ダイクストラのシベリウスが素晴らしい。 [気になる音]
わたしがもの心つくころ、家の中に流れていた曲はシベリウスが多かった。もちろん、親父の趣味ではなく母親のほうだ。女学生時代から『レミンカイネン組曲』が好きで、中でも「トゥオネラの白鳥」には目がなかったようだ。親父は、長唄に清元に謡いと邦楽一辺倒だったので、このふたり、音楽的な趣味ではまったく合わなかったことになる。片や「♪あなあさましや~あななげかわしやぞ~ろ」と『すみだ川』が聞こえるかと思うと、一方から恋人が死んだイゾルデの悲痛なソプラノが聞こえてきて、悲劇的いや刺激的すぎてアタマがおかしくなりそうだった。
『レミンカイネン』のほかにもシベリウスはよくかかっていて、『タピオラ』や『悲しきワルツ』、『弦楽オーケストラのためのロマンス』、シンフォニーのNo.2、No.1などが印象に残っている。このころは、いまや“名盤”といわれているオーマンディ盤もバルビローリ盤も、はたまたC.デイヴィス盤も存在していないので、ビーチャム=ロイヤルpo.盤とか古いカラヤンの録音盤だったのだろう。いまだシベリウスは波の低周波音Click!とともに、わたしの耳について離れない。
同様に子供時代のわたしの耳には、ワグナーの楽劇もときどき登場した。こちらは、誰の演奏だったかはっきり憶えている。妙ちくりんな指揮者たちの名前は、子供でも一度聞いたら忘れない。もちろん、「フルヴェン」に「クナ」だ。『トリスタンとイゾルデ』はフルトヴェングラー=フィルハーモニアo.盤であり、『指輪』はクナッパーツブッシュ=ウィーンpo.盤(例のジークリンデがフラグスタートの伝説盤)だ。わたしは、いまでもクナの『指輪』は取り出して聴くことがある。案外、カラヤンのミーハーファンな母親なのだが、ワグナーに関してはこのふたりを外したことがない。
先日、目白バ・ロック音楽祭の「吟遊詩人とワーグナー&シベリウスの2番」コンサートへ出かけてきた。オランダ出身のペーター・ダイクストラ指揮=日本フィルハーモニー交響楽団の演奏で、ワグナーは『指輪』(ワルキューレの騎行)に『トリスタンとイゾルデ』(前奏曲)、『タンホイザー』(序曲)、シベリウスはNo.2とお馴染みの曲ばかりで、なんとも豪華なプログラム。音楽祭の詳細発表とともに、真っ先に目に飛び込んできた演奏会だ。バ・ロックは「場」と「人」という意味で、「バロック音楽」だと勘違いしている方が多いようだけれど、「バロック音楽」祭であればワグナーやシベリウスはありえないだろう。久しぶりのクラシック・コンサートだったが、文京シビックホールの大ホールはなかなか響きがよくて気に入ってしまった。残響の具合が、わたし好みでちょうどいい。
さて、演奏はなんといっても、シベリウスが素晴らしかった。まるで水を得た魚のように、静謐でほの暗いシベリウスの世界が一気に拡がった。わたしは、最近はヤルヴィ盤をターンテーブルに載せることが多いけれど、同夜の演奏もとても気に入った。管と弦のバランスがよいのがなによりステキだ。弦が艶やかすぎず、“絹ごし”なのがほどよい。ワグナーの演奏を意識してか、バイロイト祝祭典劇場のように第1バイオリンと第2バイオリンを左右に分けたのも、よい効果を生んだのかもしれない。(バイロイトは向かって第2v.左・第1v.右だったかな?) シベリウスの演奏を「水を得た魚」なんて書いたけれど、「水を得なかった魚」が前半のワグナーなのだ。(爆!)
