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迎撃戦闘機が椎名町に墜ちてきた。 [気になるエトセトラ]

岩崎家.JPG
 以前、山手線をはさんで下落合の東隣りである高田南町の学習院下で操業していた国産電機へ、池袋上空で撃墜されたB29が墜落Click!したことを記事にした。1945年(昭和20)5月25日の夜半のことで、高田南町と麹町へ墜落するB29の光跡は、小石川の高台からアマチュアカメラマンによって撮影されている。この空襲における米軍の損害は大きく、作戦に参加した250機のうち29機(約12%)が墜落している。だが、下落合の北隣り位置する椎名町(現・南長崎)へ墜ちてきたのは、B29を迎撃した日本の戦闘機のほうだった。
 中沼伸一様Click!は、戦闘機が墜落する様子を、空を見上げながら克明に記憶されているので、夜間ではなく昼間の空襲だったようにも思えるのだが、翌朝、墜落現場まで見にいかれるのでやはり夜間の空襲だったのだろう。同年4月13日夜に旧・神田上水(神田川)から妙正寺川の沿岸、および目白文化村の第一・第二文化村を焼いた山手空襲の第一波Click!か、または5月25日夜に山手一帯が絨毯爆撃を受けた第二波のどちらかだったように思える。
その後、第一文化村と第二文化村は4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる空襲により延焼していることが新たに判明Click!した。
 その後も、この地域は繰り返し空襲を受けるのだが、7月以降はあらかたが昼間の空襲であり、しかもB29ではなく硫黄島からの戦闘爆撃機P51によるものがほとんどだ。また、米軍機の来襲にいちいち日本の迎撃戦闘機が飛び立つような余力も、敗戦が近づくにつれてほとんどなくなるので、戦闘機が墜落したのは春から初夏にかけての早い時期の空襲のように思えるのだ。
 では、どうして墜落する日本の戦闘機がはっきりと見えたのだろう。ひとつは、灯火管制が敷かれていたため当時の地上は暗く、米軍機から落とされた照明弾ないしは焼夷弾による火災によって、墜落する機影が明るく照らされていたと想定することができる。もうひとつは、この空襲が5月25日夜半のものであれば、池袋上空で撃墜されたB29が学習院下へと墜落しているので、炎上して墜ちるB29の機体に照らされて、墜落する戦闘機の機影がよく見えた・・・ということも考えられる。すなわち、南長崎へ墜落した戦闘機は、学習院下へ墜落したB29を攻撃する際に被弾したか、あるいは機体ごとB29へ体当たりをしなかったか?・・・という想定も成り立つのだ。
 中沼様が目撃された様子では、片翼をもぎ取られた戦闘機(機種は不明だが「雷電」あるいは「紫電改」だったろうか)は、クルクルと回転しながらゆっくりと上空から墜ちてきた。“局地戦闘機”なので燃料はあまり積んでいなかったのか、墜落の最中も、また墜落後も炎上はしていない。まるでスローモーションの映像のように、片翼になった戦闘機の機体は回転しながら、仲の湯(戦後は久の湯)の煙突のあるあたりへゆっくりと墜落した。翌日、墜落現場を見にいってみると、仲の湯の罐場(かまば)に機体は墜ちていて、パイロットはパラシュートで脱出したのか搭乗してはいなかった。
落合地域空襲19450525.JPG
雷電.jpg 紫電改.jpg
