ニンツァーが嘆いた「鬼」の謎。 [気になる下落合]
1919年(大正8)の7月、中村彝Click!のアトリエでは中原悌二郎Click!が来日中のボヘミアン、イリヤ・ニンツァーをモデルに彫刻(『若きカフカス人』)を制作していた。中村彝は療養のため、茨城県の平磯海岸へ出かけていて、アトリエは友人である福田久道が留守番をしていた。ニンツァーは、中原の仕事が進むにつれて、徐々に不満を露わにするようになる。そして、中原が自分の首像ではなく「鬼」を作っていると、悌二郎の妻である中原信をはじめ周囲へ訴えるようになる。
世界を放浪してまわっていたニンツァーは、ハルピンで鶴田吾郎Click!と知り合い、日本へ行くなら洋画家・高野正哉を訪ねろと、鶴田は旅先の大連から高野あてに紹介の手紙まで書いている。
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ニンツアとは数日間で東と北とに別れることになったが、その後東京に私が戻って聞いたことは、彼が日本に行くというので大井町にいる高野正哉に兎も角手紙で紹介しておいた。(中略)中村屋のママさんこと黒光女史は、ロシヤ語も習っていることを知っていたので、ニンツアを伴って訪ねた。中村屋の一隅には盲目の詩人エロシェンコが起居していた。黒光女史は兎も角エロシェンコと同室させたが、彼女の好奇心がニンツアの性格や思想に興味をもったことは、、その後両人の激しい心情が様々な形となって表れていたが、それは私が直接触れていないから書くことはできない。しかし彼は中村屋だけでなく目白の中村彝の画室にも現れた。 (鶴田吾郎『半世紀の素描』より)
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ニンツァーが彝アトリエで留守番をしていた福田久道を訪ねたのは、彼がロシア語に堪能でロシア文学の翻訳の仕事をしていたからだろう。それ以前に、ニンツァーは中原悌二郎夫妻とも知り合いになっていた可能性がある。高野正哉は、新宿中村屋Click!へニンツァーのことを頼みにいく以前に、中原宅を訪ねて相談していたのだ。それは、独身時代の中原信が新宿中村屋へ一時寄宿していたことがあり、中村屋の内情をよく知っているはずだと踏んだからだろう。あるいは、中原夫妻に相馬黒光への紹介を依頼しようと考えたのかもしれない。
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初夏の頃だったでしょうか。ある日、中原の白馬会時代からの親しい友人の一人の高野正哉氏が見えまして、在ハルピンの同じ旧友の一人鶴田吾郎氏から、ハルピンで知り合った若い露西亜人が東京へ行くから宜しく頼むといって来たけれど、どうしたらよかろうという相談でございました。他に妙案もありませんが、新宿の中村屋の相馬夫人は露西亜語を話されますし、中村彝さんの居られた画室も裏に空いている様子だし・・・(後略)。 (中原信『中原悌二郎の想出』より)
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こうして、中原悌二郎は彝アトリエが空いているのを利用して、ニンツァーClick!が「鬼」と表現した『若きカフカス人』の制作に取り組むことになる。この「鬼」という言葉が、わたしはずっと気になっていた。日本の「鬼」という概念は、少なくともニンツァーの出身地であるロシア西部~東ヨーロッパ界隈には存在しないだろう。彼は、いったい誰から「鬼」という言葉を教えられたのだろう? 「日本語で悪魔はなんと言うのか?」という質問に対して、ロシア語のできる中村屋の相馬黒光Click!か、あるいは寄宿していたエロシェンコClick!、さらに福田久道あたりが、「Oni」だとでも教えたのだろうか?
「鬼」の謎が、なんとなく解けてきたように思えたのは、彝アトリエでポーズをとるニンツァーの写真を見つけたからだ。アトリエに置かれたソファのアームに、足を組み取り澄ました表情で白いスーツ姿のニンツァーが座っている。背後の壁面には、彝が死ぬまで手放さなかったと思われる、『帽子を被る自画像』Click!(1910年・明治43)が架けられており、その下にも額に入れられた作品が2点ほど見えている。問題は、彝の絵画ではない。かろうじて画角に入った、壁の上部に架けられている石膏モチーフと思われる胸像あるいは首像群だ。
これは、いったいなんだろう? 拡大してみると、どうやらどこかの寺の十二神将Click!か、四天王、金剛力士像、あるいは風神雷神像の石膏型のように見える。ニンツァーは、彝アトリエでモデルになるとき、壁面の石膏像を指さしながら「これはなんだ?」と訊ねやしなかっただろうか? そのとき、あまり仏教彫刻に詳しくない誰かが、「鬼だ」と教えやしなかっただろうか? 邪鬼(じゃき)は、実はこれら仏を守る神将や守護神たちに踏んづけられているほうなのだけれど、その怖ろしい面貌からつい「鬼だ」と答えてしまったのではないか。そして、ニンツァーは自分の首像が完成に近づくにつれ、これらの石膏モチーフに近いような怖い表情が気になりだし、彝アトリエの壁面に架かった「鬼」と見比べながら、彼は中原が「鬼」を作っていると言い出したのではないか。
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ニンツアはとんで来て、私の手を引っ張って、画室の中原の作りかけの像の前につれて行きました。そして、/「中原は鬼を作ります。これ見て下さい。プーア・ニンツアを。」/と、しょげて見せるのです。/「私、これを毀してもいいかしら。私がこれを毀したら、中原は何うするでしょうか。」/私は何とも答えずに、その像を見ていました。 (同上)
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ニンツァーがほんとうに作品を破壊しそうに見えたので、中原悌二郎は未完成のまま『若きカフカス人』を自宅へと持ち帰り、早々にブロンズ屋へ渡してしまった。
さて、アトリエの壁面に、これら仏教彫刻の石膏型と思われる胸像を架けたのは、はたして彝自身だったのだろうか? それとも、誰かからプレゼントされた像を架けたものなのだろうか。彝アトリエに、このような仏像がらみの石膏像を持ち込みそうな人物は、下落合の霞坂あたりにひとりClick!、心当たりがあるのだけれど・・・。
■写真上:左は、彝アトリエでポーズをとるニンツァー。右は、中原悌二郎の『若きカフカス人』。
■写真中:左は、中原悌二郎の死後に石井鶴三によって採られた悌二郎の右手石膏型。右は、1931年(昭和6)に撮影された39歳ごろの中原信。
■写真下:アトリエ壁面の拡大。左側はどこか雷神像を、右側は十二神将の1体を想起させる。
先日の新宿祭りでも、大久保通りでハワイアンのパレードがありましたけれど、ブームなのでしょうか? nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-07-15 14:44)
音楽はプロデューサーが変わると、内容までガラリと変わることがありますね。小説家と編集者でも、それを感じることがあります。nice!をありがとうございました。>mustitemさん
by ChinchikoPapa (2008-07-15 14:48)
こんばんは。
壁面の拡大写真は興味がありますね。
おっしゃるとおり、雷神と十二神将の1体、いい線行ってるのでは・・・。
by sig (2008-07-16 00:36)
sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
デッサンに使用した石膏モチーフだったとしても、どうも中村彝の趣味ではなさそうですので、誰かからプレゼントされたような気が強くするのです。
by ChinchikoPapa (2008-07-16 11:21)
窓から木の家が見える風景というのは、やはりホッとしますね。
nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-07-16 23:45)
「明治丸」は一度見たいと思っているのですが、まだ出かける機会がありません。
nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
by ChinchikoPapa (2008-07-16 23:52)