中村彝が建てた初期型アトリエの姿。 [気になる下落合]
1923年(大正12)9月1日に起きた関東大震災Click!で、中村彝Click!アトリエの東側の壁が崩落したとき、酒井億尋Click!が故郷である佐渡から連れてきた元大工で画家志望の河野輝彦Click!とともに、応急処置として修繕していることはすでにご紹介した。その直後から、彝のアトリエは壁が崩落した東側を中心に、若干の増改築が行なわれている。以降、中村彝が1924年(大正13)12月24日に他界するまで、アトリエ兼自宅の形状はそのままだった。
「中村画室倶楽部」Click!の時代も、アトリエに手は加えられていないのだが、1929年(昭和4)に鈴木誠Click!が佐伯祐三Click!のアトリエより引っ越してきてから、敷地の西側へ南北に母屋が建設され、東側の小部屋および玄関部が大きく拡張されている。茨城県近代美術館に建築された彝アトリエのレプリカは、1923年(大正12)の大震災から彝の死去をはさみ、1929年(昭和4)までの意匠を再現していることになる。彝アトリエ後期の姿が、なぜ厳密に再現できたのかといえば、1929年(昭和4)に鈴木誠が増築を行なった際に記録したとみられる、当時のアトリエ寸法図が鈴木家に残されていたからだ。でも、1916年(大正5)に竣工した時点から1923年(大正12)の大震災まで、すなわちアトリエ前期の姿を記録した図面はどこにも見当たらない。
『エロシェンコ氏の像』Click!(1920年)が制作されたあたりのテーマを中心に据え、中村彝アトリエを復元Click!しようとすると、当然、アトリエ前期の姿を構築することになる。でも、具体的な設計図面がどこにも存在していないので、その姿は改築後の図面から推定する以外に方法がない。先日、新宿区の地域文化部の方とお話をしたときにも、「図面がないので難しいかもしれません」と言われていたが、まさにそのとおりなのだ。アトリエ前期の姿は、残された写真や手紙類、そして戦後に鈴木良三Click!がスケッチしたと思われる大雑把な間取図(それぞれの部屋の寸法は記載されていない)ぐらいしか、その様子を知る手がかりが残されていない。しかも、このスケッチには鈴木良三の記憶違いや勘違いを含む、かなり大きな誤りがありそうなのだ。
鈴木良三の初期型アトリエのスケッチ(冒頭写真)は、1977年(昭和52)に出版された『中村彝の周辺』(中央公論美術出版)と、そのスケッチをもとに同じく手描きで写された1988年(昭和63)6月発行の『常陽藝文』(常陽藝文センター)に収録されている。ところが、この手描き間取図は多くの点で、残された写真や資料類、あるいは現場の様子と一致していない。まず、大きな誤りだと思われる部分に、大震災を契機に増築された部屋の位置問題がある。鈴木良三は、南の庭に面した応接間(居間とも表現される)の横(東側)に「建増し」が行なわれたとしているが、1923年(大正12)以降に増築され小部屋(寝部屋とも表現される)が設けられたのは、アトリエに接した東側だ。これは1929年(昭和4)の改築直前、鈴木誠により撮影され同家に伝わる写真からも、また改築以前のアトリエの様子を記録した平面図からも、明確に規定することができる。
余談だけれど、現状のアトリエ東側の壁は、おそらく60~70cmほど西側へ、つまりアトリエの内部側へと移動している。それは、鈴木誠時代にアトリエの東側へより広い部屋を増築するために壁全体を移動したと思われるのだが、転居直後に行なわれた1929年(昭和4)当時の仕事ではなく、もう少しあとの時代の造作だったようだ。なぜなら、佐伯アトリエから引越して間もないころに撮影されたとみられる、アトリエ内の東側と採光窓側の壁を撮影した昭和初期の写真が現存しているが、鶴田吾郎Click!が描いた『盲目のエロシェンコ』(1920年)のときと同様、いまだ採光窓側の壁に大きめな鏡を架けられるほど幅が広かったことがわかる。
鈴木良三の手描き間取図には、当初から設置されていたと思われるアトリエ北西側の納戸(収納)、大震災後に設置されたとみられる応接間(居間)の東側に接した納戸(戸棚)の大きな出っ張り(鈴木良三は、この納戸の設置工事と東側の小部屋増設工事とを混同していると思われる)、勝手口に設けられた風呂場とみられる西側への出っ張り、増築されたアトリエ東側の小部屋(寝部屋)の北西側へ新たに設けられた納戸(収納)なども、まったく描かれていない。東側の壁には鎧戸付きの大きめな窓があり、『エロシェンコ氏の像』の制作では窓に布を垂らして背景を変えていることはすでに書いたが、東側の壁に設置されていた外へと出られるドアについても、現状のアトリエに残る当該ドアの特定とともに、すでに記事Click!にしている。
また、応接間(居間)のすぐ南側に植えられた樹木を「楡」としているが、アオギリの誤記憶なのだろう。藤棚の位置も大きく西へ寄りすぎており、現存する写真や彝自身によるスケッチを確認すると、応接間(居間)に設置された両開きのドアの真上に、藤棚が位置していたことは歴然としている。ただし、彝の病状の悪化とともに応接室(居間)への陽当たりをよくするため、藤棚を丸ごと西へ移動している可能性も否定できない。同様に健康面からの理由で、竣工直後には樹木がかなり繁っていた林泉園Click!に面した庭Click!を、のちに彝は芝庭へと改造している。したがって、鈴木良三が描くアトリエ庭の風情は、大震災が間近に迫ったころの姿だと思われる。
