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鶏舎の臭いがたまりませんの。 [気になる下落合]

佐伯アトリエ2009冬.JPG
 1938年(昭和13)に作成された「火保図」を調べていると、「おや?」と思うことが少なくない。佐伯祐三Click!アトリエClick!母屋Click!の位置も、その疑問のひとつになった。「火保図」に描かれた佐伯邸は、敷地のやや中央寄りに配置されていて、必然的にアトリエの位置も現状とは異なっているように記載されている。誰がみても、「おや?」なのだ。
 「佐伯公園」が造られたとき、アトリエの位置を動かしてやしないだろうか?・・・、それがこのところ頭にこびりついて離れなかった疑問だ。そもそも、現状の佐伯アトリエはおかしな方角を向いている。中村彝Click!アトリエClick!のように、ほぼ真北を向いてはいない。微妙な角度で北北東を向いているのだ。また、現在の佐伯公園のアトリエ位置を基準にすると、母屋の南西角が西側の敷地、すなわち納(おさめ)家の敷地へぶつかるか、あるいは突き抜けてしまいそうになる。母屋のスペースが、やたら窮屈なのだ。佐伯公園へ実際に立って観察すると、ますます母屋の位置が敷地ギリギリにまで迫り、どうやって建っていたのか不思議に思える。
 そこで、「火保図」の家屋位置をベースに、1936年(昭和11)当時の陸軍空中写真から現在のGoogleの空中写真にいたるまで、敷地と家屋の位置を重ね合わせてみる。まず、現在のGoogle写真では、「火保図」と比較して明らかにアトリエは4~5mほど「移動」していることになる。戦後すぐのころに撮影された1947年(昭和22)の米軍空中写真は、佐伯邸の屋敷林が濃くて敷地の形状や母屋の位置がはっきりしない。もう少しあとの、特に冬場に撮影された戦後すぐの空中写真を探してみたが、残念ながら鮮明なものは見つからなかった。
佐伯邸玄関跡.jpg 佐伯邸火保図1938.jpg
 ようやく探し当てたのは、佐伯米子が死去した2年後に撮られた1974年(昭和49)の空中写真だ。いまだ母屋は解体されておらず、もとのままの姿を保っている。わたしは、すでに下落合を歩きはじめていたころなので、佐伯邸へ立ち寄っていればまだそれほど傷んでいない母屋が見られたかと思うと残念だ。この写真に、現在のGoogle写真を重ねてみると、意外なことにピタリと一致した。つまり、佐伯アトリエは建築当初から現在の位置に建っていたのであり、まったく動いていないことがわかる。「火保図」の敷地内に描かれた家屋配置の記録が、非常にいい加減に描かれていたのだ。
 でも、すぐに次の新たな疑問が浮かびあがった。なぜ佐伯は、決して狭いとはいえない敷地のスペースに余裕をもって、効率的に自宅やアトリエを配置しなかったのだろうか? まるで、敷地の北西側へ追いつめられるように、妙な位置へ妙な角度で窮屈に家を建てている。東側に、必要以上の広い庭園スペースを設けたことになるのだ。通常、このような四角い敷地であれば、北側のエリアへ母屋やアトリエを建て、南側を庭にしてできるだけ各部屋への日当たりをよくするよう設計するのが自然だろう。事実、佐伯邸の周囲の家々は、そのような設計であり配置となっているものが多い。ところが、佐伯邸は北北東から南南西の中途半端な角度にアトリエや母屋が縮こまるように建築され、東側には広々とした庭が残ることになった。なにか、そこには大きな理由があったのだろう。
佐伯邸門跡.jpg 佐伯邸1985.jpg
 「わたくし、鶏舎の臭いがたまりませんのよ」と、結婚したばかりのヴィーナスはんClick!は言いやしなかっただろうか? 1921年(大正10)に、佐伯祐三がアトリエと母屋を建設したとき、南東隣りはいまだ宅地として造成されておらず、古くからの農家がいとなむ養鶏場だった。そこから漂ってくる鶏舎の臭いや騒音を、佐伯はできるだけ避けようとしたのではないか。だから、敷地の形状に対して不自然な位置に家を建て、母屋の南西角が西隣りの敷地境界へかかりそうな設計となってしまった。
  
