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破滅型酔っ払い画家・片多徳郎。 [気になる下落合]

片多徳郎邸跡.JPG
 負け犬さんによる太宰の映評のあとで、どこか似ている性格の画家をご紹介することになった。
 下落合には、軒並み画家たちが住んでいた一画がいくつかある。九条武子邸Click!あたりからまっすぐ西側へ、ちょうど薬王院の森(戦後は新墓地)の北西辺にかけ、下落合800番地を中心に戦前戦後を通じて大勢の画家たちが住んでいた。大正末から昭和初期にかけてだけでも、鶴田吾郎Click!鈴木良三Click!鈴木金平Click!夏目貞良Click!満谷国四郎Click!服部不二彦Click!・・・などなど、下落合のアーティストビレッジのような様相を呈している。同時代に暮らしていた人たちもいれば、時期がズレて住んでいるケースもある。
 久七坂筋の諏訪谷周辺にも、画家が集合して暮らしていた時期があった。曾宮一念邸Click!を中心に、牧野虎雄Click!、片多徳郎、川村東陽Click!里見勝蔵Click!村山知義Click!森田亀之助Click!(美術家)、蕗谷虹児などだ。きょうはその中で、『酔中自像』で有名な西洋画家だが水墨画も描いた、帝展無鑑査の酔っ払い画家・片多徳郎にスポットを当ててみたい。片多が下落合732番地へ引っ越してきたのは、1929~30年(昭和4~5)のころだ。この地番は、曾宮アトリエClick!の道を隔てた斜向かい、ちょうど牧野虎雄アトリエのまん前あたりだ。同じころ、片多邸の裏側(南側)、下落合596番地には村山知義が“仮住まい”をしていたはずだ。片多は曾宮より4歳ほど年上で、曾宮が東京美術学校へ入学して1年後には卒業しているので、在学中はほとんど交流はなかったらしい。ところが、近所へ引っ越してきたのを発見して、曾宮は片多を怖るおそる訪ねている。1938年(昭和13)に出版された、『いはの群れ』(座右寶刊行会)から引用してみよう。
  
 昭和五年の春頃から私はポツポツ散歩をするやうになつてゐた、或る日のこと、今迄空いてゐたすぐ近くの家に「片多徳郎」の表札を見つけた。しかし半ば知つて半ば知らないこの先輩、酒飲みで気むづかしさうなこの人を私一流のコワガリからそつと訪ねもせずにゐたが其の前年の「秋果図」(帝展出品二十号長形)に引き付けられてゐたので其後小品を大分かいてゐられる噂をきいて思ひ切つて訪ねた。コワゴワあつてみると昔の青年はかなりに年をとつてはゐたが少しもコワクないのに安心した、・・・ (同書「晩年の画」より)
  
下落合2丁目1936.jpg
 以来、曾宮と片多との交流は深まる。酒を飲みすぎては(アルコール中毒症か肝臓病だろう)、入退院を繰り返す片多に、当時は同じように病気がちだった曾宮は特に親しみをおぼえたらしい。面白いのは、片多が断酒してシラフで描いた作品に、曾宮はあまり魅力を感じず、逆に酔っ払って描いた作品のほうに強く惹かれていった点だ。
  
 一昨々年は房州白浜での作品を見に行つた。此時は酒を最も節して健康の続いた頃であらう、砂浜や海や燈台の二十点位見せてくれた、然し私は此の時の作品からは余り魅力を受けなかつた、といふのは夏の終りの緑と白砂の景色そのものが画因として私に興味が無かつたせいもあらうがそれよりも此時の画はあまりに平明な写生画で片多氏としては常識的な風景画であつたからであらう。(中略)世の中には酒は飲まぬが仕事にはいつも酔つてゐる人もある、又一生涯ちつとも酔ふことなく単に製造を続ける人もある。 (同上)
  
N-中出氏の肖像1934.jpg 片多徳郎自画像1928.JPG
 酒が切れたときの片多作品は、あまりに「常識的」すぎてつまらなかったようだ。片多にとって酒を飲むことはマイナスではなく、より大胆に「仕事に酔える」状態を獲得できるという意味では、必要悪だったのではないか・・・と曾宮は観察している。しばらくして、片多は再び酒を飲みはじめ、目白通りを挟んだ長崎に画室を借りて50号の大作、人物画を仕上げにかかった。人物画のモデルは、アビラ村の吉屋信子Click!が生涯に唯一恋をした男、甲斐仁代Click!の連れ合いである中出三也Click!だ。この当時、甲斐と中出のふたりは目白文化村Click!の北側、第二府営住宅の住居から、林芙美子Click!が記録したようにバッケ堰Click!のさらに向こう、上高田へと引っ越したのちのことだろうか。
  
 晩年の作には限らないが氏の画は画面の美しさに特殊なものがあつた。近頃の術語でマチエールの美しさである。立派な水墨画家でありながら(中略)油絵具に惚れてゐると自から言つてゐたのも此処に在ると思ふ。小品でも一気にかき放すことはなかつたらしく一度かき放しても再三上にゑのぐの層を加へていつた、だから軽妙爽快と言ふよりは寧ろドロリとした手触はりに、良き陶器の如く、よき磨きをかけられながら深く沈んでゐた、・・・ (同上)
  
