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大岡越前は石をぶっつけられたか? [気になるエトセトラ]

小布施坂上.JPG
 目白駅から学習院側へ目白通りを歩くこと10分ほどで、右手にバッケ(崖線)の急斜面をひな壇状に造成した小さな公園(児童遊園?)がある。ちょうど、日本女子大学のまん前あたりで、戦前には小布施坂の由来となった広大な小布施邸が建っていたあたりだ。公園の南端からは眺望が開け、目白崖線上から新宿一帯を眼下に見わたすことができる。現在の地名は目白台1丁目だが、昔は小石川高田豊川町と呼ばれていたエリアだ。
 なぜ豊川という地名が付いたのかというと、ここに下屋敷を構えていた大岡家の邸内に、豊川稲荷の社(やしろ)があったから・・・ということにどうやら起因しているようだ。稲荷を勧請したのは、享保年間に町奉行や寺社奉行をつとめた大岡越前守忠相だったとされている。現在は同地に稲荷はなく、明治に入ってから大岡家は赤坂一ツ木に邸をかまえているので、そこへ移したものだろう。赤坂一ツ木の邸内にあった稲荷を、さらに赤坂見附付近へ1887年(明治20)に遷座している。そう、芸能人がよく参詣する赤坂の豊川稲荷Click!がそれだ。ちなみに、明治期から建っていた小布施邸は、大岡家下屋敷の敷地をそっくりそのまま買収しているようだ。
わたしのウッカリでこう書きましたが、ももなーおさんのご指摘により大岡家下屋敷のものと思われる豊川稲荷は目白台に現存していることがわかりました。さらに、ナカムラさんからいただいたコメントを元に調べなおしたところ、下屋敷をかまえていた大岡忠恕は、同じ大岡家でも大岡忠世系ではなく、岩槻藩主をつとめた大岡忠房系であることがわかりました。ということは、『高田町史』(1933年)に掲載された「大岡屋敷」の記述(大岡越前守)が誤っていることになりますが、先の豊川稲荷の存在と豊川の地名の由来がわからなくなってしまいます。どなたか、ご存じの方がいらっしゃいましたらご教示ください
 さて、稲荷があったのだからキツネの昔話がたくさんあってもいい地域なのに、なぜか目白台の界隈もタヌキのフォークロアがやたら多い。昔から現在にいたるまで、タヌキClick!たちがたくさん棲んでいた目白崖線のこと、キツネは肩身が狭かったのかもしれない。そんな大岡屋敷にも、江戸期から伝わる昔話が残っている。1933年(昭和8)に出版された『高田町史』から引用してみよう。
下落合だぬき1.jpg
  
 ◇大岡屋敷の狸の悪戯
 豊川町の大岡越前守の屋敷の前にあつた打紐屋に、毎日何処からともなく、沢山の石が降つて来るので、大評判となり、遠方から見物に来るものも多い。一日、雲低く空暗く、五月雨の粛々として物淋しき夕、激しく大岡屋敷から石が飛んで来るので、多くの見物人の中から一人が屋敷内に入り調べてみたるに、永くこの屋敷内に棲んで居る幾疋かの古狸が、人間を驚かさんとする悪戯である事が判つた。(同書「伝説」より)
  
 おそらく、わけのわからない現象は、みんな狐狸の類の仕業にしてしまったのだろうが、大岡屋敷の中間あたりがイタズラをしていたのではないか。ただし、幕末の尾張屋版の切絵図には大岡家下屋敷は存在するものの、文政年間の須原屋版の絵図には存在せず、同所は本庄伊勢守の下屋敷となっている。伝承された昔話の「大岡越前守」は、どこからか講談話がまぎれこみ、子孫の「大岡兵庫頭忠恕」がいつの間にか「忠相」へ転化したものではないだろうか? ちなみに、わが家の周囲ではほぼ毎晩タヌキを見かけるが、いまだ下落合ダヌキClick!たちに石を投げつけられたことはない。
高田豊川切絵図.jpg 高田豊川地形図.jpg
 つづいては同じく現・目白台で、『東海道四谷怪談』の舞台Click!となった高田四ッ家(谷)界隈に伝わる昔話。いつかご紹介したけれど、早大教授の山本忠興Click!が、あめりか屋に依頼して建てた“電気の家”Click!があったあたりだ。この一帯は、文化文政年間には尾張や水戸、一橋など徳川家ゆかりの家々が下屋敷をかまえていた界隈だ。田安家の下屋敷も、近くにあったのだろう。幕末に近くなると、ほとんどの家々が他へ移転している。再び、同書から引用してみよう。
  
 ◇田安邸の狸征伐
 高田四ツ家町の今の巡査派出所から高田銀行の向ふに渡つて徳川氏分家の一なる田安家の屋敷があり、広き邸内ゆへ、多くの狐や狸が棲んだ。年三回の練兵で、鉄砲の音が響くので、狐狸が驚き荒れ廻る、殿様の命令で、征伐して獲る事となり、大砲方の西原某が狸を生捕りにした。然るに其後、西原の妻が病気に罹り、狸の真似をして狂死し、生れた女の児は、半身不随の不具者となつたので、西原は応報が恐ろしく、遂に行方不明となつたと伝ふ。
  
 いるかいないかわからないほど大人しいタヌキが「荒れ廻る」というのは、いったいどのような状況なのか不明だけれど、これもなにか都合が悪かったことを、いっさいがっさい全部タヌキのせいにして落着させたような気配がする。無実の罪を着せられて殺されたタヌキこそいい迷惑で、人間が「応報」を受けるのはしょうがないかもしれない。
下落合だぬき2.jpg 紅葉1.jpg
紅葉2.jpg 下落合だぬき3.jpg
 最近は、近衛町Click!にもタヌキの若いペアが頻繁に出没し、日立目白クラブ(旧・学習院昭和寮Click!)界隈ではドッグフードをカリカリと美味しそうに食べているそうだ。おそらく御留山Click!グループのうちの2匹だと思われるのだが、冬に備えて肥るのに一所懸命なのだろう。

■写真上:大岡家の下屋敷跡=戦前の小布施邸跡にできた公園から、新宿方面を眺める。
■写真中上:日立目白クラブ界隈に夜な夜な現われる、御留山グループと思われる若いタヌキのペア。近衛町にお住まいのHedawhigさんClick!が、ご自宅から撮影されたもの。
■写真中下は、1857年(安政4)に刷られた尾張屋清七版「雑司ヶ谷音羽絵図」にみる大岡家下屋敷。は、1910年(明治43)に作成された「早稲田・新井1/10000地形図」にみる小布施邸。
■写真下:紅葉が散りはじめ、冬に備えるタヌキたちは食べるのに懸命だ。妙正寺川分水路.jpg
稲荷山・法明寺1890年代.jpg
矢島勝昭「根津山の主峰」昭和初期.jpg
矢島勝昭「山番の家」昭和初期.jpg


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コメント 81

sig

こんにちは。
けものたちが住みやすいというのは、多分、人にとっても自然なところなんでしょうね。
それにしても、都合の悪いことや広まっては困るようなことをみんな狐狸の類のせいにして通用していた時代は、問題の収まりも早くて良かったでしょうね。今日では、みんなが何でも知っているということが裏目に出ると、簡単に収まりそうな問題さえも大事件に仕立て上げられそうになったりして。
by sig (2008-11-30 14:33) 

ChinchikoPapa

エキゾチックなDuke Pearsonのピアノは、夏の海辺にとてもよく合いました。
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-11-30 14:58) 

ChinchikoPapa

近くなのに、雑司ヶ谷鬼子母神には少しご無沙汰です。さっそく近々出かけてみたいと思います。nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-11-30 15:01) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントをありがとうございます。
「そりゃタヌキに化かされたんだ」とか、「ありゃキツネの仕業さね」とかいうと「なるほど、そーか」・・・と納得してしまえるというのは、ある意味では自然に対する畏敬がどこかに感じられて、謙虚な姿勢というのも同時に感じられます。タヌキやキツネの存在を、気にもとめなくなったときこそ、人間にとっても危ない情況のように思えますね。
by ChinchikoPapa (2008-11-30 15:16) 

ももなーお

>大岡家の邸内に、豊川稲荷の社(やしろ)があったから

それは全然知りませんでした。元住んでいた家の近くにある豊川稲荷

http://momonao.blogzine.jp/blog/2007/11/post_a8ec.html

とは違うんですか? じゃあ、この↑↑豊川稲荷とダブってた時があったんですね。大岡屋敷内の豊川稲荷が元赤坂の豊川稲荷だなんて、全く知りませんでした。

by ももなーお (2008-12-01 17:36) 

ChinchikoPapa

ももなーおさん、コメントをありがとうございます。
おっと、大岡屋敷の豊川稲荷は、現存するこの豊川稲荷の可能性が高いですね! うっかり見過ごしていました。位置的にみても、そう捉えるのが自然です。ということは、上屋敷・中屋敷・下屋敷でそれぞれ勧請した稲荷を各屋敷ごとに分社化して祀っていたように思われます。
そう考えますと、赤坂見附の豊坂稲荷は上屋敷にあったもので、目白台に現存する豊坂稲荷は下屋敷にあったものがそのまま今日まで残っている・・・という可能性が高く思われますね。情報をありがとうございました。<(_ _)>
by ChinchikoPapa (2008-12-01 20:17) 

ももなーお

>上屋敷・中屋敷・下屋敷でそれぞれ勧請した稲荷を各屋敷ごとに分社化して祀っていた

なるほど~、それは自然な考え方ですね。赤坂見附の稲荷さんと親戚なんてロマンがありますね。
by ももなーお (2008-12-01 21:54) 

ChinchikoPapa

位置的に見ますと、豊川稲荷はどうやら大岡下屋敷の東南端にあったように見えますね。本所の吉良邸稲荷や、虎ノ門の京極邸金比羅社と同様に、江戸期から一般道に面した位置に鳥居や参道があり、おそらく周囲の町民たちへ自由に参詣を許していたんじゃないかと想像します。

by ChinchikoPapa (2008-12-02 00:27) 

ChinchikoPapa

こちらにも、わざわざnice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-12-02 19:30) 

kadoorie-ave

ご無沙汰しております。タヌキが住み続けているというのは、人間にとっても、豊かなことですよね。それにしても、私もタヌキと同じ理由で『紅葉が散りはじめ、冬に備えるkadoorie-aveは食べるのに懸命』なんでしょうか。決して『肥るのに一所懸命』というつもりはないんですが。
by kadoorie-ave (2008-12-02 22:07) 

ChinchikoPapa

kadoorie-aveさん、コメントをありがとうございます。
わたしはこのところ、平均体重よりもかなり痩せ気味で、たくさん食べなければいけないのですがなかなか肥れません。それほど激しい運動をしているつもりはないのですが、ちょっと仕事や取材をサボって、週末は食っちゃ寝生活をやってみようか・・・などと考えています。(爆!)
それとも、コーヒーとタバコの飲みすぎだったりして。^^;
by ChinchikoPapa (2008-12-02 23:48) 

ナカムラ

すみません、正確には書けないのですが、記憶をたどると・・・。大岡家は三河の出身で地元では豊川稲荷に帰依していた。江戸に赴任するにあたり、豊川稲荷を分社して小さな祠を屋敷の中に作った。それは今の赤坂小学校に位置であった。しかし、明治期に様々な異動があるなか、稲荷社は道路を越えて移設され、その後信仰者も増えて今のような大きな社になった、この大元の豊川稲荷は忠相がもってきたと聞いています。旗本クラスの大岡家は屋敷をわけていくつもだったのでしょうか。ちょっと疑問を感じますが。
by ナカムラ (2008-12-08 17:27) 

ChinchikoPapa

ナカムラさん、コメントをありがとうございます。
大岡家は、忠相晩年には西大平藩主として大名に取り立てられているし、切絵図にも下屋敷記号がはっきりと入れられているので、わたしはそこに疑問を持たなかったのですが、改めて調べ直してみますと、ここに下屋敷をかまえていた大岡忠恕は、同じ大岡家でも大岡忠世系ではなく、岩槻藩主をつとめた大岡忠房系のほうのようですね。
ということは、『高田町史』の編纂時から、姻戚ではあるものの大岡家の系統を取り違えていたか、あるいは同町史が制作されたときに採集された伝承物語の段階で、すでに「大岡越前守」の大岡家との錯誤が生じていた・・・ということが考えられます。ふだんから、「公式」記録を鵜呑みにしては・・・と書いてるわりには、『高田町史』に書かれていることをそのまま信じてしまい、裏取りを怠ってしまいました。(爆!)
すると、目白台の大岡家下屋敷の南に残る豊川稲荷の存在に、よけいに興味が惹かれます。高田町史は、より地主神に近い社か大きな社しか収録していませんので、豊坂稲荷の掲載はあっても、ももなーおさんが撮影された豊川稲荷についての記述はありませんが、まさか、大岡忠世系の大岡家から、江戸後期に分社化してもらってはいないでしょうね。古そうな豊川の町名も気になるところです。
by ChinchikoPapa (2008-12-08 20:26) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-12-11 12:53) 

Suyasuya

初めまして。
最近、wikiの豊川稲荷東京別院を大幅に加筆したものです。
目白台の豊川稲荷にも言及しています。

最初の版は、参考文献の内容をそのまま書いたのですが、別の本で、どうやら文京区には越前守の下屋敷はなかったことが解り、このサイトを見つけて、記事を修正するに当たっての参考にさせてもらいました。
有難うございました。
by Suyasuya (2011-12-06 17:34) 

ChinchikoPapa

Suyasuyaさん、わざわざコメントをありがとうございます。
わたしも、『高田町史』(1933年)の記述をそのまま鵜呑みにして、記事をサラッとためらいもなく書いてしまいました。普段から、「公式」の文書はウラ取りしないと・・・と書いているわりには、お恥ずかしい限りです。(汗)
わたしも、目白の豊川稲荷は散歩コースのひとつですので、またなにか新しいことがわかりましたら、こちらの記事でご紹介したいと考えています。
わざわざ、ありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2011-12-06 23:01) 

CLS


ChinchikoPapaさんご無沙汰しております

豊川町の町名の由来ですが、大岡家下屋敷の豊川稲荷と思ってました
しかし下記、明治16年の1/5,000地形図”高田村近辺”を見ると、豊川町は
目白通りの北側のみで、豊川稲荷のある高田村部分は、此の時点では
豊川町に含まれてません(町名も高田を冠しておらず、豊川町のみ)

http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/2275675-28.html

はてこの豊川は、どこから来たのか??、豊川町の氏神の腰掛け稲荷が、
以前、豊川稲荷と名乗ってたとの話を聞いた事はあるのですが、
詳細不明です

高田老松町も”老松”の元になった、細川家門に有った”老いた松”が
由来とされてますが、明治16年時点では細川家は、高田村でこの
老松町の町名も不思議です

尚、高田のマンションにも狸が迷い込んだとか、学習院の狸??
殺処分されなければよいのですが...

http://blog.goo.ne.jp/gaya-gaya
by CLS (2013-03-16 14:43) 

ChinchikoPapa

CLSさん、こちらこそご無沙汰しております。また、興味深いコメントをありがとうございます。
わたしも、ときどきこの「豊川町」ケースのような事例が気になることがあります。元になったメルクマールや記念物から、ややズレた位置に町名や地名がふられている・・・というケースですね。いままでの経験や感覚からいいますと、明治政府の誕生直後に制定された郡町村制で、どのような“線引き”が行われたのか?・・・という課題です。
裏返せば、江戸期はどうだったのか?・・・ということにもなるわけですが、入会地や共有地、飛び地があたりまえだった既存の村落共同体に、無理やり自治体としての境界線が引かれて“押し込められている”あるいは“切り離されている”箇所もめずらしくありませんので、かなりの無理がある線引きも行われたんじゃないかなと想像しています。
戸塚町下戸塚にある「高田八幡(穴八幡)」は、明らかに高田町の飛び地ですが、同じく戸塚町にある「高田馬場」は江戸期、どちらに属していたのか?・・・というような史的課題ですね。ちなみに、早稲田の高田八幡(穴八幡)は、1960年代まで名目上は豊島区高田町の飛び地状態がつづいていました。
「目白」という小字も、江戸期に明確な確認ができるのは関口の西側あたり一帯(現在の椿山荘西側から芭蕉庵あたり)、つまり江戸期に「目白不動」があったところですが、明治に入るとそこから西側一帯に「目白(台)」という地名がふられます。そして、目白不動自体が明治地名に引きずられるように、西へ大きく移動するなど、よけいにややこしい経緯になっていきますね。
「豊川町」も、明治期になにかの都合で豊川稲荷から分離され、町名だけ独り歩きしている・・・という可能性はないでしょうか。ちょうど、山手線の駅名が独り歩きし、ついには周辺の地名まで影響を与えるようになってしまったように。
by ChinchikoPapa (2013-03-16 22:44) 

CLS

豊川町の名の元に成った可能性の有る、腰掛稲荷の件を調べてみました

◎新編武蔵風土記
”清戸にあるをもって清戸稲荷...清戸及小石川四ツ家町の鎮守...”