 「わたくし、家が南向きでなくともかまいませんから、鶏舎からできるだけ遠くへ建てていただきたいんですの。あの臭いと鳴き声が、わたくし、たまりませんわ」
 「さよか~」
 「でも、少しは南向きだとうれしいわ。池田の家では、わたくしの部屋はいつも南向きでしたの」
 「ほな、少し南へ傾ければええがな」
 「でも、アトリエが真北を向かなくなってしまってよ」
 「かまへんがな、オンちゃんのためや」
 「まあ、うれしいこと。ついでに、いつかお風呂も付けていただきたいわ」
 「あんじょう、まかしときぃ」
 「祐三さんは、まさか将来、わたくしの嫌いな鶏を飼うClick!なんてことなくてよね?」
 「・・・・・・あ、あのな~」
 ・・・ってなことで、米子はんの言いなりに、佐伯は養鶏場からもっとも離れて遠くなる対角線の位置(敷地の北西側)へ家を建てたのではないかと想像している。たぶん、当たらずといえども遠からずのような気がするのだが。
佐伯邸出前地図1925.jpg
佐伯邸上空1974.jpg 佐伯邸上空2009.jpg
 以前から、採集された人名に誤りClick!の多いことが気になっていたけれど、改めて「火保図」の記載には要注意だと痛感する。一見、敷地や住宅のかたちを正確に写し取っているような印象を受けるが、「火保図」の記録はかなり不正確で、いい加減な描写となっている。

■写真上:来年に内部公開が予定されている、陽射しがまばゆい冬枯れの佐伯アトリエ。
■写真中上は、母屋が建っていた玄関あたりの様子で、それぞれアトリエ側のドアはすべて母屋から連続していたもの。(現在はネコが暮らしているわけではない) は、「火保図」に描かれた佐伯邸の敷地と家屋配置図。実際の家屋の位置を、北側にずらして赤線で記入してみた。
■写真中下は、佐伯邸の門があったあたりで、佐伯公園の正面入口よりもやや南寄りだ。は、解体直前(1985年)に撮影された佐伯邸の母屋玄関で右手がアトリエ。
■写真下は、1925年(大正14)ごろに作られたとみられる南北が逆の「出前地図」。佐伯邸の東隣りに青柳邸が描かれているが実際には南隣りが正確で、東隣りには路地を隔てて養鶏場が接していた。下左は、1974年(昭和49)の空中写真にみる佐伯邸。下右は、Google写真の現状。


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コメント 15

漢

♪~楽しい我が家~♪
by 漢 (2009-03-01 09:59) 

ChinchikoPapa

ロリンズが髪や髭を黒く染めずに、真っ白で登場してきたときは誰かと思いましたが、サックスを演りだすと「ロリンズだ!」とすぐに納得した記憶があります。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2009-03-01 13:11) 

ChinchikoPapa

漢さん、コメントとnice!をありがとうございました。
きっとウキウキしながら、佐伯は家とアトリエを構想したんでしょうね。大工にも盛んに注文をつけていたんじゃないかと想像しています。
by ChinchikoPapa (2009-03-01 13:27) 

ChinchikoPapa

わたしは釣りはしませんけれど、清流の中にたたずんでみたいものです。もちろん、夏にですが。^^; nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2009-03-01 13:32) 

アヨアン・イゴカー

個人的な趣味を申し上げますと、私は一つの敷地があれば、もっとも視界の開ける空間をとっておきます。つまり、家を建てる位置を真ん中にしたりせずに、どちらかに寄せると思います。この敷地の場合、南東方向と対角線上にある北西に母屋を建てるのが自然に思われます。
尚、鶏糞については、馬が食べると死ぬこともあり、そういった知識があった結果かもしれませんが。
by アヨアン・イゴカー (2009-03-01 16:21) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントとnice!をありがとうございます。
わたしの趣味ですと、母屋は南向きにして北辺に寄せ、東から西へ長方形に建てて、アトリエは路地から離れた北西の角へ、そして庭として南側にスペースを広く残す・・・というレイアウトになるでしょうか。ちょうど、母屋とアトリエの位置を逆にした、中村彝アトリエ(当初)のレイアウトに似ていますが・・・。
鶏糞を馬が食べると毒だというのは、初めて知りました。いまでは、鳥インフルのほうが心配でしょうか。
by ChinchikoPapa (2009-03-01 19:03) 

sig

こんばんは。
面白い着眼点ですね。
新婚の二人の台詞のやりとりが本当のように聞こえてきます。
by sig (2009-03-01 20:57) 