婦人像(不詳).jpg 村山知義仮住い跡.JPG
 片多徳郎の作品は、近年では収蔵する美術館も増え展覧会も開かれるなど、その人気はウナギのぼりだ。1934年(昭和9)初頭に完成したらしい、晩年作である画家仲間の中出三也を描いた『N-中出氏の肖像』以降、片多は酒を控えることをやめ死ぬまで飲みつづけた。このあと、幻覚症状が現れるほどのアルコール依存症となり、同年4月に名古屋の寺で自裁している。曾宮一念が、この破滅型の先輩の死を悼んで「晩年の画」を書いたのは、その直後の5月のことだ。片多が下落合732番地へ引っ越してきてから、わずか4~5年のちのこと、まだ44歳の若さだった。

■写真上:牧野虎雄アトリエの前、下落合732番地の片多徳郎邸があったあたりの現状。
■写真中上:1936年(昭和11)の空中写真にみる、諏訪谷とその周辺に住んでいた画家たち。これまで判明しているだけの記載であり、さらに多くの美術関係者が住んでいたと思われる。
■写真中下は、最晩年の1934年(昭和9)に中出三也を描いた片多徳郎『N-中出氏の肖像』。は、1928年(昭和3)制作の『自画像』。確かに、一見怖そうな面立ちをしている。
■写真下は、東京芸大に残る制作年不詳の片多徳郎『婦人像』。は、村山知義が自宅を増改築した昭和初期に、かなり長期間仮住いをしていたと思われる下落合735番地の一画。蕗谷虹児1938.jpg
長崎東町1-1377.jpg


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読んだ! 18

コメント 59

ChinchikoPapa

名盤中の名盤ですね。『Looking Ahead』は繰り返して聴いた1枚で、当時はvib奏者が気になったのを思い出します。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2009-11-15 18:09) 

ChinchikoPapa

ライブの雰囲気からしますと、バップ期のスタンダード曲がメインでしようか。楽しそうですね。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-11-15 18:12) 

ChinchikoPapa

組織として管理機能が働いていないのを、如実に示した事故でした。
nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
by ChinchikoPapa (2009-11-15 19:11) 

ChinchikoPapa

どこかで「呪い」の有無をめぐる裁判があったと思いますが、あれは「利益」ないしは「損害」をともなう何らかの案件だったのでしょうね。nice!をありがとうございました。>トメサンさん
by ChinchikoPapa (2009-11-15 19:15) 

ChinchikoPapa

きょうは外を歩くと汗ばむほどの陽気でしたので、ネコも日向の窓辺が暑すぎたのか、涼しいところで寝ていたようです。nice!をありがとうございました。>たねさん
by ChinchikoPapa (2009-11-15 22:01) 

ChinchikoPapa

「ゆすら」は、ゆすら梅(ゆすらご)でしょうか。「しゃしゃぶ」は、まったくわかりません。
nice!をありがとうございました。>No14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2009-11-15 22:46) 

ChinchikoPapa

ピンクのピアスをしたネコ、ひょっとすると首輪を絶対にさせないネコなのかもしれません。うちのネコも、生まれたときから首輪を受けつけませんので、外へ出したら野良だと思われてしまいそうですね。nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2009-11-15 22:50) 

ナカムラ

住んでいた時期は下りますし、活躍の場が挿絵がメインですが、蕗谷虹児さんもその界隈に住まれています。息子さんに聞いたことがあります。
by ナカムラ (2009-11-15 22:56) 

ChinchikoPapa

ナカムラさん、コメントとnice!をありがとうございます。
蕗谷虹児は、曾宮アトリエの西隣りに見えています、大きな白い谷口尚真邸(海軍大将)のすぐ北側(下落合622)にあったかと思います。ちょうど、記事中の空中写真が撮影されたときには、すでに住んでいたんじゃないかと・・・。
確か、1938年の「火保図」には名前も収録されていたと思いますので、明日会社のPCで確認してみますね。確かに、分野は違いますけれど、一世を風靡した蕗谷虹児も加えるべきでしたね。ご教示ありがとうございます。
by ChinchikoPapa (2009-11-15 23:12) 

ChinchikoPapa

ほんとうに気持ちがよさそうですね。色づきはじめた木々を見ながらの湖上ボート、参加してみたいです。nice!をありがとうございました。>emiさん(今造ROWINGTEAMさん)
by ChinchikoPapa (2009-11-16 11:33) 

ChinchikoPapa

『響け、土の歌声』いいですね。耳の周波数帯が狭まって、ミミズの歌声が聴こえなくなったのは何歳ごろからでしょうか。nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2009-11-16 11:40) 