雑司ヶ谷村の小字”清戸(清土)”が向かい側にある小石川村の小字名として
使われてたのでしょうか??、豊川町の母体と成った小石川四ツ家町は
当時から氏子だった事が分かります。

◎新撰東京名所図会
”豊川稲荷神社は、雑司ヶ谷町六十番地にあり。即ち鬼子母神出現所の
前通りの南側六十七番地角に庚申塚あり。豊川稲荷と題せし標石を建つ。”

こちらは最初から”豊川稲荷”としてますね、”標石”まで有ると成ると
やはり、豊川町の名の元に成ったのは、こちらのようです。
”標石”探しに行ったのですが、摩耗して読めない状態の物が、鳥居の陰に
有りました、時間がとれたらじっくりと確認したいと思います。

以下の文を表するサイトが有るのですが..
”明治6年2月に社名を氏子町名から「豊川神社」とするが明治7年に「稲荷神社」と改称。”

上記、新撰東京名所図会の様に、”標石”まで有ったとすると、地元では昔から
”豊川稲荷”と呼んでた可能性も有りますね

> 戸塚町下戸塚にある「高田八幡(穴八幡)」は、明らかに高田町の飛び
> 地ですが、同じく戸塚町にある「高田馬場」は江戸期、どちらに属してい
> たのか?・・・というような史的課題ですね。

高田総鎮守の氷川神社と比較すると、かなり差のある穴八幡ですが、
早稲田大学が出来る前はどうだったのかは気になりますね

高田馬場を考えると、江戸期の下高田以前が気になります、落合地区を
含めた、現中野区の上高田を合わせた”大高田村”、この時期の”高田の範囲藩医はどの程度まで広がってたのか??

> 「目白」という小字も、江戸期に明確な確認ができるのは関口の西側あ
> たり一帯(現在の椿山荘西側から芭蕉庵あたり)、つまり江戸期に「目白
> 不動」があったところですが、明治に入るとそこから西側一帯に「目白
> (台)」という地名がふられます。そして、目白不動自体が明治地名に引
> きずられるように、西へ大きく移動するなど、よけいにややこしい経緯に
> なっていきますね

目白台の小字は、不忍通りの北側の狭い範囲ですね、ただ私の記憶では
この小字を使用した記憶はありません。
現在は、町会名に冠されてはいますが、ほかは鬼子母神の御会式時の
”目白台睦”でしょうか?、これも住居表示変更以前は、”雑司ヶ谷町睦”と
記憶してます

本来の地名と離れた所に、国鉄の駅が出来、駅の周辺の地名が駅名と
同じになる、これは目白、高田馬場以外でも大塚、駒込が有りますね
大塚はかろうじて、文京区が大塚の地名を手にしましたが、大塚の北に
”豊島区南大塚”が有ったり、混乱は続いてます。

by CLS (2013-03-19 22:31) 

ChinchikoPapa

CLSさん、詳しい調査情報をありがとうございます。
明治6年に、明治政府の教部省(のち文部省)が、古くからつづく明神や権現、天神、稲荷、八幡などの社を、ひとくくりにして「神社」という総称を無理やりかぶせたわけですから、「豊川神社」は「豊川稲荷社」と呼ばれていた可能性が高いですね。
ちなみに、江戸総鎮守の神田明神の社(やしろ)は、無理やり明治政府から「神田神社」と付けられましたけれど、氏子の誰も(また一般の地元の人々からも)「じんじゃ」などと呼ばれずに、江戸期以前の呼称である神田明神、または神田明神社(かんだみょうじんしゃ)のままです。
ちなみに、ここ下落合でも総鎮守の社を「氷川明神」と呼ぶ人と、「氷川神社」と呼ぶ人とでは、わたしの印象ですが半々ぐらいでしょうか。
高田八幡社(穴八幡)は、ちょっとかわいそうな社でして、以前、記事にも書きましたけれど所在地の戸塚町が編纂した『戸塚町誌』では無視され(戸塚町の総鎮守は諏訪明神です)、かんじんの所属地域である『高田村誌』ならびに『高田町史』では完全に忘れ去られて記載がない・・・という社です。
わたしも、たとえば鎌倉期の高田村の姿、隣接する幕府の和田氏館(和田山と呼ばれた現・哲学堂公園です)と和田地域、そして上高田と下高田に分離したあと、さらに落合村、葛ヶ谷村、戸塚村、そして高田村に分離していった過程が気になっています。ほかに、「中井村」も存在したという話も聞きますけれど、具体的な資料にはこれまでお目にかかったことがありません。
最近の月見の記事ではないですが、山手線の停車場はことごとく地名とずれてますね。ちゃんと地名で付けるとすれば、淀橋駅(新宿)-百人町駅(新大久保)-諏訪ノ森or上戸塚駅(高田馬場)-高田駅(目白)-池袋駅・・・という感じでしょうか。池袋は、いちおう当該の地名を採用してますね。
by ChinchikoPapa (2013-03-19 23:39) 

CLS


遅くなりましたが、腰掛稲荷の"石標"確認してきました。
正面には「奉納 舗石 百五拾枚」左側面に「豊川神社」後面には「天保
二 二月」右側面は奉納者と思われる名は掘られてるようですが、細かくて判別できませんでした。

この"石標"は舗石を奉納時に建てられたもの、石標のみ残ったようです
遅くとも幕末にはすでに豊川神社と呼ばれてた様で、豊川町の町名由来は
この豊川神社の様です

>高田八幡社(穴八幡)は、ちょっとかわいそうな社でして、以前、記事に
>も書きましたけれど所在地の戸塚町が編纂した『戸塚町誌』では
>無視され(戸塚町の総鎮守は諏訪明神です)、かんじんの所属地域
>である『高田村誌』ならびに『高田町史』では完全に忘れ去られて
>記載がない・・・という社です。

この記事読ませて頂きました、不思議な話ですよね、高田町(村)
からすると税金も取れないので、忘れ去られたのかと思うのですが..
いまでは氷川神社と比べると、遙かに立派で、氏子も金持ち町会が
多いのか立派な、御輿倉が並んでます。

穴八幡がいつ頃から、早稲田付近の氏神になったのかも気になりますね
現高田馬場駅周辺の氏神が諏訪神社で、山吹町や神楽坂付近の
旧牛込区は赤城神社、早稲田鶴巻町には元赤城神社が有るのでここも
赤城神社でしょうね?(赤城神社は”牛込総鎮守”と称してるし)
今度、穴八幡の御輿倉も調べてみましょう

>淀橋駅(新宿)
新宿駅と淀橋は結構離れてませんか?(私の知る淀橋は、神田川に
掛かる淀橋ですが、淀橋区の元になった淀橋は別に有るのかな?不安)


by CLS (2013-03-30 16:20) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
豊川神社は、「とよかわじんじゃ」ではなく、豊川神の社(やしろ)ということで、「とよかわじん・しゃ」ではないでしょうか。「豊川」だけでは神名になりませんので、「豊川神」で固有名詞になるのではないかと思います。関口にある「水神社」は現在でも「すいじん・しゃ」、下落合の「氷川明神社」は「ひかわみょうじん・しゃ」と昔から呼ばれていたのと同様のように感じます。
穴八幡(高田八幡)は、地元の街や早稲田の商店会が盛り上げて、現在の隆盛があるんでしょうね。むしろ、総鎮守の諏訪社のほうが地味になってしまいました。諏訪明神社がもっとも栄えていたのは、おそらく江戸期から明治の下戸塚村ないしは戸塚村時代ではないかと思います。それに対して穴八幡は八幡神ですから、戦争の影響で昭和期に入ってから特に参詣者が増えたような感じもしますね。
穴八幡は、飛び地であろうが行政区画が別だろうが、下戸塚の早稲田通り沿いに鎮座しているわけですから、けっこう以前から「事実上」の鎮守的な存在になっていたような気もします。w
by ChinchikoPapa (2013-03-30 22:39) 

CLS


>豊川神社は、「とよかわじんじゃ」ではなく、豊川神の社(やしろ)ということ
>で、「とよかわじん・しゃ」ではないでしょうか。「豊川」だけでは神名になり
>ませんので、「豊川神」で固有名詞になるのではないかと思います。関口
>にある「水神社」は現在でも「すいじん・しゃ」、下落合の「氷川明神社」は
>「ひかわみょうじん・しゃ」と昔から呼ばれていたのと同様のように感じます。

"石標"を見たときは、単純に豊川稲荷では無く、豊川神社なのか?と
思ったのですが、確かに「とよかわじん・しゃ」なのでしょうね、なぜ稲荷
では無いのかは不思議です。
この腰掛稲荷、"腰掛けた人物”に関し"家康"と"家光"と2説あり??、
まあ、家康の可能性は低いでしょうが」、実際に腰掛けたのは、将軍
以外の人の可能性が高いと思ってます。

関口の水神社ですが、鳥居の額は何故か”水神神社"と表されてます
昨年」、友人と訪れたとき、「ここが水神社」と言ったら、「水神神社だろ
そこに書いてある」と鳥居を指さしてました、何故神を重ねるのか??

>穴八幡(高田八幡)は、地元の街や早稲田の商店会が盛り上げて、
>現在の隆盛があるんでしょうね。むしろ、総鎮守の諏訪社のほうが
>地味になってしまいました。

穴八幡周辺の町家は、早稲田大学開校以降発展したと思ってたのですが
先の、明治16年版の地図を見ると、東京専門学校は現在の正門付近
のみで、町家はその当時から現早稲田通り沿いに、発展してたのですね
穴八幡と水稲荷が、早稲田通りを挟んで向かい合ってる時代、氏子は
どちらに所属?と考えると,早稲田通りが境界でしょうね。
水稲荷の御輿倉には、おそらく宮御輿と思われる立派な御輿が、飾られて
るのみで、氏子の御輿倉は見てません(神田川方面に有るのか?)


by CLS (2013-03-31 20:24) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
正式呼称が「豊川稲荷神」なのはまちがいないのでしょうが、江戸期から略して「豊川神」という表現があったかどうか?…ですね。通常なら、江戸期には「豊川稲荷社」と表記するほうが自然なように思うのですが、氏子の呼称として、あまりにもあたりまえな「稲荷」を省いてしまって「豊川神」という呼び名が浸透していた可能性もありそうです。
徳川の産土神である、山王(溜池)の「日枝権現社」ですが、「山王神」と書かれた幟が天下祭りの山車行列にあったといいますから、ひょっとすると地名を冠して「神」を付与するという呼称も、あながちめずらしくなかったのかもしれません。「山王神」のほうが、日枝権現よりも庶民には馴染み深いと感じている氏子がいたとすれば、なにかの記念物を奉納する際に、「山王神社」(さんのうじん・しゃ)と記載してもおかしくない…という感覚が、当時からあったのかもしれませんね。
「水神神社」は、おかしいですね。現在の多くの地図では、「水神社」(すいじん・しゃ)のままなのですが、ひょっとすると「みず・じんじゃ」と解釈して、そのままにしているケースもありそうです。w
おっしゃるとおり、早稲田通り沿いの発展のほうが早くて、東京専門学校(早稲田大学)の周囲は田んぼだらけですね。きっと、講義の時間にはカエルの声と、灌漑の水車のまわる音がよく聞こえていたんじゃないかと思います。早稲田通り沿いが学生街らしくなったのは、大正期以降だと思います。
そういえば、水稲荷の神輿倉の記憶がないですね。冨山富士(冨山古墳/先方後円墳)=現・早大9号館敷地に水稲荷があったときは、おそらく神輿倉も付属していたと思うのですが、現在はどこにあるものか、展示されている神輿以外には見たことがありません。
by ChinchikoPapa (2013-03-31 21:19) 

CLS


>正式呼称が「豊川稲荷神」なのはまちがいないのでしょうが、江戸期から
>略して「豊川神」という表現があったかどうか?

正式呼称かどうかは?ですが、氏子は「豊川稲荷神」と呼んでたと思います
私は、他の稲荷社と区分するために「腰掛稲荷」と呼んでますが...
おそらく江戸期は、将軍(家康 or 家光)が腰掛けたとの故事に因み、
対幕府には「腰掛稲荷」氏子間では、「豊川稲荷神」と称したのでは?と
思ってます。

現在の正式呼称は単なる「稲荷神社」ですね「豊川稲荷」とすると
曹洞宗の「豊川稲荷」と混同するためかと..

今年の大祭の折には、各御神酒所(2カ所だけですが)を廻って
稲荷社の表記を確認してみます(おそらく「腰掛け稲荷」の表記は
無いでしょうが

>「水神神社」は、おかしいですね。
この鳥居の額以外は、境内のどこにも「水神神社」の表記は有りません
何故此の様な表記になったか不思議です。

早稲田の発展ですが、早稲田大学(東京専門学校)開校以降かと
考えてたのですが、それ以前から高田四ツ屋町以上に発展してたの
ですね、校歌の"都の西北"からすると、"田舎"のイメージが有ったの
ですが、"田舎"は大学周辺だけだったとは..

穴八幡と水稲荷の御輿倉、今度時間がとれたら再訪してみます


by CLS (2013-04-02 22:08) 

ChinchikoPapa

CLSさん、重ねてコメントをありがとうございます。
「豊川稲荷」について、新たな表記や事実がわかりましたら、またこちらでお知らせください。
「水神神社」の額は、おそらく明治以降に架けられたもので、「水神」あるいは「水神社」と表記されていたものが、教部省からの「神社」通達(明治6年)で無理やり「社」→「神社」に修正され、おかしな名称になってしまったのではないかと想像します。
このあたりから、「稲荷」はそれほどおかしくはありませんが、「天神」や「明神」と最後に「神」がつく社は、その部分を省いた名称にしないと「神田明神神社」や「諏訪明神神社」…というように、奇妙な二重表現になってしまいますので、かんじんの神の名前がしかたなく省かれて、地名の下に無理やり神社をひっつけた、おかしなわかりにくい名称がつづいているんだと思います。
もともと、早稲田大学の東側は「早稲田田圃」と呼ばれた低湿地帯で、その起源は、おそらく中世まで存在した奥東京湾のなごりである「白鳥池」まで遡れるんだと思います。当時は、もちろん神田上水は存在せず、その元の流れだった平川が白鳥池に注ぎ、流れ出ていた時代ですね。白鳥池は、飯田橋近くの大曲界隈から江戸川橋を越えて、早稲田田圃あたりまで拡がっていたといいます。
不忍池よりも大きかったと思われる「奥東京湾湖」ですが、この湖の干拓と早稲田地域の田畑の形成が、ほぼ同時に推進されたのだと思います。いまでも、地下の浅いところに地下水脈が流れていて、江戸川橋近くの住宅街では少し掘るとじくじくして、水がすぐに湧くそうですが、白鳥池が消えてから500年以上はたつと思われるのに、いまだその名残りがあるようですね。
だから、街道(早稲田通り)は少し高い位置に造成され、早稲田大学の界隈はいつまでも田圃が残っていた…ということじゃないかと思います。
by ChinchikoPapa (2013-04-02 22:55) 

CLS


「豊川稲荷」に関しては、9月の祭礼時に確認してみます(「清戸睦」等で
表してると嬉しいのですが、多分町会名を冠した「雑司ヶ谷睦」でしょうね

水神社の額ですが、鳥居は結構新しい物(大正年間~昭和初期?)
と思われますが、額は??,まあ戦前までは国の規制が、強く此を意識し
てた可能性は高いですね。

「白鳥池」の件は、"大きな「白鳥池」の埋め立て方法。”ですねこちらも
楽しく読ませていただきました
只、掲載されてる"『幻の江戸百年』の古代地形図”には地名の誤りが
有りますね、「目白台」と書かれてる場所は実は、「小日向台」です。
左の谷が、音羽台右の渓谷部は茗荷谷です。
従って地図の白鳥池の、最上流部は現江戸川橋付近となります

但し、私自身も"白鳥池の最上流部は、早稲田付近”にはかなりの
可能性であり得たのでは?、と考えてます

>だから、街道(早稲田通り)は少し高い位置に造成され
神田川南側と同様に、北側に有る高田の南蔵院北より江戸川公園に
至る道は、江戸初期に開かれたと考えてます。

この根拠ですが、「若葉の梢」には”南蔵院北に有る奥州橋から奥州街道
が徐々に上がり、稲垣家付近より平坦になる...”との記載があります
神田川の河岸段丘を利用した道と思われますが、今でも一部河岸段丘の
痕跡が見えます。

