旧山手の西片町を歩いてみる。 [気になるエトセトラ]
東京市外である目白・下落合界隈が住宅地として開発される以前、江戸期に武家屋敷が連なっていた(旧)山手地域では、明治期に入ると早くから新しい時代へ向けた住宅街が形成されている。駒込の大和郷をはじめ市ヶ谷Click!、赤坂、麻布Click!、小石川などが代表的な乃手Click!の住宅街だが、今回は本郷の西片界隈を歩いてみた。なぜ西片地区かというと、他の山手地域はほとんどが空襲を受けて大きな被害を受けているが、西片は奇跡的に被害らしい被害を受けておらず、戦前の住宅街が丸ごと保存されてきた稀有な地域だからだ。
旧山手の住宅街は、山手線の西側内外へ大正期に形成された新山手とは異なり、明治期から建設がスタートしている。だから、江戸期の武家屋敷が残る一方で、明治のどっしりとした重厚な西洋館や大正期のモダンな洋風住宅、昭和初期に主流となった和洋折衷住宅と、まるで近世から近代にかけての建築博物館のような光景を目の当たりにすることができる。目白・下落合界隈に残る邸宅が、たいがい大正から昭和初期にかけての作品が多いのに対し、西片は幕末から昭和初期と、よりスパンの長い東京における街並みの変化を想像できる地域なのだ。
さっそく、東大前で地下鉄を降りて歩き出したのだが、やたらに人通りが多い。特に、目のやり場に困るミニスカやミニパンツをはいた若い女の子たちがたくさん歩いていて、西片は女の子に超人気の街だったのか(爆!)・・・と思いきや、東京大学の「五月祭」だったのだ。今度はキットカットClick!ならぬ、ついでに「東京大学新聞」を手に入れて漱石特集を読むこととなった。そう、西片の街は、夏目漱石をはじめ高山樗牛、長岡半太郎、木下杢太郎など東京帝大の先生たちが数多く住んだ、「学者の街」としても有名だったのだ。
西片は、もともと大名の福山11万石藩主・阿部家の中屋敷だったところを、1872年(明治5)から当の阿部家が住宅地として開発に乗り出した街だ。だから、阿部家の屋敷は現在でも西片の本郷台地の崖線上、ちょうど下落合にある西坂上の徳川邸Click!にそっくりな地形の位置に、現在でもそのまま建っている。1891年(明治24)に街の中心へ広場(現・西片公園/上掲写真)を設けるなど、明治期にしては大きく時代をリードした、斬新でユニークな街づくりを展開している。
街中を歩いてみると、さすがに空襲の被害に遭わなかったせいか、あちこちに古い建築を見ることができる。中でも特に印象的だったのが、江戸期の武家屋敷へ明治期に客間の洋館部を無理やりくっつけてしまった旧・田口卯吉邸(①)、絵に描いたような「博士の洋館」のN邸(②)、和館と洋館とがきれいに分かれた1921~22年(大正10~11)築のH邸(③)、1930年(昭和5)に建設されたアトリエがそのままの建築家・金澤庸治邸(④)など、歩いていてまったく飽きない街並みだ。西片には、西片のみで完結する独自の「いろは」を冠した住所表記が存在しているが、白山寄りの「西片町ろ」から「西片町は」がふられた崖線上の区画は、目白文化村と同様に大正期の街づくりの匂いがそこはかとなく漂い、西片町の一部の街路は近衛町と雰囲気がうりふたつだ(⑦)。
江戸期から焼けずに残ったせいか、あるいはディベロッパーが介在しない元・大名家による直接の宅地開発だったからか、西片町は西洋館よりも和建築の数がかなり多い印象を受ける。大正期に拓かれた下落合界隈を眺めてみると、洋館と和館との比率は3:1ぐらいの感触をおぼえるのだけれど、西片はまったく逆の1:3のような街並みのように感じる。それだけ、旧山手の西片は形成期の古い、江戸東京の伝統的な街並みということになるのだろう。
この西片町の西側に、いまは白山1丁目となってしまっているけれど、その昔、阿部家の福山藩にちなんで「丸山福山町」と呼ばれた地域があった。江戸時代は、単に「丸山」と呼ばれていた地域だ。江戸東京地方で丸山Click!とくれば、すぐに芝丸山古墳Click!に代表される、大きな古墳の築山のある可能性に気づく。はたして、西片の丸山にも巨大なサークル状の痕跡が見てとれる。1947年(昭和22)にB29が焼け跡を撮影した空中写真を観察すると、本郷台地の西斜面から崖下にかけて、ちょうど丸山地名があったあたりに、円墳状の大きなサークル痕がある。
すでに江戸後期には崩されて存在しなかったようで、尾張屋清七版の切絵図「小石川谷中本郷絵図」(1861年・万延2)を見ると、武家屋敷地と細い掘割りが通う市街地となっていたようだ。おそらく江戸前期に、ちょうどこのあたりへ山手の武家屋敷街が造成されたころに崩されてしまったか、あるいはどこか江戸府内で行われた土木工事の土砂用に、柔かい築山が丸ごと削られて運ばれてしまった可能性も考えられる。