 1944年(昭和19)の秋から暮れにかけ、目白駅から椎名町(現・南長崎)の練馬街道が合流する二叉路の手前まで約1.5kmの区間、目白通りの南側は幅20mにわたって建物疎開Click!が行なわれている。そこから先の目白通りは建物疎開をまぬがれ、小野田製油所Click!などの近代建築は破壊されずに残ったけれど、かわりに繁華な商店街が形成されていた当時のメインストリート、すなわち目白バス通り(南長崎バス通り=練馬街道)の西側が、岩崎邸の手前あたりまで建物疎開で破壊されている。やはり、目白通りの南側と同様、幅20mにわたって商店の建物が引き倒されているのだろう。その際に、映画館「洛西館」や「長崎市場」Click!などの建物は取り壊されたと思われる。そして、広場となった跡地には、次々と町内防空壕Click!が造られていった。
その後、目白通り沿いの建物疎開は、1945年(昭和20)4月2日から5月17日までの、いずれかの時期に行われているのが判明Click!している。
 わたしは、1947年(昭和22)の空中写真を見て、目白バス通り(南長崎バス通り)の西側はてっきり1945年(昭和20)5月25日の山手空襲で延焼したものとばかり思っていた。確かに、バス通りの西側にも焼夷弾は落ちているのだが、同年3月10日に下町を襲った東京大空襲Click!のように、街全体が焦土と化すことはなかった。特に、バス通りの東側はほとんど空襲の被害にあわず、商店街はそのまま戦後も営業をつづけられた。ただし、バス通り西側の建物疎開でできた広場に掘られた、防空壕のひとつがナパーム焼夷弾の直撃を受け、一家全滅した被害例があったという。
実際に被害の処理に当たられた、shiina Machikoさんの叔父様(当時16歳)の証言によると、ナパーム焼夷弾ではなく250キロ爆弾だった可能性がある。詳細はコメント欄参照。
椎名町(南長崎)1944.JPG
目白通り二叉路.JPG 南長崎近代建築住宅.JPG
 建物疎開で強制移住させられた西側の商店は、戦後になってもほとんど復興せず、中沼様のご記憶によれば、バス通りへもどってきたのはわずか2店舗にすぎなかった。中沼様は、空襲があると上空から降ってくるB29、ないしは迎撃戦闘機の機銃弾の薬きょうを集めるのが楽しみだったそうだ。空薬きょうがバラバラと街中に降りそそぐほど、上空ではB29あるいはP51と日本の戦闘機との間で死闘が繰り広げられていた。わたしの祖父も、撃墜されたグラマンの火薬が抜かれた機銃弾とB29のジュラルミン部品とを、ときどきわたしに見せてくれたものだ。
 戦前は、練馬方面から野菜(主にダイコン)を満載した農家の荷車が、現在の千川通りから南長崎バス通りを抜け、ゆっくりと江戸川橋をめざしていくのどかな風情が見られた。目白通りをまっすぐ東へ進み、目白坂を下って江戸川橋にあった青物市場へ野菜を卸しにいくためだ。空車になった帰路は、子育地蔵があった二叉路から南長崎バス通り(練馬街道)へ入ると、茶店などに入って一服し、通り沿いに開店していた岩崎種苗店Click!で、次季の作付けに必要な野菜の種や苗を仕入れては、荷車は練馬方面へと帰っていった。ダット乗合自動車Click!(1936年からは東環乗合自動車)のお尻に、「岩崎種苗店」の交通広告が見られたのも、ちょうどそのころのことだろう。
岩崎種苗店広告.jpg 木炭バス.jpg
 でも、戦時中は乗合自動車(バス)のお尻に、そのような広告や看板を掲載する余地などなかった。なぜなら、ガソリンで走る乗合自動車は燃料不足から木炭バスへと変わり、車体のお尻には木炭を燃やしてガスを発生させる、大きな木炭ガス発生装置が据えつけられていたからだ。