"水神社の上”の記載もあり、確かに現在も水神社の祠の上には、平坦な
土地が有りますし、この延長上は、芭蕉庵、椿山荘にも痕跡は有ります
白鳥池が早稲田付近まで広がってたとすると、音羽谷をどのように
渡河したか?、の疑問は有るのですが、小日向台付近は寺の境内や
寺社の敷地に含まれ、地形を確認できません。

伝承によると、小石川4丁目の善仁寺には"寺の前は、奥州街道で親鸞
上人が、通り当寺にに立ち寄ったおり...”と残ってるそうです
この奥州街道は、この先東大植物園を横切り、白山神社方面に向かったと
のではと推測してます

この”故故故奥州街道”中野付近から連なる寺社の古刹を考えると
府中から、渡河を避け妙正寺川の北側に開かれた道では?
この先、目白坂付近、小日向台南側、茗荷谷北部、善仁寺付近には
古刹が多数残ってます

by CLS (2013-04-03 21:25) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
ほんとうだ、いままで見過ごしていましたが、「目白台」と書かれた左側が護国寺へとつづく音羽の谷間のようですね。現状の「目白台」が、確かにうちの墓がある小日向のようです。w とすればおっしゃるとおり、ちょうど江戸川橋の交差点あたりが、白鳥池の西端になりそうです。
神田川北岸の街道筋ですが、わたしもちょっと迷ってまして、鎌倉期に拓かれた雑司ヶ谷道=中ノ道=現・新井薬師道(頼朝が奥州藤原氏を攻める際に通過した鎌倉古道=古奥州街道筋との謂れが残ります)と、江戸期のおそらくは街道の整備時、あるいは神田上水の開発時に拓かれたと思われる道筋とは、どこで重なり、あるいは分かれたままどこまでつづいていたものかが、いまいちハッキリしませんでした。
当時は、もちろん学習院の広大な敷地はなかったわけで、高田大通り(目白通り)から並行分岐していた清戸道の一部も、キャンパスの“下敷き”になっているところを見ますと、下落合の丘下につづく雑司ヶ谷道のつづきは、学習院斜面どこからか坂道状になり、あるいは中腹を横断して、やがては雑司ヶ谷方面を通り抜けていたものか、あるいはいずれか別の街道へと合流して雑司ヶ谷へとつづいていたのでは?…と想定していました。
お説の通りだとしますと、鎌倉期の奥州街道は現・学習院の斜面あたりから目白崖線の中腹を東西に横切り、小日向を経由して茗荷谷方面へと抜けていたことになり、小日向崖線ががぜん面白くなってきますね。
ちなみに、小日向の斜面にある大がかりな造成をされず、昔ながらの地形を保っていると思われる寺々の中腹にも、平坦な地形が見られますね。たいがいは、墓地に使われるか建物が建てられています。
by ChinchikoPapa (2013-04-03 22:46) 

CLS

>確かにうちの墓がある小日向のようです。
そうでしたね、ChinchikoPapa家のお墓は小日向ですね、実を言うと
私は小日向方面は不得手でして(^_^;

新編若葉の梢の”奥州橋”部分を下記いたします

"高田村の東に入る路に當る土橋であったが、今は石橋に改められた。
昔は南蔵院の境内高松のほとりからこの路にかかる。
大岡主膳正(武州岩槻、二萬石)の屋敷に古い松が有る。
それより稲垣摂津守(鳥羽、三萬石)の茶屋の邊から平地になる。
水戸屋敷・稲葉播磨守(安房、一萬石)屋敷・水神の上通り・
黒田豊前守(上総久留里、三萬石)屋敷の裏通りが古来の
奥州街道であって、今でも松並木が残ってる。黒田候にの笠松は銘木
である。"

大岡家の古い松付近から、登り始め稲垣家の茶屋付近で平行になるとの
意味と思われますが、どちらも今となっては、どこに有ったのか不明ですね

地形からすると、大岡家の南西付近から登り始め、現豊坂のクランク
部分の東端付近で、平行となり現日本女子大附属幼稚園の南側崖線下
の河岸段丘部分、現目白台運動公園南に有る作業用通路、新江戸川
公園内(残念ながら、公園内の通路は上下への起伏が多く、河岸段丘の
痕跡とは思えず、庭園造成時にかなり手を加えてるのか?)

この先は,水神社の上(こちらも新江戸川公園との間ははコンクリート壁で
隔たれ接続は確認できません。
隣の芭蕉庵内には、水神社上と同一高度に河岸段丘の痕跡と考えられる
道が残っており、現椿山荘方面に伸びてます。
椿山荘内は、芭蕉庵方面から来た道が、北上し渓谷部を渡河、この部分
には、庚申塔があり解説版には”設置当時からから此の位置で、野道
際に設置されてと考えられる”(意訳です)、設置当時は野道化してたのか
?..、此の道は現椿山荘ホテルへ向かってますが、江戸期以前は
”鼻”部分を回り込んで、現江戸川公園に向かったのでは?
現江戸川公園には、崖線の崩壊防止の工事でかなり手が入っており
河岸段丘の痕跡は失われてます、当時は同一高度を保ち、元八幡の
西側で、現目白坂に(当時目白通りは開かれておらず、目白坂が
奥州街道そのもの)
この付近に、”関口”地名の元に成った”関所”が有ったのでは?、と考え
てます

音羽谷を越えた後は、直接小日向台に上る可能性も有るのですが、
やはり寺社の分布を考えると、小日向台の崖線下が有力ですね
この先は、小日向台の崖線下や,善仁寺の先も調べてみたいですね

by CLS (2013-04-05 21:25) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
また、「新編若葉の梢」からの引用、わざわざありがとうございます。江戸期の切絵図と、ニラメッコしながら読むと面白いですね。大岡屋敷の「古い松」が、どのあたりにあったものか不明ですが、確かに稲垣屋敷は現在の目白通り沿いにあたる斜面北寄りの位置にありましたから、目白崖線の坂道をどうやら上っていく感触があります。
稲葉屋敷(のち細川屋敷)や水神社の上通りということですから、これは迷わず関口台町の道で、目白坂へと抜ける筋のように解釈しそうになります。ただ、最後の黒田屋敷の裏通りというのが、よくわからないですね。黒田豊前守の下屋敷に設置されていた表門は、目白坂筋に面していますが、その裏通りということは目白坂ではない道筋・・・ということになります。でも、黒田屋敷の裏(南側)には道はなく、西側には急坂と思われる道が採取されてます。
字面どおりに解釈すると、これらの屋敷の縄張り敷地を無視して、より古い時代の目白崖線を想像した場合、江戸期に屋敷地開拓のために埋められてしまった、崖線中腹を通る道があったのかも?・・・ということに、確かになりますね。どうも、現・目白通りや目白坂筋ではない、第三の道筋があったような印象が強いです。ただし、目白坂の屈曲を想定しますと、その下半分が古道に含まれていたのでは?・・・という感触がありますね。
目白坂の下を下っていくと、音羽の護国寺参道をはさんで、今度は小日向大地に上っていく急坂があり、小日向氷川明神の平地、福勝寺南側の平地、そして寺々の中腹につづく平らな地面につづいていくのがわかります。小日向崖線の南下は、江戸期は神田上水だったわけですが、その川沿いに古い道があって上水用の開渠掘削には便利だった・・・という考え方も、上記のコースとは別に成立しますね。
「関口」という地名は、わたしは神田上水と江戸川の分岐点、水戸徳川上屋敷の暗渠へとつづく取水口の、やや下流にあった「大洗関(堰)」または「大堰(関)」からきている・・・と考えているのですが、素直すぎるでしょうか。w
by ChinchikoPapa (2013-04-05 23:19) 

CLS

ChinchikoPapaさん今晩は、雨が凄いですね(^_^;

此の古奥州街道と後の、大名屋敷の関連ですが、各大名屋敷(下屋敷)が
目白台地に開かれたのは、明暦の大火以降と思われます。
それまでは農耕地 or 荒地、雑木林と思われます。

大名屋敷が開かれた当時は既に、現目白通り(清戸道)は開かれており
古奥州街道の使用頻度は落ちており、寸断されたのでは?

江戸期の地図で、古奥州街道の痕跡と思われる、道が正徳6年の
"下高田村絵図”の胸突坂と思われる、坂が南下し一度西にクランクした後
更に下って、再度西にクランクして、現幽霊坂の下株と思われる所に
接続されてます。(現永青文庫内?)
只此の道の北側に、"天昭大神"と"第六天"の表記が有り、狭い河岸段丘
の北側(崖線側)に祠が有ったとは思えず、崖線の上(現永青文庫内?)
では?、此の道が"水神の上通り”なのでしょう

"稲垣の茶屋"を見ても、河岸段丘の最上段では無く、崖線上と考えた方が
分かりやすいですね、"黒田の裏通り"此は気になりますね、然し神田川
沿いの道が"裏通り"とは、考えにくいので(此の場所を通れるので有れば
無理して、崖線の上ににちを作る必要は無い)、黒田屋敷の屋敷内に
有ったのでは??

まあ、この若葉の梢を見る限り、現目白通りと神田川の間に"失われた
古奥州街道が有ったのは確かだと思ってます(脇街道の可能性は
有りますが)

音羽谷を超えた先はワクワクしますね、小日向台を直接上った場合は
トレース困難ですが、河岸段丘で有ればそれなりの推測が出来ますので

小日向台の崖線は、目白台の崖線と異なり、小日向台から極端に
落ち込んだ、一段目の河岸段丘と現水道通りの二段目の河岸段丘のみ
(勘違いでもう一段有るのかな?)
まあ一段目は、かなり幅が広いので奥州街道沿いに寺社を造成
しやすかったのでは?、との事でこちらが有力と考えてます

江戸開府当時は、現水道通り部分は白鳥池に覆われてたと思うので
此の部分に道を作るのは困難で有ったでしょうね..

>「関口」という地名は、わたしは神田上水と江戸川の分岐点、水戸徳川
>上屋敷の暗渠へとつづく取水口の、やや下流にあった「大洗関(堰)」
>または「大堰(関)」からきている・・・と考えているのですが、素直すぎる
>でしょうか。w

文京区教育委員会の旧町名の由来では、"神田上水の堰が有った"説と
"関所が有った"との説が、併記されてるようです。
只、私の記憶では「神田上水、以前に関口の地名は有った」との文献を
見ております、(残念ながら、此の文献名等失念しております)
よって本当に正しいのかは??、です。
おそらく、高田や雑司ヶ谷の地名が出てきた時点(後北条期)だった様な
(曖昧で申し訳ありません)

by CLS (2013-04-06 23:37) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
爆弾低気圧による大暴風雨と予報がいっていますが、こういうときにはバッケの多い目白崖線の斜面は、ちょっと怖いんですよね。東京都による「崩落危険地指定」の赤い網がけが、落合地域(中井含む)のあちこちの斜面にあります。
わたしも、大名家や大旗本の下屋敷や隠居屋敷、あるいは寮(別荘)がこちらのほうへ建てられたのは、江戸の最初期からではなく、市街地の再編があった時期(明暦の大火をはじめとする大災害や朱引墨引の拡大=大江戸化も、その大きなきっかけになり得ますね)によるものだと思います。寺社の移転も上記のようなきっかけがあって、ずいぶん行われていますね。
江戸期の新たな街道や道筋以前に、小田原北条氏あるいは関東管領・上杉氏(大田氏)など室町期に拓かれた街道筋(多くの場合は鎌倉街道を踏襲していたのかもしれませんが、そうではない街道も拓かれていたと思います)、そしてそれ以前の鎌倉街道、あるいはもっと以前の古道と、はたしてどれだけ重なりどれだけ異なるのかが、江戸期以前の記録が不十分で地元の伝承や想定に頼るしかないところに、とてもはがゆさをおぼえますね。
現代的な視点をちょっと離れ、昔の人の“気持ち”になって考えようと努めますと、いまでは高い尾根上に道路を通すのに、それほど不自然さや困難は感じませんけれど、おそらく古い時代には尾根上に街道を敷設する…という発想は少なかったようにも思えてきます。
気象的にも風あたりが強いし、落雷などの気象急変をまともに食らう危険性が高いし、どこからでも丸見えで目立つというような軍事上の理由もあるのでしょうが、地形的な理由からも尾根上に街道を通せば高低起伏の影響がそれだけ大きく、街道自体に坂の上り下りが増えて非効率だ…という発想もあったように感じます。
むしろ、丘の中腹や麓、谷間、川沿い・海沿いを抜けていくほうが、安全性が高く効率的で確実なコースがたどれる…といったような開拓思想ですね。世の中が安定し、平和な時代を迎えられて、初めてどこへ道筋を通してもいいというような、自由な(ある意味では地形的な難易効率だけ考慮すればいいというような)設計思想が出てきたようにも感じます。
わたしの、あくまでも想像や思いこみですが、江戸期に開かれた道筋の発想と、戦乱がつづいていたそれ以前の道路開拓とでは、ずいぶん「交通」や「物流」についての考え方や、軍事的な「要路」についてのとらえ方に隔たりがあるように感じます。
目白崖線の中腹にありそうな街道筋ですが、そんな古い時代の開拓思想が反映されたものなのかもしれませんね。ちょっとこだわりはじめると奥が深くて、なかなか抜けられなくなりそうなテーマ性を秘めているように思います。w
おっしゃるとおり、関口村の名称は古そうですね。江戸期以前のいずれかの時代に、関所の記録が残っていないものでしょうか。わたしもちょっと、気をつけたいと思います。

by ChinchikoPapa (2013-04-07 01:09) 

CLS

ChinchikoPapaさん、夜遅くのコメントありがとうございます
昨日の雨で神田川の水位が、危険水位まで上がった地区が有る様で
心配いたしました。

旧下高田村の主要街道が、開かれた順は以下の順と考えております

1、古奥州街道
  伝承によれば、頼朝の藤原氏討伐時に使用されたとなってるので鎌倉
  街道が、  整備される以前に存在してた事になります。"大岡の古い
  松"から登り始めたのは、"古い松"の先は路を開けない状態で有った
  (湿地、沼、池等)この当時の目白台地上は、開墾もされず原生林
  状態で、神田川付近の集落(後の高田村)と弦巻川付近の集落
  (後の雑司が谷村)との行き来も困難??

2、宿坂付近の旧鎌倉街道
  鎌倉初期に鎌倉幕府の街道整備(軍事用道路)により開かれた
  これ以前から農作業用の道が有ったかもしてませんが..
  鎌倉街道が開かれた事により、下流側の古奥州街道は、軍事用
  道路としての役割は終了し地元民の東西連絡用として存在

3、清戸道(現目白通り)
  江戸初期もしくは、その少し前に開かれ、東部は古奥州街道の
  目白坂に接続、この時期には、"大岡の古い松"先も路を開ける
  状態になり、神田川北側の道が江戸川橋まで延びる
  この結果、"大岡の古い松"から目白坂上部の古奥州街の
  使用頻度は極端に下がり、江戸中心部より大名の下屋敷が移転して
  きた事により分断され、廃道と成った

このように考えられるのですが..、清戸道(現目白通り)に関してですが、
この道の大部分が、大高田村を通ってますね、この道の存在は農産物を
大消費地で有る江戸市中に運ぶための道として、大高田村にとっては、
非常に貴重な道でしょうねこの道を作らせたのが、徳川幕府か後北条氏か
不明ですが、ある程度の金を出して村民を動員しての作業、村民からして
も農閑期の仕事が有るし(これを考えると戦国期の後北条氏では無理が
有るかな?)一石二鳥ですね

>おっしゃるとおり、関口村の名称は古そうですね。江戸期以前のいずれ
>かの時代に、関所の記録が残っていないものでしょうか。
>わたしもちょっと、気をつけたいと思います。

此の付近に関所が有った可能性は、高いと思いますが、後の徳川幕府の
設けた、箱根関所等とは異なり、単に通行税を徴収するための関所
でしょうか?
この場合はあまり記録に残りにくいですかね?