さて、初期型のアトリエを再現するには、現存しているアトリエ後期の設計図をベースに、1923年(大正12)以前に撮影されたアトリエの写真類、彝自身が描いたアトリエをモチーフとする作品やデッサン類、1929年(昭和4)に鈴木誠が転居してすぐに撮影したとみられるアトリエ内外の写真類(改築後の姿ではあるけれど、初期型アトリエを想定するには超貴重な一級資料だ)、彝や友人たちが残した多彩な資料類などが参考となるだろう。わたしは、やはり彝が鶴田吾郎とともに「エロシェンコ」を競作した1920年(大正9)当時(曾宮一念Click!も現場にいたことが判明している)のアトリエ再現が、茨城県近代美術館のレプリカアトリエとの差別化、あるいは下落合に現存しているというプレゼンスの意味合いからも、地元にはふさわしいと思うのだが、はたして不可能なことだろうか? 改築後に設置された部分を“引き算”すれば、自ずと建築当初のアトリエの姿が見えてくると思うのだが・・・。
戦後、1950年代にベルギー製の濃いオレンジの瓦から、濃いピンクの瓦へとアトリエの屋根は葺きかえられている。中村彝がアトリエ竣工直後に描いた『落合のアトリエ』(1916年)の屋根色が、当初の瓦に近い色合いだったとみられる。ちなみに、茨城県近美に再現されたアトリエは光線によってはピンクともオレンジともとれる、微妙な色合いをしているようだ。惜しむらくは、フィニアル(屋根上の装飾立て物)の形状が、実際の彝アトリエとはまったく異なる点だ。また、下見板張りのこげ茶の外壁も戦後、南の庭に面した大きな出窓の設置とともに、ベージュ色に塗られたモルタル外壁に改造されている。その際、下見板の外壁はすべて剥がされて取り払われたものか、それともモルタル仕上げのベースとして、そのまま中へ塗りこめられたままなのかも、大いに気になるところなのだ。
◆写真上:鈴木良三が描いた初期型アトリエ図をベースにしたと思われる、『常陽藝文』(1988年6月)に掲載されたアトリエの間取図。ブルーの点線は震災前から設置されていたと思われるもので、赤い点線は震災後に設置された増築部分と思われる。
◆写真中上:上左は、元大工で中村彝の画弟子となった河野輝彦。上右は、河野を同郷の佐渡から連れてきて彝に紹介した酒井億尋で、大震災時には彝アトリエの修復に尽力した。下左は、大正期に地籍簿へ記録されたとみられる彝アトリエの建坪と採寸図。下右は、それをベースに建築家の鈴木正治様Click!が再現されたとみられる1923年(大正12)以降のアトリエ設計図。
◆写真中下:上はアトリエの採光窓東側の壁幅で、鏡の架かる鶴田吾郎『盲目のエロシェンコ』(左)と鈴木誠が転居したあと昭和初期の状態(右)。下は採光窓に向かって右手の現状の壁幅で、明らかに東側の壁全体が西側へ60~70cmほど移動しているのがわかる。
◆写真下:上左は、1917年(大正6)ごろの藤棚の位置。上右は、1923年(大正12)に増築された応接室(居間)の戸棚部。下は、同じく1923年(大正12)増築の居間から小部屋にかけての状態。
ジョン・サーマンというと、美しい風景を写した(イギリス風景でしょうか)アルバムジャケットが印象的ですね。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2010-11-03 13:46)
日本橋はいま、大洗浄の真っ最中ですね。洗浄が終わると、造られた当時の色彩や質感がもどるのではないかと思います。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2010-11-03 13:50)
わたしが10代に聴いていた曲も、ほとんどが洋楽です。あの歌い手たちは、いまどうしてるのでしょうね。nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
by ChinchikoPapa (2010-11-03 13:52)
もやしシュウマイ、美味しそうですね。作ってみたくなりました。
nice!をありがとうございました。>da-kuraさん
by ChinchikoPapa (2010-11-03 13:57)
赤坂の山王寄りに、インド人が経営している小さなカレー店があるのですが、最近気に入って立ち寄るスポットとなっています。向田邦子の「ままや」があった近くですね。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2010-11-03 14:09)
信州はうまい蕎麦に美味なワインと、わたしの好きなエリアのひとつです。
nice!をありがとうございました。>hide-mさん
by ChinchikoPapa (2010-11-03 14:13)
