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300万人のご訪問ありがとうございます。 [気になるWeblog]

石橋湛山邸前1957.JPG
 8月17日の深夜、このブログへの訪問者が300万人を超えた。東京23区内の全人口の、約40%近いこの数値を考えると、改めて茫然としてしまった。茫然自失でめまいがしてしまったので、300万人めの方への記念品はご容赦いただきたい。(爆!) 普段はあまり書かないのだけれど、このブログをやっていて日ごろから想うことや感じることを、つれづれとめどなく書きとめておきたいと思う。
総閲覧数20100818.JPG
 以前、慶應大学へお邪魔したときの記事Click!にも書いたが、非常に限定された地域をテーマにしたメディアであるにもかかわらず、記事にしたくなる課題やエピソードが尽きることなく、一向に先が見えてこない。当時、手元にある資料や集まった情報の10分の1ぐらいしか書けていない・・・とお話したけれど、現在も状況はまったく変わっていない。同時に、いまだ地域のほんの上っ面(うわっつら)しかなぞっていないという感覚も当時と変わらない。ひとつのテーマを取り上げて取材すると、それに関連した資料や情報が新たに3つも4つも集まってくる。
 これは、別に落合地域(あるいは江戸東京地方)でなくても、全国いずれの地域でも同じ現象が起きるのではないかと思う。あるテーマに探りを入れていくと、いくつか別のテーマが待ちかまえてでもいたように浮上してくる。それらを追いかけはじめると、今度はそれぞれのテーマごとに別の課題が見えはじめ・・・という、一種の連鎖反応とでもいうべき現象だ。取材が芋づる式に拡がっていくので、わたしはこれを芋づる型物語取材とひそかに名づけている。
 芋づる型が、同じレイヤを水平方向へ拡がるのに対し、まるで地面を掘り起こしていくような垂直型の取材や調査もある。これも、初期のころ記事Click!に書いたことだけれど、落合地域というひとつのプレパラートをドリルダウンしていくと、期せずしてより大きなテーマの地層へとぶつかり、この国の巨大な歴史そのもの=「日本史」レベルのテーマへとぶち当たってしまうという現象だ。落合地域に堆積している歴史を掘り起こしていくと、芋づる型とはまた異なり、テーマや課題が深層へ向けてネズミ算式に増えていく・・・というような、物語の深淵をのぞきこむことになる。地下茎がどこまで深くつづいているのかわからないこの現象を、わたしは自然薯(じねんじょ)型物語取材とひそかに呼んでいる。いつかの記事で、小川紳介監督の記録映画『ニッポン国古屋敷村』(1982年)の例を出したけれど、いずれの地域でも芋づる型、あるいは自然薯型の現象が見られるにちがいない。
第二文化村二間道路.JPG 石橋湛山邸テラス1957.JPG
 現代に伝わる、そこにある“モノ”に改めて気がつき、あるいはメルクマールとして残された“モノ”にふと気をとめるとき、さらに記念としてピンでとめられた“モノ”をジッと意識的に凝視するとき、そこから聞こえてくるのは、そこから紡ぎだされてくるのは気が遠くなるような、めまいを起こして倒れそうになるほどの、膨大な物語の連鎖だ。ちょっと古いけれど、2000年に出版された瀬名秀明『八月の博物館』(角川書店)から、不思議な博物館の少女・美宇(みう)の言葉を少し長いが引用してみよう。
  
 ミュージアムにはね、物語が必要なの。(中略) 昔の人は、集めたものをたくさん部屋の中に飾っていたでしょ。お客さんが来たらそこに案内するの。みんなが見たことがないようなものをいっぺんに見せて、驚かせるの。それからどうすると思う? お話を始めるのよ。あそこにある剥製は、何という国に行ったときに仕留めたもので、向こうの貝殻は何という船が太平洋を航海したときに集めたもので、あそこの太鼓は何という島の人からもらったもので・・・・・・そんな具合にお話を始める。みんなそれをどきどきしながら聞くの。主人のお話を聞いているうちに、みんなはそのコレクションの凄さがわかってくる。さっきまではただの変てこなものにしか見えなかったのに、だんだん生き生きと輝いて見えるようになってくる。それが物語の力。集めたものは、ただ見せるだけじゃだめなの。どうして展示されているのか、どうして集められたのか、どうしてそれが大事なのか、そういったことが説明されて、わたしたちは初めてその価値がわかる。初めて楽しめる。(後略)
  