by CLS (2013-04-07 21:41) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
最近、環七下の大きな地下貯水池と妙正寺川の分水流化で、神田川が溢れなくなりましたね。下落合では、警報のサイレンも聞こえませんでした。
>1、古奥州街道
鎌倉期以前の時代の街道筋は、記録としてはまったく不明なのですが、このところ立てつづけに発掘が行われた埋蔵文化財についての調査結果(大きめな一戸建て跡に低層マンションが建設されるという、1980年代後半からつづく再開発の“おかげ”です)が、どこか示唆的なように感じています。これは、目白崖線側でも反対側の上落合~下戸塚~上戸塚へとつづく河岸段丘沿いでも同様なのですが、多くの場合、遺跡に途切れた時代、空白の時代がないんですね。
もっとも早い大規模な発掘調査(1950年)となった、下落合西部の目白学園遺跡は住居跡が幾重にも重なっていて、旧石器時代から新石器(縄文)-弥生-古墳-ナラ-平安、そして鎌倉時代以降まで継続した集落(街?)であることが確認されています。特に、平安期から鎌倉期(和田山<哲学堂公園>の和田氏館が中心だったんでしょうね)にかけては、下落合のみならず上落合側も含めかなりの広範囲にわたって宅地ともども開拓されていたと想定できます。
いわゆる考古学地図を確認しますと、目白崖線の東西にわたってつづく「埋蔵文化財包蔵地」指定が、まるでグリーンベルトのように存在していることに気づきます。余談ですが、タヌキの森に違法マンションが建設される際、埋蔵文化財の試掘をしているのですが、ここも各時代の遺物が重層化していることが確認されました。
鎌倉期以前のナラ期の古墳、あるいはさらに以前の古墳期の出土物をみても、目白崖線沿いが人の住まない未開発の武蔵野原生林だった…とは、どうしても思えない考古学的な調査レベルになっていると思います。人が定住すれば道はできると思いますので、なんらかの街道筋があったとしても不自然ではないんじゃないかと感じますね。それが、近隣の村々をめぐる道路だったのか、あるいは遠方へと出かけられる街道レベルのものだったのかは記録がないので不明ですが、北海道や東北地方、あるいは長野、岐阜などからしか産出しない石によって作られた石器、あるいは古墳の副葬品の存在などを考慮しますと、古代にも案外物流を中心とした要路がかなり発達していたようにも感じます。
また、氷川(斐川)のメルクマールを残しつつ、川沿いを遡上してきたと思われる出雲の産鉄集団がいたとすれば(弥生末から古墳期だと想定できますが)、すでにカンナ流しを行なう川沿いの道筋、大量の炭作りを行なう森林間の道、そして生産した目白(鋼)を輸送する物流ルートと、やはり交通路は発達していたように思うのです。
>2、宿坂付近の旧鎌倉街道
このころは、明らかに軍事や経済を前提にした全国展開の交通網として、十分に意識された街道が設計・敷設されていますね。下落合の丘下を貫く鎌倉街道は、もし学習院斜面のいずれかから雑司ヶ谷方面に抜けていなかったとすれば、宿坂と交差していたんじゃないかと思います。これらの街道を実際に拓いたのは、おそらく“哲学堂公園”の和田氏ではないかと想像しています。現在でも、周囲には和田の地名が残っていますけれど、その地名範囲や下落合から上落合にかけてまでの鎌倉期遺跡の拡がりや密度を考慮しますと、かなり大きな“街”あるいは“大村”レベルの集落があったのでは?…と感じさせられる発掘状況です。
>3、清戸道(現目白通り)
下落合の近衛町入口あたりから学習院大学にかけ、目白通り(高田大通り)と清戸道は南北に分かれて、まさに鎌倉期の奥州街道が大名屋敷の下になってしまったかもしれないのと同様に、清戸道も学習院の下敷きになってしまっています。この清戸道(せいとどう/せいどどう)は、その「せいと」という発音にちょっと引っかかってまして、以前にも書いたかもしれないのですが、雑司ヶ谷鬼子母神が出現したとされる「清土」(せいと=現在は不忍通り沿いになりますが)と、道筋でなにか関連があるのではないか?…という想像です。
古い時代の清戸道は清土方面、つまり西進せずに北東へ抜けていたのではないか?…という楽しい想像ですね。いつかも記事に書きましたけれど、江戸東京地方に由来が知れないほど古くから伝わる火祭り「さいと払い」、この地方の方言で訛って「せいとばれえ」とも呼ばれている「神送り」の神事との関連です。(日本橋では「どんど焼き」と呼ばれていました) 江戸期には火事の原因となるので、ほぼ全面的に禁止されてしまいますが、この火祭り神事と「せいと」という音の繋がりに、どうしてもひっかかるのです。鬼子母神の出現に絡んだフォークロアは、いまでは忘れられてしまったけれど、それ以前のなんらかの神事や火祭りに由来する伝説・伝承から派生しているのではないかな?…という想定ですね。つまり、清戸道の「せいと(ど)」が神事に因んだ言葉であるとすれば、かなり古くから存在していた街道筋ではないかな?…という経緯も成立するんじゃないかと思います。
そして、現在の「目白通り」や「新青梅街道」という行政名称を抜きにして考えると、和田山(哲学堂公園)に建っていた和田館の目の前へとつづく道でもあるわけです。また、なぜ下落合の崖線下を通る鎌倉街道「雑司ヶ谷道」から、北へと向かう切通しの坂道「七曲坂」が、「頼朝の命令」(下落合の伝承です)により開拓されなければならなかったのか?…という疑問にも、直接つながってくるテーマですね。目白崖線に通う坂道の中で、「七曲坂」は最古のひとつですけれど、北側に別の街道があったから双方を通じさせる抜け道として拓かれたのだ…と考えるのが、きわめて合理的な回答ではないかと考えます。
関口村ですが、もし関所があったとすれば、もっと前の時代ではないかという気がします。このあたりは、豊島氏と大田氏が対峙する最前線だった時代もありますので、もし関所があったとすれば領内外へと出入りする、草(スパイ)や不審人物のチェックだったものでしょうか?

by ChinchikoPapa (2013-04-08 11:26) 

CLS

神田川の洪水、最後は中野での出水だと記憶してるのですが、
あれは何年前でしたでしょうか?
そうですね、確かに明治通りから西側の、発掘調査では重複遺跡が
多数派遣されてますね
然し残念な事に、東側での発掘調査ではその様な、発掘結果は知り得て
おりません(確認不足か?)

目白台地は明治通りから、東側日本女子大東側までは、目白通りを境に
北側緩斜面、南側は急斜面となってますが、その東側から豊川稲荷
(腰掛稲荷)と獨協中高校を結ぶ線までは、北側は平面、南側は有る軽度
まで平面、その先は急斜面となってます。
此の平面は、一見農耕地に見てるように見えますが、水利面からは当時
(前鎌倉期)は、原生林と書いたのですが、炭焼き等の需要を考えると
雑木林とすべきですね、そうなると杣道程度の道はあったはずですね。
明治通りの東側の北斜面は、湧水が利用でき田畑も広がってたと
思いますが、南斜面は、あまりにも急斜面で、当時そこまで開墾出来たか
は疑問です

この点を考えると、明治通りの西側と東側では、異なった状態ではとは
思いますが、但し古墳時代からの東西の線が、ここで途切れてたとは
思ってません(有るとすれば北側より、南側??)
残念ながら、目白台運動公園造成時に、発掘調査がされた様子が無いの
です。
まあ、旧公務員共済のグランド時点にあまりてを加えない(地上の建設物が少ない)との事で調査してないのでしょうが、調査をしてれば旧大名屋敷
の種々の遺物は発見出来そうですが..

>2、宿坂付近の旧鎌倉街道
>.下落合の丘下を貫く鎌倉街道は、もし学習院斜面のいずれかから
>雑司ヶ谷方面>抜けていなかったとすれば、宿坂と交差していたん
>じゃないかと思います。

此の仮定の道、学習院から北東方面に行くとすると、現明治通り付近で
目白台上に出る必要が有るのでは?、(現明治通りに成った旧のぞき坂
等々の、沢筋を横切る為それ以前に、台地上に出る必要があるので)、
落合方面から来た道は、何故か宿坂とは、交差してなかった様です、一度南下し南蔵院と金乗院の中間から北東方向に"旧奥州街道"に接続する様
で、不思議です(今現在は、そのまま東進する道は有ります)

>3、清戸道(現目白通り)
>この清戸道(せいとどう/せいどどう)は、その「せいと」という発音に
>ちょっと引っかかってまして、以前にも書いたかもしれないのですが、
>雑司ヶ谷鬼子母神が出現したとされる「清土」(せいと=現在は不忍通り
>沿いになりますが)と、道筋でなにか関連があるのではないか?…
>という想像です。

いい所を突いてきますね(^_^)、此の清戸通りの成立に関し、「将軍家
or 尾張候が鷹場へ行くため道を開いた」と書かれた物は多いのです
ね、"年数回のために道を作る??"との疑問多々、私からするとそれ
以前から、元に成った道が存在してたと考えてます

>古い時代の清戸道は清土方面、つまり西進せずに北東へ抜けていたの
>ではないか?…という楽しい想像ですね。

我が家は、此の不忍通りのすぐ側なのですが、目白通りとの交差点から
護国寺交差点までの坂は清戸坂(清土坂)の名が付いてます、目白通り
から下って、緩斜面を上り再度下る坂なのですが、何故か名前は、同じ清戸坂です、此の坂は不思議な坂で、いつ頃開かれた??、どの様に
作ったのか?、坂上部分は緩斜面を斜めに切り開いたとしても、最下部は自然地形を利用出来たとは思えず、かなりの土木工事が必要と思えるの
で、誰が此の様な工事をしたのか??
尚、清土の小字には"星跡(セイト)"、"星谷(セイト)"が転じたと諸説有るようです
星谷は、護国寺の西側の谷のようなので異なるでしょうが..

>もし関所があったとすれば、もっと前の時代ではないかという気がしま。
>このあたりは、豊島氏と大田氏が対峙する最前線だった時代もあります
>ので、もし関所があったとすれば領内外へと出入りする、草(スパイ)や
>不審人物のチェックだったものでしょうか?

なるほど視点が異なってました、後北条氏時期だと此の周辺は、後北条氏の支配地域なのにどこの誰が、どの様な目的で関所を作ったのか?、
と思ってました。
支配地域が、不確定な時期の境界線上の"関所"なのですね。

by CLS (2013-04-09 23:40) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
実は昨年でしたか、ゲリラ豪雨つづきの秋に下落合駅の南側(上戸塚側)で、急カーブをしている箇所の神田川が少しずつあふれ、地面が30cmほど冠水しました。もっとも、冠水したのはおもに道路で、家屋の被害はほとんどなかったのか、あまり「洪水」という表現では騒がれませんでしたが…。
時代が重複する遺跡として、明治通りから東ではその規模といい重なる時代といい、下戸塚遺跡(西早稲田1~3丁目遺跡)が面積としては「最大」ではないかと思います。目白崖線とは、神田川をはさんで反対側(南側)の斜面や丘上となりますが、ひょっとすると下落合の目白学園遺跡よりも、はるかに規模が大きいのかもしれません。
ちょうど早稲田大学のキャンパスあたりから、高田馬場や甘泉園を越えて西は明治通りの手前まで、近年、数ヵ所にわたって新宿区による発掘調査が行われましたが、驚くことに旧石器時代から縄文、弥生、古墳、ナラ、平安、鎌倉、室町、江戸、近代と、この一帯の遺跡はまったく時代の途切れがないですね。目白学園遺跡は、室町期に痕跡が一度薄くなるのですが、下戸塚に展開する遺跡は全時代を通貫する集落、あるいはその密度からいって街(?)を形成していたようです。
面積からいっても落合地域の目白学園遺跡より広い範囲ですので、ひょっとすると、こちらがメインの人口密集地だった可能性があったりします。まさに、おっしゃるとおり「有るとすれば北側より、南側」のようですね。目白運動場では発掘調査が行われなかったのは、ちょっと残念です。それとも、以前に一度調査が行われていたものでしょうか。
鎌倉街道としての雑司ヶ谷道の道筋が、ちょっと不思議で面白いですね。さて、どこを通って北東方面へと抜けていたものか…。先日、豊島区のトークイベントが開催された際、下落合の丘下を通る鎌倉街道は、おそらく南北を走る宿坂の鎌倉街道へと抜けて、雑司ヶ谷方面へ向かっていたのではないか?(江戸期は実際にそのように通じていたから「雑司ヶ谷道」なのかもしれませんが)…と、お答えしてしまったのですが、もう少し突っこんで調べてみる必要がありそうですね。
わたしも、清戸道(と江戸期に呼ばれるようになった道)は、江戸期よりも古い時代から通っていたのではないかと思っています。先の鎌倉期に拓かれた七曲坂の存在も理由のひとつですが、やはり和田山とその周辺に展開した和田一族の館とその家臣団の住まい(当時の家臣たちは多くの場合、士農合体型の生活をしていたでしょうから、家臣団の家は農家のような風情だったかもしれません)の存在が大きいと思うのです。
このサイトは、芸術分野を中心に近代の物語やエピソードを取り上げることが多いのですが、手薄になっている鎌倉期あたりから室町期にかけて、ちょっと調べてみたくなりました。w 新宿区の歴史博物館の展示や紀要を見ますと、けっこう鎌倉~室町の資料もあるんですよね。わたしが怠惰で、なかなか調べないだけなのですが…。
ちょっと余談ですが、いま東京駅のステーションギャラリーで開かれてます「木村荘八―花の東京 東に西に―」展に、1913年(大正2)に描かれた木村荘八『畑(雑司ヶ谷)』が展示されています。手前に畑が描かれているのですが、その向こう側に麓の家のサイズから判断しますと高さ推定10~15m、直径(右側が少し隠れていますが円状の小丘だとすれば)が、推定70~80mほどはありそうな小山が描かれています。すぐにも、宅地化で壊される前の古墳を疑うわたしですがw、このような小山がはたして雑司ヶ谷にあったでしょうか?
もどってから、参謀本部の1万分の1地形図で確認してもよくわかりません。最初は、雑司ヶ谷の北にあった根津山かとも思いましたが、どうも規模からいうともう少し小さいようですね。宅地開発で崩されてしまった、大塚駅近くの大塚古墳とほぼ同じぐらいのサイズです。

by ChinchikoPapa (2013-04-10 22:12) 

CLS

>実は昨年でしたか、ゲリラ豪雨つづきの秋に下落合駅の南側(上戸塚)、
>急カーブをしている箇所の神田川が少しずつあふれ、地面が30cmほ
>冠水しました。
上戸塚側ですと南岸ですね、"何故カーブの内側で?"と疑問を持ったのですが、地図を見て分かりました、水流がカーブ外側の北岸に当たり、跳ね
返った水流が、南岸で冠水したのですね、私の記憶では神田川沿いの
遊歩道の、南側は遊歩道より少し高くなってた様な?、それで遊歩道部分
のみの冠水で済んだのでしょうか?

下戸塚遺跡はかなり広い範囲なのですね、旧阿部球場の発掘調査は知ってましたが、甘泉園付近も発掘されてたのですね、実はこの旧阿部球場も
絡む、発表が、豊島区郷土資料館発行の「語り部」106号のP3に記されて
ます↓
http://www.city.toshima.lg.jp/dbps_data/_material_/_files/000/000/005/932/kataribe106.pdf
内容に対し、疑問が2点有りまして、
1、豊橋で渡河(河川改修前の豊橋を表示)
2、鎌倉側から下宿、中宿、上宿と宿場が有った
1に関しては護岸工事も、まともに出来なかった鎌倉時代に、河川の湾曲
部に架橋するとは思えない。
2は、何で鎌倉から見て、下、中、上なの??、が理由です。

この点と、新編若葉の梢の奥州橋の点を含め、豊島区郷土資料館の
学芸員の方と、話をさせて頂いたのですが、奥州橋に対しては「見落とし
てたな」と呟いておられました。
豊橋に関しては、「別に此の場所では無く、此の付近を徒河すれば良い」
と、神田川を徒河?とは思いましたが、戸塚遺跡の旧阿部球場部分を
意味してる、"鎌倉前期の官衙"「ここだけは、外せない鎌倉後期には消滅
した様なので、後期はどこを通っても良い」とのお言葉、残念ながら"何故
鎌倉から見て、下、中、上なの"の疑問には答えてくれませんでした

>目白運動場では発掘調査が行われなかったのは、ちょっと残念です。
>それとも、以前に一度調査が行われていたものでしょうか。
残念ながら、戦後公務員共済が、細川家から入手した土地で、建物も木造の管理棟のみなので、発掘調査がされたとは思えません(文京区が入
手した時点で、発掘調査をしていれば、新発見も?)

>「木村荘八―花の東京 東に西に―」展に、1913年(大正2)に描かれた
>木村荘八『畑(雑司ヶ谷)』が展示されています。手前に畑が描かれて
>いるのですが、その向こう側に麓の家のサイズから判断しますと
>高さ推定10~15m、直径(右側が少し隠れていますが円状の小丘だと
>すれば)が、推定70~80mほどはありそうな小山が描かれています。
>すぐにも、宅地化で壊される前の古墳を疑うわたしですがw、
>このような小山がはたして雑司ヶ谷にあったでしょうか?