さすがに夏だと、すぐに喫茶店を探してしまいますが、琵琶湖疎水沿いを歩くのはいまの季節がいちばんいいですね。nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2010-11-03 14:15)
音楽は関わる人々の気の合い方、呼吸や感覚の合い方が大きく作用する表現ですね。nice!をありがとうございました。>Webプレス社さん
by ChinchikoPapa (2010-11-03 14:21)
わたしの機械の趣味は、クルマではなくてオーディオなのですけれど、自分でやるとなるとメンテナンスがけっこうたいへんです。オーバーホールに出せば手がかからないのですが、いい金額を取られますね。nice!をありがとうございました。>パブロンさん
by ChinchikoPapa (2010-11-03 16:17)
確かに造船には、衣食住すべてのテーマが関わりますから、家でもビルでも建てられてしまいますね。特に、海岸地域向けの錆びにくい「渚の住宅」「ビーチサイドハウス」なんてコンセプトで、まったく新しい事業がはじめられそうです。nice!をありがとうございました。>イデケンさん(今造ROWINGTEAMさん)
by ChinchikoPapa (2010-11-03 16:52)
きのうは、電車の窓から富士山がよく見えました。「昭和館」からも、山頂部が冠雪した姿がよく眺められたのではないかと思います。^^ nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2010-11-03 17:29)
ちょうど8ビットパソコンで動作していたころのゲームみたいで、シンプルだけれどはまりそうです。nice!をありがとうございました。>toramanさん
by ChinchikoPapa (2010-11-03 19:35)
ふれあいの広場から、大磯郷土資料館をはさんで反対側にある古墳群が興味深いですね。下落合もそうですが、宅地開発でどのぐらいの横穴古墳が消えてしまったのでしょう。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2010-11-03 19:41)
先日、鎌倉の尾根々々を縦走していたら、とある山の山頂にネコがいました。人が近づくと寄ってくるので馴れているのですが、どうやって山頂で暮らしているのか不思議でした。nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2010-11-03 21:01)
鶯谷駅の山側ではなくて、街側を歩くと目のやり場に困ります。w
nice!をありがとうございました。>tamanossimoさん
by ChinchikoPapa (2010-11-04 16:06)
きょうの午前中はずっと野外にいたため、さすがにコートが欲しくなりました。
nice!をありがとうございました。>cocomotokyoさん
by ChinchikoPapa (2010-11-04 17:42)
このごろ、毎日のように富士山がきれいに見えます。まだ、ほんの山頂部分に冠雪がある程度ですね。nice!をありがとうございました。>komekitiさん
by ChinchikoPapa (2010-11-04 17:43)
DADA切手(ロター・トロットさんとのコラボ)、面白いですね。ウルトラ怪獣のダダの顔を、端からのぞかせたいです。w nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
by ChinchikoPapa (2010-11-04 20:08)
食欲がないときは、お酒のつまみの種類を意識的に選んで食べることで、ずいぶん栄養を補給できますね。nice!をありがとうございました。>ひまわりさん
by ChinchikoPapa (2010-11-05 11:18)
偶然が2つ以上重なるのは、きっと「奇跡」なのでしょうね。
nice!をありがとうございました。>うつマモルさん
by ChinchikoPapa (2010-11-05 11:21)
家電はひとつ調子が悪くなると、なぜか他の製品にまで伝染していきますね。お身体おだいじに。nice!をありがとうございました。>bee-15さん
by ChinchikoPapa (2010-11-05 11:27)
横浜の眞葛焼の窯場は、5月29日の横浜空襲で壊滅したのですね。初めて知りました。nice!をありがとうございました。>makuzuさん
by ChinchikoPapa (2010-11-05 11:38)
ご訪問とnice!をありがとうございました。>hetianソウソウさん
by ChinchikoPapa (2010-11-05 16:17)
芥川のオムニバス『少年』の中に、「トロッコ」という作品がなかったでしょうか。妙に印象に残っています。nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2010-11-05 23:55)
以前の記事にまで、nice!をありがとうございました。>ぷりん&りくさん
by ChinchikoPapa (2010-11-12 12:39)