第二文化村のMI邸訪問1925年。(下) [気になる下落合]
Webログをスタートしてから、きょうで3年と6ヶ月たったことになる。お読みいただいた方の数が、ちょうどのべ111万人を超えた。So-netブログは自己ビューはカウントされないので、ほんとうにこれだけの方々が訪問してくださったのだろう。ますます眩暈がする数字だけれど、これからも江戸東京地方と目白・落合界隈の地域情報や物語を、つづく限りご紹介していきたいと考えている。
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なにかすごくいい匂いがするので、台所をのぞいてみる。レンジの上には、目白文化村Click!の休日らしく、ハイカラなポトフかボルシチが煮えているようだ。「あっ、米国のウェスチングハウス社製の電気レンジ! あれ、650円もするんですよね」と叫ぶと、値段までよくご存じですね・・・と言われた。「650円といえば、わたしの時代で換算すると高級車が買えてしまうんですよ」と答えたら、またご主人に怪訝な顔をされる。
ガスがないから「光熱費がたいへんでしょ?」とうかがったら、「箱根土地が、瓦斯管がもうすぐそこまで来てます、もうほんのちょい、すぐそこまでです、時間の問題・・・なんていうから家を建てたんですけどねえ。それが、なかなか引けやしないの。もう、箱根土地は口がうまいのなんのって、家内もころっと騙されちゃって」・・・と、かなりストレスがたまっているご様子。
お誘いをうけて、食堂でボルシチのお相伴にあずかる。食堂は、客間兼居間の西隣りにあって、天井には変わった照明器具が据えつけられている。「お気づきになりまして、特注なんですのよ」と、夫人が天井を見上げながら微笑んだ。大正時代、一般家庭に食堂が存在すること自体が稀有なことだ。まだ、居間兼食堂兼応接間、ときには寝室まで兼ねてしまう「茶の間」があたりまえだった時代だ。どうやら、お嬢様は食事にみえないので不在らしい。
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ボルシチをご馳走になりながら、「箱根土地に建ててもらったんですか?」と邸について詳しくうかがう。「いいや、うちはあめりか屋です。ガスの件もそうですが、上下水道完備というから土地を買ったのに、このあたりは下水道がまだ未完成なんですな、これが・・・。まあ、文化村の境界あたりだから仕方ないのかもしれんが・・・。だから、いまいち信用できんので、うちはあめりか屋に頼みました」とご主人。第二文化村に多い、300坪の広い敷地に建て坪78坪、総建て坪104坪(テラス部3坪を除く)の木造瓦葺き、堂々とした西洋館だ。
「ねえ、あなた、箱根土地が文化村から引っ越すってウワサ、ご存じ?」、「なっ、なにぃッ!?」、「お隣りの奥様が、そう言ってらしてよ」、「なんじゃそりゃ!?」、「なんでも、国立とかいうもっと郊外へ移転するんですって」、「むむむ、ガスと下水道はどうするつもりなんだ?」、「さあ、そんなこと、わたくしに訊かれても困りますわ」、「売り逃げするつもりか!」、「ねえ、明日にでも電話でお訊ねになったら?」、「うむ、そうしよう。まったく、事実だとすればけしからん話だ!」、「ねえ、あんまり興奮なさると、また血圧に障ってよ」、「明日、堤社長へ直談判してやる!」・・・etc。
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食後、ご夫婦の会話がひと区切りついたところで、2階もご案内いただいた。ご夫妻の寝室は、もちろん洋間にベッドで、ハイスクール(女学校)へ通うお嬢様の部屋もシャレた洋間だ。勉強室と名づけられた子供部屋からは、南側の広い芝庭が見わたせて、玻璃戸(はりど)を開けると3坪ほどのバルコニーへと出られる構造になっている。そこから眺めると、木立の間から第二文化村に建ちはじめた洋館群が、パノラマのように見えて美しい。佐伯祐三Click!がほとんど描かなかった、いかにも下落合らしく自由でハイカラな街並みが拡がっている。
2階には、来客用の居間兼寝室もあるが、こちらは和風で床つきの畳部屋となっている。「ステキな邸内を拝見すると、ひと眠りしたくなるんですよ。あっ、お風呂も入りたくなっちゃったりして」・・・と言うと、さすがにご主人は不愉快そうな顔をされて、わたしを1階へと連れもどした。
ご主人の「なんじゃそりゃ!?」と、居間で再び箱根土地へお怒りの声を背に、早々に靴ベラをわたされて追い出されたわたしは、改めて周囲からこの建物を観賞してみた。「やっぱり、ぜんぜん違うな」・・・とつぶやくと、手元の「下落合風景画集」Click!と照合してみる。
・・・そうなのだ。佐伯祐三がほぼ唯一、目白文化村の街並みを描いたとみられる作品Click!の描画ポイントで、わたしがMI邸だろうと想定した建物と、この建物の形状がまったく一致しないのだ。
もう一度、振り出しにもどって描画ポイントを検討してみなければならない。
■写真上:MI邸を南側の庭園から眺めたところ。棕櫚ではなく、大きな芭蕉が似合う。
■写真中上:左は、最新の家電が導入されている台所。右は、当時の住宅ではめずらしい食堂。
■写真中下:上左は、2階のベッドが置かれた夫妻寝室。上右は、来客用の居間兼寝室。下左は、勉強室でバルコニーから第二文化村を見わたせた。下右は、こちらも当時にしては広い浴室。
■写真下:左は、同邸跡を南側から眺めた現状。右は、描画ポイントが間違っていた佐伯作品。
83年前にタイムスリップしたMI邸探訪記、大変面白く、楽しく拝見させて頂きました。
お嬢様はどんな方だったのかぜひ知りたかったのですが、お留守で残念でした。
by sig (2008-05-25 09:40)
うちも下の子が喘息気味でしたので、ホルムアルデヒドを含む合板材や壁紙を排除するところから家づくりを始めました。nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-05-25 18:59)
sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
せっかく拝見させていただいたMI邸なのですが、1945年(昭和20)4月13日夜半にB29による「文化村空襲」で焼けてしまいました。ちょうどこの大きな西洋館が建っていたあたり、MI邸の北側敷地内に、戦後は安倍能成が第二文化村のもうひとつの自宅を建てて住んでいました。戦後のMI邸界隈につきましては、また改めて近々ご報告いたします。
by ChinchikoPapa (2008-05-25 19:07)
水車のゴトゴトと鳴る音が聞こえてきそうですね。
nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-05-25 19:12)
たろーさん、nice!をありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2008-05-26 19:51)