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佐伯アトリエの地主を追いかける。 [気になる下落合]

佐伯アトリエ2009.JPG
 佐伯祐三Click!の書籍や資料を見ると、彼が1921年(大正10)に下落合661番地へアトリエを建てたとき、あるいは米子夫人Click!がその土地を購入して正式に自邸の土地となったときのことについて、実にさまざまなことが書かれている。これは、下落合464番地に住んだ中村彝Click!の知人でもあり、のちに荏原製作所の社長となった酒井億尋Click!の名前が、1925年(大正14)ごろに作成された「出前地図」、あるいは1926年(大正15)に制作された「下落合事情明細図」の下落合661番地に掲載されていることから、佐伯の本や資料のみならず中村彝の関連資料でも、佐伯邸とその「地主」とみられそうな酒井億尋との「関係」が想定され、取り沙汰されていたりする。
 でも、法務局で大正期から昭和30年ごろまで作られつづけた、課税用の旧・土地台帳で下落合661番地を追いかけていくと、意外なことに、さまざまな地図に登場してくる、このブログではお馴染みの邸宅に記された名前がほとんど見あたらない。つまり、下落合の地番が600番台の地域で、「出前地図」や「下落合事情明細図」などに記載されている邸名のほとんどが、昭和初期まで借地の上に建てられていたことがわかるのだ。もちろん、酒井億尋の名前や彼の佐渡人脈Click!に関連した人名、さらに荏原製作所に関連した人名も、ことごとく存在していない。つまり、「酒井億尋が地主で、佐伯は敷地を借りてその上にアトリエを建てた」・・・とする記述は、このブログでの引用記載も含めすべてが誤りだ。
 明治期から大正にかけ、下落合の地番600番台の土地は、多くのケースでは旧家である宇田川家の所有地か、ないしは山上家の土地ということになっている。地目は「畑」であり、佐伯アトリエの東側にあった養鶏場Click!は、したがって「宇田川養鶏場」だった可能性がある。下落合661番地に限っていえば、宇田川家ではなく山上家の所有地で地目はやはり「畑」として登録されていた。以下、佐伯アトリエ(下落合661番地2号)の所有者を追いかけてみよう。
661番地所有推移.jpg
 佐伯アトリエは通常、「下落合661番地」と表現されることが多いけれど、現在の正確な地番は「661番地2号」だ。この地番の敷地は、1947年(昭和22)に地籍として分筆されており、すなわち佐伯ヨネ(本名はカタカナの「ヨネ」であり「子」が付かないが、「米子」が一般化しているので踏襲する)が購入したときの地番となる。佐伯米子は、1947年(昭和22)9月9日に、佐伯邸の敷地175.46坪を(株)日本勧業銀行から購入している。
 山上家では、佐伯アトリエの敷地を含む下落合661番地を、1926年(昭和1)12月31日に手放しているが、周辺の地主である宇田川家ではもう少し遅く、1935年(昭和10)前後に地番が600番台敷地の多くを借地人たちへ売却しているようだ。
下落合661-1.jpg 下落合661-2.jpg
 また、山上家から佐伯邸を含む下落合661番地の土地を購入した杉田巻太郎という人物は、下落合ではなく調布市に住んでいた不在地主で、おそらく(株)東京府農行銀行から借り入れを行い、1933年(昭和8)に借り入れ返済の代わりに、担保物件だった下落合の土地で返済しているように思える。そして、1938年(昭和13)に(株)東京府農行銀行が(株)日本勧業銀行へ吸収合併されると、下落合661番地は佐伯米子がその一部を購入する戦後まで、同銀行の所有地だった。
 佐伯アトリエの周辺にある家々はどうだろうか? 『下落合風景』Click!に多く登場する「八島さんの前通り」Click!八島邸Click!(下落合666-5)は、1935年(昭和10)に宇田川家から敷地を購入している。この前後に母屋の建て替えをしていると思われ、1936年(昭和11)の空中写真で撮られた、または1938年(昭和13)の「火保図」Click!に描かれた八島邸は、土地を取得した直後の新邸だろう。また、八島邸の南隣りの納(おさめ)邸Click!(下落合666-6)は、やはり1935年(昭和10)に宇田川家から土地を購入しているが、戦後の1950年(昭和25)にはすでに売却して転居している。
下落合666-5.jpg 下落合近衛町.jpg
 法務局に残る旧・土地台帳は、明治期からの記載も見られるけれど、よく観察すると明治期の記載はおそらく転記されたもので、それ以前の土地台帳は廃棄されるか1945年(昭和20)の空襲Click!で焼けていると思われる。ちなみに、下落合の近衛家の敷地、1922年(大正11)に東京土地住宅から「近衛町」Click!として販売される地域の地籍を確認すると、旧・土地台帳にはすでに近衛篤麿の名前はなく、近衛文麿Click!の所有者名からスタートしている。
 おそらく、東京に現存している土地台帳は、少なくとも新宿地域のものを参照する限り、おそらく1921年(大正10)ごろから作成されはじめたものではないだろうか?