クシナダヒメ像(大磯六所神社).jpg バカ田大学ノート.jpg
 ミュージアムを「街」や「地域」、「地方」に置き換えても、本質的にはまったく同じだと思う。ただ単に記念物が街中に置かれ並べられているだけでなく、そこで生きてきた人々の物語が紡がれなければ、現に生きている人々の物語が語られなければ、また、いまも残されている“モノ”の物語が聞こえてこなければ、あるいはすでに消えてしまった“モノ”についての物語が受け継がれなければ、そこがどのような「凄さ」をもったところなのかがわからない。並べられた記念物は、単なる「変てこなもの」にしか見えないのだ。美宇の言葉を読んでいたら、誰かが「街は博物館だ」Click!と表現していたのを思い出した。別に落合地域や江戸東京地方に限らない、人々が暮らしてきたあらゆる地域についても、まったく同様のことが言えるのではないか。
 もうひとつ、記事を書くとき気にとめていることがある。それは、難しいテーマの内容であっても、難解な言葉や専門用語、もってまわった言いまわしはできるだけ避け、誰にでも理解できるフツーの言葉で表現すること・・・という基本的な“お約束”だ。そこには、「難しいテーマを専門用語や難解な言葉をつかって表現するのは比較的たやすいが、難しいテーマを誰にでもわかる言葉をつかって表現するのは至難のワザだ」・・・という、文章表現上の理想があるからだ。これはわたしの考えではなく、学生時代に世話になったいまは亡きゼミ論(卒論)の教授に、繰り返し教えられたことだ。
神田川(旧神田上水).JPG 妙正寺川昭和初期.jpg
 竹田助雄Click!が、『落合新聞』の発行をハナから50号までと限定してスタートしたのは、夫人からの「圧力」があったとはいえ正解だったと思う。これまで書いてきたボリュームをざっと計算したら、400字詰め原稿用紙に換算するとおよそ8,200枚。プルーストの『失われた時を求めて』(1913~1927年)の3分の1強に当たる量になっていた。それだけ書いてもこの程度で、表層レベルの内容しかすくい取れていないのだ。あるところで思い切ってフェーズを区切らなければ、栗本薫の『グイン・サーガ』(1979~2009年)状況になってしまうのは目に見えている。
 日本全国どの地域でも、一度物語の世界に足を突っこんでしまうと、まったく同じことが言えるのかもしれないが、わたしの「落合物語」もミヒャエル・エンデの『はてしない物語』(1979年)ではないけれど、どこまでいっても底が知れない“危うい”様相を呈してきていると思うのだ。

◆写真上:1957年(昭和32)1月ごろに下落合の第二文化村で撮影された、病気で倒れ首相を辞任直前の石橋湛山Click!邸前の様子。取材のクルマが路上にずらりと並び記者たちが詰めているが、近所の目白文化村Click!の子供たちも何がはじまるのかウキウキしながら集まっている。
◆写真中上は、石橋邸前の現状。は、南側のテラスで静養する石橋首相を捉えたショット。
◆写真中下は、大磯の相模国総社・六所神社に伝わる、下落合でもお馴染みのクシナダヒメ像(平安期)。は、わたしが最近取材で愛用しているフジオプロの「バカ田大学」ノート。表ニには校歌も載っていて、「♪かがや~くわれら~のバカぶ~りみろよ~♪」とつい唄いながら下落合を歩いている。w ちなみに、このあたりでは早稲田大学Click!カフェ杏奴Click!で販売しているらしい。
◆写真下は、下落合を流れる神田川。は、雨で小川が濁流となった昭和初期の妙正寺川。


