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佐伯祐三は自宅を描いている。 [気になる下落合]

下落合風景1926.jpg
 佐伯の「下落合風景」シリーズClick!の中で、ひとつひっかかっていた作品があった。目白文化村Click!の第三文化村に接した三間道路、例によって「八島さんの前通り」Click!を、いつもの南側からではなく北側から描いた新発見の作品Click!だ。20号サイズのキャンバスに描かれたこの「下落合風景」は、2000年(平成12)ごろ朝日晃によって発見されており、おそらく個人所蔵の作品なのだろう。佐伯の展覧会などで展示されているのを、わたしはいまだ見たことがない。
 佐伯祐三Click!は、1926年(大正15)の秋に下落合661番地の自宅から、西へ1軒おいた敷地(下落合666番地)に建っていた八島邸Click!を頻繁に描いている。これらの作品を、別名「八島さん」Click!シリーズというカテゴリーでくくれるほど点数が多い。当時、八島邸の向かい側に造成された第三文化村の敷地には、いまだ住宅があまり建てられてはおらず、下見板の外壁で赤い屋根の八島邸は、ことさら目についたのかもしれない。でも、当時の下落合では、このような意匠の西洋館はぜんぜんめずらしくなかったはずで、なぜ佐伯がこの建物に強く執着したのかがイマイチ不明なのだ。だから、八島家との関係Click!をいろいろ楽しく想像Click!してしまうことになる。文化村の広い空地へイーゼルを据えるのが、ただ単に楽しかっただけなのかもしれないのだが・・・。
火保図1938.jpg
 この作品でも、八島邸がほぼ真正面に描かれている。「八島さんの前通り」=三間道路を北から見た左手(東側)は、谷戸(大正初期まで不動谷)が深く入りこんでいる地形の北側にあたるので、道路から見ると少し低くなっている。八島邸の向こう側に見えている同じような赤い屋根の2階家は、この作品と同じ1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」には収録されていないが、おそらく同年に建設されたばかりの納(おさめ)邸だろう。そして、八島邸の手前に建っている、少しくすんだ屋根の平屋が多賀谷邸。さらに東側(左手)に目を移すと、一見“蔵”のような2階家が、八島邸の裏に建っていた小泉邸で、その手前の赤い屋根の平屋が佐久間邸・・・という配置だろう。
 問題は、1階建ての佐久間邸の、さらに向こう側に見える緑色っぽい瓦を載せた2階家だ。これが、位置的に見ても、またアトリエの屋根瓦の色を考慮しても、1926年(大正15)現在の佐伯邸母屋の可能性が非常に高い。さらに、小泉邸と佐伯邸と思われる建物との間にチラリと見えている茶色い屋根は、道ひとつ隔てて通称・青柳ヶ原に面して建っていた、やがて佐伯が50号の「テニス」Click!をプレゼントする青柳家Click!の邸宅のように思えるのだ。
佐伯祐三1.jpg 佐伯邸1926.jpg
佐伯アトリエ空中1936.JPG 佐伯アトリエ空中1947.JPG
 これらの家々の配置は、地形的にもまた敷地の位置的にもよく一致している。ただし、大好きなバーミリオンが使える赤い屋根で、佐伯お気に入りの八島邸は、このあとほどなく建て替えられているようだ。1936年(昭和11)の陸軍が撮影した空中写真や1938年(昭和13)の「火保図」を見ると、すでに敷地内の建物の位置や形状が、佐伯の描く八島邸と一致していないのがわかる。
 おそらく、下落合の数多くの住宅がそうであったように、1935年(昭和10)ぐらいまでにリニューアルされているものと思われる。下落合における家の建て替えは、先に書いた昭和大恐慌Click!の影響と、家の住民が入れ替わっていない場合はもうひとつ、関東大震災Click!の教訓から耐震度を高めた住宅再建築のニーズも多かった。特に、重たい瓦を載せた家屋は避けられるようになり、モダンなスレートやトタン葺きによる屋根が流行Click!している。
下落合事情明細図1926.jpg 東京都全住宅案内帳1960.jpg
佐伯アトリエ1955.jpg
 1960年(昭和35)に、住宅協会によって制作された「東京都全住宅案内帳」を見ると、上掲の「下落合風景」に描かれた八島さんをはじめ、青柳さんや小泉さんはそのままの位置にお住まいだったことがわかる。でも、不思議なことに「佐伯」の名前が見あたらない。1972年(昭和47)まで米子夫人が住んでいたはずなのだが、佐伯邸の敷地には「西宮」という名前が収録されている。
のちに、旧・土地台帳の地籍を確認したところ佐伯アトリエは「西宮」家ではなく、「沢浦」家(下落合1丁目661番地1号・3号)と「早崎」家の間、あるいは「早崎」家の位置に相当することが判明した。あるいは、佐伯アトリエの敷地(661番地2号)そのものが、「東京都全住宅案内帳」にそもそも採集されていない可能性も高いように思われる。路地の奥まったところの敷地のため、採集漏れの可能性も否定できない。issyさんからのご指摘を含め、詳細はコメント欄をご参照ください。
 おそらく1980年前後に下落合から引っ越された、佐伯のモチーフにもっとも愛された「八島さんの前通り」の八島さん、このサイトをご覧でしたらぜひご一報を。ご自宅のまわりをウロウロしていた、当時はほとんど無名に近い画家の物語が伝承されていやしないだろうか。