■写真上:佐伯米子が取得した当時は、下落合2丁目661番地2号だった佐伯アトリエ。
■写真中上:法務局の土地台帳に記録された、下落合661番地の所有者推移表。
■写真中下は土地台帳に残る下落合661番地1号の、は同661番地2号の写し。
■写真下は同じく666番地5号の八島邸、は「近衛町」の近衛文麿の名がみえる記録。明治の記録がみえる内容でも、実際の詳細情報は大正中期からはじまっていることが多い。


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ChinchikoPapa

1970年代半ばは、エレクトリックに行かないJAZZミュージシャンたちは土俗的な民族楽器か、ストリングスやブラスのアンサンブルを多用していたような記憶があります。チェリーの『ヒア&ナウ 』も、楽しい1枚でしたね。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2009-04-05 10:56) 

漢

拝読!
by 漢 (2009-04-05 11:05) 

ChinchikoPapa

漢さん、コメントとnice!をありがとうございます。
国立劇場前の桜田濠は、室町期の江戸城を髣髴とさせる大土塁が築かれている、千代田城でもめずらしい景観ですよね。石垣ではなく、芝が植えられた土塁に咲くサクラも美しいです。
by ChinchikoPapa (2009-04-05 11:55) 

ChinchikoPapa

こちらも、ウメやボケが咲いているのにソメイヨシノが満開で、シダレザクラも咲きはじめるという不思議な風情になっています。nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2009-04-05 13:27) 

ChinchikoPapa

どちらでも、サクラ祭りが真っ盛りですね。
nice!をありがとうございました。>ばんさん
by ChinchikoPapa (2009-04-05 14:53) 

ChinchikoPapa

地下鉄の画像は、まるで映画のワンシーンのようですね
nice!をありがとうございました。>kakasisannpoさん
by ChinchikoPapa (2009-04-05 22:12) 

ChinchikoPapa

非常にバランスのとれた、美しい五重塔ですね。桧皮葺の屋根も塔形にマッチしています。nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
by ChinchikoPapa (2009-04-05 22:18) 

sig

こんばんは。
土地だの権利だのはいちばん苦手の私です。難しいことをよく調べられていますね。そういや、投資なんてことも苦手ですね。W

当方ブログに、避けて通れない美術関係のことを書きました。
まちがっていたらお教えください。
by sig (2009-04-06 00:14) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
実は佐伯邸の敷地については、もっと早く調べるべきだったのですが、佐伯関連の資料に「酒井億尋かその関連(荏原製作所筋)の土地」としている記述がみられましたので、地図に記載された「酒井億尋」名とともに、さして疑わずに今日まできてしまいました。ところが、法務局で調べてみますと実際は違っていたわけで、さっそくひとつの記事にまとめてみました。
わたしも、このサイトの途中まで佐伯記事や中村彝記事において、“そのつもり”で書いてきてしまってますので、これは「定説」あるいは「既存資料」も含め、改めて疑ってみないといけないな・・・と痛感しているしだいです。
わたしは、美術には素人ですので、おそらく正誤などご指摘できるほどの知識は持ち合わせていないと思うのですが・・・。(汗)
by ChinchikoPapa (2009-04-06 10:36) 

ChinchikoPapa

池袋付近では、今年も自由学園明日館のサクラが見事に咲いていますね。
nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2009-04-06 10:37) 

SILENT

佐伯祐三邸を一緒に建てた矢代という大工の絵は
どんな画集に載っているのでしょうか?
個人蔵で画像は見れないのでしょうか?興味あるところです。
by SILENT (2009-04-06 11:45) 

ChinchikoPapa

SILENTさん、コメントとnice!をありがとうございます。
大磯の大工である「八代」(矢代とも?)の絵は、失われてしまったようで現存していないようです。『佐伯祐三全画集』(朝日新聞社)にも収録されていません。時期的にみて、空襲で焼けてしまったのではなく、それ以前から行方不明だったように思います。ひょっとすると個人蔵になっていて、それと気づかれずに残っているのかもしれませんが、所在は不明ですね。
1927年(大正15)の7月、この人物の「招待」あるいは「斡旋」で、佐伯一家は大磯の山王町418番地の家ですごすのですけれど、この家の土地が当時「八代(矢代)」だったとしたら、ちょっと面白いことになってきますね。^^
by ChinchikoPapa (2009-04-06 12:11) 

ChinchikoPapa

まだ散りはじめませんね、もう少し咲いててくれるでしょうか。
nice!をありがとうございました。>komekitiさん
by ChinchikoPapa (2009-04-06 16:30) 

ChinchikoPapa

膨大な手間ヒマと細心の注意や配慮が必要なのは、どのような表現活動でも同じなのでしょうけれど、舞台はリアルタイムで進行する「生もの」であるがゆえに、そのたいへんさははかり知れないですね。とても、わたしは勤まりそうにありません。nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2009-04-08 19:09) 

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