いずれにしても、西片(本郷台地)は下落合(目白崖線)と同様に、古くから人々が住みついていた土地柄であり、現在の街並みがどことなく似ているのと同様に、古墳の痕跡や地名でもいろいろと共通点が見つかりそうな、また何度でも歩きたくなる楽しい街なのだ。
■写真上:左は、現在の西片公園に残るシイの木。右は、大正時代に撮影された「椎の木広場」
■写真中:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる西片町の全貌。下は、西片の街並みに残る近世(江戸期)から近代(昭和初期)にかけての貴重な邸宅群。特に、化学博士が夜ごと密かになにかの実験をつづけていそうな、②の風情ある西洋館が大好きだ。
■写真下:左は、1947年(昭和22)の空中写真に写る巨大なサークル。右は、新坂(福山坂)から見たサークル北東側カーブ。現在はほとんど斜面が存在せず、垂直に切り立った崖状となっている。
彼の学舎には全く縁がなく、本郷通りは高校・修学旅行のバスで通って以来という東京知らずですが、これだけの家屋敷が現在も使われている町というのは、まさに生きた建築博物館ですね。「江戸東京博物館」からお声がかかっているお屋敷もあるのでしょうね。いや、ぜひ掛けておいて頂きたいものですね。
by sig (2008-06-20 10:55)
ステキな鉛筆画は、地元の画家が残したものでしょうか? もう亡くなりましたけれど、下落合にも精密な鉛筆画を残された方がいて、いまや当時の街並みを知る貴重な資料となっています。nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-06-20 13:11)
sigさん、コメントをありがとうございます。
わたしも西片町を歩いたのは初めてなのですが(「丸山」の地名を見つけたので急に興味をおぼえたのですが)、昔懐かしい子供時代の東京山手を思い出しました。みどりが多く、風に揺れる樹木のざわめきのどこからか、ピアノやバイオリンの音色がかすかに聞こえてくる・・・という雰囲気ですね。でも、西片で聞こえてきたのは、いかにも武家屋敷街らしく詩吟のウナリでした。(笑) こういう風情にもモダン一辺倒ではない、東京の街々ごとに異なって残っている、江戸・明治期からの強いアイデンティティを改めて感じます。
せっかく焼け残った、詩吟流れる旧山手の貴重な街並みですので、できればいまの雰囲気が壊れないよう、後世までずっと残していって欲しいものです。
by ChinchikoPapa (2008-06-20 13:29)
東京も、そこらじゅうでヘビイチゴがなっています。ヘビもよく見かけるようになりました。nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-06-20 23:40)
このあたりにもいよいよ再開発の波が迫ってますねえ。
by mustitem (2008-06-21 08:01)
mustitemさん、コメントとnice!をありがとうございます。
広い道路沿いは、さすがにビル化が進んでいますが、一歩中へ入るとずいぶん空が広く感じます。いまだ、福山藩の「家臣団」や関係者のご子孫が多く住まわれ、町内自治がしっかりしているとすれば、バブルの「再開発」時代をほとんど影響なく乗り切ったように、“町殺し”の手はおよばないとは思うのですが・・・。
by ChinchikoPapa (2008-06-21 11:48)
認識不足でした。失礼しました。
本郷通り・白山通り・不忍通り沿いの再開発高層化が目を覆わんばかりの惨状となっているので,ここら辺は大丈夫だろうか,と心配だったので,ちょっと安心しました。
by mustitem (2008-06-22 22:26)
でも、住民の入れ替わりや代替わりは当然進行しているでしょうから、80年代と同様に街並みを壊さず、美しいまま残せるかどうか微妙ですね。うまく、街の「遺伝子」や「アイデンティティ」が暗黙知として住民のみなさんに受け継がれていれば、早々どこにでもあるような街並み化はしないように思いますが・・・。
わたしの地元でも、「ここは下落合という独特な街であって、停車場名である目白ではありません」といわれる生っ粋の下落合の方々がけっこういらっしゃいますが、「ここは本郷ではなく、西片という他に例を見ない独自の街です」という方が大勢いらっしゃれば、たぶん大丈夫だとは思います。(^^
by ChinchikoPapa (2008-06-23 11:27)