ChinchikoPapa

ナカムラさん、さっそく記事中の写真へ、蕗谷虹児邸を追加しました。売れっ子の挿画家らしく、かなり大きな家ですね。
また、記事末には1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる蕗谷邸を追加しました。ちょうど、先日書きました、川村東陽vs曾宮一念へ掲載した写真のあたりが、蕗谷邸跡ということになりますね。ご指摘、ありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2009-11-16 11:46) 

ChinchikoPapa

わたしもミラノのどこかで、誰かと待ち合わせしてみたいです。
nice!をありがとうございました。>ビアンカさん
by ChinchikoPapa (2009-11-16 15:11) 

ChinchikoPapa

東京駅の一部部材が移築されたかもしれないテーマ、面白いですね。なにか新しい事実がわかりましたら、ぜひ記事でご紹介ください。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2009-11-16 15:13) 

ナカムラ

さっそくの対応をありがとうございます。さすがですねえ。下落合は画家の宝庫ですね!
by ナカムラ (2009-11-16 18:36) 

ChinchikoPapa

最後の写真の色合いが、限りなくやさしげでいいですね。周囲の色彩とは一見異質な、ドアの色も面白いです。nice!をありがとうございました。>shinさん
by ChinchikoPapa (2009-11-16 23:06) 

ChinchikoPapa

ナカムラさん、重ねてコメントをありがとうございます。
ネーム入りの地図を見てまして、「これは?」と思う苗字に行き当たりますと、やっぱり画家や美術家という確率が驚くほど高いのに、改めて驚いてしまいます。写真には記載しませんでしたが、牧野虎雄邸と片多徳郎邸の間の道をあと少し東へたどり左折しますと、火の見やぐらの下には前田寛治がいたようですね。
by ChinchikoPapa (2009-11-16 23:13) 

ChinchikoPapa

イギリスの映画人が、画面のパースペクティブに気が付いたのは面白いです。シェークスピア劇場が3次元的なのも、どこか影響しているんでしょうか。nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2009-11-16 23:16) 

ChinchikoPapa

こちらにもnice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2009-11-17 13:09) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>漢さん
by ChinchikoPapa (2009-11-18 13:22) 

ChinchikoPapa

ごていねいに、こちらの記事へもありがとうございました。>たいせいさん
by ChinchikoPapa (2009-11-20 13:29) 

pinkich

いつも楽しく拝読しております。片多徳郎は好きな画家です。記事中、東京芸大に残る制作年不詳の婦人像とある絵は、佐藤春夫作 神々の戯れ の挿絵にある絵です。片多が挿絵を担当しております。神々の戯れに登場する少々アウトローな画家が片多と重なります。片多の作品は大正期の緻密な作風が昭和に入るとフォーブの影響か簡略化されていきます。中出三也像はフォーブの影響が顕著です。それにしても曽宮の評はなかなか鋭いですね。
by pinkich (2015-04-18 08:34) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
佐藤春夫の『神々の戯れ』といいますと、1929年(昭和4)の制作ですね。ちょうど、下落合で仕事をしていたころと重なりそうです。わざわざ、ありがとうございました。
最近、美術関連の資料で、片多徳郎の名前を目にすることが増えています。わたしの感触ですが、「いちばん好きな画家」というより、3番めに好きとか5指に入るとか、そんな愛され方をしている画家のように感じますね。もう少し、下落合での姿をひろえればと思っている画家のひとりです。
by ChinchikoPapa (2015-04-18 10:15) 

ChinchikoPapa

昔の記事まで、nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2015-04-18 10:16) 

pinkich

片多徳郎には昭和4年に描かれた文化村風景という2号の作品があるようですが図録にも掲載されておりません。どんな作品なのかな?見てみたいものです。
by pinkich (2015-04-28 23:02) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、こちらにもコメントをありがとうございました。
片多徳郎は惹かれる画家ですので、その作品はけっこうリサーチしたのですが、落合地域を描いたと思われる画面は見つかりませんでした。下落合風景をシリーズで描いていた、二瓶等や笠原吉太郎の作品もほとんどが見つかりませんので、すでに戦災などで失われてしまってるのかもしれませんね。
by ChinchikoPapa (2015-04-28 23:21) 

pinkich

いつも拝見し、いい勉強をさせていただいております。片多徳郎は日本人にしか描けない油彩を追求した洋画家として忘れてはならない存在だと思います。岸田劉生が晩年に傾倒した東洋的神秘に肉薄し、体現した数少ない画家だと思います。ただ、岸田劉生といえば麗子像といった一般的にイメージしやすい傑作が、片多の場合、文展特選の作品をはじめことごとく戦災で焼失していて、現存しないのがなんとも悔やまれます。片多の傑作画集という昭和10年発行の画集を見る機会があり、そう強く思いました。
by pinkich (2015-09-17 18:06) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
片多徳郎は、ずっと気になっている画家ですね。曾宮一念によれば、かなりのアル中だったようですが、斜向かいに引っ越してくるやはりアル中気味の牧野虎雄とは異なり、作品数が失われて少ないのが、この画家の印象をきわめて薄くしている要因だと思います。
ただ、最近さまざまな資料で片多徳郎の名前を見かけますので、長崎側の住居ともども、もう少し追いかけてみたい人物ですね。どこか、強く惹かれる要素を備えた画家に映ります。
by ChinchikoPapa (2015-09-17 20:36) 