何でしょうね?高さ10~15mとすると、かなりの高度差ですね、雑司ヶ谷と成ると弦巻川は外せないのですが、弦巻川が描かれてないとすると、
南側は幅も狭いので北側?、北側も下流部は崖線が迫ってるので、
法明寺付近かと思うのですが、だとすると手前に持院が描かれてるはず
ですね??、更に上流の上屋敷付近も"雑司ヶ谷"ですので(此を言うと、サンシャインの南側も雑司ヶ谷なので、かなり範囲は広がります)
と成ると、"古墳"部分は巣鴨や西巣鴨の可能性も有りますね、時間がとれたら東京駅に行ってきます。

by CLS (2013-04-10 23:44) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
神田川の岸辺から水があふれたのではなく、カーブが終わるあたりに架かった新堀橋か滝澤橋の橋梁に、おそらく流れの水面がぶつかって周囲へあふれたんじゃないかと思います。それほど広範囲ではなく、家屋の被害も聞きませんので、ゲリラ豪雨がやむと短時間で水位が下がり、橋梁へ水流が衝突することもなくなったんじゃないかと想像しています。

安倍球場の発掘は、かなり大きなニュースになりましたが、あまり目立たなかった早稲田大学キャンパス内の校舎建て替えの際の発掘や、やはり早稲田界隈のマンション建設現場での発掘(明治通り寄りが多いです)でも、「どこを切っても金太郎飴」ではないですが、時代的な断絶がない一貫した遺跡であるのは、注目していいポイントですね。

>1、豊橋で渡河(河川改修前の豊橋を表示)
>2、鎌倉側から下宿、中宿、上宿と宿場が有った
ひとつは、蛇行を繰り返す平川(現・神田川)について、江戸期の神田上水と鎌倉期の平川とが同じ姿や流れであったかどうか?…という大前提の課題がありますね。江戸幕府は、神田上水を開拓する際、ずいぶん土木的あるいは浚渫的な手を入れていると思いますので、江戸期の絵図を前提に400~500年前の鎌倉期の風景を想像すると、かなりの誤差が生じるのではないか…という課題です。
それから「2」についても江戸期に書かれた宿名から、鎌倉時代の宿名を想定していいのか?…という疑問ですね。おっしゃるとおり、どこを起点にした上・中・下の宿なのか?…だと思います。たとえば、室町期の各時代に大きな勢力を誇っていた豊島氏や板橋氏、練馬氏などエリアを起点にすれば、確かに上・中・下宿の位置づけはなんとか合致しますが、これらの宿名が鎌倉期に付けられたものだと規定できなければ、鎌倉街道に拓けた宿場町だと断言することはできず、室町期の宿場町としても不自然ではないですね。
ただ、鎌倉期から存在していた宿場はまちがいないけれど、時代によって名前が変化してきている…という捉え方は可能ではないかと思います。そのときの政治的な背景や、関東各地における集権エリアの推移によって、地名が変更されたり施設名が更新されるのはよくある現象ですね。

目白運動場は、掘れば必ずなにか出てくる地勢だと思いますが、発掘・調査記録が存在しないのは残念ですね。ただ地下まで深く掘削する、たとえばビルやマンション建設のようなケース(早大の安倍球場跡の新図書館ケースがそうですね)ではなく、地表だけの工事であれば「埋蔵文化財包蔵地をとりあえず保存」しているという状態になりますから、あえて発掘・調査が行われなかった可能性もありそうです。
最近は、どこの区でも予算が少ないのでそういう傾向なのでしょうが、埋蔵文化財の発掘・調査は当該エリアが全破壊をこうむるケースに限って、ようやく発掘・調査を実施しているようなのです。おそらく、目白運動場の地下には、早大の安倍球場跡にも劣らない学術的な“お宝”が眠っている可能性がありますね。

http://www.yokosuka-moa.jp/collection/search/result_list_k02.html
上の横須賀美術館ページの真ん中あたりに掲載されているのが、木村荘八『畑(雑司ヶ谷)』(1913年)です。手前の家が、丘からどれぐらい離れているかで丘の高度には振幅が出そうですが、畑地の中に忽然と出現している小山なので、ちょっと気になったしだいです。

by ChinchikoPapa (2013-04-11 11:42) 

NO NAME


冠水場所の件、最終端部での冠水ですか、新堀橋や滝沢橋の橋桁形状
を思い出せません..、でも高田馬場分水路を超えた直後ですね、増水時
には入り口のカーテンは、どの様な状態に成るのか??、妙正寺川側の
分水路入り口の形状を見ると、妙正寺川が満水状態だと吸収出来ない
様な気がします、妙正寺川からの逆流での冠水で無ければ良いのですが..

下戸塚遺跡の件、私が把握してたのは旧阿部球場の発掘調査のみで、
他発掘調査は??でした(反省(^_^;)
この"金太郎飴状態"は凄いですね、かなりの広範囲だったのが伺い
知れます

「語り部」に関してですが、"この付近"を表したくて、明治42版の1/10000
地形図を出し、当時の豊橋を示したかったのでしょうが、読んだ人は
"此の場所の橋"と判断するでしょうね。
当然ですが、護岸工事の施された、現在の川筋と異なり昔の川筋は、
頻繁に変化したでしょうからね、明治期の地形図を見ても、湾曲部が
途切れめ池の元に成ったのではと思わせる、場所もありますからね。

下宿、中宿、上宿の件も、その通りですね、江戸中期に書かれた地図を
元に「実際は、下宿も有って"想定"下宿はこの辺に有った」は、乱暴かも
場合によっては、"下宿"は最初から無かったかとも考えられます...

現目白台運動公園ですが、公務員共済の目白台グランド時代と(当時は
頻繁に忍び込んでました)
今と比べると、
1、西側の旧田中邸部分が駐車場になった(当時は、敷地外)
2、管理棟が木造から鉄筋コンクリートに建て替えられた
3、東側にフットサルコートとドックランスペースが新設された
4、南東部に有った、25Mプールが、壊され斜面広場に変身
この程度しか変わってません、公園用地購入資金として区の年間予算の
1/4~1/3を要したと区は発表してます(まあ半分は、国、都からの補助で
すが、まあ高価で有るのは確かですね)
従って、"地面の下は弄らないのだから、発掘調査は必要ない"としたので
は?(予算不足が最大の要因でしょうね)、ここは"将来の調査に備え保存
してる"と諦めるしかなさそうです

"木村荘八『畑(雑司ヶ谷)』(1913年)"
此はきついですね(^_^;、こんな場所本当に有ったのだろうか?、
畑と民家との間に有る線は河の護岸??、描かれてる家は農家と言うより
は、民家でしょうか?、畑と民家との間に有るのが、護岸とすればそれら
しき場所は、数カ所有りそうですが、大正初期の時点で丘の上や中腹に
家屋が、無いとは考えにくいですね、やはり畑と丘の間が気になります
現物を見ないと分かりませんね、復元後の東京駅まだ行った事が無いの
で、ちょうど良い機会ですから、暇を見つけて行ってきます
by NO NAME (2013-04-11 22:42) 

ChinchikoPapa

CLSさんですよね、コメントをありがとうございます。
妙正寺川の分水流である、地下への入口に設置された「カーテン」ですが、流れにそのまま押されてだんだん角度が水平に近い状態になります。妙正寺川が危険水位を超えると、上流の哲学堂公園の南にある環七の施設と同じような地下貯水プールが作動して、大量の水をそちらへ逃がしているんでしょうね。
5年ほど前でしたか、妙正寺川が急カーブする御霊下の西で、水流の強さに耐え切れなくなって護岸が崩れるという事故がありましたが、なんとか洪水にいたらなかったのは、上流の地下貯水プールが作動していたからだと思います。

旧・豊橋が架かっていた、フタコブラクダのような形状をした明治期の神田上水の流れについて、実は絵画作品とからめて記事を書いているのですが、近々アップしたいと考えていました。
おっしゃるとおり、鎌倉期から江戸期までの400~500年間、川筋のかたちに変化がなかった…と考えるほうがむしろ困難で、現在のような堤防も護岸も、はたまた浚渫工事も存在しない時代ですから頻繁に洪水を繰り返し、いろいろな流れのかたちを形成していたと考えたほうが、むしろ自然だと思います。神田川の支流である妙正寺川にも、旧・川筋と思われる湾曲した形跡が、大正期まであちこちに残っていたのが見られますね。

>現目白台運動公園ですが、公務員共済の目白台グランド時代と(当時は
>頻繁に忍び込んでました)
忍びこんで研究するのは、楽しいですよね。ww わたしも「関係者以外立入禁止」の財務省の公務員官舎(御留山の相馬子爵邸跡の一部です)へ、国税をきちんと滞りなく払っているのだから関係者だ…ということでw、相馬邸跡を含む敷地内を何度か見学させていただきました。そのような見学で、けっこう面白い発見や意外な事実が判明したりします。

>ここは"将来の調査に備え保存してる"と諦めるしかなさそうです
目白運動公園は、ここしばらく発掘調査が行われそうもないのは残念ですが、埋蔵文化財が確実に保存され、後世へ伝えられるということで“安心”なエリアですね。
むしろ、地下の掘削で遺跡らしい痕跡が明らかに出ているにもかかわらず、見なかったことにして破壊してしまうマンション業者のほうがよほど問題だと思います。自治体に「なにか出たよ」と報告すると、半年や1年間は行政の発掘調査で工事がストップしますから、さっさと壊して終わり…という事例が、新宿区には山ほどあるのではないかと思います。
わたしが譲り受けて保管している、鉄剣2振りと碧玉の勾玉も、マンションではないですが一戸建て住宅の建て替えの際に、目白崖線の地下から出土したものです。なにか出たら、保存してくれている方々は良心的ですが、通常は破壊して基礎のコンクリートを流しこんでしまうケースが多そうです。

>現物を見ないと分かりませんね、復元後の東京駅まだ行った事が無いの
>で、ちょうど良い機会ですから、暇を見つけて行ってきます
はい、ご覧になってみてください。大正期の宅地開発や道路工事でも事情はまったく同じで、行政の調査が入ることなく古墳や遺跡が次々と壊されていますので、典型的な古墳地名である以前の稲荷山のお話ともども、ひょっとしたら?…と思ったしだいです。
現状から観察して、「東京には古墳は少ない」と結果論的に判断するのはたぶん大まちがいで、明治末から大正期の関東大震災前後に、積極的な発掘調査を行なった鳥居龍蔵の言葉もそうですが、江戸東京地方はさまざまなタイプの古墳が相当な密度で展開していた地域だと、わたしも考えています。
鳥居が、震災後の寺社の焼け跡を調査し報告しているように、東京地方の寺社の多くが、その地形上の利点から古墳の上、あるいは古墳の上部を水平に削って建立されているのではないか…と想像しています。

by ChinchikoPapa (2013-04-12 14:46) 

CLS


済みません、NO NAMEで投稿しまいましたm(_ _)m
カーテンの件、あんな長いカーテンが、水平になるんですね、さすが水量
と言うかそこまで考えた上での設計なのでしょうね(当然ですね)
只、気になるのは、妙正寺川からの入り口の先に、新目白通り地下に設けた
第2妙正寺川幹線↓の吐口部はどう成ってるのか?、昨年春訪れたときは
吐口部は無かったのですが、"カーテン"の先だと見えません
http://www.gesui.metro.tokyo.jp/gijyutou/gn23/nenpou2011/1-2-2.pdf

↑は吐口部が、高田馬場分水路に対する影響のみで、"逆流"には触れて
ません。まあ、この点も考慮してるとは思いますが..

"忍び込み"ですが、中学時代にセルロイドの下敷きを削って、燃料とした
ロケットを持って、友人数人と冬の水を抜いたプールに忍び込み打ち上げ
を、試みたのですが、直前に見つかりお目玉を貰いました(^_^)
此の運動公園を購入するに当たり、多額の予算を使った文京区ですが、
"決断してくれた"との思いと、バブル期に"豪華庁舎"を建てたのなら、当然
の行動との思いが交錯してます。
新宿区は、この種の古跡不動産の取得と、公園化に尽力されてる様で
羨ましいです(例外は有るようですが)

>わたしが譲り受けて保管している、鉄剣2振りと碧玉の勾玉も、
>マンションではないですが一戸建て住宅の建て替えの際に、目白崖線の
>地下から出土したものです。
凄い事ですよね、自ら不利になるの分かっててその様な事を、されるとは
先日も鬼子母神の、欅並木西側の家が取り壊され、"発掘調査を
するのかな?"と思ってたら、そのまま新築工事が、進められてます。
東側では、発掘調査も行われ、"入歯"まで発掘されたのに...

"木村荘八 雑司ヶ谷"で検索を掛けたら、以下のURLが、4/5日の
エントリーに"母上が、明治24年生まれ、(この方何歳?)ですが、
畑;雑司ヶ谷に対し「風景を見た覚えが有る」と凄いですね
それも、「行ってきました」と書かれてるので、何と"今時の年寄り"は
(^_^;です、私もこの方を見習って、頑張りたいですね
多分この方の方が、詳しいかも(^_^;

http://blog.goo.ne.jp/supika09/

by CLS (2013-04-12 22:57) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
確かに、「吐口」がないですね。辰巳橋の真下にも見えませんので、「カーテン」の向こう側、暗渠の中に設置されたものでしょうか。改めて注意してみます。
新宿区について評価できる点といいますと、周囲の自治体が次々と豪華な区役所を建設しても、その“ブーム”にのらず、相変わらず歌舞伎町のちょっとくたびれた(はっきりいってボロい)ビルで“我慢”している点ですね。w
中心となる区役所は既存の施設のまま、各地に分庁舎を多く建設する「分散処理」型の体制を採用している点も、危機管理の側面から見ると評価できる点だと思います。中心がコケたら、みなコケた(集中処理型)…という災害時や事故時のリスクを分散していると思われるんですね。そのかわり、昨年でしたか東京都から新宿区役所のビルは古すぎるため、地震に対する強度不足を指摘されて、「さて困った」状態になっているようですが。^^;
ときどき、どうしても撮影したいポイントがあって、私有地なので誰かに断わろうと思っても近くにどなたも見あたらないため、そのまま入って撮影していたら見つかって咎められた…というケースは多々あります。w
ただ、撮影の理由をお話すると、たいがい「じゃあ撮り終わったら、すみやかに出てください」と言われることが多く、そのまますぐに追い出されたというケースはいまのところは皆無です。
鬼子母神近くの「入れ歯」発掘、面白いですね。w 江戸時代の木で作られた、精巧な入れ歯でしょうか。江戸期も後半になると、メガネや入れ歯など日常的な医療用具が発達してくるので、それをテーマにすると面白い記事が書けそうです。
わたしの手許にある、目白崖線から出土した古墳期の遺物ですが、特に私有地に属していた遺跡の一部を壊して、地下駐車場や地下室をこしらえても、条例に強い罰則規定はなかったかと思いますので、つい面倒な発掘調査を避けたい…という思いのほうが強かったのでしょうね。ただし、どこの家々から出土したかは黙秘してください…というお約束のもとで譲り受けました。^^;
『畑(雑司ヶ谷)』の風景に、やはり見憶えのある方がいらっしゃいましたか。ひょっとすると、CLSさんも実際に作品の画面をご覧になったら、思い当たる場所に気づかれるかもしれませんね。「小高い場所があった」と過去形で書かれていますので、この小山はやはり崩されて、現在では住宅地になってしまっている可能性がありそうです。

by ChinchikoPapa (2013-04-13 15:20) 

CLS

ChinchikoPapaさんコメントが遅れ済みません
"第2妙正寺川幹線の吐口部"やはり、"カーテン"の手前には有りません?
まだ工事が行われてないのか、"カーテン"の先に有るのか??ですね、
それにしても”幹線”が出来てから、"吐口部"の検討をするとは、民間では
考えられないですね。

新宿区役所は築47年でしょうか、確かに耐震構造上は補強なり、改築は
必要でしょうね。文京区役所は"豪華庁舎"の先駆けのだったので、当時の
TV番組に区の職員が呼ばれ、色々と質問されてましたが、建設費用に
関し「我々が貯めた金で、とやかく言われる覚えは無い」と突っぱねて
ました。"貯めた”原資は区民税なのを忘れてるの??、と思うのは私だけ
では無いと思うのですが。
しかも、出来上がった区役所、最上階に区長室、議場、議員控え室が有り上から区民を見下ろしてるのか?

新宿区役所は、建て替えるとしても、どの様にするのですかね?、仮庁舎
を借りその間に、現在の庁舎を建て直す。近所に新築移転?どちらにし
ろ、今の場所では大変そうですね、場所が変わると”区役所通り”の名前も
変更?

"進入"がらみですが、先の金山稲荷(金糞稲荷)の質問に答えてくれた、
日の丸食堂のご主人に「あそこは入っては拙いんですよね?」と質問したと
ころ、「勝手に入る人はいるけど」と何となく"自分が見て無なれば...”とも
思ったのだけど、そのまま諦めました、崖が崩され分譲されてる現状を見ると、"進入してれば良かった"...やはり拙いでしょうね

鬼子母神の入れ歯ですが、↓に経過が書かれており
www.toshima-iseki.org/img/200906zoushigaya/zoushigaya-iseki0906.pdf
3ページに土から出て来た前歯部分が、写されてます。
入れ歯を見つけた人は、びっくりしたでしょうね(もう少し掘ると頭蓋骨が..)
此の場所を発掘してるときには何度か前を通り、気にしておりました
終了後、確か発掘品の写真を貼った"パネル"が現場前に設置され入れ歯
の全体写真も有った様な記憶があります、木製の精巧な物でした、
本当にお客さんの忘れ物?