■写真上:1926年(大正15)の秋に描かれたとみられる、新発見の佐伯祐三「下落合風景」。
■写真中上:1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる、「下落合風景」の描画ポイント。住民の多くは大正期と変わらないが、住宅はかなりの割り合いで建て替えられている。
■写真中下上左は、草むらに座る1924年(大正13)9月の佐伯祐三。上右は、上掲「下落合風景」の部分拡大。下左は1936年(昭和11)の、下右は1947年(昭和22)の空中写真。
■写真下は、ちょうど佐伯が「下落合風景」の連作を描いていた1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」。は、1960年(昭和35)に住宅協会が制作した「東京都全住宅案内帳」。は、1955年(昭和30)ごろに敷地の北側から撮影された佐伯自身が増築したアトリエ西側の洋間部分で、右側に見えている下見板外壁の家屋は戦後に再建された小泉邸の一部と思われる。
佐伯アトリエ上空1957.JPG


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コメント 19

sig

こんにちは。
以前の記事『佐伯祐三お気に入りの「八島さん」ち』を見せて頂きましたが、絵としては空き地を広く取り込んだ横位置の3点より、構図としてのまとまりや色づかいを考えると(生意気言ってますが)縦位置の作品の方が好きです。
佐伯はこの一連の八島さんちの絵を描くとき、どこかにまもなく変貌するであろうこの土地の光景を記録しておきたいというようなねらいもあったのではないでしょうか。自宅も描かれていたということで、ふとそんなことを考えました。
by sig (2009-02-07 11:34) 

ChinchikoPapa

コルトレーンの参加もいいですが、ジャケットの秀逸さから何度も聴いたグリフィンの作品です。マイ・フェイバリット・アルバムの1枚ですね。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2009-02-07 11:42) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
わたしも、「八島さんの前通り」シリーズでは画面が相対的に明るい、画布がタテの作品が好きです。もうひとつ、八島さんちの門を描いた作品もタテ位置で、こちらも好きな1枚ですね。パリの大きな通りとは異なり、当時、下落合の住宅街に通う道は二間道路あるいは三間道路が主流でしたから、キャンバスをタテに使用するとまとまりよく感じるのかもしれません。
佐伯がモチーフに選んでいた風景は、当時の下落合に展開した風景一般ではなく、どうもそこに意志的な選択眼といったものを感じます。ひとつは、整えられたきれいで美しい場所ではなく、未整備で「きたない」あるいは「雑然」とした場所、ないしは道筋を中心に工事中または造成まっただ中の場所・・・という感触です。
パリでも、すぐそこにある美しい街並みや大通りではなく、鄙びた裏街や店舗ばかりを描いて警官から“注意”された話は有名ですが、下落合でも美しく整えられた風景のあるエリアは避けられ、ことさら未整備の区画あるいは鄙びた地点ばかりを選んで描いているように思います。これは、佐伯の「どのような風景が美しいか」という美意識に直結するテーマでもあり、面白いですね。佐伯がモチーフに選ぶ対象物、あるいは光景を、里見勝蔵が「きたない」と表現しているのは、非常に示唆的に思うのです。
by ChinchikoPapa (2009-02-07 12:12) 

