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今度は旅の車窓からオシッコじゃ! [気になる下落合]

桔梗屋旅館.JPG 桔梗屋旅館の昔.jpg
 先日、銀座の日動画廊で開かれていた、「日本の美-金山平三とその時代展-」を観てきた。日本各地を描いた金山作品の展示とともに、金山平三Click!とよく写生旅行で同行していた刑部人Click!をはじめ、曾宮一念Click!大久保作次郎Click!牧野虎雄Click!安井曾太郎Click!満谷国四郎Click!などの作品が一堂に会し、まるで下落合の画家たちの町内展のような趣きだ。森田亀之助Click!がプロデュースした、「湶晨会」の4人展Click!を思い浮かべてしまった。
 金山平三Click!の作品は、どれもこれも色づかいがしぶくて美しい。特に、下諏訪や東北の秋田や山形を描いた作品は粒ぞろいで、お馴染みのスケートをテーマにした作品も架けられていた。「雪の金山」と言われるぐらい、当時は雪景色を描いたらピカイチの存在だったらしい金山平三だが、わたしは男鹿半島あたりの日本海に面した鄙びた漁港を描いた、微妙な灰緑色を基調とした海岸風景がとても気に入った。会場には、作品のほかに金山平三が愛用した旅行カバン、イーゼル、パレット、画道具を入れた出前の“おかもち”Click!(らく夫人も愛用していたものか/爆!)、私信類や名刺、人形芝居用の江戸人物の頭(かしら)なども展示されていた。
 ボロボロになった愛用の旅行カバンには、諏訪湖の近くにある行きつけの桔梗屋旅館のステッカーが貼られていた。上掲の写真が、下諏訪にある金山じいちゃんご用達の桔梗屋旅館だ。仲居さんたちに、「雷さまのおヘソ」を見せて脅してClick!まわったのもこの旅館だろう。金山は、この桔梗屋旅館からすぐ近くにある地元の人たちが設置した秋宮スケートリンクへと通い、滑りを楽しむかたわら作品をせっせと描いていた。展示されていたキャンバスに塗布するニスには、「かわきおそい」といった材料の性質が細かな筆文字で書かれ、几帳面で潔癖症の性格をうかがわせる。
金山平三晩年.jpg 刑部人と金山平三.JPG
 でも、こと服装に関しては几帳面でも潔癖でもなく、まるで浮浪者のような格好をしていたようだ。それは、「美術界の重鎮」が来るというので、駅へ町をあげて迎えに出た人たちが見逃すClick!ほどの汚さで、大正時代のボロボロになったつぎはぎだらけの服装に、これまた汚らしいバッグや風呂敷を抱えているので、旅先の旅館ではまず怪しんで泊めてくれない。そこで考え出した旅館攻略法とは、身ぎれいな格好をしている刑部人Click!を、まず先鋒として目標の旅館へ送りこみ、自分はあとから連れとして旅館に乗りこむ・・・という戦術だった。そのあたりの様子を、1979年(昭和54)に栃木県立美術館で開かれた「四季の彩=日本の風景美 刑部人展」図録から引用してみよう。ちなみに3人とは、刑部人、金山平三、(牧田)らく夫人Click!のことだ。
  
 私達3人は福島に夕方着いたが一泊する宿を探すことになった。先生は私に「君、駅前の旅館に行って泊ることを交渉して来い」といわれる。これには理由がある。当時は今の人達には想像も出来ないことかもしれないが、一般の人達の服装はすべてひどかったのであるが特に先生はひどいというより変っていた。先生欧州留学中第一次大戦の折フランスで買われたというコールテンの背広とズボン、そのズボンの両膝の部分には全然違った布の大きなつぎが当りそれが絵の具のついた手を置くので油光りになり、ベルトの代りに木綿のしぼりの兵児帯を前結びにし、先生手製の模様つきの古布で作ったはき古した足袋に歯のちびた下駄をはき、リュックサックの他にイーゼルを入れたこれも手製の布袋、カンバスを何枚か包んだつぎの無数に当った風呂敷包み、そしてこれ等の総てが洗いさらして色は褪せ古色蒼然たるものである。又奥様は当時としては当り前の紺がすりのもんぺと上っぱりを着て居られたが一般の人々には異様に思われたと思うが袋に入った三味線を持って居られた。
                              (刑部人『東北の春-金山先生との旅-』より)
  