pinkich

ありがとうございます。昭和10年発行の片多徳郎傑作画集は主要作品が時系列に並べられているので画風の変遷がよくわかります。大正期の重厚緻密で写実的な作風が、昭和期になるとより単純化がはかられ、中国の水墨画を洋画でやるような作風となり、晩年はフォーブの影響をうけ、形態のデフォルメや意外性のある色彩の組み合わせにも挑戦しているようです。時代に翻弄されることなく、自らの表現方法を追求している様がよくわかります。代々木から落合への移住は、年譜からは昭和4年となっていますが、昭和4年の詳細な日記を読むと昭和3年の後半には落合へ移住を完了していることをうかがわせる記述があります。
by pinkich (2015-09-20 10:23) 

pinkich

片多徳郎氏は、江藤純平氏の紹介で落合の借家に居住します。ご子息の証言ではあまり採光のよくない手狭なアトリエであったようで、落合時代にアトリエで描かれた静物画の小品、写生旅行の旅先で描かれた風景画が多いのもその影響と考えられます。
by pinkich (2015-09-20 10:37) 

pinkich

落合時代に採光のよい広いアトリエを持っていたらまた違った展開があったかもしれませんが、ないものねだりですね。片多氏が追求した東洋的な油彩も、西洋の時流に遅れまいと西洋の模倣に明け暮れた当時の画壇や世間から正当な評価を受けていたとは到底思えませんね。曽宮氏も片多氏は晩年あまり注目されていなかったということを書いていますね。papaさんがおっしゃったように東洋的なものが失われた現在にあって、片多徳郎氏の追求した東洋的絵画が新鮮な輝きを放っているように思います。片多徳郎氏の芸術の研究と理解が進むことを願ってやみません。
by pinkich (2015-09-20 11:28) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、重ねてごていねいなコメントをありがとうございます。
下落合の転居が、1928年(昭和3)の可能性があるとしますと、村山知義・籌子夫妻の仮住まいアトリエと、まちがいなく時期的にかぶってきますね。おそらく、歩いて30秒以内のところに同じようなアトリエ付きの住宅(下落合735番地)があって、上落合の自宅をリフォーム中の間、村山夫妻はそこを借りています。
この一画も、下落合800番地界隈と同様に、地主が画家たちが集まりやすいエリアだとターゲティングを行い、小さなアトリエ付きの借家を建てていった経緯を感じますね。
曾宮一念は、家の南側の道筋を東にたどって、「片多徳郎」の表札を見つけていますので、片多邸はまちがいなく北向きだったと思います。つまり、北側は道路に面していて空いていますが、南側にはすぐ隣家が迫り庭も狭くて、家全体が採光不足で屋内がかなり暗かった可能性があります。
昭和初期になると、目白文化村あたりを境に、下落合の東部は借家の賃料もかなり高かったでしょうから、片多徳郎には広いアトリエ付きの住宅を借りるのは、経済的に苦しかったのかもしれませんね。
曾宮一念は、酒を飲みながら描く作品のほうがシラフの作品よりもいいと書いてますが、アルコール依存症を克服して新たな画境に立ち、より多くの作品を描けてたなら、まったく異なる姿でその作品群が語られていたのではないかと思うと残念です。
by ChinchikoPapa (2015-09-20 19:17) 

pinkich

ありがとうございました。片多氏は中村研一氏の滞欧期間中、代々木のアトリエ兼住居を借りていて、中村氏の帰国とともに返しています。中村氏の年譜に帰国は、昭和3年とありますので、片多氏は同年中には落合に移住していると考えます。落合時代の借家が北向きであったとのpapaさんの推察は素晴らしいです。代々木時代には皇室関係の仕事にも恵まれ多少経済的に潤ったようですが、それまでの借金の返済に消えていったようで、落合に移住した際は、経済的に余裕がなかったのでしょうね。晩年に東長崎にアトリエを借り、東長崎に移住して、郊外の風景を描いていますが、有名な絶筆の作品など描画ポイントなどわかればおもしろいでしょうね。昭和4年の秋果図以降の作品はあまり知られていません。アルコール中毒のため、絵の出来不出来の振幅が激しいように思いますが、N氏像などあらたな画境を示していておもしろいです。
by pinkich (2015-09-21 00:26) 

pinkich

昭和3年には同じ地域に村上知義氏もアトリエを構えていたようで、興味深いですね。村上知義氏は最近世田谷美術館で大規模な回顧展がありマルチな才能に驚かされました。片多氏の図録では片多氏が左翼思想を嫌っていたとありますので、村上氏とは交流はなさそうですが、落合地域には本当にたくさんの画家が往来していたことに驚かされます。村上知義氏が岸田劉生氏に街で出くわしたときのやりとりの記事を大変おもしろく拝見しました。村上氏はかなり世渡り上手ですね。
by pinkich (2015-09-21 11:08) 