出土品の件、やはり「内密に」が付くのですね、まあ当然と言えば当然な
のでしょうが羨ましい限りです

『畑(雑司ヶ谷)』ですが、実は私は"丘と言うより、崖線から突きだした鼻部
分が、見る方角によって丘に見えるのでは?"と思ってます、だとしても
大正初期に木も生えてない、丘状の地形はあったのかな??(当然私は
生まれてませんので)
「根津山では無い」と書かれてましたが、此の根津山、今では"山"とは思え
ない状態ですね
新宿区役所の件と関連しますが、この根津山の一部と思われる旧日の出
小学校跡地では、豊島区役所+αの建設工事が進んでます、再開発
事業の一環として建設されてるのですが、下層階は店舗と区役所、
上層階は分譲住宅となってます、此の方式が良いのかどうかは
この先、再度建て替え期が来た時に成らないと分からないでしょうね...

by CLS (2013-04-14 22:29) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
「吐口」はまだ確認していませんが、東寄りの「60度放流案」が採用され流路が変更されたとすると、カーテンの向こう側で見えないということになりますね。

新宿区役所は、いまのところ別の場所に移転するとも、仮庁舎を設置して建てなおすとも聞きませんので、おそらく新築する予定はなく、ビルの耐震補強工事で当面はしのぐのではないかと。各地にある分庁舎や出張所の充実(先に書きました「分散」コンセプトですね)もそうですが、中央図書館の移転が迫っていますので、区役所自体のメンテナンスないしは工事は、そのあとではないかと思います。

鬼子母神の義歯は、面白いですね。先日も友人と、江戸期の義歯について話していたのですが、出土した義歯は江戸期によく見られる木製の真っ黒いものではなく、白い色をしているのが興味深いです。真っ黒な義歯は、既婚女性がしていたものかと想定できるのですが、白い義歯は男性のものでしょうか。
白色のまま出土している状況を見ると、木製ではなく象牙や鹿角といった別の素材のようにも見えてしまうのですが、、ちょっと追いかけてみたくなる出土品ですね。白色が落ちないよう、木の表面になにか特別な絵の具で塗ったものでしょうか。
おそらく、「お客さんの忘れ物」ではないですね。w 義歯を使用していた人が亡くなり、そのままどこかへ仕舞われて放置されてしまった…というような経緯でしょうか。

>出土品の件、やはり「内密に」が付くのですね、まあ当然と言えば当然な
>のでしょうが羨ましい限りです
ただ、遺物を発掘した方がだいぶ前に亡くなり、敷地から出土したお宅がとうに引っ越しをされて、その跡に別の住宅かマンションが建っているようなケースでしたら、もはや「時効」かとも思います。w
古墳刀の1振りは、腐蝕が浅くて身幅(刀の厚みのことです)がよく残っていましたので、研師に頼んで研いでしまいましたが、なにかの機会に新宿歴史博物館か、出雲の産鉄一族「斐川(氷川)」のメルクマールである、氷川明神へ寄託できればと考えています。

>「根津山では無い」と書かれてましたが、此の根津山、今では"山"とは思え
>ない状態ですね
最初、戦時中の空襲被害でとともに有名な根津山を疑ったのですが、根津山はずいぶん以前から道路が貫通して、原型をとどめてはいないですよね。古老が描いたイラストは見たことがあるのですが、ちょっとよくわかりませんでした。
木村荘八の『畑(雑司ヶ谷)』は1913年(大正2)ですので、いわゆる「戦前の記憶」では追いつかない、もっと以前の風景記録なのだと思います。明治期の雑司ヶ谷がわかる、「明治東京名所図会」あたりに、なんらかの手がかりがあるでしょうか。

by ChinchikoPapa (2013-04-15 11:05) 

CLS

"吐口部"やはり東側に、完成済みなのですかね、仮に有ったとしても
確認困難ですね

新宿区役所は、まだこの先の予定も不明確との事、まだ暫くかかりそうで
すね、中央図書館やはり移動ですか、文京区の場合以前は、小石川と
本郷の2カ所のみでしたが、現在11カ所有り区役所と異なり、"分散型"と
成ってます。
昔ながらの、書架を見て読みたい本が有ったら、借り出すスタイルに
慣れた年配の方には、使いにくくなってます。
勿論、館内の端末やインターネット経由での検索が、出来る人にとっては
便利に成ったのですが..

鬼子母神の義歯、確かにそうですね、長年土の中に埋まってた物が、色も
白く本物に見えそうな、状態で見つかるのは、木製とは思えないですね、
でめ、"土台"部分木製だと思うので、接続部がどの様に成ってるのか
気になります。
「お客さんの忘れ物」は、冗談めかして書かれてたので、そのまま
引用いたしました。無ければ翌日から困る物だすし、多分高価な物
でしょうから、すぐ連絡して取りに行きますね。

古墳刀は、ずいぶん昔に入手されたのですね、腐食も少なかったとの事、
土に触れた状態ですと、さびが進むと思うのですが、何かで保護された
状態だったのでしょうか?、多分入手された時は、掘り出されてから
ある程度、時間が経過してたと思うのでその確認も難しいでしょうか..

『畑(雑司ヶ谷)』根津山の可能性も有りそうです↓
http://www.com-support.co.jp/local/nezuyama/map.html
根津嘉一郎がこの辺一体を入手したのが、明治末で大正2年ですと
ほとんど手つかずだったのでは?、現在のグリーン通りは開かれたのが、
昭和12年ですから、当時は森(原っぱ?)、“根津山の小さな丘”と有るので
"根津山"そのもので無く、敷地内に"丘"が有ったと考えられます。
そうなるよ、手前の畑地や溝部分を考えると、何か出るかもしれません
"川"も近くを流れてた"水窪川"も対象に入れる必要がありますね。

by CLS (2013-04-17 21:31) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
今朝、出がけに辰巳橋へ寄ってみました。記事末に、きょう現在(4/18)の妙正寺川分水路の入り口写真を掲載しましたが、ご覧のように計画図に記載されていた「吐口部」は、当該の位置に存在していないですね。やはり、この分水路の内側(東側)に設置されたものでしょうか。

40年ぶりに移動する中央図書館は、戸山ヶ原へ移ってしまうのですが、どうやら跡地には落合図書館ができるようですので、ネット予約すれば不便さはあまり感じなくて済みそうです。ただし、館外持ち出し禁止の資料は、旧・戸山中学校の跡地まで行かないと閲覧できないのが、ちょっと不便ですね。まあ、高田馬場の南側ですから、下落合から散歩がてらブラブラ歩いても30分ほどで着きますけれど…。

>本郷の2カ所のみでしたが、現在11カ所有り区役所と異なり、"分散型"と成ってます。
図書館や資料館の分散は、不可欠ですよね。もし万が一の災害や事故が起きた場合、1ヶ所に貴重な資料を集めておくと、一度にすべてを失うことになってしまいます。下町では、浮世絵や絵画作品などが集められていた画廊や資料館が関東大震災のときに焼け、かけがえのない作品の多くを失っています。

>古墳刀は、ずいぶん昔に入手されたのですね、
1980年代のバブル最盛期に、自宅を建て替えたり低層マンションができたりと、目白崖線沿いの住宅地は大きく様変わりしましたが、そんな状況の中で出土したものをお譲りいただきました。腐蝕が少なく研ぎが可能だった鉄刀は、地下のポッカリ空いた空洞から(おそらく古墳後期の横穴古墳玄室だと思われます)、腐蝕の激しい鉄剣は玉石の層にはさまるように(玄室が潰れたのかもしれません)、出雲碧玉の勾玉は土中から出土…と、それぞれ方からうかがいました。
現在の状態は、研磨をした鉄刀は日本刀用の丁子油を塗布して錆がこないようにし、腐蝕が激しい鉄剣は乾燥させたそのままの状態で、いずれも柔らかい布地にくるんで白鞘袋に入れて寝かせてあります。碧玉勾玉は、いつもわたしの胸にペンダントとしてぶら下がっていますが。^^

>『畑(雑司ヶ谷)』根津山の可能性も有りそうです↓
確かにそうですね。木村荘八が制作した時代は、なんら手が加えられていなかった可能性があります。ただ、すそ野がなだらかで範囲が広かったと思われる根津山にしては、ちょっと規模が小さすぎるような感触もあるんですよね。
記事末に、1890年代(明治30)ごろに撮影された、前に畑が拡がる法明寺と、裏山の稲荷山と思われる小山を撮影した写真を掲載しました。当時、このような小山(限りなく古墳の可能性が高いように思います)が、落合地域も含めてこの界隈には随所に見られたと思うんですよね。
それが、明治期には(江戸期から引きつづき)田畑の拡張開墾で壊されつづけ、大正期以降は宅地開発で崩されつづけてきていることを考え合わせますと、大正初期に木村荘八が描いた小山は、根津山に限らないように思うのです。

by ChinchikoPapa (2013-04-18 14:01) 

CLS

ChinchikoPapaさん、写真撮影及び掲載ありがとうございます
やはり"カーテン"の手前には無いようでですね、東側か?

> 40年ぶりに移動する中央図書館は、戸山ヶ原へ移ってしまうのですが
戸山に移動ですか、"旧・戸山中学校の跡地"ならそれなりの広さが有り
そうですね、ChinchikoPapaさんからすると、貸し出し不可の本を見に行
くのは大変そうですね。
文京区の場合、各図書館事に分野を分け、その分野の本は指定図書館に
集めて様ですが、近くの目白台図書館は、"哲学・宗教・芸術"と残念なが
ら私の不得手な分野です。

> 1980年代のバブル最盛期に、自宅を建て替えたり低層マンションが
> できたりと
なるほどその当時ですか、その頃目白台付近も、目白通り北側はマンショ
ン化されましたね、更に北側は昔の武家屋敷の、区割りが残ってたのです
が、近年はその区割りを、分割しての分譲が進んでます。
> 腐蝕が少なく研ぎが可能だった鉄刀は、地下のポッカリ空いた空洞から
なるほど、地中に埋まってた訳では無く、空気に触れた状態で、空間は
密閉されてたのでしょうね。
もう一振りの状況も、"なるほど”と思わせますね

> 確かにそうですね。木村荘八が制作した時代は、なんら手が加えられて
> いなかった可能性があります。ただ、すそ野がなだらかで範囲が広かっ
> たと思われる根津山にしては、ちょっと規模が小さすぎるような感触も
> あるんですよね。
"根津山"そのものは、「他より少し高くなってる」との事で山と呼ばれていた
のかと此の根津山にあった“根津山の小さな丘”を何時もの、1/10000地
形図で見ると明治42年版~昭和22年版まで、巣鴨刑務所の南に"30,9"
と表された独立標が有り当初は、此方かと思ったのですが、現豊
島岡女子学園より南東の様な?
何故か、昭和12年度版には、此の位置に"丘"と思しき地形も?

昭和22年の、航空写真を見ると現豊島岡女子学園の西端付近に、何か
有りますね、(北西から南西,南東に部分に円弧状が)、此処から南東部分にも、"30,9"地点と思われる痕跡が見えます
> 1890年代(明治30)ごろに撮影された、前に畑が拡がる法明寺と、裏
> 山の稲荷山と思われる小山を撮影した写真を掲載しました。
此方も、掲載もして頂きありがとうございます、当時とすると、手前に仁王
門が有るはずなのですが?、やはり、法明時"謎"が多いですね、明治,
大正期は現南池袋小学校付近に、本堂が有った?
その後、関東大震災で崩壊、現位置に移転?、では仁王門は??
まだまだ興味深い点が残ります


by CLS (2013-04-18 23:00) 

ChinchikoPapa

>“根津山の小さな丘”を何時もの、1/10000地形図で見ると明治42年版~
>昭和22年版まで、巣鴨刑務所の南に"30,9"と表された独立標が有り
明治20年の5,000分の1地形図では、ちょうど雑司ヶ谷村あたりから制作されなかったものか、切れて白紙表現になっているのが残念ですね。それ以前の、伊能忠敬により1817年(文化14)に作成された「江戸府内図」では、雑司ヶ谷村には小山表現がいっぱい描かれていますが…。^^;
幕末(1854年)に制作された「御府内沿革圖書」を見ますと、根津山はもともと幕府の「御鷹役屋敷」と、「松浦金三郎」という人の屋敷だったところに、横方向(東西)へ伸びていたようです。ちょうど本立寺の北側に、東西へ拡がっていたかたちですね。南と西が雑司ヶ谷村、北が池袋村、北と東が巣鴨村に接しているようです。
幕府の抱え屋敷や、旗本らしい人物の下屋敷になっていた関係から、根津山と呼ばれた起伏のある広い土地が、田畑に開墾もされずにそのまま明治期まで残っていたということでしょうね。

>やはり、法明時"謎"が多いですね、
稲荷山にこだわるわたしとしましては、威光稲荷社を入れ周囲の風景を撮影した古写真がないかどうか、もう少し探してみます。w

by ChinchikoPapa (2013-04-19 18:14) 

CLS

> 南と西が雑司ヶ谷村、北が池袋村、北と東が巣鴨村に接しているようです。
根津山そのものは、雑司ヶ谷村ですが、当時は武家地、寺社地は村の
管理外ですから、文献によっては"村外"として扱ったのでしょうね。
あれだけの範囲が、開墾もされなかったのですね、今では一等地で
根津山が、空襲の被害を受けなかったら、現在行われてる区画整理も
楽に行われたと思うのですが?

> 稲荷山にこだわるわたしとしましては、威光稲荷社を入れ周囲の
> 風景を撮影した古写真がないかどうか、もう少し探してみます。w
稲荷山の件は、異様に少なくて、新編若葉の梢にも1行も出てきません
唯一出てくるのが、昭和7年の法明寺再建時に、法明寺山門の右側に
威光稲荷への門が、有ったようです、此も戦後の再建時には、入り口が
目立たない、法明寺西側の道に入り口が、移動してます。
長年近所に住んでる方でも、存在を知らない方が多いようで、
何故これほど隠蔽しようとするのか??

それにしても、不思議な空間です、隣に南池袋小学校が有り、休み時間は
児童の喧噪が聞こえるのですが、それが全く気にならず、静寂な空間を
思わせます。
私自身は"霊感"は??なのですが、それでも"霊的な場所"と感じます


by CLS (2013-04-20 21:14) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
きょう、とても嬉しい偶然の出来事がありました。知人と喫茶店で打ち合わせをして、たまたま池袋周辺のことに話がおよんだとき、なんの気なしに「根津山って知ってます?」と訊いたら、「実際には見たことないけど、写真なら見たことあるよ」とのこと。
どうやら、明治期に池袋停車場の東側あたりから根津山を撮影した写真が、どこかに残っているようなんですね。(池袋の豊島区郷土資料館にはあるでしょうか) その写真によりますと、かなり広範囲にわたる大きな山だったようで、木村荘八が描く『畑(雑司ヶ谷)』の小山とは、そもそも規模からしてかなりちがいそうです。

ということは、逆に考えますと道路が切通し状に貫通して以来、残った裾野をほとんど整地して宅地造成が進められてきている・・・ということなのかもしれません。つまり、山の痕跡が戦後にほとんど宅地化で消滅してしまった公算が高そうです。戦中そして戦後すぐのころは、それでも空襲の悲惨な記憶とともに「根津山」のイメージが強く残っていたようで、また実際に元の姿を知っている人たちもたくさんいたのでしょうが、いまでは限りなく薄れた「山」の記憶になっているとのこと。
高さもかなりあり、木村荘八の小山とは別の可能性が高そうです。

>私自身は"霊感"は??なのですが、それでも"霊的な場所"と感じます
大手町の俗にいう「将門塚」もそうですが、それ以前になんらかの古墳があったような場所は、墓域というか霊域というか、なにか異なる磁場のような雰囲気を感じることがありますね。もちろん、まさに古墳上に建立された寺社も、同様の気配を感じるのですが・・・。
by ChinchikoPapa (2013-04-21 00:55) 

CLS

ChinchikoPapaさん、今晩は
>「実際には見たことないけど、写真なら見たことあるよ」とのこと。
> どうやら、明治期に池袋停車場の東側あたりから根津山を撮影した写真
が、
> どこかに残っているようなんですね。(池袋の豊島区郷土資料館には
> あるでしょうか)
豊島区郷土資料館、暫く行ってないので近日中に、行ってみましょう
然し、常設展では見た記憶が無いので無理かな?
http://www.city.toshima.lg.jp/dbps_data/_material_/localhost/050bunkashoko/040gakushu_sports/kyodoshiryokan/kataribe/kataribe93.pdf
何時もの"かたりべ"93です、遠景では無く根津山の中 or 近景ですが...
実は私は、根津山は"山"では無く"森"だと思ってます
地形図を見ても、山とは思えず、池袋駅より標高は低いのでは?、
北側は水窪川の作った浅い谷で、此方から見ると"山"に見えるか?
(此も微妙ですね)、根津嘉一郎が買収するまでは"中西の森"と呼ばれて
たそうです。

