大正時代の結核予防最前線。 [気になる下落合]
戦前、結核は「死病」と呼ばれて非常に怖れられたけれど、罹患した人のそばへ寄ると伝染するから近寄らない・・・という、結核に対するシンプルなとらえ方や考え方は、実は江戸時代に「労咳」と呼ばれたころからの“俗説”だったことが、早くも大正期の社会には一般的に普及しはじめていた。日本人の大多数は、生まれてからとっくの昔に結核菌を体内に保有しているのであり、それが発病Click!するかしないかの分かれ目は、本人の生活習慣や体質によるものだとする見解が、西洋医学の立場から次々と世間に発表されている。
中村彝Click!が晩年にかかった主治医であり、東京市結核療養所(江古田結核療養所)の副所長だった遠藤繁清Click!医師も、講演や雑誌類の記事執筆を通じて盛んに啓蒙活動を行なっている。さまざまな誤解や、病気に対する間違った認識から、逆に結核にかかる危険性を豊富な実例をしめしながら紹介し、むしろ子供時代(小学生と特定している)のころに結核菌が体内に入ることを、免疫を獲得する意味でもたいへん重要なことと“推奨”しているのだ。遠藤の結核に関する認識は、小学校におけるツベルクリン検査と陰性の子供に対するBCG接種として、そのまま現在でもまったく変わらずに受け継がれてきている。子供時代を通じて結核菌に侵されないと、むしろ大人になってからの発病の危険性が急激に高まることまで指摘していた。1922年(大正11)に発行された『婦人画報』2月号の、遠藤医師による「結核予防に関する世人の誤解」から引用してみよう。
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結核菌は現在到る処に散在しますから、大概の人は、少年期から青年期にかけて、其侵入を受けてしまいます。従て大都会の住民中、大人になつてもまだ、結核菌一疋だも持ち合せぬ者などは殆ど無く、若しありとしても、全く例外と云つてよい、其事は反応検査や病理解剖によつて明瞭であります。/斯く、大都市の大人は、大概結核菌の侵入を受けたのであるが、皆が皆肺病になりはせず、成るのは僅少の部分に過ぎず、他の大多数は菌を有しながら、健康を保ち居るのであります。故に結核菌が飛び込むが最後、必ず肺病に罹らざるを得ぬといふものでない事が明かで、等しく菌の侵入を受けながら、或者は肺病を起し、或者は起さぬ。故に結核菌の侵入(伝染)と肺結核の発病とは別個の問題と見ねばならないのであります。
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大正中期、日本の人口は6千万人ほどだったが、その中で肺結核を発病している人数は100万人超の約2%と推定されている。東京市内だけを見ても、おおよそ10万人以上の人たちが結核を患っていた。これは、貧富の差や地域別に関係なく、東京市全体に在住する各階層にまんべんなく患者が存在していた。子供時代から、身辺の衛生面にことのほか気をつけ、結核菌を寄せつけないような家庭で育った人ほど、逆に大人になってから罹患するケースが多いことを指摘し、遠藤は免疫力の重要性を強く指摘している。
また、貧困層が集団で罹患するケースも紹介され、過酷な肉体労働や不摂生の連続により体力が低下しているとき、体内で結核菌が制圧できなくなって急激に増殖し、肺結核を発症することも挙げている。遠藤医師は、可能な限り休養や睡眠を多めに取り、特に酒やタバコなど免疫力を低下させるような嗜好品の過剰摂取を控えて、健康に留意するよう奨めている。
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然らば抵抗力の欠乏は如何なる場合に来るかと云ふに、夫は種々雑多でありますが、一言にして掩へば、生活上の無理と申して差支ないと思ひます。例へば万事不規律な生活、酒色其他の不健全な夜ふかし、過激の労働、体力不相応の運動甚しき粗食、種々の原因による憂鬱煩悶、閉ぢ籠めたる室内の生活、休養の足らぬ職業、気苦労多く暮らし、病後産後等の休養不足等、要するに体力を甚しく消耗して、之を補給する途に乏しき様な生活を続ける時に、肺病が起り易いので、之等の無理が動機となつて、従来潜伏し居つたものが爆発するのでありますが、先天性要因のある人は、此無理に堪へる力が比較的乏しいのであります。尤も日頃の心掛け次第で体質を改造する事は必ずしも難事ではありませぬ。