pinkich

村上ではなく村山でした失礼しました。
by pinkich (2015-09-21 11:11) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、重ねてコメントをありがとうございます。
長崎町での片多徳郎の様子も、ちょっと知りたいですね。おそらく、長崎アトリエ村資料室のチームでは、付近の地元住民の方々からの聞き取り調査も含め、かなりの情報が集まっているのではないかと想像していますが、お訊ねしたことがありません。
片多徳郎の美校同期には、遠山五郎や小出楢重などが目につきますけれど、もうひとり片多徳郎以上に現在では名前を知られていない、近藤芳男も西洋画科の同期です。片多と同様に、下落合で暮らしていた近藤芳男についても、近々書きたいと思っているのですが、この連休も仕事でつぶれ、なかなか時間がとれません。
by ChinchikoPapa (2015-09-21 17:23) 

pinkich

ありがとうございます。正確にいうと美校に明治40年入校組が片多、萬鉄五郎、山下鐡之輔、明治42年入校組が遠山五郎、小出楢重ですね。片多と萬は美校卒業後に親しくなり、夜通し絵の話をしたことも度々あるそうです。画風は全く違っても南画への関心が二人を近づけたのかもしれませんね。明治40年入校組は40年社を立ち上げていますので横のつながりも強かったようで、片多の推薦で山下鐡之輔氏が大分中学に赴任したそうです。萬は美校19人中16番で卒業と萬の図録に書かれていましたので、少人数なだけ横のつながりもいまの芸大とは比べものにならないほど強かったようですね。近藤芳男氏は勉強不足もあり全く知らない画家ですね。papaさんの記事を期待しています。
by pinkich (2015-09-24 18:12) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
遠山や小出よりも、上級なのですね。当時、誰かの“引き”あるいは紹介で、美術教師の職を転々としている画家がいますが(曾宮一念もそのひとりですね)、そのような画家の常として、赴任先の所縁からか各地の美術館で作品が収蔵されているのが面白いです。
いまの藝大も、一般の大学に比べたら1つの科は30人前後/1学年ですので、いい意味でも悪い意味でも横のつながりは濃いのではないかと思います。もっとも、大正当時の“絆”に比べれば、現代はもっとドライになっているのでしょうけれど。
by ChinchikoPapa (2015-09-24 18:58) 

pinkich

いつも楽しみに拝見しております。片多徳郎は名古屋のお寺の墓地で自死しますが、どうして縁もゆかりもない名古屋に行ったのか長らく疑問でした。片多徳郎の関係書籍を読み漁ると、菊畑氏著の「絶筆」というタイトルの本に、片多徳郎は名古屋のお寺の知人の住職を訪ねたが不在で会えず、数日後にお寺の墓地で亡骸が発見されたという記述がありました。宿帳に60歳と記載していたといった記載が牧野虎雄氏の追悼文にあり、おそらく住職に会いに行った話を含め当時の新聞の記事が元ネタかと思いますが、もし知人の住職に会えていたら、最悪の結果にはならなかったのかな、と悔やまれます。
by pinkich (2015-11-28 09:44) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
1934年(昭和9)当時の、名古屋の地元で発行されていた新聞や、同時期の美術誌の記事に詳しい経過が掲載されているかもしれないですね。アルコールの悪癖で、なにか精神的に追い詰められ焦燥感にかられていたものか、幻覚症状が進み絶望的になったのか、あるいはなんらかの不治の疾患が判明したものか、自死の要因が気になります。寺を訪ねているところが、どこか“救い”を求めているように感じるせいでしょうか。
by ChinchikoPapa (2015-11-28 11:44) 

pinkich

昭和9年8月発行の中央美術に片多徳郎の追悼記事があります。美校の同窓生、山下鐡之輔が追悼記事に片多は「いい絵が描ければ人間の勤めなどどうでもよい」といった主義であったと述べていますが、なかなか的を射ていると思いました。ご子息が作成した年譜には、絵のモデルになった芸妓と交渉をもった時期もあり、破滅型と言われる理由は飲酒だけではなかったようです。大正期の画家として脂ののった時期でも、なかなか作品を描かないことで知られていたようで、パトロンの申出があってもうまく実を結ばなかったようです。もう少しうまくやっていれば経済的苦境に陥ることもなかったのかもしれません。

by pinkich (2016-01-23 23:08) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
片多徳郎と山下鐡之輔は親しかったんですね。山下鐡之輔というと、同じ東北出身の萬鐵五郎や、フュウザン会つながりで岸田劉生とか木村荘八の名前が浮かびますが、のちの春陽会つながりでしょうか。
数多くの女性と交渉をもつことが、「男の甲斐性」とか「男の道楽」などといわれていた時代ですので、当時は破滅タイプの人間とはみられなかったのではないかと思いますが、なんとなく人間関係を築くのが苦手で、交渉ベタのような感じがしますね。

by ChinchikoPapa (2016-01-23 23:35) 