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とらさん

おはようございます。
凄い数の人が閲覧されてみえるのですね。
これからも多くの情報公開をお願いします。
by とらさん (2010-08-19 07:57) 

SILENT

クシナダヒメ像(平安期)大好きです。
スサノウノミコトのがもっと好きなのですが
本当に芋蔓式にモノやヒトは繋がっていますね。
いつも楽しみに拝見しています。
大磯ともリンクする事柄もお願いいたします。
by SILENT (2010-08-19 10:26) 

みなせ

すごい! 300万人といえば、
・茨城県の人口(全国で11番目)
・エルサレムの人口
・ウルグアイの人口
・日本中で鮎釣りをしている人
・1922年のパリの人口(この年、ル・コルビュジェが「3 00万人の現代都市」を書きました)
・去年、第一生命の上場によって、突然株主となった同社の生 命保険契約者の数
・先進国での一年の人口増加数

ですからね。祝!
by みなせ (2010-08-19 10:55) 

ChinchikoPapa

きょうは、少しは風が涼しい日です。名古屋のほうはいかがでしょう?
nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2010-08-19 16:24) 

ChinchikoPapa

このところ、うちでもアイス食べまくりですね。とにかく、身体を冷やさないと持ちません。nice!をありがとうございました。>ぷりん&りくさん
by ChinchikoPapa (2010-08-19 16:27) 

sig

こんにちは。
まずは閲覧累計300万、おめでとうございます。
これだけの厚みのある記事を、資料ともども3日に1本掲載ということだけでもすごいことですね。
確かに物事は水平と垂直の両方から推察してはじめて生きた事柄としての立体像を結ぶものと思いますが、果て知らず、底知らずのご様子とはうれしい悲鳴というものでしょう。地元はおろか全国の歴史文化にもつながるこのブログが、更に水平と垂直の深みに至らんことを。
by sig (2010-08-19 16:35) 

ChinchikoPapa

とらさん、コメントとnice!をありがとうございます。
ちょっと空恐ろしい数字でして、だんだん書きづらくならないか心配です。かなり気楽に取材して書いているつもりなのですが、なんとなく数字を見ますとプレッシャーを感じてしまいますねえ。(汗)
by ChinchikoPapa (2010-08-19 16:37) 

ChinchikoPapa

SILENTさん、コメントとnice!をありがとうございます。
わたしも、大磯の六所神社の像と、山王権現祭の山車に登場するクシナダヒメ像が大好きなのです。後者は、蝋人形のようにリアルなのですが、なぜか女神なのにもかかわらず、首から鏡を下げた巫女のようなコスチュームで、髪をソバージュにしているハイカラ女神なのですね。w
大磯は、いろいろなところで下落合とつながっていますので、もちろん継続テーマにしますね。^^
by ChinchikoPapa (2010-08-19 16:42) 

ChinchikoPapa

ウナギでしたか・・・。嬉しいような、残念なような。w
nice!をありがとうございました。>tamanossimoさん
by ChinchikoPapa (2010-08-19 16:46) 

ChinchikoPapa

セミがそろそろ、落ちはじめましたね。ミンミンゼミやアブラゼミが、路上でバタバタしているのを見かけます。でも、ツクツクボウシやヒグラシの声は盛んにするのに、なかなか落ちてるところを見かけません。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2010-08-19 16:49) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2010-08-19 16:50) 

