SSブログ

神田川と妙正寺川沿いの地勢相似。 [気になる神田川]

11033485.jpg
 妙正寺川の源流をたどり、湧水池である妙正寺池の界隈を歩いたことは以前にご紹介Click!した。1852年(嘉永5)ごろに作成された大江戸(おえど)の郊外、朱引き・墨引きの内外を描く「御府内場末往還其外沿革図書」を参照して妙正寺川沿いをたどっていくと、以前から面白いことに気づいていた。下落合村から長崎村にかけての地勢と、下沼袋村から江古田村にかけての地勢がどこか似ており、“聖域”のポイントまでが相似しているのだ。
 きっかけは、妙正寺川(神田上水助水)がまるで半島のように大きく湾曲して流れている中心点に、沼袋氷川明神が奉られていることに気づいたからだ。この独特なかたちには、下落合のごく近くでも見憶えがあった。いまは暗渠となってしまったけれど、谷端川Click!(千川分水)が半島のように湾曲した、その中心に長崎氷川明神(長崎神社)Click!の社(やしろ)が鎮座するフォルムとそっくりだったからだ。なんとなく既視感がもたらすカンのようなものに引きずられて、周囲の絵図を仔細に観察していくと、次々と面白いことがわかってきた。
 まず、西武新宿線の沼袋駅に近い、妙正寺川沿いの沼袋氷川明神は、古来よりスサノオ1柱を奉る社で、よく似た地勢の長崎氷川明神のクシナダヒメ1柱と、まるでセットのように照応している。そして、この「セット」現象は下沼袋村の北側に隣接する、江古田村の江古田氷川明神についても顕著だ。江古田氷川明神の北側には、妙正寺川の支流である江古田川が流れ、北側に段丘斜面を形成している。そして、江古田氷川明神に近接して、南西側に「丸山」という地名が存在しているのだ。周辺には、下落合氷川明神の界隈で見かける「大原」とか「本村」の地名もあるが、これはより一般名称に近いので、ことに地形を表現したと思われる「丸山」に注目してみたい。
11033491.jpg 11033493.jpg
 
 すると、下落合氷川明神のある南斜面を、まるっきり180度ひっくり返したかたちが、江古田氷川明神の姿なのに気づく。下落合氷川明神の南には神田川(神田上水)が流れ、すぐ北側は目白崖線の斜面がつづく。江戸期に絵図へ採取された「丸山」の地名は、下落合氷川明神の東側に見てとれる。明治以降は、「丸山」は字(あざな)として、下落合氷川明神の北東部広域に拡大されているようだが、江戸期の絵図が地域を局限してしまった・・・という可能性も考えられるので、ピンポイント的な地名として限定することは慎重にならなければならない。
 すなわち、北に江古田川、南西部に「丸山」の地名を抱く江古田氷川明神と、南に神田川、北東部に「丸山」地名のある下落合氷川明神は、上下がまるっきり逆さまの相似形というわけなのだ。しかも、江古田氷川明神の主柱は、昔からスサノオ1柱であり、180度のコントラストを描く下落合氷川明神は、古来よりクシナダヒメ1柱を奉ると、ここでも奉神が照応している。どうやら、高田氷川明神男体宮Click!と下落合氷川明神との「一対」だけではなさそうなのだ。
11033497.jpg 11033500.jpg
11033503.jpg 11033505.jpg
 「丸山」Click!の地名が残る、武蔵野台地の西端にあたる芝や、野川沿いの国分寺崖線には、規模の大きな前方後円墳が確認されていることを、鳥居龍蔵Click!の調査とともに以前からここでご紹介している。下落合の「丸山」も、「百八塚」の円墳とともに前方後円墳が存在したのでは?・・・という想定は、シリーズ化Click!してこれまで何度か書いてきた。この伝でいくと、下沼袋から江古田にかけても、古墳時代の遺構の臭いがプンプンするのだ。
 鳥居龍蔵の、関東大震災焼け跡調査にならい、敗戦直後の空襲跡もなまなましい同地区を上空から眺めると、沼袋氷川明神および江古田氷川明神ともに、古墳のような形状をしているのが見てとれる。実際に歩いてみると、両社とも本殿が墳丘部(削られた後円部)に設けられているような印象で、参道の階段部には明らかに方形に築かれた土塁の形跡が見てとれる。特に、沼袋氷川明神は斜面の勾配を活かした、かなり大規模な築土跡のように見える。また、両社ともまったく同じ方角を向いているのも、たいへん気になるポイントだ。参道鳥居が南南西、本殿の所在つまり参拝する方角が北北東で、厳密に測量でもされたように両社の向きはピタリと一致している。
11033506.jpg 11033508.jpg
11033512.jpg 11033515.jpg
 江古田氷川明神の西南にあたる、絵図に採取された「丸山」地名のあたりを、焼け跡の空中写真で観察すると、ちょうど江戸期に記入された地名の横に、大きなサークル状をした森があったことがわかって面白い。濃い樹木が繁っていたせいか、戦災でも炎をかぶてはいないようだ。現在では中野区歴史民俗資料館のある、ちょうど西側にあたるエリアだ。
 上空から円形に見える森をめざして過日、実際に周辺を歩いてみたが、北側が新青梅街道で削られてしまい、1947年(昭和22)の空中写真に見えるような風情は、ほとんど残っていなかった。