pinkich

ありがとうございます。山下鐡之輔は萬鐡五郎と行動を共にした人物ですね。その萬鐡五郎は春陽会を主な発表の場にしていましたね。日本人ならではの洋画を目指した在野の会派として、春陽会が挙げられるので、片多も帝展における立場を気にしなくてよければ、春陽会に発表の場を求めたと思います。実際は、帝展における立場がそうはさせず、美校の同窓とともに第一美術を立ち上げ、発表の場をそちらの方に求めたようです。石井柏亭の追悼文は、「片多徳郎の遺作展が催されるであろうと期待したのであるが、未だその具体的に企てられるを聞かない。第一美術協会などは縁故のある方であったが、青山熊治の亡くなったあとで片多も退会し、間もなく死んだ。中心人物を二人まで失ったその会は今そういう催しをする力をもたぬかも知れぬ。それから片多の家人は生前すでにこの書家の断片零墨に至るまで売り払っているそうだから、遺作展には売品なく、その全部が他からの借出品をもってされなければならず、したがってそれは遺族の生活を援ける何らの意味を帯びないことになる。そういう事情もこの遺作陳列を容易にしない原因であろう。」という書き出しです。
by pinkich (2016-01-25 00:21) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
片多徳郎の遺作展は、新宿紀伊国屋の2F展示場で開かれていますので、石井柏亭のコメントは1935年(昭和10)10月以前のもののようですね。片多徳郎クラスですと、作品の販売先や所有者も記録されハッキリしていたでしょうから、当時、展覧会の開催時には、比較的作品を集めやすい画家だったのではないかと思います。
同年発行の「アトリエ」11月号によりますと、『霹靂』をはじめ代表作から素描までが展示された、生涯を振り返る展示内容だったようで、展評では『霹靂』のころがピークだったと規定していますね。
遺作展の総評は、片多徳郎を晩年になるほど不遇で「置きざり」にされた画家だと位置づけていますが、おそらく今日同様の展覧会が開催されれば、かなり異なる位置づけがなされそうですね。
by ChinchikoPapa (2016-01-25 10:37) 

pinkich

ありがとうございます。昭和9年8月の中央美術の片多徳郎追悼記事にある年譜を見ておりますといろいろ発見があります。大正6から8年あたりは、文展で連続特選し、続く第一回帝展で代表作「霹靂」を出品するなどもっとも世間から、注目されていた時代ですが、大正8年に第一次大戦が休戦となり、特需による景気が冷え込んだため、売約済みとなっていた「霹靂」が不履行となり、片多の酒量が増えたといったこと、作品をなかなか描かない画家として知られ、花下竹人は文展直前の一週間ほどで描きあげたこと、伎女舞踏図の芸妓と交際が大正13年まであり、芸妓が去ったあと家庭に平穏が訪れたといった記載が目を引きます。ご子息だからこそ書けた年譜ですが、その後の資料や片多徳郎展の図録には、こういった私事については一切触れられていませんね。それにしても、片多徳郎の検索記事をいろいろ見ていると「かたた」を「かただ」と表記したり、ウィキペディアで代表作の花下竹人を花下美人とか竹下美人とか誤って表記するなどなんとかなりませんかね。
by pinkich (2016-01-30 17:38) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
画家の「売り上げ」と景気は、大きく連動しているのは、いまも昔も変わらないようです。油絵という表現法が、現代の住空間に合わないせいもあるのでしょうが、一部の画家作品を除き暴落に近い価格の低化がとまらないですね。
片多徳郎のサインは、若いころに「T.katata」とふった作品を見ますけれど、後年には漢字+印(篆刻?)が多くなりますので、「かただ」と言い習わした美術関係者がいて、それが広まったのかもしれませんね。
by ChinchikoPapa (2016-01-30 18:12) 

pinkich

いつも楽しみに拝見しております。片多氏の訃報を伝える当時の東京朝日新聞昭和9年5月3日の記事を参考までに記載しておきます。
名古屋市の墓地で 片多徳郎書伯自殺 酒豪で聞こえた元帝展審査員 7日前に飄然家出 】 豊島区長崎東町1の1の377元帝展審査員洋画家片多徳郎氏45歳は、昨年来アルコール中毒症が昂じ同年10月から本年2月まで巣鴨脳病院に入院し、やや回復して退院後も到底画筆に親しみ得ず、専ら自宅付近の高島医院の手当を受けていたが、去月26日飄然外出したまま行方不明となり、2日に至り家人外出目白署に捜索願いをだした、同署では非監置精神病者の失踪として全国に手配中、同夜に至り片多氏はすでに去る28日名古屋市内において自殺し、当時身元不明のため市役所の手で仮埋葬されていたことが判明、往年帝展の中堅作家とし、また、画壇随一の酒豪として酒中の仙とまでいわれた氏のこの悲惨な死に知友はひとしく暗然としている。
by pinkich (2016-06-04 14:21) 

