わしな~、天井の柱も削ってもうた。 [気になる下落合]
下落合661番地の佐伯アトリエClick!は、1921年(大正10)の初夏以降に完成していると思われる。同年の4月に、諏訪谷の尾根上へアトリエClick!がほぼ完成し曾宮一念Click!たち家族が住みはじめると、しばらくして佐伯祐三Click!が米子夫人Click!をともなってペンキ塗りによるカラーリングの参考にと、曾宮アトリエを突然見学に訪れている。その事情から推察すると、佐伯アトリエおよび母屋が完成したのは、同年の夏から秋あたりではないかと思われる。★
佐伯夫妻が曾宮アトリエを訪れたとき、下落合の借家からやってきたのか、それとも住みはじめていた下落合661番地からやってきたのかは不明だが、室内外にペンキが塗られていないところをみると、いまだ普請中だった可能性が高い。そして、大工が引き上げたのは同年の秋になってからのことではないか? なぜなら、大工の棟梁が佐伯へ「鰹節でも削って下さい」と、新築祝いと歳暮とを兼ねたようなカンナを1丁置いていくのは、同年の暮れだからだ。
この大工が、佐伯にカンナをプレゼントしたことが、そもそも「大間違」いのもとだったと親友の山田新一Click!は書いている。佐伯は、よく削れるカンナの切れ味に魅了されたのか、新築したばかりの家のあちこちを削りはじめてしまったのだ。絵の制作などそっちのけで、1日じゅうカンナを手に家じゅうを削った。柱や板壁はもちろん、廊下の敷き板まで削ってしまったようで、アトリエや母屋の木材が露出したところは、日に日に「痩せて」いったらしい。危機感をおぼえた米子夫人は、近くの材木店から板材を取り寄せて佐伯にあてがったようだ。新築の家を削りはじめた佐伯の様子を、1968年(昭和43)発行の『繪』11月号に掲載された山田新一の証言から引用してみよう。
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大正十年には下落合のアトリエが出来上った。その年末に大工が「鰹節でも削って下さい・・・」といって鉋(かんな)一丁御歳暮に持って来たのがやがて大間違の原因になり、鉋に夢中になった佐伯は新築したばかりのアトリエの廊下といわず柱といわず片端から削りはじめた。鉋に魅入られてしまったのである。米子さんもすっかり困りきって材木屋から板を買って来てあてがった。はじめのうちは硯箱程度の函、次には弥智子のクレドール・・・明けても暮れても鉋にとりつかれて学校なんか全然出なくなって遂にはアトリエにつづく二室の増築を彼ひとりでやってのけようという騒ぎである。/年が明けて大正十一年になっても延々として彼の大工作業はやまないで、大切な卒業制作なんかどうでもよいのである。お陰で僕は毎日池袋の自宅から佐伯の処に通い、あるじの寄りつかなくなったアトリエを独占して卒業製作に励んだ。 (山田新一「佐伯祐三奇行集」より)
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佐伯祐三の“奇行”は、同じ下落合の金山平三Click!とともに界隈では“有名”だが、このカンナ事件は度外れている。のち関東大震災Click!の際、本職の大工が建てたアトリエの漆喰壁は剥がれ落ちたが、自分が建てた西側の洋間はびくともしなかった・・・と、佐伯は友人たちに自慢しているけれど、建物の規模や空間の問題は別にして、そもそも佐伯が柱を削って細くしてしまったがためにアトリエの揺れが大きくなり、被害を大きくしてしまったのではないか?・・・とも思えるのだ。
上掲の写真は、1984年(昭和59)8月に撮影された佐伯アトリエの天井裏の様子だ。米子夫人の時代、アトリエは当初のように屋根裏まで吹き抜けではなく、途中で天井が造られていたようだ。天井を設けたほうが、冬場には米子夫人がアトリエに設置した石炭ストーブの熱効率がよかったものだろう。正面に見えるY字型の柱は、天井の梁を3つの支点で支える柱ではない。アトリエの天井近くに設けられた、中2階のような張り出しを天井の梁から支える、つまり吊るすような役割りを果たしていたと思われる支柱だ。佐伯アトリエのフロア中央部分に、屋根裏からつづく柱は1本も存在していない。この中2階で、佐伯はカンテキ(七輪)を持ちこんでは曾宮一念ら友人たちとすき焼きClick!を楽しんだとのことだが、それが毎日のようにつづくので、24時間すき焼きの匂いが家じゅうに籠もって、しまいには曾宮も米子も気持ちが悪くなってしまったようだ。
建築に興味がおありの方が、この天井裏の写真をご覧になったら、すぐその不自然さに気づくのではないだろうか。なぜなら、天井裏の柱にもかかわらず角にたいそうな“面取り”が施されているのだ。それも、ちょっとやそっとの面取りではない。四角い柱が、八角形になってしまいそうなほどの、大げさな面取りがなされているのだ。ふつう柱の面取りは、居住空間で露出した柱に鋭角があると、ぶつかった際などに痛いし危険なため、角を斜めに少し削っておくのだけれど、この天井裏の面取りは削った場所も削り方もケタ外れだ。しかも、面取りが深いところと浅いところと、まるでメチャクチャな削り方をしていて、規則性や必然性がまるで感じられない。