ロックケーキ

こんにちは、お久しぶりです。
佐伯が選ぶモチーフにはどこか違和感を覚えていたんですが、上記のお話を拝見してなるほど~と合点がいきました。
綺麗、と言われるものを描くタイプではなかったのですね。
興味深いお話です。

ご存知かもしれませんが、現在、新宿区立歴史博物館で「テニス」が展示されています。(3月末まで)
私も見て来たんですが、ガラス越しとはいえかぶりつきの距離、50号の大きさ、筆の勢いに圧倒されました。
やはり実物を見れるのは嬉しいですね!

by ロックケーキ (2009-02-07 17:55) 

ChinchikoPapa

夜、どこかの裏町を歩いていると、家々から漏れる灯りに想像が一気にふくらむことがあります。寺山修司が「不法侵入」で逮捕されたのも、そんな瞬間なんじゃないかと思うことがありますね。nice!をありがとうございました。>漢さん
by ChinchikoPapa (2009-02-07 20:13) 

ChinchikoPapa

ロックケーキさん、コメントをありがとうございます。
たぶん、「これはとてもいい! 絵になる風景だ!」と感じるものが、佐伯祐三の場合、他の画家たちと大きく異なっていたんじゃないかと思います。おそらく、正反対の印象を受けますね。多くの人々が「美しい」と感じる風景に、佐伯は制作意欲をかきたてられなかったんだと感じます。
だから、下落合でも「絵になる」ところはことごとく意識的に避けられ、「絵にならない」なんの変哲もない日常の空間、あるいはあえて鄙びた風景や工事現場を選んで、描きつづけていたんだと思いますね。それが、そのような風景へ無意識のうちに共感をおぼえ、自然に制作意欲が湧き上がってきたものか、あるいは「日常性からの視点」というような、意識的で演繹的な風景モチーフの選択眼が存在したのかは、いまだよくわからない部分です。『下落合風景』を深く探りながら観ていきますと、おかしな言い方ですが「絵にならない風景を絵にする佐伯祐三」という、彼ならではの独特な特徴が顕著です。
「テニス」は巨大ですね。他の『下落合風景』を見慣れてきますと、「テニス」のサイズに改めて驚かされます。同シリーズでも唯一の最大作品ですので、南隣りの青柳家には、常日ごろからかなりお世話になっていたんじゃないかと想像しています。
by ChinchikoPapa (2009-02-07 20:32) 

アヨアン・イゴカー

>1955年(昭和30)ごろに敷地の北側から撮影された佐伯自身が増築したアトリエ西側の洋間部分
この建て物は懐かしい。昔は、木造の小学校の校舎はこのように、貫板を横に並べた構造でしたね。
そして、この「佐伯が増築した」洋間部分は、天井が低く、それでいて開口部の窓が大きくとってあるところが、とても当時はモダンだったのではないでしょうか。窓も桟が少ないところが、いかにもお洒落です。
by アヨアン・イゴカー (2009-02-07 23:56) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントとnice!をありがとうございました。
下見板外壁のアトリエと増築洋間は、いまでもそのまま残っていますので、いつでも見られるのがうれしいです。ちょうどアトリエは内装工事(床面補強だと思うのですが)をしてまして、来年には内部も見られるようになるようです。
増築洋間の大工仕事には、いろいろとエピソードが残ってまして、トイレを壊したあと用を足すのに途方に暮れたとか、先輩の画家・曾宮一念に壁塗りを手伝わせたとか、入り口をふさいでしまって中に閉じ込められたとか、佐伯らしい話がたくさんあります。^^;
関東大震災で被害がなかったのが、唯一この増築洋間部分だったらしく、佐伯はあちこちへそれを自慢していたようです。母屋を解体して公園化するにあたり、アトリエの角度を移動している可能性を感じますので、ちょっとこれから確かめてこようと思っています。
by ChinchikoPapa (2009-02-08 12:17) 