最上川雪景.jpg 刑部人「彦根雪景」1973.jpg
 ボロボロの金山じいちゃんに、三味線を袋に入れて紺がすりのモンペを着たらく夫人の姿を、周囲の人たちが見たらどのように思っただろうか? まずは、小津安二郎が描く『浮草』(1959年)にでも登場しそうな、しがない旅芝居一座のなれの果ての、流浪する老夫婦としか見えなかったにちがいない。帝大出で高等数学の教授だったらく夫人は、将来自分が三味線を抱えてモンペ姿で夫と旅行することになるとは、おそらく想像だにしえなかっただろう。だから、踊りと人生は楽しくてやめられないのよ・・・と感じていたのかもしれないけれど。^^ 「服装は一般サラリーマンと同じ様」(同書)な、刑部人が同行していたからこそ、旅館に宿泊できたのだと思われる。
 また、旅行することが多かった金山じいちゃんだが、長距離列車の車窓からオシッコをまき散らした“事件”もあった。戦後まもないころ、地方へ出かける列車はどれも満員で、なかなかトイレに行けなかったのは理解できるが、ふつうの乗客たちのように足元でこっそりと瓶や缶にするのがイヤだったらしく、窓からいきなり突き出してまき散らしたのだ。
  
 発車する頃は乗客で一杯になり関東平野を走っている時は通路といわず、客席の間といわず超満員の有様であった。その頃は便所、洗面所は勿論網棚の上にさえ人が乗っていることが普通であった。この中で先生は尿意を催されたのであるから大変なことになった。便所は勿論ぎっしり人がつまって居り更に其処まで行くことがそもそも不可能である。立錐の余地ない人である。そこで先生は窓を開けて走る列車の窓から放尿された。これが夏でもあって窓を開け放って走っていたら後の窓際の人々は尿しぶきの洗礼をまともに受けたことと思うが幸に五月始めで大方の窓が閉じられてあったことが仕合であった。 (同上)
  
金山平三パレット.jpg 銀座2009.JPG
 「仕合であった」と書かれているけれど、季節は五月のことだから後続の車両には窓を開け、しかも人いきれで満員の車内だから、関東平野の風薫るさわやかな初夏の空気を車内に入れていた乗客が、少なからず絶対にいたんじゃないかと思う。(爆!)

■写真上:桔梗屋旅館の現在()と、金山平三が宿泊したころのたたずまい()。
■写真中上は、晩年の金山平三。は、旅先で談笑する金山平三(右)と刑部人Click!(左)。金山平三がいずれもボロボロの格好をしていないのは、写真撮影があったからにちがいない。
■写真中下は、1945~56年(昭和20~31)ごろに山形県の大石田近くで描かれた金山平三『最上川雪景』。は、1973年(昭和48)に制作された刑部人『彦根雪景』。
■写真下は、金山平三が愛用したパレット。は、金山平三展の帰りに歩いた銀座4丁目の服部時計店(和光ビル)界隈。日曜日の午後で歩行者天国にもかかわらず、不況のせいかガラガラで、こんなに空いている休日の銀座はわたしも生まれて初めての体験だ。


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ChinchikoPapa

改めて考えてみますと、リズムセクションとしてのロン・カーターは強く意識するものの、リーダーアルバムとしての作品を深く聴きこんだ憶えがなかったりします。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2009-01-29 13:44) 