■写真上:沼袋氷川明神社の拝殿。妙正寺川の段丘斜面へ、ほぼ南北に築かれている。
■写真中上は、ともに嘉永年間に制作された「御府内場末往還其外沿革図書」。PC-AP『江戸・東京重ね地図』より引用。下左は沼袋氷川明神社で、下右は長崎神社(長崎氷川明神社)。
■写真中下は、同様の絵図を引用。下左は江古田氷川明神社、下右は下落合氷川明神社。
■写真下は、1947年(昭和22)に撮影された敗戦直後の空中写真。下左は、江古田の丸山地名が残るエリアの上空。下右は、水量が少ない湧水池近くを流れる妙正寺川。


読んだ!(9)  コメント(14)  トラックバック(4) 
共通テーマ:地域

読んだ! 9

コメント 14

mustitem

すごいです。
by mustitem (2008-07-04 09:40) 

ChinchikoPapa

関東大震災のときも、屋根の重い瓦で家屋が倒壊したり、落ちてきた瓦にあたってケガをする人たちが続出しましたので、震災後、屋根瓦はかならずクギで止めることが法令化し、同時に瓦屋根ではなくトタンとスレートの屋根が推奨されていますね。nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-07-04 11:09) 

ChinchikoPapa

mustitemさん、コメントとnice!をありがとうございます。
いえ、地図とにらめっこしてたら、たまたま気づいただけですので。(汗) 近々、目白崖線から出土した古墳刀について、他の古墳刀との近似点や作刀技術について書いてみたいと思っています。
by ChinchikoPapa (2008-07-04 11:13) 

sig

沼袋/長崎の両氷川神社、および沼袋/江古田の両氷川神社の地理的近似に端を発した「直感」~「推理」~「検証」の物語は、まさにそのプロセスをいっしょに辿っている感じがしました。すばらしいです。
それにしても空撮がもたらしてくれる情報は計り知れないものがありますね。
by sig (2008-07-04 12:03) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
過分のお言葉、たいへん恐縮です。(汗) 90年代に入ってからでしょうか、一時期、「空中考古学」というような考え方が流行ったことがありました。関東地方の古墳は、室町期から江戸期にかけ、かなり大規模なものでも崩されて農地化されていますので、地上から見ても痕跡が確認できずにわからなかったものが、空中写真に撮るとその痕跡がはっきりする・・・ということで注目されたのではないかと思います。首都圏のような住宅やビルで埋めつくされたところは無理ですが、上毛野(群馬県)地域のように田畑がまだ多く残っているところでは、その土色の変化や微妙な凹凸のフォルムで、ずいぶんたくさんの古墳跡が発見されたと聞いています。
敗戦直後の空中写真は、地表面の色こそわかりませんが、東京における膨大な数の古墳跡を見つけるには最適な資料といえますね。
by ChinchikoPapa (2008-07-04 13:17) 

さいれんと

空中考古学とても面白そうですね。
中沢新一氏のアースダイバー、愛読書です。
大磯丘陵は活断層が造った丘陵で、滝の沢とか滝に関連した地名が残っていると聞きました。鎌倉時代の話では丸山という地域と、化粧坂付近が
栄えたとあり、猫塚とか丸山周辺で発掘されたものが多いようです。
化粧坂も全国に結構あり鎌倉と大磯は有名ですが成り立ちは面白そうです。興味があるのは江戸の吉原にも化粧坂という坂があったそうで、不思議です。大磯町や平塚の古墳時代の横穴墓群は、現在の海抜20メータ−付近に集中していて古墳時代の海岸線を想像するのが愉しみです。
by さいれんと (2008-07-04 14:21) 