子供時代のジーメンス製同軸2ウェイのコアキシャルユニットから聞こえてくる原体験のクナ盤『指輪』は例外にしても、わたしは寺山修司の名訳「この世の果ての揺り籠へ 流れてお行きちぎれ雲 流れてお行き水すまし」の『ラインの黄金』(新書館/1983年)が評判になっていたころの世代だから、ワグナーに関してはいろいろとあれこれウルサイのだ。同夜の演奏は、ひと言でいえば弦が管に飲みこまれてしまっている。(ホール特性もあるのだろうか?) かんじんの、ワグナーらしい弦の粘るようなウネリが湧いてこないのだ。シベリウスが“絹ごし”の弦だとすれば、誤解を怖れずにいえばワグナーは“ナイロン製”の、少しオドロオドロしいまでに艶やかで、ときにグロテスクかつ不気味な蔭りの感じられる響きがないと『指輪』の主題が表現できない。管が米国的にキラキラしていた、いまは亡きショルティ=シカゴo.がいちばんワグナー演奏で気をつかったのは、まさにその点ではなかったか? これは、オケのプログラムにおける得手不得手の問題があるのかもしれず、日フィルがシベリウスは演奏し慣れているが、ワグナーはそうではないせいなのかもしれないのだが・・・。
指揮のダイクストラとしては、およそ大時代的ではない軽快さと親しみやすさ、これからも数多くの若い人たちに聴かれるべき21世紀的なワグナーの姿を提示したのかもしれないけれど、「ワルキューレ」は天馬ではなくグライダーが滑空しているように聴こえてしまう。『トリスタン』にしても、悲劇的ではなくどこか爽やかに響いてしまったように思うのだ。ついでに、『トリスタン』は“前奏曲”だけではなく、“愛と死”もぜひカップリングして演奏されるべきであることを改めて痛感した。明らかに、ホールの観客は前奏曲の中途半端な終りにとまどって拍手を忘れていた。でも、弦の音色を考慮すれば、“愛と死”までは無理だったのだろうか?(時間的な課題もあるだろう) ワグナーの中では、管が張り出す(弦が後退しても違和感をあまり感じない)『タンホイザー』がいちばんよかったと思う。
ダイクストラという指揮者、ワグナーを再び演奏するのであれば、ぜひ弦が豊かなボリュームで艶やかに響くオケの演奏を聴いてみたいものだ。繰り返しになるけれど、鳥肌が立ったシベリウスは素晴らしい。目白バ・ロック音楽祭Click!は、まだまだ15日までつづく。チケットはお早めに!
■写真上:左は、文京シビックホールの大ホール入口にて。右は、ダイクストラのプロフィールを大きくフューチャーした、「吟遊詩人とワーグナー&シベリウスの2番」のコンサートリーフレット。
■写真中:左は、1983年(昭和58)に出版された寺山修司訳でアーサー・ラッカム挿画の『ラインの黄金』(新書館)。この翻訳直後に寺山は急死し、残り3夜の「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」は寺山訳でないのがいまだに残念だ。右は、いまでもときどきターンテーブルに載せられるクナッパーツブッシュ=ウィーンpo.盤の『指輪(ワルキューレ)』(1957年10月録音)。
■写真下:こちらは、聴く機会の多いシベリウス。ともにヤルヴィ=エーテボリo.盤で、左は『交響曲第2番・Op.43』(1983年9月録音)、右は『レミンカイネン組曲・Op.22』(1985年2月録音)。
新築の家へ行きますと、合板の接着剤に含まれるホルムアルデヒドが目にしみることがありますね。nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-06-05 18:40)
月明かりの下、夜のしじまから浮かびあがる建造物はどこか絵画的ですね。
nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-06-05 18:48)
ジム・ホールとビル・エバンスのコラボ作品は、下落合のカフェ「杏奴」のテーマソングになっています。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-06-05 19:40)
こんばんは。
シベリウスといえばストコフスキーの「フィンランディア」くらいしか分かりません。だからこの曲が大好きなのですが、いつ聞いても後半に掛かると次第にのけぞって後ろに倒れそうな興奮と感動を覚えます。
「ラインの黄金」「トリスタンとイゾルデ」はあまり音楽だけで聴いたことはなく、両方とも映画で楽しんでいます。昨年、2004年に独・米共同でTV向けに制作された「ニーベルングの指輪」(197分)がWOWOWで放送になり、
なかなか楽しめました。もちろんDVDにキープしました。
by sig (2008-06-05 21:14)
sigさん、コメントをありがとうございます。
わたしは、どちらかといいますと北欧の澄んだ空気と、黒い森蔭に差し込んだ弱々しい木漏れ陽が浮かんでくる、シベリウスの地味めでシブイ曲に惹かれてしまいます。ワグナーとは、ちょっと対照的な世界ですね。淡い光のパステル画と、こってりとした油絵・・・といった感じでしょうか。
『トリスタン』はBSでも教育テレビでもときどき放映されますが、『指輪』は昨年暮れか今年の初めに一度、教育テレビで放映されたのが記憶にあります。まるで劇団四季の舞台のようで、あまりにもモダンすぎて、ちょっとついていけませんでしたが・・・。(^^;
nice!をありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2008-06-05 23:49)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-04-10 18:15)