ChinchikoPapa

異なるサイトへもコメントを書かせていただいたのですが、わたしの世代ですとキューバ革命への関心よりもゴルバチョフが出現したソ連への関心が、若いころは非常に強かったですね。キューバのサトウキビ農家へ援農に出かけた世代は、おそらく10~20歳ほど上の世代だったでしょうか・・・。nice!をありがとうございました。>shinさん
by ChinchikoPapa (2009-01-29 13:49) 

ChinchikoPapa

わたしが小学生のころ、公団住宅の申し込みに行列する様子を、ニュースで盛んに流していたのをかすかに憶えています。希望の地域は、申し込み時に指定できなかったんですね。nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2009-01-29 14:05) 

sig

こんにちは。
『東北の春-金山先生との旅-』における金山先生尿意の件、車内に立錐の余地なく、網棚や座席の下にも寝ていたという様子は、昭和34(1959)~40年頃に私が帰省するころも全く同じでしたので、あの状況はすごくよく分かります。私の場合は上野発午後11時55分の最終の汽車で、長岡まで各駅停車で7時間半。片足で座席の隅に立たせてもらい、もう片足は宙ぶらりん。片手で網棚の棒をつかんだままの姿勢で、うとうとしながら帰った記憶があります。トイレはどうしたか忘れましたが、さすがに窓は使った記憶はありません。
(笑)
by sig (2009-01-29 14:05) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントをありがとうございました。
片足のまま長距離列車で帰省されるとは、着いたとたんにダウンしてしまいそうです。(汗) わたしは普通列車で、深夜の11時に東京を発ち翌日の午後6時すぎぐらいに松江へ着いたことがありますが、この過程はすべて座れていたにもかかわらず、身体が痛くて疲れて死にそうな思いをしました。
立ったままというのは、岡山から東京まで満員の新幹線に4時間ちょっと乗った経験がありますけれど、なぜか座ったままの松江行きよりはまだ楽だったような感触があります。車両の揺れ方の違いや、スピードの差もあるのかもしれません。いずれにしても、長距離列車にエンエンと乗りつづけるのは、いつの時代にも苦行ですよね。^^;
by ChinchikoPapa (2009-01-29 19:11) 

sig

最近は列車の便数も増え、昔のような混雑は見られなくなりましたが、Chinchikoさんもずいぶん立ったままの長旅を経験されたんですね。
そうそう、上のコメントの続きになりますが、列車内では片足ケンケンのように、両足を交互に替えていました。
早朝7時半に長岡に着き、うちに帰ったとたんに、それまでの仕事の疲れと立ち乗りの列車疲れがどっと出て、すぐに眠り込んでしまいました。母に起こされたのは午後5時過ぎ。文字通り、泥のように眠っていました。そんな状態でしたから「薮入り」の1日目はいつもこうして終わってしまいました。
by sig (2009-01-30 11:29) 

ChinchikoPapa

sigさん、重ねてコメントをありがとうございます。
わたしの場合、片足で立つというような非常事態ではありませんでしたが、それでも重心を片足ずつ交互にかけていました。だいたい、3時間をすぎるあたりから脚が痛くなりはじめ、東京駅のホームに降り立ったときには、脚が思うようにうまく動かなかったように記憶しています。でも、わたしの経験などsigさんの苦行に比べれば、ぜんぜんたいしたことはないと思います。
やっぱり、家へ到着したとたんにダウンしてしまいますよね。先に書きました、19時間も普通列車に揺られて松江の友人宅へ遊びに行ったときがまさにそれで、6時前後に松江駅について8時ぐらいに夕食をいただいたのですが、そのあとから意識が朦朧としてなにも憶えていません。きっと、そのまま即ダウンしてしまったのでしょう。^^;
by ChinchikoPapa (2009-01-30 13:16) 

ChinchikoPapa

わたしは近所の飲み屋で1杯・・・という習慣がないのですが、楽しそうですね。
nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2009-01-31 23:33) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2009-02-01 22:10) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>hide-mさん
by ChinchikoPapa (2009-07-08 18:40) 

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