どう考えても、これはプロの大工による仕事ではなく、1921年(大正10)の暮れにカンナを手にした佐伯祐三が、その切れ味に快感をおぼえて中2階に居座りながら、せっせと削った「仕事」ではないだろうか。この写真が撮影された当時、すなわちアトリエも母屋も、米子夫人が暮らしていたときのままの状態がつづいていたとき、佐伯アトリエ北側の採光窓はおそらく2段目の真ん中あたりから塞がれていて、アトリエ内は吹き抜けではなかった。
正面に見える柱の護符は、下落合の氷川明神社のものだろうか? 柱のどこかに、大磯の大工の名前が墨書きで入れられてやしなかっただろうか? 名前さえわかれば、他にどのような仕事をこなした大工なのかを、いまからでもたどることができるかもしれない。そもそも、母屋を取り壊してアトリエのみにするリニューアル工事を行なった際、これらの部材はどこかに保管されたのだろうか? ひとつひとつチェックして行きたいテーマが、あとからとめどなく溢れてくるのだ。
佐伯邸の母屋が壊される以前、アトリエを含めた邸内がどのような様子だったのかを、改めてご紹介できたらと考えている。さらに、佐伯アトリエで暮らした佐伯米子についても、これまで一般的にはあまり触れられてきていないので、折りに触れて取り上げていきたい。
★従来の書籍や図録では、1920年(大正9)にアトリエと母屋を建設しているという記述が多いけれど、同年9月の父・祐哲の死去後に、遺産相続によるまとまった資金ができるのであって、佐伯邸の竣工は1921年(大正10)になってからのことだろう。また、1921年(大正10)にはつづいて弟・祐明の病状が悪化し3月に没しており、この間、大阪へ帰りがちだった佐伯に、ゆっくり家を設計し建設している余裕はなかったと思われる。また、同時期に下落合へアトリエを建設していた曾宮一念の証言をはじめ、周辺にいた人々の記憶などから、新築祝いと歳暮を兼ねて大工がカンナを持参したのは、1921年(大正10)の暮れと想定できる。つまり、佐伯がアトリエの増築を開始し、友人たちが手伝いに出かけるのは1922年(大正11)に入ってからであり、またこの時期、曾宮は間もなく1歳になる俊一Click!を、産まれたばかりの弥智子がいる佐伯家の女中へ預けてもおり、カンナの入手前となる1920年(大正10)早々に増築をはじめたとする記述は、丸1年間ずれている可能性が高い。アトリエの柱や梁から大工の墨書きでも見つかれば、またご報告したいと思う。
★その後、大阪の佐伯から池袋の山田新一宛に投函された、1920年(大正9)12月2(4)日付けのハガキの「発見」Click!により、佐伯邸の完成は1921年(大正10)の後半である可能性がきわめて高いことが判明している。
■写真上:米子夫人が吹き抜けを塞いだと思われる、1984年(昭和59)現在の佐伯アトリエ天井裏。大工の仕事とは思えない、柱のメチャクチャな“面取り”が見られる。
■写真中上:天井裏をとらえた写真に見える、“面取り”柱の部分拡大写真。
■写真中下:左は、母屋2階の西側屋根から佐伯アトリエを眺めたところ。右は、アトリエ西側に佐伯自身が増築した洋間の屋根から、アトリエと母屋方向を眺めたところ。
■写真下:左は、1921年(大正10)ごろに制作されたとみられる佐伯祐三『運送屋』。下落合の借家から661番地への引っ越しの際、依頼した運送屋だろうか? 右は、中村彝アトリエの天井裏写真。当然ながら、柱には“面取り”など施されていない。
鰹節でも削ってください、と鉋を贈る棟梁も・・・と思うけれど家を削るとは・・。
by ナカムラ (2010-04-16 12:48)
「 S. Rollins, Vol.2」が欲しくなったとき、日本ではちょうど廃盤になっていて、駿河台の輸入盤専門店でようやく探し当てた記憶があります。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2010-04-16 13:41)
うちでは、ときどき頭の黒い大きなネズミが、料理酒を引いていく・・・といって怒られています。(汗) nice!をありがとうございました。>ひまわりさん
by ChinchikoPapa (2010-04-16 14:03)
「板さん」の動画、見とれてしまいました。いともたやすくさばいていきますが、わたしがやるとサヨリはぐちゃぐちゃになってしまいそうです。w nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2010-04-16 14:15)
映画史初期の長編大作が、後年になってほとんどがリメイクされているのに改めて驚きます。nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2010-04-16 14:25)
牢役・新兵衛の棒給は、十~二十俵二人扶持ほどでしょうか。幕末が近づくと、さらに苦しかったでしょうね。nice!をありがとうございました。>漢さん
by ChinchikoPapa (2010-04-16 14:36)
ナカムラさん、こちらにもコメントとnice!をありがとうございます。
大手の住宅メーカーに建設を依頼すると、新築・竣工祝いには商品カタログを持ってくることが多いようなのですが、昔ながらの工務店(大工さん)に頼みますと、いまだ大工道具を一式、祝いに持ってくるところがあるようです。もっとも、どれも安物のようなのですが、佐伯がもらった1点もののカンナは相当に切れ味がよく、いい道具だったみたいですね。