ChinchikoPapa

川石を半分にしてアスファルトの道路へ埋める、という発想は面白いですね。やむなく壊さざるをえない石やレンガの歴史的な建築物の思い出に、その前面道路へ建材を記念して平らに埋める、なんてことに応用できそうです。nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2009-02-08 16:42) 

ももなーお

しかし絵から描画ポイントを見つけるなんて至難の業ですよね。いろいろな情報を総合的に見なくてはなりませんから。毎回ご苦労様です!
by ももなーお (2009-02-09 14:31) 

ChinchikoPapa

ももなーおさん、コメントをありがとうございます。
佐伯祐三の作品は、場所を特定できるヒントをけっこう数多く残してくれていますので、実は当時の様子がわかってきますと、それほど難しくないんですよ。特に下落合の道筋は、現在とあまり変化していませんから、道を入れて描くことが多い佐伯作品は、その道や場所の地形の記憶さえハッキリ印象に残っていれば、あのへんだ・・・と見当をつけてから裏取りを始めることができて、比較的早く見つけることができます。
逆に松下春雄の作品ように、下落合のあちこちを描いていても、森や林のみどりを中心に描いて道を描いてくれないと、タンクとか校舎とか、よほどの目標物がない限り、どこの風景を描いたものかまったくわからない・・・ということになってしまいます。
by ChinchikoPapa (2009-02-09 15:58) 

issy

こんにちは。いつも楽しく拝見しています。
1960年の地図を見て気になったのですが、路地および沢浦邸(「佐」の文字で隠れていますが・・)との位置関係から考えますと、旧佐伯邸があるはずの位置は青柳邸の真北にある早崎邸ではないでしょうか。

いずれにせよ、佐伯と早崎(口に出すとなんとなく似てます!?)がどういう関係があるかは興味深いところです。
by issy (2009-02-09 16:58) 

ChinchikoPapa

issyさん、コメントをありがとうございます。
わたしも、60年の住宅協会が作った地図は悩ましく、特に狭いところを長く引き伸ばして描いたり、逆に広いところをひどく縮めて描いていますので、とても紛らわしいですね。
ご指摘の部分ですが、大正期の青柳邸は敷地がいちばん広かった時代です。掲載しています1926年の「下落合事情明細図」にも描かれているとおり、敷地の北側を佐伯邸敷地(酒井億尋敷地)に接していました。ところが、おそらく1935年(昭和10)前後に相続の問題かなにかで敷地が南北に2分され、1938年(昭和13)現在の「火保図」では、南北に家が2軒建っています。そして、戦後はさらに分割されたか、あるいは北側の敷地に家が2軒=2世帯が住んでいたかで3分割されていた時期があったようです。この間、佐伯敷地の広さや範囲は変わっていませんので、「沢浦」「早崎」「青柳」各邸は、旧・青柳家の敷地に建っていたものと思われます。
また、路地の描き方もいい加減で、佐伯邸の隣りにある小泉邸まで北側からおりてきて突き当たる、古くからの長い路地が描かれておらず、納邸を分割して造成されたほんの短い路地が長大に描かれるなど、かなり不自然なバランスになってますね。
by ChinchikoPapa (2009-02-09 17:34) 

ChinchikoPapa

記事末に1点、写真を追加しました。1957年(昭和32)現在の空中写真で、issyさんが指摘されている「東京都全住宅案内帳」地図が作成される3年前のものです。黄色い点線が佐伯祐三邸(当時は佐伯米子邸)で、西側から八島邸に小泉邸と、おおきな家が並んでいるのが見えます。
テーマは、赤囲みしたところの敷地です。この赤い四角で囲んだところが、大正時代にはすべて青柳邸の敷地でした。それが、1938年(昭和13)には2分割されて杉山邸(北側)と青柳邸の2軒になり、1957年(昭和32)現在では3軒に増えているのが見てとれます。おそらく、いちばん下(南側)が青柳邸で、その上が早崎邸、そして佐伯敷地に接するいちばん上が沢浦邸だと思います。
もうひとつ、佐伯邸の南西に建っていた大きな納邸は、すでに敷地が細分化され北上する路地ができかかっているのが見えており、おそらく空襲で邸が焼けたあと、ほどなく敷地を売却してしまった様子がわかりますね。
by ChinchikoPapa (2009-02-09 19:40) 

