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ドラマ『襤褸と宝石』にみる佐伯像。 [気になる映像]

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 数日前から大風邪を引いてしまい、熱に浮かされ文中であらぬことを口走っていましたら、すかさずご指摘ください。一昨日も、彫刻家・夏目貞良の作品を『聖徳太子』などと書いてしまいましたが、まったくの妄想で正しくは『女の胸像』です。(なにが「聖徳太子」なんだか?/熱爆!)
  
 1980年(昭和55)9月8日のNHK特集で放送された、ドラマ『襤褸と宝石』(中島丈博・脚本)のシナリオをようやく手に入れて読んだ。わたしは、当時いまだ学生でアルバイトに忙しく、午後7時30分から放映されたこの作品を見逃している。シナリオを読んで感じたのは、現在の佐伯祐三および佐伯米子の一般的なイメージは、このドラマによる影響が大きいのではないか?・・・という点だ。
 以前から、このサイトでも何度か触れているけれど、事実とフィクションとの境界線がとても曖昧になる、あるいは事実関係が正反対になってしまうという事例を、特に芝居や講談の世界において書いてきた。目白(旧・雑司ヶ谷)の四ッ谷が舞台となった『東海道四谷怪談』Click!と、四ッ谷見附近くの四谷左門町の文政町方書上に記録されている、江戸期に実際に起きたエピソードとがごっちゃになり、被害者と加害者とが入れ替わってしまう(何度も子孫の方が訂正されても認知されない)、あるいは江戸の現地でただの一度も取材や調査をしたこともない戯作者(竹田出雲)が、事件から46年後に大坂(阪)で書いた『仮名手本忠臣蔵』Click!などの例をみても、現実に起きたことと虚構(フィクション)とが混同され、事実とは大きく乖離した内容が“史実”と認知されてしまう危うさについて、ずいぶん前に書いた憶えがある。振袖火事(明暦大火)の本妙寺Click!(戦後、何度も記者会見を開いているが虚偽が訂正されない)にしても、高橋伝Click!の「伝説」にしても同様だ。
 そこまでは極端でないにしても、『襤褸と宝石』にもそのような手ざわりを感じてしまうのは、わたしだけだろうか? 作者である中島自身さえ、次のように書いている。1980年(昭和55)に発行された、『ドラマ』10月号(映人社)から引用してみよう。なお、カッコの註釈はわたしが入れている。
  
 書き手の側からすると、こうした人物(佐伯祐三)をドラマの主人公として設定しなければならない場合、実話を元にしているだけに、余り面白い仕事とは言えない。彼自身は一直線に絵を描くことに殉じていくのであるから、ドラマ上での振巾を別に求めざるを得ない。果たして、そのような人物が発見できるか・・・・・・と素材を見廻したところ、佐伯の妻米子がいたのである。
                                    (同誌「作品によせて」中島丈博より)
  
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 作者のこの言葉は、フィクションを構成するうえで非常に重要なテーマを含んでいると思う。それは、物語を“違和感”なく(気持ちよく)必然的に成立させるためには、吉良義央はとてつもなく性悪かつ意地悪な年寄りでなければならず、浅野長矩が野放図な自尊心の持ち主で、単にキレやすく自制心のない若者では困るのだ。あるいは、民谷(田宮)伊右衛門が底なしの悪党でなければ成立しえない、虚構としての「わかりやすい」(少なくとも観衆や読者に不条理かつ理解不能ではない)人間ドラマを、どこかで強く意識せざるをえないからだ。
 つまり、“狂言まわし”役が存在しなければ、舞台(物語)は回転しない・・・という、古くて新しいフィクション創造におけるテーマだ。ドラマに劇的な変化や「振巾」を与え、動的な展開を絶えずもたらすためには、「問題を起こす」役まわりの人間が周囲に不可欠だという法則。作者は、それを「佐伯米子」に設定したと率直に書き著している。さらに、このドラマが放映されたのが、「公共放送」としてのNHKだったという点も、通常の民放ドラマよりもはるかに大きな影響を視聴者に与えたかもしれない。
 ドラマに登場する“解説者”としての美術評論家「島袋」は、おおよそ誰かは想定できるし、また彼にアドバイスを受けた作品であることも想像Click!がつく。だから、登場する佐伯祐三と佐伯米子の姿は、彼のフィルターを通したふたりの“像”に近い描かれ方もしているのだろう。また、実際の佐伯アトリエと解体前の母屋でロケーションが行われたこともドラマの虚構性を薄め、より“現実味”を帯びさせるファクターとなっただろう。
襤褸と宝石4.jpg 襤褸と宝石5.jpg
 下落合における佐伯祐三の描かれ方は、きわめてオーソドックスだ。いや、この言い方は逆かもしれない。『襤褸と宝石』により、下落合をめぐる佐伯像が従来にも増して、ますます「定着」し「一般化」したともいえるのではないだろうか。特に1926年(大正15)から翌年にかけ、第2次渡仏前の佐伯の仕事はほとんど省略され、わずか数行にすぎない。
  