◆写真上:戦前に「岩崎種苗店」を経営していた、バス通り沿いの旧家・岩崎家の現状。
◆写真中上は、1945年(昭和20)5月25日夜半の山手空襲で想定した、B29と迎撃戦闘機との墜落の様子。東京湾岸の高射砲陣地を避けたのか、B29の編隊は大きく廻りこんで北側から来襲した。は、当時の迎撃戦闘機で“局地戦闘機”と呼ばれた「雷電」()と「紫電改」()。
◆写真中下は、1944年(昭和19)に陸軍によって撮影された最後の空中写真で、空襲直前の椎名町(現・南長崎)地域をとらえたもの。いまだ建物疎開が行なわれていないので、同年の早い時期の撮影だと思われる。下左は、子育地蔵尊があった二又交番あたりの現状。下右は、空襲の被害をほとんど受けなかった南長崎バス通りの東側に残る近代建築住宅。
◆写真下は、東環バスのお尻にみえる「岩崎種苗店」の広告。は、戦時中の木炭バス。


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アヨアン・イゴカー

>局地戦闘機”なので燃料はあまり積んでいなかったのか、墜落の最中も、また墜落後も炎上はしていない
半分、ガス欠だったのではなかったのでしょうか?いずれにしても、気の毒な状態で迎撃したわけですね。

by アヨアン・イゴカー (2010-11-09 00:11) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントとnice!をありがとうございます。
片翼がもがれて墜落しているのに、まったく火災が発生していないのは、明かに少量の燃料しか積んでいなかった証明ですね。滞空時間を長くし、B29をしつこく迎撃することを想定して燃料を積んでいたとすれば、地上に落下した際に引火している可能性が高いように思います。機銃弾を撃ち尽くしたら、B29の翼に体当たりしてパイロットは脱出できればそのまま降下する・・・というような、メチャクチャな「作戦」だったような気もします。
by ChinchikoPapa (2010-11-09 10:37) 

ChinchikoPapa

1枚として同じ切手がない、鮮やかなナカソネさんの作品ですね。
nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
by ChinchikoPapa (2010-11-09 10:39) 

ChinchikoPapa

『ITARIAN BALLADS』は、発売を待ちかねて買いました。データでも、持ち歩いて聴いているアルバムの1枚です。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2010-11-09 10:46) 

ChinchikoPapa

確かにSo-netのブログ・カテゴリーは、しっくりこないですね。いっそのこと、分類をやめてしまえば・・・とも思ったりします。nice!をありがとうございました。>tamanossimoさん
by ChinchikoPapa (2010-11-09 10:57) 

ChinchikoPapa

四谷見附の橋が八王子にあるのを、初めて知りました。
nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2010-11-09 11:00) 

ChinchikoPapa

プレクトランサの花弁をよく見ると、蘭の花によく似てますね。
nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
by ChinchikoPapa (2010-11-09 11:07) 

ChinchikoPapa

カレンちゃんは根性があって、なんだかグンと伸びそうな気がしますね。
nice!をありがとうございました。>Webプレス社さん
by ChinchikoPapa (2010-11-09 11:15) 

ChinchikoPapa

人間は「多面体」である・・・と思うわたしも、『ルームメイト』が面白そうです。
nice!をありがとうございました。>ひまわりさん
by ChinchikoPapa (2010-11-09 11:19) 

ChinchikoPapa

わたしの周辺では、専門職の「合理化」が目立って増えています。
nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2010-11-09 11:36) 

ChinchikoPapa

わたしも仕事で、工場や研究所を見学することがありますが、やはり開発や製造の現場というのは熱気にあふれていていいですね。nice!をありがとうございました。>篠原さん(今造ROWINGTEAMさん)
by ChinchikoPapa (2010-11-09 15:04) 

sig

こんにちは。
プラモデルでは、ゼロ戦の次に紫電改が好きでした。のちに一時カネボウの「紫電改」のお世話になりながら、なんで紫電改、という感じでおりました。笑
by sig (2010-11-09 15:52) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
カネボウの「紫電改」は、その前に「紫電」というバージョンがあったのでしょうか? それとも、最初から「紫電改」だったとか。^^;
飛行機のプラモデルはあまり作らず、もっぱら船ばかり作っていた子ども時代でした。いちばん作っていて楽しかったのは、「長門」でしょうか。w 
by ChinchikoPapa (2010-11-09 18:38) 

ChinchikoPapa

自身で描いた絵が、好きなかたちのタイルになるのは嬉しいですね。
nice!をありがとうございました。>イタリア職人の手作りタイルさん
by ChinchikoPapa (2010-11-09 20:00) 

SILENT

湘南平の上にも米軍の相模湾上陸に備えてか
平塚火薬廠を守るためか高射砲が設置されたそうで
今も礎石が残ってますね。高射砲は爆風で機体に衝撃を与えるのが狙いで、飛行機には届かなくても命中しなくともと聞きましたが本当ですかね
by SILENT (2010-11-09 20:03) 