pinkich

謎!鎰死の経路 【名古屋電話】2日夜片多書伯失踪を大朝刊によって知った一愛読者が、去る28日午後2時ごろ市内中区門前町西本願寺名古屋別院本堂裏手墓地に発見された自殺者に似ていると門前署に届出たので、直ちに遺留品を再検証したところ大体間違いなしとわかり、更に本社が片多家に照会して服装特徴の全部をそろえ照会した結果、全く片多氏と決定、3日朝片多家へ引き取り方を通知することとなった、死体検視の後身元不明者として葬られていた片多氏の自殺状況は去る28日午後2時頃名古屋別院墓地で日置小学校児童3名がつばきの花を拾い戯れていた時鎰死体を発見した、年齢50歳位天神ひげを生やした人品卑しからぬ一見書家風の男とは見られたが、所持品一切なく身元のてがかりがないのでそのまま仮埋葬してしまった、いついかにして片多氏が名古屋にき、この別院裏に入り込んだかは少しもわからない。
by pinkich (2016-06-04 14:21) 

pinkich

以上が訃報記事の冒頭部分です。紙面の約三分の一を割いて詳細を伝えています。東京朝日新聞の読者がたまたま片多氏行方不明の記事を見て、名古屋別院裏手墓地で発見された自殺者に風貌が似ていると警察に届けたことから片多氏自殺が判明したようです。【非監置精神病者の捜索】といった用語は現在では使用されないでしょうが、この記事から自殺の原因がアルコール中毒や精神病によるものといった一般の理解が生まれたのは間違いないようです。
by pinkich (2016-06-04 14:47) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、こちらにもコメントをありがとうございます。
また、わざわざ当時の貴重な新聞記事を掲載いただき、ありがとうございました。死亡してから4日もたって、ようやく自殺者が片多徳郎であることがわかったのですね。なんとも、痛ましい最期です。
曾宮一念が『いはの群れ』を出版したのは1938年(昭和13)ですから、片多の自死からわずか4年余りしかたっておらず、いまだに強烈な印象を残していたものでしょう。精神的な病といえば、曾宮も病んだ最初の夫人を抱えていましたから、決して他人事のようには思えなかったのではないかと思います。
おっしゃるとおり、記事を読むと片多はもともと酒豪であり、酒の飲みすぎでアルコール中毒になって、錯乱したあげくの自死……という印象を、読者は強く受けますね。遺書がなかったことも、そのような想定をさせる原因となったものでしょうか。病気の治療中に、あるいは酒を飲みながら、片多は日常的に家族や知人へどのようなことを語っていたものか、いまとなっては取材も不可能なのがもどかしいですね。
by ChinchikoPapa (2016-06-04 18:38) 

pinkich

同じく東京朝日新聞の昭和9年の記事です。片多氏の遺作展の直前の記事のようです。
片多書伯 生前の念願叶う 遺作展を飾る出世作 哀話の「花下竹人 」 去る五月、名古屋で悲惨な最期を遂げた帝展審査員故片多徳郎氏の遺作展は来春1月10日から25日まで上野府美術館に開かれる春台展の一室を借りて開催されることとなったが、出品作約140点の中に一つの哀しい思い出の作品が混じって関係者を涙ぐませているー文展第13回大正7年に出品して非常な好評を博した出世作「花下竹人」がそれだ。これは故人が飛鳥山で見つけた乞食を早速その場でスケッチし、そのスケッチによってその秋50号の大作に仕上げ額縁まで自分で作って出したもの 苦境にあった時代だったので直ぐに手放してしまったが仲介者があったため飼い主の北海道久保某氏の素性もわからずに終わった、だが快心の作として死ぬまでもう一度見たいと口癖のようにいっており、一度は京都の画商三角堂に飾られていると聞いてわざわざ出かけて行ったがーー持ち主が買手がつかなかったため又持ち帰ったのだろう、その時もすでになく、以来杏として絵の行方が知れず、探しあぐんだ故人は薄命の中に死んで了った、ところが今度遺作展開催となって「あの作が出品されなければ歯が抜けたようだ」というわけで方々探索、遺児の三吉君草吉君をはじめ世話人が奔走していると小樽の小間物商で久保なる人の息が芝区三光町で弁護士を開業しているそこに問題の絵があるはずとの消息が同地の新聞美術記者から入った、弟子達が検分すると正しく花下竹人そしてかつて現在の所有主が神戸在住当時、京都の画商に3日託して陳列させたことも判明したというのである。
by pinkich (2016-06-05 00:47) 

pinkich

片多徳郎の快心の作 花下竹人は片多氏の遺作展まで行方不明であったようですね。それにしても、片多徳郎が死ぬまでに自分のあの作品をもう一度見たいと願い、噂を聞きつけてわざわざ京都まで行っていたとは凄いですね。画家と作品と関係について考えさせられます。その片多徳郎の快心の作も戦争で焼失したようですね。この作品があれば片多徳郎の評価も今とは随分違っていたと考えるとなんとも惜しいです。
by pinkich (2016-06-05 00:58) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
『花下竹人』は、飛鳥山のサクラが咲きほこる樹下で、乞食が尺八を吹いている構図のようですね。実際の画面で見てみたかったです。タブローは失われたようですが、習作が大分県立美術館にかろうじて収蔵されているみたいですね。これで習作のトリミングどおり、50号Mタテの画面となると、かなり印象に残る作品となりそうです。
http://opamwww.opam.jp/collection/detail/work_info/1063;jsessionid=144B1B963C570858C173BB74E45722C0?artId=204&artCondflg=1