ChinchikoPapa

みなせさん、コメントをありがとうございます。
いろいろお調べいただいたのを見て、改めてその数字に呆然としてしまいました。・・・プレッシャーかけてません?ww
ものすごく卑近な、わたしの身のまわりのことからスタートしたはずなのですが、だんだんとあちこちテーマがふくらんでいき、大それたものになってしまいました。ひとつひとつの事実確認=“ウラ取り”を厳密にしなくて済み、わがままな想像力の羽をどこまでも勝手に拡げられる、小説を書いていたほうがラクですね。(爆!)
So-netブログへの訪問者のカウンターは、リアルタイム処理ではなく、ある程度時間がたってからまとめて加算されるバッチ処理なのですが、さすがに299万9千から300万になりそうな瞬間には、ブラウザの更新ボタンを押して「いったかな、まだかな?」と、午前1時すぎまで起きてました。(汗)
これからも、お気軽にコメントをお寄せくださいね。w
by ChinchikoPapa (2010-08-19 17:04) 

ChinchikoPapa

わたしも、「粘り強く困難を乗り越える大器晩成型」と書かれる八白土星ですので、出来がよさそうにありません。(汗) nice!をありがとうございました。>あんぱんち〜さん
by ChinchikoPapa (2010-08-19 17:07) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
当初は、現在の3分の1か半分ほどの分量だったのが、だんだん長くなってきてしまいました。毎日更新が1日おきの市松模様になったあたりから、長ったらしい記事が多くなってきましたね。(汗) 読まれるのがタイヘンかと思い、しばらく前から3日に1本ペースをつづけているのですが、そのぶん記事が、もっと長くなっているような気もします。(爆!)
考えてみますと、あるテーマについて概要として記述していたものが、個別具体的に、つまり個々の現象をより突っこんで捉えようとするようになってから、どうしても文章が長めになってしまいます。これは、仕方のないことなのかもしれませんが、もう少し短めにまとめられないものかと、表現を模索しつづけるしかなさそうですね。
おっしゃるように、水平と垂直の軸を双方同時に観察(調査)することで、あるテーマ全体の姿を浮かび上がらせるのが理想的なのですが、垂直方向(時間軸)を掘り下げていったとき、ある時点(時代)から見える水平方向の「(同一地域の)風景」を調べるのは、なかなか楽しい作業ではありますが、けっこう手間がかかって悩むところでもあります。
さて、いつまで飽きずにつづけられるものやら、「もう飽きた!」と思える地点まで含めて、いまのところまだ先が見えません。^^;
わざわざごていねいに、ありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2010-08-19 17:45) 

アヨアン・イゴカー

こういう内容で書き続けて300万と言うのは、素晴らしい数ですね。是非、気長に御自分のペースを守って、引き続き書いていただきたいと思います。
by アヨアン・イゴカー (2010-08-19 22:26) 

ChinchikoPapa

水音を聴いてるだけで、少しは涼しくなりそうな気がします。マイナスイオン効果もありそうですね。nice!をありがとうございました。>PENGUINGさん
by ChinchikoPapa (2010-08-19 23:10) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントとnice!をありがとうございます。
お励ましをいただき恐縮です。記事を書くのは馴れましたけれど、この“馴れ”というのがマンネリ化への第一歩ですので、できるだけいろいろな表現へチャレンジしていきたいと思います。あと、適度の緊張感も持続したいですね。
by ChinchikoPapa (2010-08-19 23:36) 

ChinchikoPapa

海面に近い位置で見る、東側からの天橋立がめずらしい風景です。
nice!をありがとうございました。>ヒロさん
by ChinchikoPapa (2010-08-20 10:12) 

ChinchikoPapa

既存の電話端末や回線を活かし、自動ダイヤルプログラムによるサービスだから安く済むのですね。nice!をありがとうございました。>dorobouhigeさん
by ChinchikoPapa (2010-08-20 10:19) 

ChinchikoPapa

夏に絽でも紗でもない普通の着物を着るのは、それだけで重労働でしょう。
nice!をありがとうございました。>Webプレス社さん
by ChinchikoPapa (2010-08-20 10:23) 

ChinchikoPapa

そういえば昔、パイナップルを輪切りにしたかたちのシャーベットアイスがありました。懐かしいですね。nice!をありがとうございしまた。>cocomotokyoさん
by ChinchikoPapa (2010-08-20 12:42) 

