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佐多稲子のルポ・戸山アパート1953年。 [気になるエトセトラ]

水道タンク.JPG
 山手線をはさんで広大な敷地を占有し、近衛騎兵連隊Click!をはじめ、陸軍の幼年学校Click!、同軍医学校、同射撃場Click!、同練馬場、同技術本部Click!、同科学研究所などが建ち並んでいた戸山ヶ原には、戦後ほどなく住宅不足を解消するために、国によって戸山ヶ原住宅が、東京都によって戸山アパートが建設されている。特に戸山アパートは、日本で初めての本格的な“団地”で、高度経済成長の時代に各地で作られる団地の先駆けモデルとなったアパート群だ。
 当初、戸山ヶ原Click!には国営の野球場が建設される予定だったが、射撃場を接収しているGHQから、これだけ住宅が不足しているのになんで野球場?・・・という異議が出て、少ない面積で多くの人々が住める集合住宅を建設するよう、改めて「指示」が出された。こうして、1棟に24世帯を収容できる戸山アパート(戸山ハイツ)が、1953年(昭和28)までに46棟ほど完成している。アパートの部屋構成と賃料は同年現在、6畳+4畳半(1,210円)、10畳洋間+3畳(1,300円)、6畳+6畳(1,490円)、8畳+6畳+3畳(1,690円)だった。ただし、戦後すぐに建設された旧式のアパートのほうには、6畳+4畳で700円という格安物件もあったらしい。
還暦ぱぱさんより、山手線の線路際のアパートが「戸山アパート」で、戸山ヶ原東端の箱根山寄りの住宅群が「戸山ハイツ」とのご教示をいただいた。タイトルのみ訂正させていただいている。
 もちろん、電気やガスは完備していたが、水道は地下水を汲み上げて背の高い水道タンクに一時貯え、その高低落差を圧力にして各戸に供給する、大正期の“文化村”方式をそのまま踏襲していた。荒玉水道Click!はとうに敷設を終えていたけれど、わざわざ大規模な工事をして水道を引くまでもなく、清廉な地下水があちこちで湧いていた戸山ヶ原では必要性を感じなかったのだろう。ところが、住民はこの飲み水で辛酸をなめることになる。
 当時の東京は、送電設備の信頼性が低く、故障や事故によりいまだ停電が多かった。停電すると、水道タンクの汲み上げポンプが止まり、同時に各戸への給水がストップしてしまう。また、水道タンク自体の故障も多かったようだ。だから、当時の戸山アパートの住民は、水の出るときに汲み置きをして非常時に備える・・・というのが日課だったらしい。さらに、それに輪をかけてたいへんだったのが、当時の電力会社で結成されていた労働組合による電産ストライキだ。ストライキが何日もつづくと、戸山アパートは干上がってしまう。1階や2階の住民はまだいいが、エレベーターのない3階や4階の住民たちは、生活水を毎日運び上げなければならなかった。
戸山ハイツ水道タンク1953.jpg 戸山ハイツ夜景1953.jpg
 戦前から落合地域の周辺に住んでいた佐多稲子(窪川稲子Click!)は、1953年(昭和28)に発行された『中央公論』5月号の「東京通信」に、「戸山アパート街」というルポルタージュを執筆している。
  
 それだけ言へば松や檪の林もあつて、早稲田の学生の日向ぼつこの場にも、近くの子どもたちの遊び場所にもなり、日曜などは弁当持参の家族づれの散歩道にもなつた戸山ヶ原は、高田馬場を通過する電車の窓からも視野がひらけて眺められたものだ。終戦直前までこのすぐ下に住んでゐた私にも、散歩に出てきて、騎兵の訓練を見たりしたなじみの場所である。激しい空襲のあつた夜は、隣組の子どもをこの原へ避難させたりもした。ここにアパートが建ちはじめた頃、そのことを知つてゐながら私は、ある夜高田馬場駅を出た電車の中で、はつとして、自分がどこへ来たのかとうろうろ見まはしたことがある。かつて、夜は、遠くに町の灯をのぞむ闇の空間だつた場所に、窓々に灯を点じた巨大な建物が線路すれすれにそそり立つてつづいてゐた。
  
