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三ノ坂の双子住宅の謎が解けた。 [気になる下落合]

三ノ坂邸1.JPG 49号邸.JPG
 以前、三ノ坂の中腹に建ち、『主婦之友』にも記事が掲載された別荘風のオシャレな住宅Click!についてご紹介し、同一デザインの住宅がなぜか坂上にも現存していることを書いた。坂の中腹に建っていた家を、後年になってそのまま坂上に移築したものか、あまりにも似ている外観に最後まで疑問が残っていた。その謎が、ほどなくきれいに解けた。ふたつの住宅は、当初からほとんど同一のデザインが採用されており、建てたのは中井駅前の大工・高橋清次郎だった。
 記事をアップしてからほどなく、島津家のご子孫の方から連絡をいただいた。そのお話により、ビックリすることが判明した。三ノ坂から四ノ坂にまたがる坂上までの全域、あるいは中ノ(野)道の南側におよぶ広大な島津家の敷地に、約50棟の住宅を建てたのは先の高橋清次郎であり、彼に建築を依頼した施工主は島津家だったのだ。したがって、50棟の中にはよく似た設計デザインの住宅が、三ノ坂の2棟だけでなく、ほかにも存在していた可能性がきわめて高い。
 当時の実測図や、住宅の設計図も一部現存していることがわかった。それによれば、『主婦之友』に紹介された三ノ坂中腹の住宅番号(ハウスナンバー)は不明だが、坂上にある同一デザインの双子住宅は「四九号」邸と呼ばれていたのがわかる。このハウスナンバーは、当初は建築された順番かと思ったのだが、どうもそうではないらしい。
実測図1932.jpg 実測図1940.jpg
 50棟にもおよぶ住宅の建築途上だった、1932年(昭和7)作成の「家屋配置実測図」をみると、たとえば中ノ道の南側では「十六号」邸が完成しているのに、それ以下のハウスナンバーがふられた住宅の多くは、いまだ建築されていない。同様に、坂上では「四九号」邸が完成しているにもかかわらず、他の若いハウスナンバーの住宅が見られないのだ。敷地の整地順あるいは設計図が完成した順番か、あるいは初期図面に書きこまれた敷地ナンバーを踏襲しているのか、現在ではご子孫の方にも詳細は不明とのこと。
 特徴的なのは若い番号、すなわち「一号」邸からはじまり「十八号」邸までが、中ノ道の南側の西武電気鉄道に近い敷地にふられ、「二十号」から「三十号」のハウスナンバーは逆に三ノ坂と四ノ坂の上、尾根筋の道に近いエリアにふられている。そして、島津源吉邸Click!の周辺では「三九号」邸から「四九号」邸までの番号が見られる。この「四九号」邸こそが、三ノ坂を上りきったところで現在でも目にすることができる建築だ。先の『主婦之友』の取材記事でも書かれていたけれど、これらの住宅の内装に共通する素材として、コルクがふんだんに用いられたというお話もうかがった。四ノ坂の入り口に建っていた刑部人(おさかべじん)Click!邸も、内装にたくさんのコルクが使用されていた。
設計図33号.jpg 実測図49号邸.jpg
 面白いお話もうかがった。島津家に隣接して建てられた刑部人邸Click!だが、刑部家では吉武東里Click!が設計したスパニッシュ邸が完成するまで、三ノ坂の下から2番目の邸、つまり『主婦之友』に紹介された邸の2つ下の家で仮住まいをされていたとのこと。このエピソードで思い出すのが、『目白文化村』(日本経済評論社/1991年)の135ページにあったコラムだ。そこには、島津家が新婚家庭用に貸していた西洋館の記述が見られる。
  
 見合い結婚をしたのは満二〇歳の時。最初に住んだのは林芙美子が最後に住んだ家のすぐ上にある、島津家が新婚用に貸していた「モダンな赤い屋根の文化住宅」だった。夫の実家である津田家は、やはり海軍の中将であった星野源吾のつながりで、文化村に土地を買って住んでいた。
                         (同書「第二文化村に住んでいた頃/津田芳子談」より)
  
 新婚さん用に賃貸していたというモダン住宅は、ハウスナンバーでいうと何号邸になるのかは不明だけれど、「火保図」に描かれている2棟のうちの東西どちらかの家だろう。林芙美子邸(現・林芙美子記念館Click!)の「すぐ上にある」と書かれているが、この林邸の敷地も当時は島津家の所有地だった。昭和初期からいっせいに建てられはじめた、約50棟の住宅が当初、島津家の賃貸住宅として企画・建設されたらしい様子がわかる証言だ。
新婚モダンハウス.JPG 新婚用ハウス.JPG
中ノ道南敷地.jpg 中ノ道南側敷地.JPG
 これら50棟の住宅は、1960年(昭和35)前後までには、家々に住む住民への土地譲渡をすでに終えていたようだ。当初の建築は次々と姿を消していったが、いまでも一部には昭和初期に建てられたモダニスト大工・高橋清次郎の仕事を見ることができる。

■写真上は、三ノ坂上に現存するハイカラでオシャレな双子建築の「四九号」邸。は、戦後の1947年(昭和22)にB29によって上空から撮影された「四九号」邸。
■写真中上は、1932年(昭和7)に作成された「家屋配置実測図」。すでに建設済みの家へ、図面掲載の住宅番号(ハウスナンバー)を記入してみる。は、1940年(昭和15)に作成された「三分筆実測図」。三ノ坂と四ノ坂の最上部で、丸印のついた「三三号」邸は設計図が現存している。
■写真中下は、「三三号」邸の設計図。は、「四九号」邸界隈の「二分筆実測図」の1枚。
■写真下上左は、1932年(昭和7)現在の四ノ坂中腹。まだ林芙美子邸は建設前で、バッケ(崖線)上の2棟のうちどちらかが赤い屋根の「新婚用」モダンハウスだと思われる。上右は、1947年(昭和22)に撮影された同所。下左は、西武電鉄に近い中ノ道南側の「火保図」にハウスナンバーを記入したもので、「三号」邸が見あたらない。下右は、同じく1947年(昭和22)に撮影された同所。


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ChinchikoPapa

うちも最近、サルと同じような姿勢でネコが寝ています。
nice!をありがとうございました。>納豆(710)な奇人さん
by ChinchikoPapa (2008-05-20 20:47) 

ChinchikoPapa

たばこ屋さんのショウケースにある、缶ピースがいいですね。子どものころには、こういう光景があちこちにありました。nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-05-20 20:51) 

ChinchikoPapa

> ※「まち」が栄えるって、どんな風景になるんだろう。
ほんとうに、おっしゃる通りですね。人が減りつづける、人が住めない、人の暮らしが息づいていない「まち」が、東京のあちこちに見られます。そこは、すでに「まち」ではなく「元・まち」なのかもしれませんね。nice!をありがとうございました。>takagakiさん

by ChinchikoPapa (2008-05-20 20:56) 

ChinchikoPapa

80年代にリッキー・フォードが現れたときは、彗星のような印象でした。
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-05-21 00:22) 

ChinchikoPapa

白くてサラサラな山陰の砂はきれいです。富士山の火山灰がベースで灰色をしている、湘南海岸の砂とはかなり違いますね。nice!をありがとうございました。>Krauseさん
by ChinchikoPapa (2008-05-21 23:07) 

ChinchikoPapa

いつも、数多くのnice!をありがとうございます。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-09-27 11:01) 

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