ChinchikoPapa

暑いさなかの結婚式はたいへんですね。着替えのできる式場だと、ずいぶん助かるのですが。nice!をありがとうございました。>komekitiさん
by ChinchikoPapa (2010-08-20 15:38) 

ChinchikoPapa

「7」が5つ並ぶと、美しいですね。w
いつもnice!をありがとうございます。>ねねさん(今造ROWINGTEAMさん)
by ChinchikoPapa (2010-08-20 22:48) 

ももなーお

300万突破おめでとうございます! 表層レベルの内容しかすくい取れていないなんてとんでもない!、相当に深い内容だと思います。しかも下落合だけに限定して、これだけの膨大な記事の量と質には毎回圧倒されます。

下落合ってなんとなく街のオーラが他の地域とちょっと違うんですよね。優雅というか、穏やかというか。そこに引き込まれ、又憧れもあって毎回このサイトに遊びに来てしまいます。

by ももなーお (2010-08-21 10:00) 

ChinchikoPapa

米国の戦略からすると「防波堤」化している「安全保障」は、日本にとっては危険保証しているように見えることがあります。nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2010-08-21 18:36) 

ChinchikoPapa

ももなーおさん、コメントをありがとうございます。
いえ、まだきっと表層レベルだと思うのです。ときどき感じることですが、まだ知らない「地下茎」があちこちに眠っているように思います。いま、上落合村が幕府へ提出した「書上」を読んでいるのですが、ここで取り上げてきた江戸期の物語は(城)下町のことばかりで、この地域のご紹介は目白不動尊だったり、将軍の鷹狩り、水車小屋、四谷怪談、乳房榎・・・等々、一般的によく知られている教科書的なことばかりだったりします。
もっと重要な物語が、あちこちの地層に伝承されず眠っている可能性が高いと思うのです。たとえば、大六天(第六天)が落合地域の湧水源に、なぜ2つもあるのか?・・・とか、江戸期に崩されて農地化された古墳らしき丘は、いったいいくつあったのか?・・・とか、さまざまな謂れがあったと思うのですが、今日では知られていませんね。おもに江戸期に、いろいろな付会がもっともらしく作られたものを排除していくと、どんな落合地域の姿が見えてくるのか?・・・というのも、気になるところです。
住んでいますと、それほど優雅さを感じることはありませんが、いい意味でも悪い意味でも「乃手」の街なんだなぁ・・・と思います。ww
by ChinchikoPapa (2010-08-21 18:53) 

ナカムラ

300万超、おめでとうございます。本日、文学系の研究者の方々を落合・中井にご案内しました。そして、樺山千代さんの住んでいた場所で、落合火葬場の隣の銭湯について聞くことができました。戦前は富士山が見えていたそうです。銭湯の屋号は「帝国湯」とのこと。焼夷弾の絨毯爆撃も受けたそうですが、一帯は建物疎開で取り壊され、樺山千代さんの住んだあたりは空襲まえに消えたようでした。
by ナカムラ (2010-08-22 00:02) 

ChinchikoPapa

ナカムラさん、コメントとnice!をありがとうございます。
暑い中、たいへんでしたね。そして、またまた貴重な情報をありがとうございます。「帝国湯」とは、時代を感じるたいそうな名称ですね。w 富士山のお話は、落合地域のあちこちで聞きますので、きっと晴れた日に少し高めの斜面に立つと見えていたんでしょうね。いまでは、マンションの上階からしか眺めることはできないのでしょうか。中井御霊社の裏あたりなら、いまでも見えそうな気がしますが・・・。
by ChinchikoPapa (2010-08-22 00:15) 

子桜インコ

300万アクセスおめでとうございます。すばらしいですね!!始まり、をもし、これだけの方々が見てくだされば、どんなにかうれしいことでしょう。私は、Papaさんに出会えて下落合を愛するものとしてとても幸せです。戴いた音を聞きながらPapaさんのブログの広がりに驚きながらも、今度はいつ行こうかと考えております。私には、難しくなりつつあるこの広がりの世界に今更ながらPapaさんのすごさに敬服するばかりです。これからもご活躍ください。いつかお目にかかる日もあるかもしません。(笑);これからも読ませていただきます。いつまでも続きますように。。。
by 子桜インコ (2010-08-28 21:47) 