地形図の記号では、針葉樹と広葉樹が混在した林で、周辺には此の様
な"森"は無く一見"山"と見えたのでは?。

> 木村荘八が描く『畑(雑司ヶ谷)』の候補として、"根津山の小丘"を上げ
たのですが、この"小丘"は、根津山の敷地内に有った"小丘"で、根津山
そのものでは有りません。
只残念な事に、この”小丘”を『畑(雑司ヶ谷)』の様に見るには、水窪川の
対岸の巣鴨刑務所(現サンシャインシティ)から南側を、見る事になるので
すが、この場合背景に根津山の本体が、見えるはずなので、どうも異なる
ようです。

> 逆に考えますと道路が切通し状に貫通して以来
道路は、"切通し"にするほどの地形では無いのでは?、あの周辺の地形
は、当時と現状は、ほとんど変化は無いと考えてます。有るとすれば、
現サンシャインシティと、グリーン大通り(日の出通り)の間を流れてた、
"水窪川"の痕跡が、見つからないので(此の下流部分は残ってます)
埋められた可能性が有ります(一説には、「小丘(古墳??の可能性の有る)
を崩して埋めたとの説も有ります)

根津山に関し、地元の古老が語る、youtube動画です↓
http://www.youtube.com/watch?v=sdrIxJvMI9g

威光稲荷ですが、やはり不思議な場所ですね、入り口には「参拝以外の
方は、ご遠慮ください」との張り紙が有りますし、やはり"野次馬お断り"
なのかな?、本体の法明寺ですら、此の様な表示はされて無いのに..、
"霊的な存在を、汚されたくない"との意思表示では?と思ってます
でも、私は威光稲荷を知らない人には、「是非行くべき所だ」と進めてます
が(^_^;...


by CLS (2013-04-21 22:06) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
おそらく、豊島区郷土資料館の学芸員に申し出れば、出してくれるんじゃないかと思います。もし、資料室が付属していれば、設置されたPCで検索ないしは資料カードを探して指定すれば、見せてくれるんじゃないかと・・・。

「かたりべ93」のご紹介、ありがとうございます。ただ、掲載されている写真は、昭和10年以降のかなり根津山全体の開発や整備が進んでしまったあとの姿ではないかと思います。あるいは、根津山の「主峰」からかなり離れた、平坦な麓の可能性もあるのかもしれません。

昭和の最初期に、根津山を写生した人がいまして、現在までその水彩画が残っています。ひとつは、根津山の「主峰」が丸ごと道路で開拓され、その切通しでできた絶壁(主峰の残滓です)で遊ぶ子どもたちを描いた「根津山の主峰」、もうひとつはその「主峰」の山麓に建っていた「山番の小屋」です。描いたのは矢島勝昭という方ですが、プロの画家かどうかは不明なものの、おそらく大正期から昭和の最初期にかけて、ご本人が根津山で遊んだことがあったのではないかと想像しています。

記事末に、作品を2点掲載しましたのでご参照ください。画像の出典は、『豊島区50年の歩み』(1982年)と『豊島区地図篇・下』(1974年)で、いずれも豊島区が出版した資料です。

もうひとつ、「東京人」編集長をつとめていた粕谷一希が、1987年4月から9月まで「広報としま」に連載した『わたしの豊島紀行』の文章があります。その6月号に、根津山で遊んだ昭和初期の記憶が語られています。
 ▼
また近所を支配していた餓鬼大将の配下に入れてもらい、縄飛びや兵隊ごっこに興じ、近所の根津山までよく出かけた。今日、駅前から銀行・証券が立ち並んでしまった一帯は小高い丘のある広い雑木林だった。
 ▲
おそらく、森のような雑木林の中に、小高い丘と表現されるような山(矢島勝昭が表現するところの「主峰」)があったように思うのです。

威光稲荷、わたしも周辺の様子とともに、ぜひ行ってみたいですね。w
by ChinchikoPapa (2013-04-22 13:51) 

CLS

ChinchikoPapaさん、今日は
> おそらく、豊島区郷土資料館の学芸員に申し出れば
豊島区郷土資料館の資料は、数カ所に分散されて保管されてる様なので
(旧宣教師館の管理棟等)本館に保管されてれば良いのですが..

> 描いたのは矢島勝昭という方です
この方は、豊島区(特に雑司ヶ谷)を語る時には、欠かせない方ですね
矢島勝昭さんの経歴です↓
http://profile.ameba.jp/ikebukuro-guren/

さてどの順番で書けば分かりやすいか?

"遙かなる根津山"表紙部分↓
http://www.com-support.co.jp/war_and_peace/nezuyama_history/index.html
"遙かなる根津山"戦前↓
http://www.com-support.co.jp/war_and_peace/nezuyama_history/index2.html
1枚目が主峰の北側でしょうか?、やきいも屋のある道は、昭和12年の地形図から
描かれ始めてます、現在も豊島岡女子の北側に残ってます
2枚目は、根津山から北側を描いた様で、"主峰"と右側にもう一つ丘が有りますね
木と後ろの家が無くて、手前に畑があると"木村荘八の『畑(雑司ヶ谷)』"と
イメージが、似てきます
3枚目の"東側の山"、2枚目の右側の山でしょう、おそらく地形図の30.9M地点
5枚目には、"山番の家"も出てますね

"遙かなる根津山"戦中1↓
http://www.com-support.co.jp/war_and_peace/nezuyama_history/index3.html
1枚目は、根津山から現グリーン大通り(日の出通り)を南東方向を描いてますが、
正面に見える伽藍は、護国寺の本堂でしょう
11枚目の、映画のロケ風景は丘の部分でしょうか?
"主峰"の絵もありますね

"遙かなる根津山"戦中2
http://www.com-support.co.jp/war_and_peace/nezuyama_history/index4.html
1枚目は、昨日の"かたりべ"の写真と同一時期ですね
最後の絵ですが、日の出町三丁目電停の北側に描かれてる、三角マークが
"主峰"で北側の道が、やきいも屋の道です

"遙かなる根津山"戦中3↓
http://www.com-support.co.jp/war_and_peace/nezuyama_history/index5.html
この巻は、あまりにも有名な"根津山炎上"ですね、矢島さんの絵で有名に
成った可能性も有ります

"遙かなる根津山"戦後↓
http://www.com-support.co.jp/war_and_peace/nezuyama_history/index6.html
高田第4小学校跡地の簡易都営住宅、此は知りませんでした、今で言う"仮設住宅"
でしょうか?

尚、矢島勝昭さんですが、紙芝居の"弦巻川がきえちゃった"の作成、
池袋のびっくりガード横の、山手線壁面に描かれた「雑司ヶ谷いろはがるた」
作成時の監督、指導もされてます

by CLS (2013-04-22 17:21) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
矢島勝昭という方は、豊島区では有名な方だったんですね。その作品はあちこちの資料に掲載されていて、ときどき目にしてきたのですが、どのような方だかは知りませんでした。郷土史家でもいらしたんですね。サイトのご紹介、ありがとうございます。

「戦中1」の<日米戦争が始まる前までは、「根津山」はこどもたちのネバーランドでした。>という解説によれば、昭和10年以降も高さ10mほどの「主峰」の残滓は残っていたようですね。
「大都映画の撮影」で描かれている小山が、崩される前の「主峰」(西側の山)だとしますと、せいぜい10~15mほどで、人物のサイズを強調していないとすれば、たいした高さには見えません。おっしゃるとおり、木村荘八の小山に近い風情をしています。

「戦中3」に描かれた炎上するB29ですが、4月13日の空襲ではなく5月25日の空襲のほうであれば、「南」のほうへ墜ちていったと書かれていますから、学習院下の国産電機に炎上・墜落したB29の可能性が高そうです。

by ChinchikoPapa (2013-04-22 18:47) 

CLS

ChinchikoPapaさん、今晩は
> 矢島勝昭という方は、豊島区では有名な方だったんですね。
矢島さんのお名前は、以前から目にしてまして、実は"遙かなる根津山"
戦後編以外は以前見てます、"主峰"の絵を見て思い出しました

鬼子母神を追い出された、鷺明神(現大鳥神社)に救いの手を差し伸べ
たのが、旧幕臣の矢嶋昌郁で、矢島勝昭さんは血縁関係の方?と思って
ます。

> 昭和10年以降も高さ10mほどの「主峰」の残滓は残っていたようで
すね。
戦後もしばらくは残ってたのでは?と考えてます、昭和22年の航空写真
でも南側は半円状の縁が、見えますし北側は切り崩されたせいか、縁が
不明確な画像です。
> 「大都映画の撮影」で描かれている小山が、崩される前の「主峰」
映画のタイトルが分かれば当時の、映像を見る事が出来そうですね
砦を巡る攻防戦でしょうか?、明らかに戦国期をテーマにした映画ですね

> 「戦中3」に描かれた炎上するB29ですが、4月13日の空襲ではなく5月25日の
これは、4月13日の空襲で矢島さんの、お宅がどの様な被害を受けた?
ですね被害を受けて無かったとしたら、当然5月25日の空襲時にも、
避難時に目撃した可能性大ですし、被害を受けたとしても、近所の親戚、
知人宅のお世話に成ってたとした場合も同様です、もし他地区に移転され
てた場合は、当然目撃されて無いはずなので、4月13日の空襲でも
1機撃ち落とされてたと言う事ですね

矢島さんは、4月13日の空襲時には雑司ヶ谷墓地に、避難された様で
根津山に避難されてたとしたら、今回の絵を見る事は無かったでしょう...
それにしても、此の様な状況を目にされ、本来思い出したくない光景を、
思い出しながら、描かれた事は「あの様な悲惨な事を、2度と起こさない様
後世に伝えたい」との思いでしょうね、感謝です。

威光稲荷、是非お出かけ下さい、入り口から覗くと法明寺の"寮"が見え
"なんだ此処は!"と成りそうですが、先に進むと...

by CLS (2013-04-23 21:22) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
矢島勝昭さんは、先祖代々、雑司ヶ谷の地付きの方なのかもしれませんね。

戦前の映画は案外、たいせつに保存されていないのが残念です。大都映画の作品の場合は、すぐに戦時合併されてしまいますので、かなりの作品が廃棄されたか、戦災で焼けたものも多いのではないでしょうか。
わたしも、昭和初期に夏川静江が主演し、目白文化村を舞台に撮影された日活作品を7年以上も探しているのですが、いまだに見つかりません。おそらく、廃棄か戦災で失われてしまったのではないかと考えています。

4月13日夜半の空襲で、墜落したB29は全部で8機ですが、このうち豊島区周辺に墜ちたのは、池袋5丁目に墜落した870爆撃隊の1機のみです。(あと東京35区内では、足立区に墜落した1機ですね) 搭乗員の全員が戦死しています。矢島氏が目撃されたのは、池袋駅の西側に墜落したこのB29でしょうか。
豊島区の南側へ墜落した機は、4月13日の空襲では1機もありません。ただ、5月25日の空襲では2機が豊島区の南側、学習院下と麹町へ墜落しています。このうち、池袋駅か雑司ヶ谷上空で被弾し、矢島氏の絵のように燃えながら旋回して落ちていったのは、高田2丁目の学習院下へ墜落した39爆撃隊の1機のみです。

落合地域でも、戦時中の想い出を語りたがる方はあまりいらっしゃいません。それに、勤労動員で兵器工場に動員され、その間、朝早くから夜遅くまで働いていて地元の記憶が希薄だ・・・という方と、学童疎開でそもそも東京にはいなかったという方が多く、そういう意味からも画像として記録されている方の証言は貴重ですね。

by ChinchikoPapa (2013-04-24 11:05) 

CLS

ChinchikoPapaさん、今晩は
> 戦前の映画は案外、たいせつに保存されていないのが残念です。大都映画
実は私大都映画の事を、把握しておらず今回調べてみると、昭和17年
1月に合併されてますね、開戦の1ヶ月後とは..、まあ現代とは異なり、
合併翌日には看板、機材に書かれた社名を、新社名に書き換える等の
作業は、行われておらず"根津山ロケ"時も、機材には大都映画の社名が
書かれており、"大都映画のロケ"と成ったのかと?

確かに戦中の映画フィルムが、空襲等で失われてる可能性は大ですね
特に大都映画の場合は、年100本も大量に撮影したとすると...

> 4月13日夜半の空襲で、墜落したB29は全部で8機ですが、このうち豊島区
私個人の感覚からすると、矢島さんは根津山の東から、荒川線の西側に
居住されており、5月25日の空襲時矢島さんは、「南に落ちるB29」を
見てたのでは、根拠としては"南側は法明寺や鬼子母神が有る"、これを
矢島さんが、間違えるとは思えない!です

> そういう意味からも画像として記録されている方の証言は貴重ですね。
当時矢島さんは、16,7歳でしょうか」?とすると、勤労動員されてた
可能性大ですね、自宅から通えれば、東京大空襲の遭遇したでしょうね。
おそらく、友人や知人を失ってるでしょうに、貴重な資料を、残して頂きました

by CLS (2013-04-24 23:17) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
東京近美のフィルムセンターに永久保存されている日本映画は、明治期から現在まで57,000本余ですが、これはニュース映画などの小品も含めた本数ですので、戦前の映画産業の隆盛を考えますと非常に少ない量です。
また、それでなくてもフィルムは経年による自然発火が起きやすいですので、戦災ばかりでなくさまざまな理由で失われてしまった可能性が高いですね。当のフィルムセンターでも1980年代に、自然発火により海外映画が多数焼失してしまいました。

やはり、矢島さんが描かれた炎上して墜落するB29の機体は、4月13日夜半ではなく、5月25日夜半の第2次山手空襲時のものでしょうかね。地付きの方が、夜間だとはいえ方角をまちがえるとは考えにくいですよね。

by ChinchikoPapa (2013-04-25 11:02) 

CLS

ChinchikoPapaさん、今晩は
> 当のフィルムセンターでも1980年代に、自然発火により海外映画が多数焼失してしまいました。
此は私も記憶に残ってます、残念な事故でしたね

> 4月13日夜半ではなく、5月25日夜半の第2次山手空襲時のものでしょうかね。
5月25日に矢島さんが、雑司ヶ谷に居住されてたとすれば、雑司ヶ谷
墓地に避難されたと考えられ、"やがて火達磨になって南の方へ落ちて"の
描写からしても、学習院下に撃墜されたB29と考えるのが自然かと思われ
ます。

by CLS (2013-04-26 22:44) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
先ほど、4月13日夜半に豊島区池袋5丁目189番地あたりへ墜落したB29について調べていたのですが、この機は第20空軍第73爆撃団第497爆撃群第870爆撃隊に属する、爆撃機ではなく天候観測用のB29偵察機ですね。爆撃隊の編隊から離れて、単独で天候を観測する機のようで、それで戦闘機か対空砲火にねらい撃ちされたんじゃないかと想定できます。
機長のEverett Abar中尉以下、搭乗員の11名全員が戦死しているのですが、遺体は池袋本町の重林寺に仮埋葬されたのち、根津山墓地へ改装され供養されています。
従来は、日本側の空襲記録からのみ当時の様子を確認できていたのですが、米国防総省が爆撃の調査報告書を情報公開したことから、ずいぶん詳しい様子がわかってきました。
一方、5月25日夜半に高田2丁目の国産電機へ墜落したB29は、日本の迎撃戦闘機に撃墜されたと思われる爆撃機ですが、こちらの戦死者は根津山墓地と雑司ヶ谷霊園に葬られています。こちらのB29は、ちょっと気になるテーマがありますので、また機会があったら記事にしてみたいと思います。
by ChinchikoPapa (2013-04-27 11:02) 

CLS

ChinchikoPapaさん、追跡調査ありがとうございます
> 機長のEverett Abar中尉以下、搭乗員の11名全員が戦死している
> のですが、遺体は池袋本町の重林寺に仮埋葬されたのち、根津山墓地
> へ改装され供養されています。
川越街道沿いの重林寺ですか、此のお寺は多少縁があるのですが...
"根津山墓地"初めて耳にする墓地名ですね、今では本立寺他の墓地なのでしょうか?

