよね。このドラマのシナリオを見ると、乾燥した画面にあとから手を入れた絵具はみんな米子夫人だ・・・というような、言わず語らずの刷り込みができるような展開で作られているのも非常に気になります。フィクションだから、まあなにを想像してもいいわけですが・・・。
芹沢光治良の所有作品(セーヌ風景)は、50号よりも30号のほうがリアリティありますね。あとから、50号ではなく30号だったかな?・・・と訂正されたものでしょうか。佐伯の場合、50号のキャンバスを作るのは“特別”のときのようにも思えますので、30号のほうがリアルです。街角へは、持ちにくい50号よりも30号を手にするほうが、仕事もしやすかったでしょうし・・・。
情報をありがとうございました。<(_ _)>
by ChinchikoPapa (2008-04-12 00:02)
多くの人が語った佐伯の生前のエピソードですが、確かに、テレビドラマの影響力によって、その一部を合成したりして映像化した“神話”も、一人歩きしているのでしょうね。でも神話には、死人に口無し的な変容が紛れ込みそうで、ドラマを作りたい訳ではない立場においては、資料批判を丁寧にする必要を感じます。(汗) それにしても、作品そのものを観るという、はじめの一歩の機会が、佐伯の場合比較的多い事は有難いですね。今年も佐伯展が各地であるとの事、楽しみです。
by ものたがひ (2008-04-12 23:39)
佐伯アトリエのご近所の方へ取材しているとき、まず『襤褸と宝石』の話から始められたのに驚きました。まだ、母屋が建っていたときに、実際にロケーションを現地で行っているのですね。美術評論家の島袋(角野卓造)が、ボロボロ(80年当時)の母屋とアトリエを訪ねてくるところからドラマがスタートするわけですが、このロケのあと、ほどなく母屋が解体されています。
そこで感じたことは、実際の佐伯祐三と「佐伯」を演じた根津甚八が、実際の米子夫人と「米子」を演じた三田佳子が、かなりかぶっているんじゃないかという印象を受けました。特に、米子役の三田佳子については、「ほら、息子が最近麻薬で捕まった」というマクラが付いて語られたところに、ことさらドラマの「米子」の描き方にかぶって、この女優にはあまりよい印象を持たれていなさそうな感触が透けて見えたのですね。
最後に、美術評論家・島袋と佐伯の先輩だった洋画家(たぶん里見勝蔵を想定)とが、壊される直前の母屋前で偶然に邂逅するシーンで終るのですが、おっしゃるとおり「死人に口なし」だから、いかようにでも都合よく描けてしまいます。ドラマの中で描かれたエピソードには、随所に証言によって語られた事実と思われるシーンも登場していますが、シナリオを通して読みますと、その選び方がプロットに都合がいいように選んでいる意志を少なからず感じてしまいました。
今度、このドラマについてちょっとご紹介したいと考えています。なお、80年当時の下落合での佐伯の描き方は、「描きたいモチーフが見つからない」という焦りばかりが強調されていますね。『下落合風景』もほとんど登場していません。
by ChinchikoPapa (2008-04-13 00:23)
たいへん遅ればせながら(汗)、nice!をありがとうございました。>ものたがひさん
by ChinchikoPapa (2008-04-13 23:46)