テツオ

まいど。ここの青柳家に友人がいました。以前に写真に登場した青柳さんの孫だと思います。おとうさんは日産自動車に勤めていた。一昨年会ったとき、後を継いで下落合に戻るのかと聞きました。千葉に住んでいます。もう戻らないといっていた。長く住んでいると、そこを地元とするつきあいが生まれ、簡単には離れられないそうです。そこに根をおろした状態かな。とくに奥さんの友人が多くて、下落合に移っても知らない人ばかり。若い時の転居なら別でしょうが、そんな老後はいやだというのは理解できます。処分してしまうのでしょうね。もうしちゃったのかな。
by テツオ (2009-02-15 23:12) 

テツオ

それにしても、わたくしの友人やゆかりの場所とか当時によく知っていた跡地とかが出てきて、油断できない。青柳君と相馬邸後の中田邸の中田君。三輪石けん社長邸の中に住んでいた庭師の家の子も友達だった。
by テツオ (2009-02-15 23:28) 

ChinchikoPapa

テツオさん、コメントをありがとうございます。
いつも貴重な情報をいただき、改めてお礼申し上げます。少し前の話になりますが、下落合にあるスチール撮影の写真スタジオを仕事で利用することになり、建て込みにグリーン(草花)が必要になったとかで、うちのディレクターが問い合わせてきましたので、さっそく近くの「花屋さん」をご紹介しておきました。^^ スタジオから、スタイリストかうちのディレクターがうかがったのではないかと思います。
以前、「テニス」がらみの記事で、写真とともにご紹介しましたのは青柳正作氏ですが、では辰代夫人との間のお孫さん(お子さん?)をテツオさんはご存じだったのですね。佐伯アトリエの周辺の方にお訊ねしますと、やはり落一小学校で教師をされていた辰代夫人の印象が非常に強いのと、聖母病院ができる前からの名称「青柳が原」でことさら記憶されているように感じました。関東大震災のとき、佐伯アトリエ周辺にお住まいの方々が、「青柳が原」へ避難されたという伝承が、より印象を深めているのではないかと想像しています。
千葉県にお住まいということですと、なかなか気軽に取材する・・・というわけにはいかなさそうですね。^^; それにしても、佐伯が愛したモチーフ八島邸の方々も、どちらへ越されたものか・・・。八島さんのお宅には、きっと佐伯にまつわる話が伝わっていそうな気がします。
by ChinchikoPapa (2009-02-16 14:22) 

ChinchikoPapa

以前、issyさんよりこちらへいただいたコメントの内容ですが、念のため法務局で旧・土地台帳から地籍を調べてみましたところ、issyさんのご指摘どおりだということがわかりました。
1960年の住宅協会が作成した「東京都全住宅案内帳」の、位置的な不正確さは同様なのですが、「澤浦」家は、佐伯邸(佐伯アトリエ)の北側に面した敷地、地籍の地番で言いますと下落合2丁目661番地1号および3号です。佐伯アトリエは、1947年9月に佐伯米子が購入していますので、その時点から台帳が分筆されて、661番地2号となっています。
言い換えますと、住宅協会の同地図ではissyさんの言われるように「早崎」家のあたりが佐伯アトリエの敷地・・・ということになります。そして、1957年に撮影された記事末の空中写真にとらえられた3軒の家屋は、青柳邸の敷地ないしは青柳邸と早崎邸の敷地に建っていた・・・ということになります。つまり、同地図では佐伯米子が住んでいた下落合2丁目661番地2号が、丸ごと掲載されていない可能性があります。
issyさん、ご指摘をありがとうございました。改めてお礼申し上げます。
by ChinchikoPapa (2009-04-04 16:30) 

ChinchikoPapa

先週末、桜木町へ出張してきたばかりです。MM21地区は、緑がいまだ大きく育ってなくてよけいに暑く感じました。nice!をありがとうございました。>hideyaさん
by ChinchikoPapa (2011-07-17 12:13) 

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