> こちらの戦死者は根津山墓地と雑司ヶ谷霊園に葬られています。
こちらは、雑司ヶ谷霊園にも...、それにしても数万人の非戦闘員を
殺害した搭乗員を、葬るとは...日本人の感覚はすばらしいですね、
真珠湾攻撃で撃墜された、零戦搭乗員等の米国支配地域で撃墜された
方々を、米国はどの様に扱ったのか気になります。

> こちらのB29は、ちょっと気になるテーマがありますので、また機会が
> あったら記事に・・・
おもしろい記事に成りそうですね、楽しみのお待ちします
by CLS (2013-04-27 22:43) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
わたしも、「根津山墓地」は本立寺の墓地のことではないかと思います。

真珠湾攻撃で撃墜されて死亡した海軍のパイロットの遺体は、戦死した米兵といっしょの墓地へ葬られたケースが多いようですね。
また、同湾の攻撃で捕虜になった特殊潜航艇の乗組員は、戦争が終わるまで捕虜収容所で過ごしていましたけれど、日本の場合はパラシュートで脱出したB29搭乗員は、憲兵隊による短時間の事情聴取のあと、捕虜として収容をせずにそのまま銃殺してしまうケースが、敗戦に近づくにつれて増えています。
明らかな「ジュネーヴ協定」違反であり、戦後の東京裁判では日本側に不利な事実として突きつけられた「証拠」のひとつですね。

高田2丁目に墜落したB29は、やはり搭乗員の全員が死亡しているのですが、死亡時期に時差があるようです。ちょっと、米軍資料を追いかけてみます。

by ChinchikoPapa (2013-04-28 21:38) 

CLS

ChinchikoPapaさん、今晩は
> わたしも、「根津山墓地」は本立寺の墓地のことではないかと思います。
本立寺は"戦後の区画整理により、旧根津山に移転した"とされてるのです
が、実際は本堂が、東側に50M程移動しただけのようです。
おそらく、本立寺墓地と現南池袋公園に仮埋葬された墓地と一体化され
たのかと..

> 真珠湾攻撃で撃墜されて死亡した海軍のパイロットの遺体は、戦死した
> 米兵といっしょの墓地へ葬られたケースが多いようですね。
敵味方と分かれても死後は、同じとの思想なのでしょうか?、ある意味
思想的には日本も同じなのですかね。

> 捕虜として収容をせずにそのまま銃殺してしまうケースが、敗戦に近づく
> につれて増えています。明らかな「ジュネーヴ協定」違反であり
まあ、日本はジュネーブ協定そのものを批准してないし、それ以前に非戦
闘員への攻撃をした米軍は??、既にジュネーヴ協定違反だし。
これは、B29の搭乗員の殺害を肯定する意味ではありません、やはり
戦勝国が、敗戦国を一方的に裁く事そのものに問題があると思いますが、
此を言っても日本が何を言っても受け入れないでしょうから...

> 高田2丁目に墜落したB29は、やはり搭乗員の全員が死亡しているの
> ですが、死亡時期に時差があるようです。ちょっと、米軍資料を追いかけ
> てみます。
SNELL軍曹だけが生き延びたが、5/30日に重度(第3度)の火傷により
死亡したと成ってますね

by CLS (2013-04-30 22:20) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。

>まあ、日本はジュネーブ協定そのものを批准してないし、それ以前に
>非戦闘員への攻撃をした米軍は??、既にジュネーヴ協定違反だし。
日本は調印だけで、批准はしていませんでしたね。東京大空襲をはじめとする無差別絨毯爆撃や、広島・長崎のジェノサイドは明らかに違反ですが、戦後は「問題」にもされていません。
わたしが知りうる限り、日本の非戦闘員への無差別殺戮に対して戦後に批判していたのは、政治体制の異なる国を除けば、欧米ではスウェーデンのパルメ首相ぐらいしか思い浮かびません。

高田2丁目のB29墜落については、豊島区郷土資料館で開催された「空襲展」(記録写真や当時の様子を描いた絵画などが展示されていました)で、全員死亡の情報を得ていたと記憶しています。
確かに「全員死亡」なのですが、時間差があったようですね。このテーマは、古田さんの「傍らに背の高い若い米軍人が立って」いるのをご覧になったというコメントと合わせ、ちょっと気になるテーマですので、機会があれば追いかけてみたいのです。
by ChinchikoPapa (2013-05-01 16:27) 

CLS

ChinchikoPapaさん、今晩は
> 確かに「全員死亡」なのですが、時間差があったようですね
此の情報は↓に有りました
http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/B29-42-63558.html
SNELL軍曹が埋葬された"小石川陸軍墓地"が何処なのか??です
旧小石川区内に有った陸軍墓地は、護国寺の西側に有った"音羽陸軍墓地"
のみだと思うのですが...、此処も今では青柳小学校になってますが..

by CLS (2013-05-01 21:53) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
はい、わたしも当該サイトを拝見して、「おや?」と思ったしだいです。

「小石川陸軍墓地」と聞いて、すぐにも「あそこかな?」と想定できるのは、小石川区音羽にある陸軍墓地です。いまでは、護国寺境内に当たるのか、それとも都営になっているのかは知りませんが、小石川(の)陸軍墓地でまず思いつくのは、あそこぐらいでしょうか。
もちろん、35区から23区の文京区に再編された際、呼称が変わっているのかもしれませんね。
by ChinchikoPapa (2013-05-01 22:43) 

CLS

ChinchikoPapaさん、今晩は
> 「小石川陸軍墓地」と聞いて、すぐにも「あそこかな?」と想定できる
> のは、小石川区音羽にある陸軍墓地です。
先のURLに記されてる、東京近辺で撃墜されたB29の搭乗員中、撃墜時
は生存したもののその後、病死等でした死亡した搭乗員は"小石川
陸軍墓地"に埋葬されたとされてます、別のURL↓によると、"小石川の
陸軍墓地"とされてます。
どうも、転記を重ねるうちに、"小石川の"の"の"の字が省略されたようです
http://www.powresearch.jp/jp/archive/pilot/tobu.html

気になるのは、↑のURLでは"生存者2名"と成ってますね
かたや"全員死亡"、かたや"生存一名戦後帰国"とは?
古田さんの「傍らに背の高い若い米軍人が立って」の"背の高い・・・"は
MAGNUSON軍曹かもしれません

それにしても、5/25日まで生き延びた米兵60数名が、空襲による
火災で焼死してたとは...

> 護国寺境内に当たるのか、それとも都営になっているのかは知りません
護国寺西側の陸軍墓地(陸軍埋葬地)ですが、戦後護国寺に返還され
規模を大幅に縮小し、現在も残ってるようです

他の部分は、その後文京区に売却され、現在は区立青柳小学校と
なってます(私の母校ですので、間違え有りません(^_^))

by CLS (2013-05-02 21:35) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
やはり、「小石川陸軍墓地」は護国寺隣接の音羽の陸軍墓地のようですね。また、墜落したB29の搭乗員については記録がバラバラで、どれが事実なのか悩ましいです。これは機会があれば、米軍の原資料に当たってみないとわからないですね。
護国寺とその周辺をときどき歩くのですが、知識として「音羽の陸軍墓地」は認識しているものの、実際にはどのような情景だったのかは見たことがないです。
by ChinchikoPapa (2013-05-02 22:58) 

NO NAME

ChinchikoPapaさん、今晩は
> また、墜落したB29の搭乗員については記録がバラバラで、どれが事実
> なのか悩ましいです。
此は困りますよね、どちらが正しいのか?、Magnuson軍曹が無事帰国
してたとすれば、何かしらのコメントが残ってそうですね。

> 護国寺とその周辺をときどき歩くのですが、知識として「音羽の陸軍
> 墓地」は認識しているものの、実際にはどのような情景だったのかは
> 見たことがないです。
残念ながら私が物心付いた時期は既に、陸軍墓地は整理されており、
当時の状況は不明です、音羽陸軍墓地に間し詳しいのは↓でしょうか?
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0082/BO00820L019.pdf
P.3の図が基本ですが(下が北側なので要注意)、此の図に有る
"小石川村地"部分はその後護国寺の所有地となり、境内との間に
陸軍墓地を挟んで、"護国寺共葬墓地"と成ったようです

戦後は、P.6のの図の様に成った様ですが、(実際はもう少し南側に広がっ
てます)此により"共葬墓地"と境内が、一体化したようです。

実は今日、現"音羽陸軍埋葬地"に行ってきたのですが、鉄製の門扉が
閉ざされており外側からの観察に止めました、只施錠はされてないので、
墓参等で中に入るのは可能かと思います。

護国寺西交差点に有る、青柳小学校入り口左側には、今でも"陸軍省"と
掘られた石票が残ってます。

by NO NAME (2013-05-03 21:18) 

CLS

すみません、またNO NAMEで投稿してしまいました
by CLS (2013-05-03 21:20) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
ご教示いただいた資料を見ると、戦死したあとまで下士官と兵とでは、墓石の高さまでが決められて区別されていたんですね。
掲載の図版によれば、現在では戦前の墓域の10分の1ぐらいの面積になっているでしょうか。かなり大規模な合葬が行なわれ、すぐには気づきにくいほど縮小されている様子がわかります。
護国寺は、桂昌院や綱吉がらみの史跡を見るのと、墓地にある江戸期から明治期にかけて、歴史上の人物たちの墓所めぐりしかしてませんけれど、今度出かけたときは陸軍墓地にも立ち寄ってみようと思います。
情報をありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2013-05-04 15:16) 

CLS

ChinchikoPapaさん、今晩は
> ご教示いただいた資料を見ると、戦死したあとまで下士官と兵とでは、
> 墓石の高さまでが決められて区別されていたんですね。
実は、護国寺墓地内に"変わった墓域が有る"程度で、墓域そのものは知っておりましたが、今回調べて"音羽陸軍埋葬地"の残余だと知りまし
た。当然、将校と下士官、兵で墓石の大きさまで異なったのも初耳です。
まあ、遺族年金も差別が有るわけで、亡くなった後も差別は続いたのです

> 掲載の図版によれば、現在では戦前の墓域の10分の1ぐらいの面積に
> なっているでしょうか。
P6の図は、南側(護国寺西交差点側)が、戦後売却された後の図の様な
ので15~20分の1程度かと思います

> 今度出かけたときは陸軍墓地にも立ち寄ってみようと思います。
是非お立ち寄り下さい、少し分かりにくいですが、P6の図を参考にすれば
たどり着けると思います。
尚、"陸軍省"の石票ですが、護国寺西交差点に面した"友成第2医院"の
南西角に有ります、此処から日大豊山中高の西側までが、陸軍埋葬地だったようです
by CLS (2013-05-04 21:39) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
わたしは記憶にないのですが、きょうある方にお訊ねしたら少し高い位置にある、囲いのついた墓域だろうと教えていただきました。15~20分の1とは、ずいぶん合葬で縮小されてしまったんですね。
はい、音羽はうちの墓の近くですので、ちょっと足を伸ばして散策してみたいと思います。資料をありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2013-05-05 20:08) 

CLS

ChinchikoPapaさん、今晩は
> きょうある方にお訊ねしたら少し高い位置にある、囲いのついた墓域だ
> ろうと教えていただきました。
雑司ヶ谷谷と音羽谷を繋ぐ谷が、南側に有り南斜面で日当たりの良い
地形です(現埋葬地は、北に寄りすぎで、斜面ではありませんが)
護国寺墓地の北端に近い場所にあります、周りは金網で仕切られてますが、先のコメントの様に、正面の門扉は閉められてますが、施錠はされてないので中に入るのは可能と思われます、"囲い"の周辺ですが、以前は通路状に空けられてたのですが、此の部分も区分けして分譲化するようです。

> はい、音羽はうちの墓の近くですので、ちょっと足を伸ばして散策してみたい
もし、江戸川橋から徒歩で向かう様でしたら、今は暗渠化された水窪川の旧川筋をたどって下さい、鳩山会館付近を除けば、ほぼ旧川筋が残ってます

本日、やっと木村荘八展に行ってきました、やはり"畑(雑司ヶ谷)"の丘は、"主峰"との思いが深くなりました。
他の絵に関しても色々とあるのですが、長くなるので...
気になったのが、3階から2階への階段、2階から1階への階段の煉瓦壁に残る、黒いブロック此は何??とよく見ると、残った炭状の物と半焼けの木目が少し見える、木製煉瓦の後でした。
"5/25日の空襲で全焼した"との記録を残してるのですね。
"構造上の強度にはのは問題ない"と残してくれたのでしょうが、当時を知らない私としてはありがたい事です。
by CLS (2013-05-07 00:03) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
護国寺墓地の北側といいますと、わたしは気づかずに近くを通りすぎてますね。墓地内は、けっこうウロウロしていますので、今度北寄りを散歩してみます。
護国寺方面へ出かけるときは、雑司ヶ谷側にある崖地の高速道路に沿って、弦巻川跡を歩くことが多いのですが(こちらでも蓮光寺の山門から崖下を眺めた写真を掲載してました)、小日向から水窪川跡をたどるのも面白そうです。弦巻川と水窪川が神田川へと注いだあたり、水戸徳川上屋敷へと流れていた神田上水の開渠が見つかった、黒田小学校の校舎がそろそろ解体を終えたころですので、跡地がどうなっているのかちょっと気になっています。
東京駅のレンガを積んだ、焼け焦げだらけの木組みですが、わたしも気になってあちこちの壁面を写真に収めてきました。すべてをリニューアルしてしまうのではなく、ああいう保存・展示のしかたは、すばらしいですね。
by ChinchikoPapa (2013-05-07 10:41) 

CLS

ChinchikoPapaさん、今晩は
> 弦巻川跡を歩くことが多いのですが
音羽谷に残る弦巻川の痕跡は、残念な事に少ないですね、特に護国寺
よりの旧音羽一丁目~三丁目は、講談社の敷地内ですし(昔は弦巻川の
流路を流用したと思われる縦長の池が有ったのですが、今は埋められてる
でしょうね)

東側の水窪川の流路は、昔の面影を残してます、崖のコンクリート面から
は今でも、水がしみ出てますし、護国寺(豊島岡墓地)の上流も都電
荒川線の先まで辿れます。

> すべてをリニューアルしてしまうのではなく、ああいう保存・展示の
> しかたは、すばらしいですね。
最初に3階部分のを見て、「長い間人の目触れてない部分を、残してくれ
た」と思ってたら、1階付近まで降りても同様の光景で、やっと"全焼"の
意味が分かりました
しかし、東京駅2階と1階の間に"中2階"が有ったのですね、初めて
知りました実質、4階建てなのですね、"中2階"の有る建物、東京では
池袋パルコ(JR東日本池袋駅)は知ってたのですが、東京駅も同様
だったのですね...

by CLS (2013-05-07 22:01) 

ChinchikoPapa

ClLSさん、コメントをありがとうございます。
では、CLSさんお奨めの水窪川跡をたどりながら、今度、護国寺界隈を散歩してみたいと思います。
東京駅は、いろいろと見飽きない空間が多くて、たびたび寄りたくなります。2階の回廊から、下の丸の内北口の改札からホール一帯を行き来する人の流れを眺めているのも、しばらく飽きませんね。
面白かったのは、ミュージアムショップに東京駅がらみのグッズがたくさん置いてあって、ちょっと欲しくなるものが並んでいました。わたしは、「木村荘八」展の図録のみで帰ってきてしまいましたが、どこか東京の外へ出かけるときのお土産には、いいかもしれませんね。
by ChinchikoPapa (2013-05-08 20:15) 

CLS

ChinchikoPapaさん、今晩は
> では、CLSさんお奨めの水窪川跡をたどりながら
元水路と明らかに分かる地形が、残ってますので是非...

> 下の丸の内北口の改札からホール一帯を行き来する人の
> 流れを眺めているのも、しばらく飽きませんね。
はい、私も暫く下を眺めて過ごしてました、出来る事なら3階の回廊から、
ドームの内側も眺めてみたかったのですが、防護処理もされてない
回廊なので、一般の人を入れるのは難しいでしょうね。

> 面白かったのは、ミュージアムショップに東京駅がらみのグッズが、
> たくさん置いてあって、ちょっと欲しくなるものが並んでいました。
おや、残念ながら私は"チラ見"で通り過ぎてしまいました(; ;)ホロホロ
確かにそうですね、定番の"ひよこ"や"東京ばな奈"等の銘菓より気が利い
てますね
今度訪問する機会がありましたら、じっくりと眺めてみたいと思います。

by CLS (2013-05-08 21:46) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
ミュージアムショップは楽しいですので、今度ぜひ寄られてみてください。
いわゆる「お土産」っぽいものは少なく、ステーショナリーやしぶいアクセサリー、記念品などがたくさん置いてありました。
by ChinchikoPapa (2013-05-09 10:05) 

CLS

ChinchikoPapaさん、今晩は
> ミュージアムショップは楽しいですので、今度ぜひ寄られてみてください。
そうですね、今になって"チラ見"を悔やんでます。
秋葉原までは行くのですが、なかなか東京駅まで足が伸びず...
by CLS (2013-05-09 20:49) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
東京ステーションギャラリーは、なかなかしぶくて面白い企画をするようですので、これからもちょっと注目してみたいと思います。
by ChinchikoPapa (2013-05-10 10:54) 

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