by ChinchikoPapa (2010-04-16 15:00)
ゴマ味噌とネギ味噌を合体したような「伊予さつま」、もうご飯に合わないわけがないですね。nice!をありがとうございました。>今造ROWINGTEAMさん
by ChinchikoPapa (2010-04-17 11:54)
水槽のある喫茶店というのは、ボーッとくつろげて気が休まりそうでいいですね。
nice!をありがとうございました。>PENGUINGさん
by ChinchikoPapa (2010-04-17 20:30)
横浜の風景写真、一度も行ったことのない街角のように見えて新鮮でした。
nice!をありがとうございました。>shinさん
by ChinchikoPapa (2010-04-17 23:12)
面取りを始めた佐伯祐三の心理、理解できるかもしれません。鉋の切れ味、それも大工の棟梁が呉れたものであれば、相当に小気味よいものだったものと思います。恐らく佐伯には立体的な造形に対する興味もあったのだろうと思います。鉋を使って、我が家を「完成」させようとしたのではないでしょか。
by アヨアン・イゴカー (2010-04-18 14:29)
アヨアン・イゴカーさん、こちらにもコメントとnice!をありがとうございます。
佐伯が「家造り」にこだわっていたのは、さまざまな建築のミニチュアをこしらえていたのでもうかがわれます。自身のアトリエの模型をはじめ、気に入った建築物のミニチュアを造っては眺めていたようですね。まるで、ジオラマ作りのようなことをしていたわけですが、このあたりの詳細は情報があまり残っておらず、佐伯がどのような建築に興味を抱いて模型作りをしていたのか、とても興味があります。
大工の棟梁が、1点ものでくれたカンナですので、相当にいい道具だったものでしょうか。刃も砥石で、満足のいくまで砥いだのかもしれませんね。
by ChinchikoPapa (2010-04-18 21:36)
日本へ一時帰国されたのですね。木曜に再びNYへ行かれるとか、お気をつけて。nice!をありがとうございました。>yuki999さん
by ChinchikoPapa (2010-04-18 23:22)
フランスの歴史学会には、フランス革命の引き金になった農産物の不作を、日本の浅間山の爆裂噴火に起因するという学説もあるようですね。nice!をありがとうございました。>銀鏡反応さん
by ChinchikoPapa (2010-04-18 23:27)
鉄道模型はライティングの妙技もあって、とてもリアルですね。
nice!をありがとうございました。>まーちんさん
by ChinchikoPapa (2010-04-19 00:12)
大磯の大工の名 どこかで発見されたら面白いですね
鉋は ゆりかご迄造ったと言う話を何処かで読みましたが
運送屋と大工は別人ですよね どこかで 叩き大工で他の仕事もしていたと聞いた気がします 落合莞爾さんの大工は矢代と言う名でY氏の像という絵も描かれたとは どこ迄が真実なのでしょうか。
by SILENT (2010-04-19 14:14)
SILENTさん、コメントとnice!をありがとうございます。
子供のころから、「図画」ばかりでなく「工作」も好きだったみたいですね。アトリエでも木材を購入しては、いろいろなものを作っているようです。大工がくれたカンナだけでなく、すぐに大工道具を一式買い揃えたらしく、揺りかごやら収納箱、住宅模型などを盛んに作っていたようです。
吉薗資料の「矢代」という名前が実在の人物かどうか、あるいは事実かどうかはいまだウラ取りができず、わからないですね。同資料では、1920年(大正9)暮れに自宅とアトリエが完成していることになっており、つまり今日的ではなく、少し前の年譜や佐伯本などの記述と一致・踏襲しており、佐伯と米子はそこからふたりで救命院を訪ねているようなのですが、9月の父親の死から遺産分与のあと、ほんの2ヶ月前後で佐伯邸が竣工したとはどうしても思えず、また友人たちなど周辺の証言とも大きく喰いちがっていますね。
1921年(大正10)の4月に、曾宮アトリエのカラーリングを佐伯夫妻が見学に来たときは、いまだ建築途上だった公算が高いと思います。そこから言えることは、1920年(大正9)の暮れに「佐伯の自宅兼アトリエ」から、ふたり揃って救命院を訪問するのは、非常に考えにくい・・・ということでしょうか。
by ChinchikoPapa (2010-04-19 17:20)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>つなしさん
by ChinchikoPapa (2010-04-20 12:42)
さすがに強いですね、「Rock'n'Roll Circus」は即1位ですか。
nice!をありがとうございました。>ロボライターさん
by ChinchikoPapa (2010-04-21 12:47)
他の記事へも、nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2010-04-22 11:48)