 61 『下落合風景』
 当時の佐伯の連作に現実の武蔵野風景がかさね合わされて----
 島袋の声「二科会展出品作の好評にもかかわらず帰朝後の佐伯は苦悶していた。パリの硬質空間に馴染んできた佐伯にとって、日本の風景はモチーフになりにくかった・・・」
                      (同誌『襤褸と宝石-佐伯祐三の生涯-』のシーン61より)
  
 そこにあるのは、「絵にならない日本の風景」に対する佐伯の“焦り”であり、連作『下落合風景』Click!はそんな焦燥感の中で描かれたことになっている。『下落合風景』には渡仏の資金稼ぎ以外にあまり意味を求めない、ある美術評論家のパリに偏重した著作へと重なり合うシーン。換言すれば、強いテーマ性を持ち意識的にモチーフとなる風景を選んでいたのではなく、パリ風景の“代用”として下落合をはじめ各地の風景を漠然と描いていた・・・という捉え方だ。
アルルのはね橋佐伯祐三.jpg ビーナスはん.jpg
 パリ市街と東京の街とがモチーフとしておよそ異なることぐらい、別にわざわざ描いてみなくても観察すればわかることだろう。また、「硬質」で「石造り」のパリと質感が似た街角は、震災復興後の東京市内には各地で見られたはずなのだが、佐伯はそれらをほとんどモチーフには選ばなかった。だから、下落合を中心に「絵にならない」風景を描いていたから、パリとは勝手が違うと感じて焦っていた・・・という解説には、どこか短絡した不自然な“理由づけ”Click!の組成とともに、ゴリッとした違和感をおぼえてしまう。「絵にならない日本の風景」への“焦り”だけでは、どうしてもモチーフとして好んで描いていた(あえて下落合でも古い鄙びた場所、ありふれた「絵にならない」風景、工事中や造成中の場所などを多く意識的に選んでいたと思われる)、『下落合風景』の連作について整合性のとれる説明がつかないのだ。
 余談だけれど、『襤褸と宝石』の作者・中島丈博は以前にここでもご紹介した、わたしの大好きな黒木和雄監督の『祭りの準備』Click!(ATG/1974年)のシナリオライターでもある。

■写真上・中:1980年(昭和55)9月に放映された、ドラマ『襤褸と宝石』のスチール各種。
■写真下は、アルルのゴッホの描画ポイントに立つ佐伯。は、ビーナスはん(『婦人像』)。


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ChinchikoPapa

狛江は知人が住んでいましたので、何度か訪ねています。また行きたくなりました。nice!をありがとうございました。>一真さん

by ChinchikoPapa (2008-04-25 16:09) 

ChinchikoPapa

その昔、島根のシジミ食べたさに、宍道湖1周をしたことがあります。
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-04-25 16:18) 

ChinchikoPapa

わたしの親父は演歌が苦手でしたが、美空ひばりが出てくると「・・・ウ~ム」といいながら聴いてました。nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2008-04-25 16:24) 

ChinchikoPapa

しばらく、東京でお獅子に遭っていません。あの囃子の音も下町の街角へ立てば、どこからか風に運ばれ聞こえてくるのでしょうか。nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-04-25 16:30) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-12-01 12:19) 

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