ChinchikoPapa

子桜インコさん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
これぐらいの人々がDVD化を要望すれば、即日、ドラマの商品化が決定するのでしょうね。^^; 下落合の散歩ですが、この季節は避けられた方がいいかと。(汗) 確かに、深緑が鮮やかに映え、木陰の涼は気持ちがいいし、セミしぐれが朝昼晩とふりそそぐ風情はとてもいいのですが、今年はあまりに暑すぎます。きょうも、取材で目白崖線を上り下りしていたのですが、あまりの暑さにめまいがしてしまい、急いで喫茶店へ駆け込もうとしたところ、いつもの杏奴は貸し切りでした。
ぜひ、もう少し涼しくなってから、ゆっくりお出かけください。w
by ChinchikoPapa (2010-08-28 23:40) 

ChinchikoPapa

以前の記事にまで、nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2014-05-22 20:00) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-05-22 20:00) 

TanzanFun

落合道人様 とても興味深く見させていただいております。実は当方、石橋湛山記念財団というのがありまして、その関係者です。当財団では会員向けに小冊子を時々発行していますが、いろいろネタ探しをしているなかで、このブログや目白文化村Webを発見しました。石橋湛山のこともたくさん取り上げていただき、ありがたく思ってます。つきましては、この中から写真の転載や記事の引用をお願いしたいのですが、どのようにお願いしたらよろしいでしょうか。ご連絡いただけると、幸いです。
by TanzanFun (2024-09-10 15:21) 

ChinchikoPapa

TanzanFunさん、コメントをありがとうございます。
ずいぶん昔になりますが、石橋邸のファサードや玄関先の撮影許可をいただく際、当時住まわれていたお歳を召した女性の方と、貴財団へ連絡を差し上げたことがありました。そのあと、室内撮影はプライベート空間(当時)でしたので、ご許可が出なかった憶えがあります。
実は近いうちに、戦前の「闘う石橋湛山」というようなテーマで、反戦・反言論弾圧の論陣を張りつづけた彼の記事を書きたいと思っています。こちらの記事や写真の引用は、ご自由にお使いください。なお、その際には拙ブログ名かURLをどこかに記載していただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
by ChinchikoPapa (2024-09-10 22:05) 

TanzanFun

落合道人さん、ありがとうございます。出所は必ず載せます。
昔の「お歳を召した女性」はたぶん湛山の長男の奥さんだと思います。今は湛山のお孫さんが当主です。
ついでに一つ質問です。
「石橋湛山は『主婦之友』の愛読者だった」の記事で、「朝鮮銀行副頭取の元・K邸へ住むことになる」とあり、確かに1947年末、大蔵大臣を辞めた後です。一方、「安倍能成が証言する第二文化村空襲」の記事で、1926年の地図に後の湛山邸の区画は名前なし、1938年の地図には安藤又三郎さんの名前になってます。朝鮮銀行のK副頭取と思われる人(副頭取は1940~1945年2月)のウィキペディアで、「出典」から国会図書館の「人事興信録」をみると、1943年の住所は「中野区桃園町」です。これは安藤さんがK氏に売却したのか、K氏の所有地に安藤さんが住んでいたのか。また、安藤又三郎さんをウィキペディアで調べると、鉄道官僚で1945年に岐阜県大垣市長とありますが、この人でしょうか。何がご存じのことがあれば教えて下さい。よろしくお願いします。
by TanzanFun (2024-09-11 11:45) 