ChinchikoPapa

「となりのレトロ」に、おもわず噴き出してしまいました。
nice!をありがとうございました。>くらいふさん
by ChinchikoPapa (2009-03-01 23:41) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
大正末から昭和初期にかけ、日本でもフランスでもいいのですが、動く佐伯祐三の姿をとらえた映像は残っていないものでしょうか。もし見られるとすれば、もっとリアルにその人物の言葉が浮かんできそうな気がします。^^;
by ChinchikoPapa (2009-03-01 23:45) 

ChinchikoPapa

全国各地のレガッタ、腕がなりますね。がんばってください。
nice!をありがとうございました。>今造ROWINGTEAMさん
by ChinchikoPapa (2009-03-02 23:03) 

ものたがひ

大変ご無沙汰いたしました。敷地に対して曲がって建てられた佐伯アトリエに秘められた鶏舎の匂いと米子はんへの愛の物語、楽しく拝読いたしました。また、佐伯アトリエの位置は変わっていないという御検証、おおいに参考になりました。火保図についての「一見、敷地や住宅のかたちを正確に写し取っているような印象を受けるが、『火保図』の記録はかなり不正確で、いい加減な描写となっている」との御指摘も、日頃から気になる所でした。
でもですね、佐伯アトリエが敷地に対して、あのように建てられた理由については、鶏舎からなるべく遠く〜に、という事もあったかもしれませんが(それなのに佐伯家で鶏を飼ったりしたら、大変ですね。笑)、いたって大人しく、南の眺めを良くしたかったからだと考えています。それは、火保図のいい加減さの問題に戻りますが、記事中にある1938年の火保図の、佐伯邸と青柳邸の敷地の関係の採取は間違っている、という認識とも繋がります。どうぞ、別館にお越し下さい。


by ものたがひ (2009-03-03 02:24) 

ChinchikoPapa

ものたがひさん、こちらこそご無沙汰しております。コメントをありがとうございました。
なるほど、佐伯祐三は納(おさめ)邸の母屋建設が南南西の「不動谷」の眺望を妨げるかどうかを心配し、「建築確認」の際に納さんへ「特例」で約束してしまったことが気になって、それで「八島さんの前通り」から離れられず、約束をたがえて「違法」建築しないかどうか、イーゼルを立てながら建築中の同邸を監視しつづけていたわけなんですね。だから、「八島さん」(「出前地図」のみ「矢島」さん)を描いた『下落合風景』作品がやたら多いのが、とうとうわたしにも納得できました。(爆!)
冗談はともかく^^;、「火保図」の敷地境界はまさにおっしゃる通りで、すごくいい加減ですね。いままで、そこに記載された名前がいい加減なのがとても気になり、家屋の位置や形状が適当なのがすごく気になり、これで敷地の境界線が非常にいい加減だったのも加わりますと、「火保図」はほとんど信用できず、当時の様子をおおざっぱに知る程度の参考資料にすぎない・・・ということになってしまいそうです。佐伯邸の敷地(酒井億尋敷地の南部)は、確かに南西角が納邸側へ少し出っ張っているのであり、青柳邸側から見ますと、東側へ食いこんでいるのはまぎれもない事実です。ところが「火保図」は、それを酒井邸敷地の境界線と青柳邸敷地の境界線とを、フラットに描いてしまう誤りを犯していますね。
さて、「不動谷」の眺望のテーマです。アトリエは北側なので、眺望を楽しんだとすれば母屋の2階、南辺の部屋ということになりますが、ここにベランダか、あるいは大きな窓のような造作は確認できるのでしょうか? わたしは、残念ながら1階の間取図しか手元にないので、2階の詳細な様子がわからないのですが・・・。1階の間取図から想定すると、増築以前に南辺だった東側和室×2と廊下の2階部が、南に向いた部屋のように感じます。この廊下部の上が、はたして眺望用のベランダないしはバルコニーだったものでしょうか? もっとも、この1階廊下部は、のちの和室増築の際に設けられたのかもしれませんが。
もうひとつ、堤康次郎が第三文化村の造成に手をつけ始めたのはいつか?・・・というのも気になる点です。「出前地図」を1924年(大正13)後半としますと、すでに「文化分譲地」の記載が見え、第三文化村は販売を開始していますから、もっとそれ以前の早い時期から樹木の伐採や土砂の運び込みなど、敷地造成の下準備が進んでいたようにも思います。つまり、開発分譲予定地のある「不動谷」方向を、佐伯邸建設では眺望対象にしていたのかどうか?・・・という課題ですね。もっとも、1921年(大正10)の佐伯邸建設当時は、堤の土地買収は進んでおらず、不動谷の森はそのままの状態だった可能性は大ですが・・・。
ついでに、堤康次郎は「ここの谷も買収できるのだったら、不動谷を移動しなくてもよかったんじゃん」・・・と思ったかどうかは定かではないですが。^^; 余談ですが、1960年代に聖母坂付近で採集された、この谷間を「不動谷」と呼ぶ調査報告がありましたので、改めてこちらでご報告したいと思っています。調査したのは、今日では「不動谷は落合第一小学校前の谷間」との見解を示している、なんと新宿区教育委員会(当時は区立図書館内組織)です。(爆!)