ChinchikoPapa

いまの季節に大磯へ出かけると、「宿場祭り」に出会えたのですね。先日、新しくオープンしました駅前のレストラン「ヴェントマリーノ」の南東隣り、大運寺の境内横(墓地の横といったほうがいいですw)に、美味しいコーヒー店を見つけました。アンティークで統一されていて、居心地がよかったです。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2010-11-09 20:07) 

ChinchikoPapa

SILENTさん、コメントをありがとうございます。わたしと同時に、書かれていたようですね。^^
平塚に海軍の火薬工廠があったせいか、湘南平の山頂に設置されたのは、12.7cm高角砲(連装?)だったというのを聞いたことがあります。いわゆる高射砲陣地を造って、上空を通過する敵機に「弾幕」を張るわけですが、なかなか爆発の破片さえ当たらなかったといいますね。
大磯は、湘南平よりも低く艦載機やP51が街中へ来襲したので、湘南平の対空陣から敵機を見下ろして口惜しがっていたというお話は、その昔、子どものころにお年寄りから聞いたことがありました。
by ChinchikoPapa (2010-11-09 21:09) 

ChinchikoPapa

うまそうな刺身ですね。切り身の微妙な切り方やつくり方によって、刺身はうまくもまずくもなるのですが、どれも美味しそうです。nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2010-11-09 23:46) 

ChinchikoPapa

熊本といいますと、「ほんなこつ、とんこつラーメンがよかね」となるのですが、マー油入りというのが変わってますね。nice!をありがとうございました。>da-kuraさん
by ChinchikoPapa (2010-11-09 23:51) 

ChinchikoPapa

すっかり遅くなってしまいましたが、ブログ1周年おめでとうございます。これからも、楽しく拝見させていただきます。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2010-11-10 10:22) 

ChinchikoPapa

リボンというと、子どものころの独特な空気感と、女の子の髪から香る陽なたのリンスの匂いを思い出します。nice!をありがとうございました。>cocomotokyoさん
by ChinchikoPapa (2010-11-10 10:30) 

ChinchikoPapa

坂道の多い崖線地域ですと、電動自転車への負荷が高く寿命が短いのでしょうか。nice!をありがとうございました。>dorobouhigeさん
by ChinchikoPapa (2010-11-10 11:14) 

komekiti

久々にコメントさせて頂きます。
紫電改の件で、うろ覚えながら書かせて頂きます。
紫電は元々水上戦闘機の強風から水切りを撤去して着陸用の両脚を装備するように変更したものだそうです。
しかし、紫電の問題点として水上戦闘機用に胴体の真ん中部分に翼がある中翼式だったため、両脚が長く戦争後半の資材の劣化などにより着陸時に脚を折る事故が多発。また、中翼配置は搭乗員の下方視界を妨げやすい等の理由により設計変更し、零戦などと同じ低翼式に変更しました。この低翼式に変更された機体を確か「紫電改」としたと記憶しています。
by komekiti (2010-11-10 14:03) 

ChinchikoPapa

komekitiさん、コメントとnice!をありがとうございます。
「紫電」と「紫電改」の詳細な解説を、ありがとうございました。もともと水上戦闘機として開発されたんですね。
いつか米軍の資料を読んでいたときに、「紫電改」が登場したあともしばらくの間、同機を「ゼロ戦」の新バージョンと解釈していた時期があったようで、報告書には「紫電改」のことを「ゼロ」としているものが多いようです。確かに、ちょっと見は似ていますが、最高時速が600キロとゼロ戦よりも速かったんですね。
by ChinchikoPapa (2010-11-10 16:00) 