1919年(大正7)当時の文展会場を想像すると、片多の作品は群を抜いて来場者の目を惹いていたんじゃないかと思います。
by ChinchikoPapa (2016-06-05 22:57) 

pinkich

ありがとうございます。昔の新聞記事は今と違い個人のプライバシーについて遠慮なく書かれていて、かえって貴重ですね。片多氏の住所は、豊島区長崎東町1の1の377ということですが、ウィキペディアの町名の新旧表などで調べようにも長崎東町1は特に統廃合がとくに激しいようで現在地が全くわかりません。現在地がわかれば晩年の「郊外の春」といった遺作の描画ポイントもある程度わかるのですが。papaさんは昔の住所からどうして現在地を調査していますか?
by pinkich (2016-06-26 09:09) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、こちらにもコメントをありがとうございます。
片多徳郎がいた豊島区の住所は、長崎東町1丁目1377番地ではないかと思います。長崎東町が存在していた時代(1932~1939年)、地番は「丁目・番地」までの表記で、戦後にみられる「丁目・番地・号数」表記はいまだ存在しません。
長崎1-1377は、武蔵野鉄道の椎名町駅の北西で、近くに不動湯がある界隈、つまり長崎アトリエ村のひとつ「桜ヶ丘パルテノン」のごく近くか、そのエリア内部ですね。記事末に、1932年(昭和7)に作成された1/10,000地形図の、長崎東町1-1377界隈を掲載しました。ご参照ください。
わたしの場合、昔の住所地番と現在の場所がすぐに比定できるよう、さまざまな組織や企業によって発行された地図を、変更が激しい地域は年ごと、そうではない地域でも数年おきに参照できるようにしています。たいがいそれで、昔の住所がどのあたりになるのか、“あたり”をつけることができます。
by ChinchikoPapa (2016-06-26 15:35) 

pinkich

ありがとうございました。また、ご親切に長崎東町の地図をアップしていただき恐縮です。描画ポイントなど探しあてることに、今日的な意味がどれほどあるかわかりませんが、画家がどのような風景に感動し絵筆をとったのか追体験したいという思いがあります。papaさんも佐伯祐三への愛情が深いからからこそ、落合風景などの描画ポイントを時間と労力をかけて追い求めておられるのではないかと考えます。
by pinkich (2016-06-26 21:31) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
わたしは、佐伯作品の表現に惹かれるのはもちろんなのですが、落合地域の街角がどのような風情をしていたか、そして描かれた街にはどのような人たちが住み、どのような生き方をして、どのような物語を紡いでいたのかに、より興味を感じるようです。
下落合の昔の風情はこうだったんだ……というのを基盤に、それぞれの時代に変貌したであろう風景を目にしながら、そこで暮らしていた人たちはなにを感じ、どのような考えをもって生きていたのかに、やはり興味が湧くのでしょうね。
by ChinchikoPapa (2016-06-26 22:32) 

pinkich

いつも楽しみに拝見しております。東長崎1丁目1377の周辺を見てまいりましたが、おっしゃるとおり、近くに桜ヶ丘パンテノンの跡地の公園がありました。片多氏の絶筆とされる作品は、ご子息によれば東長崎の空き地や数軒の民家を描いたものということです。昭和10年の傑作画集にある「郊外の春」は、桜ヶ丘パンテノンができる前の風景なのかもしれません。ただ、この作品は、戦後の図録などには掲載されておりませんので、現在所在不明である可能性があります。戦後の片多徳郎展の図録に掲載されている「春畝」「雪景」と絶筆とされる作品も同様に桜ヶ丘パンテノンができる前の付近の風景なのかもしれませんが、長い土塀や一軒家にしては屋根が密集しているものがあり、ご近所の金剛院などの寺社を西側から描いている可能性もあるのではと考えます。「絶筆」は未完成の作品で大分の美術館に収蔵されています。画面左上から右下にかけて坂があり、画面右に屋根が密集している風景は、当時の金剛院を西側から眺めた風景である可能性があるのではないかと思われますが、建物の状況が現在とはまったく異なるのでなんともわかりません。
by pinkich (2016-07-03 08:32) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
椎名町駅の北側は、空襲の被害をあまり受けなかった地域ですので、長崎神社(氷川社)や金剛院をはじめ、その周囲の住宅群も戦後までそのまま残っていました。桜ヶ丘パルテノンも、ほとんど無傷でしたね。だから、画面と当時の長崎写真とを比較すれば、かなり正確に場所を特定できる可能性があります。
ただ、目立つ坂がほとんどなく、緩やかな台地上のエリアですので、大分市美術館の「絶筆」はどこか別の場所を描いている可能性が高そうですね。
by ChinchikoPapa (2016-07-03 21:36) 

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