by ChinchikoPapa (2009-03-03 14:05) 

ものたがひ

>「火保図」はほとんど信用出来ず…
とまで言っては、火保図に気の毒だと思います。笑。
火保図が、きれいに作図されているため、実際の状況と同じだと思い込んでしまう私たちの方が迂闊なだけで、実は、そう精密な図ではないのですね。過剰な期待には添えないけれど参考になる、と評価してあげなくては。
母屋の2階は、どうなっていたのでしょう!1階の間取図と、いく枚かの写真から考えると、ChinchikoPapa様のおっしゃるように、増築以前に南辺だった東側和室×2と廊下、の部分が総二階だったと私も思います。でも眺望のきく二階へ、米子はんが、かなり急に見える階段を上り下りするのは、ちょっと大変だったかもしれません。
文化村の分譲地の様子について、分譲が開始されたからと言って、整地され更地になっていたとは限らないようですね。また、ご紹介されている写真から、第三文化村の不動谷部分は、かなり後まで、木の間隠れに家々が散在するような風情だったように、想像しています。それとも、かなり後になると庭木が鬱蒼と茂ってきた、ということでしょうか?いずれにせよ、親しかった青柳さんとはいえ、その家の裏側が気に入っていた訳ではなく(笑)、ちょっと佐伯邸を西に振って建てて、眺望を楽しんだように思います。
不動谷の続報、楽しみにしています。
by ものたがひ (2009-03-05 12:32) 

ChinchikoPapa

ものたがひさん、重ねてコメントをありがとうございます。
わたしはどちらかといいますと、別に敷地の西側へ寄せて北北東-南南西の向きに家を建てず、北側に寄せて南を庭にした建て方でも、やはり「不動谷」は西側の2階部屋から眺望できたと思います。(あるいは眺望できる設計は、十分に可能だったと思います) つまり、中村彝アトリエと同じような間取りで、北辺西側へ母屋の2階建て部分をもってくれば・・・という考え方ですね。家屋全体の南向きによる豊富な日差しの確保、あるいは日当たりのいい南庭の設定などを犠牲にしてまで、アトリエ-母屋をタテに建設する動機が、「不動谷」の眺望だけではいまいち希薄なように感じてしまうのです。
米子はんは、階段の上り下りは苦手だったと思いますので、2階からの眺望を楽しみに、あるいは気にしていたのは佐伯自身だった・・・ということが想定できますけれど、そのような写生が残っていれば俄然リアリティのあるテーマともなりますが、はたしてどうなんでしょう?
掲載している写真は、第三文化村が拓かれてから15年前後が経過したものですので、おっしゃるとおり経年による樹木の成長を、かなり考慮しなければならないと思いますね。現状から推察しますと、谷間ですので相当な盛り土や築垣が見えますから、北側の平坦な第三文化村の敷地に比べ、けっこう大規模で手間(開発リードタイム)のかかる造成をしているのではないかとみています。
by ChinchikoPapa (2009-03-05 16:13) 

ChinchikoPapa

いつもリンク先まで、nice!をありがとうございます。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-12-01 12:29) 

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