siina machiko

先月は、下落合の二間道路について書かれたページを紹介くださりありがとうございました。昭和14年10歳で椎名町に転居し落合第一小学校から長崎第三小学校(現椎名町小学校)に転校した叔父が戦中、祖父母と叔母3人と実父(叔父の兄)とともに住んでいた家(葛が谷通りの北側の富士美写真館よりさらに少し北側)のすぐうしろの家(写真館とのちょうど間あたり)が焼夷弾の直撃を受けその家の一家5人が亡くなったそうです。当時16歳だった叔父も鳶口を持って救援に加わったそうですが、その家の娘さんが荷物を取りに自宅に戻った瞬間に直撃を受け遺体はバラバラに吹き飛ばされ叔父は庭の木の枝にひっかかった腕を鳶口を使いとりはずしたそうです。そして叔父達の家は直撃は受けなかったけれどもお手洗いの下にある小さな窓から爆風が入り住めなくなりその辺一帯が取り壊しされたので転居しそれまで別のところに住んでいた父と母もいっしょにあのPapaさんにいただいた「昭和30年の地図」に名前の書かれた家に一家全員で暮らし始めたとのことです。その空襲のとき父も救援にあたっていたはずですが、あまりに生々しい為か私には家は焼けなかったけど向こう側に爆弾が落ちたという以上には詳しい話はしませんでした。母には終戦直後に芋を収穫したり食料を買出ししても父の妹や弟などいて大家族の為すぐになくなってしまいたいへんだった話しは時折きいていましたが。
by siina machiko (2010-11-10 16:39) 

ChinchikoPapa

siina machikoさん、貴重なコメントをありがとうございます。
以前、お話いただきましたドラム缶の食料をちょうだいしていると、巡査がサーベルを抜いて追いかけてきたエピソード、なぜか「目」に焼きついて離れません。職務とはいえ、真夏の白い制服姿(戦争末期ですので、すでにカーキ色の制服に鉄かぶと姿かもしれませんが)でサーベルをふりまわし、ヒーヒー言いながら追いかけて、結局みんな逃げられてしまう・・・という構図を思い浮かべると、巡査には悪いですがつい笑ってしまいます。
中沼様からうかがいました、直撃弾による一家全滅のお話と、叔父様が話されました一家5人全滅のお話とは、おそらく同一の事件かと思います。身体が吹き飛ばされているところをみますと、わたしも焼夷弾とうかがっていますが、実はそうではなく、B29が焼夷弾攻撃に「混ぜて」使用した250キロ爆弾の直撃のように思われます。当時の家庭では、家の庭先に家族人数分の防空壕が造られていたはずで、家と防空壕の双方が直撃弾により吹き飛ばされたものでしょうか。防空壕から出て、娘さんが家へと戻った際に、敷地全体が被害にあった可能性が高いように思えます。
叔父様も、当時の様子がまざまざとよみがえってしまうのでしょう、やはり詳しい話はお嫌なのでしょうね。うちの父も義父も、当時の話は進んでしたがりませんでした。そのかわり、戦後の食糧難の時代の話は、イヤというほど聞かされました。わたしが食べ物の好き嫌いを言ったりしますと、特に耳ダコで聞かされましたね。^^; いまでは、時おり思い出すと子供たちにも話して聞かせられる、とても貴重なかけがえのない話ばかりだと思っていますが・・・。
by ChinchikoPapa (2010-11-10 17:18) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!をありがとうございました。>mwainfoさん
by ChinchikoPapa (2010-11-10 18:16) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>galapagosさん
by ChinchikoPapa (2010-11-11 10:49) 

ChinchikoPapa

最近、銭湯が建て替えになるとビル形式になり煙突がなくなるので、見つけにくくなりました。nice!をありがとうございました。>漢さん
by ChinchikoPapa (2010-11-11 12:10) 

ChinchikoPapa

秋なのに、陽射しの影はまだクッキリしていて暑さを思い出させてくれます。
nice!をありがとうございました。>りぼんさん
by ChinchikoPapa (2010-11-11 19:21) 

ChinchikoPapa

整体や指圧の経験はありますが、顔面マッサージは未経験です。リンパの流れがよくなりそうですね。nice!をありがとうございました。>ぷりん&りくさん
by ChinchikoPapa (2010-11-12 12:38) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>moriさん
by ChinchikoPapa (2010-11-13 00:44) 

日本科技大野球部員

墜落したのは陸軍の三式戦闘機「飛燕」の可能性もあると思う。
by 日本科技大野球部員 (2010-12-07 23:29) 

ChinchikoPapa

日本科技大野球部員さん、コメントをありがとうございます。
高高度で昼間迎撃用の「飛燕」が、夜間に2,000~3,000mほどの低空で行なわれた1945年5月25日深夜の空襲に投入されたという話は、これまで聞いたことがないのですが、そのような証言がどこかに残ってましたらご教示いただければ幸いです。
by ChinchikoPapa (2010-12-08 10:07) 