ChinchikoPapa

大磯丘陵は、北側に位置する万田の縄文期からはじまり、現在までずっと人々が住みつづけてきた痕跡のたどれる、とっても楽しい土地ですね。^^ その地名も、惹かれるものがいまだに伝承されていて興味津々です。
大磯は、化粧坂の地名にも惹きつけられますね。わたしは、どちらかというと「ケワイ」という、もともとの地名音に漢字が当てはめられたのではないか・・・と疑ってまして、「ケ・ワ・イ(ke-wa-i)」を原日本語(アイヌ語へ継承)で解釈しますと、「土地を削ったところ」というような意味あいになります。江戸では吉原が造成される以前から、なにか土地を削って土木工事がなされていたために、「ケ・ワ・イ」という地名音が残っていたのではないかな・・・と想像しています。
鎌倉や横浜に残る、「ヤ・ツ」(谷間の意味)の地名音に当てはめられた「谷」「谷戸」「谷津」といった地名や、良質な砂鉄が多く採れて鎌倉鍛冶へタタラの鋼を供給していたであろう、古墳時代からさかえた六浦=いまの金沢八景も、金(かね)の湧く沢沿いに残った「バッケ(ハケ)」(崖地)へ「八景」という感じが当てられているのだう・・・などと想像しては、楽しんでいるんですよ。神奈川県の地名は、始原的な音を感じさせてくれて、とても面白いです。
by ChinchikoPapa (2008-07-04 15:46) 

さいれんと

化粧坂は昔は半里ばかりうえにあり と書かれた江戸の分間地図があります。この意味は何を表しているのか興味を一時持ちました。鎌倉古道は東海道より丘陵の山裾叉は中腹にあったといわれ、現在とは違う、ケワイ(古代朝鮮語で狭い場所の意)という意味と、九州のおくんちという祭りを見学した時、諏訪神社の長坂と呼ばれる石段に座り見学しました。この時を思い出し、階段でも坂と呼ぶんだ。としたら化粧の為の石段でもいいのではと想像が広がりました。国府地区に「たれこ古墳」と呼ばれるものがあります。垂水からタレコに変化したのではないかという地理の先生の
話がありました。滝の沢と同じく活断層による地形の呼び名が近いとのことです。
by さいれんと (2008-07-04 20:28) 

ChinchikoPapa

近くの高麗山や高来神社の存在から、古朝鮮語の可能性も見逃せないですよね。古代の地名音が、鎌倉時代まで継承されていた可能性はじゅうぶんありますし、音で呼ばれていた地名に漢字があてられ始めたのは、それほど昔のことではない気もします。江戸時代には、現地の地形や風情に合わせて、元の音を尊重しつつも、もう一度漢字の付会的“あて直し”や“ふり直し”、ときにはあてられた漢字にひきずられて“読み直し”が行われている可能性も指摘できます。バッケ坂→化け坂→お化け坂(幽霊坂)、あるいはマップ→麻布→アサフというような、ひとつの転訛や変音の過程が想定できますね。
古代音と思われる「バッケ」という地名は、落合地域では戦後までふつうにつかわれていましたので、漢字にさえならずカタカナのままつかわれている古代語と思われる残滓は、探せばまだまだたくさんあるのではないかと思うと、ちょっとウキウキして深入りしたくなります。
by ChinchikoPapa (2008-07-04 22:32) 

ChinchikoPapa

「でんがら」というのは、まだ一度も食べたことがありません。
nice!をありがとうございました。>Krauseさん
by ChinchikoPapa (2008-07-05 22:52) 

ChinchikoPapa

ローズマリーは、ポトフ作りに必須ハーブですのでうちでも絶やしたことがありません。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-07-05 22:57) 

ChinchikoPapa

人形の頭(かしら)に弱いわたしです。文楽のガブが欲しくて、まだあきらめていません。^^; nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-07-05 23:01) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。
 >komekitiさん
 >kurakichiさん
 >さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-12-08 18:43) 

ChinchikoPapa

重ねて、nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2015-02-04 18:41) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 4

トラックバックの受付は締め切りました