ChinchikoPapa

TanzanFunさん、コメントをありがとうございます。
第二文化村にある下落合(4丁目)1712番地の敷地ですが、同敷地が売りだされた当初は、元朝鮮銀行副総裁の嘉納徳三郎が購入しています。1926年(大正15)の「下落合事情明細図」に名前がないのは、厳密にいえば建物はあるもののすでに無住だったか、未建設あるいは建築途中だったか、または解体されて更地になっていたか(当時は築数年で解体される住宅もめずらしくありませんでした)の、いずれかだったと思います。広い敷地(大きな屋敷)ですので、誰か住んでいたとすれば採取漏れは考えにくいですね。
1938年(昭和13)には、南満州鉄道理事だった安藤又三郎が邸宅を建てて住んでいますが、嘉納家が安東家へ土地を売却したものか、それとも土地を貸して地代を徴収していたのかは、新宿法務局の旧土地台帳を調べないとわかりません。ただし、元朝鮮銀行副総裁の嘉納徳三郎と朝鮮鉄道について詳しい安藤又三郎(同鉄道に関する論文も執筆しています)は、大陸で知り合いだった可能性が高そうです。
by ChinchikoPapa (2024-09-11 14:39) 

TanzanFun

落合道人さん、詳細にありがとうございます。K氏を取り違えていました。さすが、です。
嘉納徳三郎氏を「人事興信録」などで調べたところ、1923年6月に朝鮮銀行副頭取を任期満了で辞任。ちょうど同年5月に第2文化村の分譲開始しているので、タイミングよく購入したのでしょう。ただ、その後の住所は小石川区竹早町になっており、講道館理事(ウィキペディアでは嘉納治五郎の弟子、縁戚ではない模様)などを経て、1943年には神戸に移転していたようです。
一方、安藤又三郎氏は「帝国大学出身名鑑」1932年版によると、朝鮮総督府に赴任し、南満州鉄道京城管理局、1929年金剛山電気鉄道専務を経て、現職は自動車投資(株)監査、住所は下落合になっています。京城時代に嘉納氏と接点があったのは確実でしょう。
つまり、1926年の地図で名前がないのは、まだ邸宅が建っておらず、1930~32年頃に建てられたと、推測されます。土地や建物の所有者が嘉納氏なのか、安藤氏なのかは不明ですが、朝銀副総裁と満鉄理事では副総裁の方が収入が高いでしょう。また湛山が朝銀副総裁から購入したと伝えられているので、やはり嘉納氏が所有者だったと想像されます。
さらにいえば、「湛山日記」では大蔵大臣を辞任した1947年5月から住居探しを始め(本宅は鎌倉、大臣官舎に住んでいた)、年末には引っ越ししているので、時間的にみて空き家だったと思われます。前の住人の安藤氏は前年に大垣市長になっており、引っ越した後だったので、スムーズに購入できたと思います。


by TanzanFun (2024-09-12 12:23) 

ChinchikoPapa

TanzanFunさん、詳しい解説をありがとうございます。
石橋湛山邸を含め、下落合1712番地の敷地をめぐる史的な経緯がスッキリしました。これまで、いろいろな資料を調べていますと、別々の地域でそれぞれ石橋邸のネームが目に入り、明治期から大正期にかけての戸塚地域(早大周辺)から鎌倉町雪ノ下、そして下落合へと、なんとなくアップした拙記事類が石橋家の転居を追いかけているような感じになっていました。ただし、戦後の下落合への転居は、誰からどのようにして邸を購入し、目白文化村に住んでいるのかがモヤモヤしていました。おかげさまで、その経緯が明確になりました。
by ChinchikoPapa (2024-09-12 14:03) 

TanzanFun

落合道人さん、いろいろありがとうございました。
「低空飛行の元・石橋湛山邸1923年。」の記事も、緻密な分析で面白かったです。また何か発見したら、お知らせします。
by TanzanFun (2024-09-12 18:32) 

ChinchikoPapa

TanzanFunさん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
わたしも、なにか下落合における石橋湛山のエピソードを見つけたら、また拙記事にしようと思います。ありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2024-09-12 23:30) 

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