日本科技大野球部員

陸軍の3式戦闘機「飛燕」の可能性は無い?
by 日本科技大野球部員 (2010-12-08 23:19) 

日本科技大野球部員

2重で書き込みしてしまいました。
スミマセン
by 日本科技大野球部員 (2010-12-08 23:21) 

ChinchikoPapa

日本科技大野球部員さん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
さあ、わたしにも何ともいえないです。1945年(昭和20)5月の段階で、迎撃戦闘機の機種を選んで飛ばすほど、“贅沢”な作戦上の余裕があったのかどうか?・・・というテーマもありますよね。
空襲の当初(昭和19年秋ぐらいから)は、確かに「飛燕」は昼間の高高度迎撃用として位置づけられていたのかもしれないですが、それから半年後には、「飛べる戦闘機があれば全部出せ!」ということだったかもしれません。^^; そのあたりの記録が、なかなか見つからないんですよね。もし、どこかで目にされましたら、ぜひお教えいただければと思います。
by ChinchikoPapa (2010-12-08 23:46) 

umi-taki

祖父が国産電機でマグネット設計していましたが病死したあと、残された祖母と娘三人を不憫に思ったか?国産電機は会社の近くにあったと社員寮の寮母として雇ってくれたそうです。戦争が進むにつれ社員寮も大きな二棟目が作られ、銀座や京橋あたりに就職していた若い男の子らが寮に入り国産電機の軍事工場で働きながら赤紙を待つという日常だったそうです。14〜5歳かもう少し若年の子供達だったと87の母は思い出します。寮はどの辺りだったのでしょう?学習院とは線路を挟んで反対側だったと聞きますが、詳しくはわかりません。国産電機にB29が墜落したのも初めて知りました。祖父や祖母の苦労と、母たちの寂しさや悲しさが写真を見て、ちょっと分かった気がしました。ちなみに自分は目白の美術予備校の通い美大に進学しました。久しぶりに目白を訪ねたくなりました。ありがとうございました。
by umi-taki (2016-09-17 00:52) 

ChinchikoPapa

umi-takiさん、貴重なコメントをありがとうございます。
戦争が激しくなるにつれ、ずいぶん若い子たちが製造現場へ動員されていたんですね。こちらでは、1945年(昭和20)5月25日にB29が墜落し工場が破壊されるまで国産電機で働いていた、下落合に住む松尾様の事例をご紹介してきました。
同年5月17日に米軍の偵察機によって撮影された、墜落で破壊される8日前の国産電機をとらえた空中写真を掲載しています。よろしければ、ご参照ください。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2015-03-25

国産電機の寮が、山手線をはさんで学習院の反対側にあったということは、下落合に建っていた可能性が高そうですね。1938年(昭和13)に作成された「火保図」を見ても見つかりませんが、太平洋戦争の開戦直前に、既存のアパートを丸ごと買い上げているのかもしれません。ちょっと注意してみます。
この記事のほか、検索窓に「国産電機」と入れて検索されると、ほかにもいくつかの記事が見つかるかと思います。お時間のあるときにでも、ご参照ください。

by ChinchikoPapa (2016-09-17 10:22) 

umi-taki

目白界隈のさまざま詳しい情報ありがとうございます。痴呆が進んだ母に話したら「私の青春の地」などと呟きとても喜んでいました。国産電機は戦中戦後をなんとか生き残ってきたものの、今はドイツのマーレジャパンとなったようです。
 さて私事ですが、離婚した女房の叔父が芸大油科卒でフランスに留学しボナールの弟子になりました。ボナールから2枚水彩画を記念にもらって帰国しましたが結核で夭折しました。その結核菌は、親友で先輩だった中村彝を最後までそばで看病して、貰ってしまったのもだったそうです。
 自分の手元に、その叔父の水彩画が一枚残っています。返そう返そうと思っているのですが、なぜか忘れたりチャンスがなかったりで、そのままになっています。
 絵の具も当時のもので、さほど質も良くなく絵も平凡な風景ですが因果は不思議です。自分も美術を志し、現代美術の作家として生きてきたからです。いつも励まされているように気になります。夭折した全く無名の作家と縁があり、その無念を思うと、まだ頑張らないといけないと思いますね。
 ボナールに日本人の弟子がいたとこは日本美術史には全く記述はありません。ボナールの全画集を見ていると、白人じゃないような人物が描かれているようにみえるものもありますが、ナビ派ですから、贔屓目でそのように見えるのかもしれません。

by umi-taki (2016-09-18 14:51) 