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最後に、患者を隔離すれば結核の伝染は防げる・・・という単純な考え方に対して、「只他人からの菌のみ用心して、夫さへ守れば大丈夫と安心して居ると大変な誤りでありますが、事実は此誤解等が大多数でありますから、夫で私共は微力ながら数年来此の方面の知識の普及に努めて居るのであります」と結んでいる。
遠藤医師によれば、中村彝が結核を発症したのは極端な粗食Click!と不摂生、そしてストレスClick!の蓄積による「憂鬱煩悶」による・・・ということになるのかもしれない。おそらく結核をめぐる上記のような意見を、遠藤は彝にも詳しく話して聞かせただろう。1921年(大正10)の初めあたりに、彝は遠藤繁清・著の『通俗結核病論』をすでに読んでいる。晩年の彝は、小熊虎之助Click!から紹介された遠藤医師を深く信頼していたようなので、彼の言葉に耳を傾けていたにちがいない。
■写真上:1921年(大正10)ごろに描かれた中村彝『血を吐く男』の鉛筆素描。彝の死後にアトリエ保存のために結成された、「中村画室倶楽部」の所蔵印が右下に押されている。
■写真中:左は、結核菌の顕微鏡写真。右は、中村彝アトリエに残る濃い屋敷林の現状。
■写真下:左は、結核患者のX線写真。右は、冒頭の『血を吐く男』の表面に描かれた『静物』。
中村彝の粗食、以前の記事で拝見しましたが、何とも酷いものですね。食欲があったのでしょうか?
「エロシェンコ氏の肖像」を、もっといろいろな角度から沢山描いてほしかったです。
by アヨアン・イゴカー (2008-12-26 00:20)
アヨアン・イゴカーさん、コメントとnice!をありがとうございます。
結核の症状が進み、しじゅう熱に悩まされていたとすれば食欲はなくなると思いますが、この時期の中村彝はまだそこまで症状がひどくなっていない時代ですので、食欲は普通にあったんじゃないかと思います。
1920年(大正9)の時点で、彝の体力がもう少し残っていれば、あと数枚の「エロシェンコ」が残されていたかもしれないですね。
by ChinchikoPapa (2008-12-26 13:36)
『Vintage Dolphy』は学生時代、もっともターンテーブルに載る回数が多かったアルバムの1枚です。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-12-26 14:08)
昭和10年前後、日本橋ではディズニーのアニメが大人気だったようで、親父は週末ごとにそれを観にいくのを楽しみにしていました。東京の山手がヨーロッパナイズされていたのに対し、小林信彦も書いてますが下町がアメリカナイズされていたのは、米国映画の流行が大きいようですね。nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2008-12-26 14:54)
ChinchikoPapaさん。私のブログへのご丁寧なコメント、ありがとうございます。
もったいないので、私のブログのコメント欄に転記させて頂きます。
ありがとうございました。
by sig (2008-12-26 17:51)
sigさん、わざわざすみません。^^; ありがとうございました。
占領地から押収した『風と共に去りぬ』を試写した海軍士官が、「負ける」と直感した話は有名ですね。わたしも以前に、ここで触れていました。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-05-23
by ChinchikoPapa (2008-12-26 19:15)
会社でUnicef事業に協力しているのですが、不景気で以前より役立てないのが残念です。nice!をありがとうございました。>shinさん
by ChinchikoPapa (2008-12-26 23:46)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-10-11 11:20)