ChinchikoPapa

umi-takiさん、重ねてコメントをありがとうございます。
お母様に、少しでも喜んでいただければ幸いです。
中村彝の身近にいた画家(あるいは画家志望の学生・弟子たち)は、たいがい長生きしているのですが、そのゆくえや生涯がイマイチハッキリしないのが、佐渡からやってきた画家志望の河野輝彦がいます。元大工の彼は、東京美術学校も出ていないし、結局、画家にはなれなかったかもしれないのですが、彝の身のまわりの世話を死ぬまでやいていた人ですね。やはり下落合の佐伯アトリエの北隣りに住んだ、荏原製作所の酒井億尋と濃いつながりがあるため、ちょっと気になる存在なんです。
ボナールに師事した画家で、若くして病死した画家に九州出身の楠目成照という人がいますけれど、この人は渡仏したまま現地で客死しているので、生きたまま帰国はしてないようですね。ただ、病床を見舞ったボナールから、作品を何点か譲り受けているようです。
by ChinchikoPapa (2016-09-18 19:16) 

umi-taki

よくごぞんじですね、ずばりその楠目です。
驚きました。一点は小倉の美術館にあると思います。このこと知る人は、ほとんど居ないと思います。親族でさえ知らない人も居ますから、一点は土佐(土佐が一族の本家=楠木正成の家来と言われてます)の楠目家本家が持って行ったと思います。
by umi-taki (2016-09-20 21:58) 

ChinchikoPapa

umi-takiさん、重ねてコメントをありがとうございます。
楠目成照は、東京美術学校では佐伯祐三や山田新一、二瓶等たちと同級生です。ひょっとすると、中村彝の死後すぐに渡仏して、そのままフランスで学んでいる途中、27歳の若さで死去したものでしょうか。死因は、結核ということになるでしょうか。
中村彝の周辺資料に、楠目成照の名前が見当たらないのですが、ひょっとすると同級生だった二瓶等が下落合に建てた、大きなアトリエ付き住宅に寄宿して、中村彝アトリエへ通っていた可能性もありますね。二瓶等は、中村彝からじかに作品を譲ってもらうほど親しく、彝アトリエの常連でしたので…。
いずれにしましても、楠目成照が下落合に住んでいた可能性が高そうです。
by ChinchikoPapa (2016-09-20 23:07) 

umi-taki

死因は結核ですね。彝との前後のことは良くわかりません。
ボナールは北九州の美術館に状態の良い方が寄贈されていましたね。寄贈は15年以上前かもしれません。楠目成照の姉妹が三人東京や神奈川に住んでいたので、シゲテル兄さんは下落合に居た可能性はあります。妹の一人は抽象画家、一人は琴奏者、一人は「生花むらさき会」を起こし家元になった「楠目チズ」で晩年は皇后にも教えてました(勿論、教えるのは侍従にで、侍従が皇后に伝えますが)この妹も若いころ結核でした。
by umi-taki (2016-09-22 16:45) 

ChinchikoPapa

umi-takiさん、コメントをありがとうございます。
コメントに「九州出身」と書いてしまいましたが、楠目成照は土佐の出身でしたね。いろいろご教示くださり、ありがとうございます。おそらく、下落合464番地(中村彝アトリエ)のごく近くに住んでいたんじゃないかと思います。ちなみに、楠目の同級生で彝アトリエにも頻繁に出入りしていた二瓶等は、彝アトリエの西270mのところにアトリエを建てて住んでいました。
ちょっとこれから、注意して資料類や地図をチェックしてみますね。
by ChinchikoPapa (2016-09-22 20:39) 

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