 近隣の人たちとって、戸山アパートは住宅ではなく、突然出現した高層ビル群のような眺めに見えていたようだ。アパートの自治会は早々に、近隣情報を共有するための「戸山アパートニュース」という定期刊行物を発行しているが、当時の住民たちのまとまりやコミュニケーション、協調性はあまりよくなかったらしい。同一の棟でも、4階まで上る同じ階段の利用者は、出会えば挨拶はするけれど、ほとんど近隣同士という交流は生まれなかったようだ。
戸山ハイツ1953.jpg 戸山ハイツ遊び1953.jpg
 佐多稲子のルポでは、「あまり御近所に立ち入つてはいけない、といふ、おのづからのアパート生活者の信条みたいなものなのですよ」と、居住者である主婦たちの言葉を伝えている。今日ではどこでも見られる、横のつながりのないマンション生活のような光景が、すでに戦後すぐの戸山アパートで発生していた。佐多は住民たちの声を、細かくていねいに拾い集めている。
  
 こざつぱりとした白髪の老人は、「縁側のたのしみがない。盆栽をつくつても、上からものを落して壊される」と嘆いた。青いものと土の感じの不足は若い人たちにも同じやうにあつた。老人はつづけて「御婦人にはしかし、らくでござんせうな。家の中の仕事がござんせんもの。」/格子戸を磨く手数は要らないにちがひない。/若い夫は「妻がヒステリイになるやうな気がする。庭がなくて、狭い感じで、閉ぢこめられてゐるような強迫観念で汗をかく」と語つた。/年配の主婦は、「たしかに台所に立つ時間は少くてすみますね。三十分で片づきますもの。だから、運動不足でこの頃太つて困りますわ」といふ。主食の配給は四階まで運んでくれる。また御用ききも上がつてくる。
  
戸山ハイツ1963.JPG
戸山山荘鬼瓦.jpg 戸山公園.JPG
 山手線を挟んで東側の戸山ヶ原南部、同じく東京都によって建てられた戸山ハイツ東部には、とんでもない遺物が眠っていた。戸山ヶ原は、もともと尾張徳川家の「戸山荘」と呼ばれた、広大な回遊式庭園を備えた下屋敷跡で、明治に入り陸軍が接収して軍用地にしたものだ。だから、地域のあちこちに徳川屋敷にからむ遺物や物語が眠っている。現在でも、タヌキが出没する戸山公園のことは、以前にも記事Click!にしている。その戸山ハイツの一画に、戸山山荘に建てられていた屋敷の鬼瓦が保存されていたのだ。住民の方によれば、戦前に陸軍から保管を依頼されたものだそうで、戦災にも破壊されずに大きくて見事な鬼瓦がそのまま残されていた。
 鬼瓦が“発見”されたのは、いまから44年前の1966年(昭和41)のことだけれど、1977年(昭和52)に出版された国友温太『新宿回り舞台』によれば、所有者は区での保管や寄贈をかたくなに拒んだという。戦争を挟み、貴重な文化遺産を必死で守り通してきた住民の方にしてみれば、いまさら“発見”したと騒がれて寄贈するのが当り前のような顔をされたら、ちょっとヘソを曲げてみたくもなったのかもしれない。その後、この貴重な文化財がどうなったかはさだかでない。

◆写真上:山手線の東側に建てられた、戸山ハイツに残る現在の給水タンク。
◆写真中上は、佐多稲子が取材した当時の水道タンク。は、1953年(昭和28)現在の夜景。
◆写真中下:戸山ハイツに建てられたアパート群()と、住んでいる子供たちの遊び()。
◆写真下は、1963年(昭和38)に撮影された戸山ハイツ西部の空中写真。下左は、1966年(昭和41)に“発見”された戸山山荘の鬼瓦。下右は、鬼瓦があるお宅の北側にある戸山公園。
はにわじいさんより、『中央公論』に掲載された戸山アパートの水道タンクが、同アパートのものではなく、実は国家公務員住宅の「新宿住宅」に建っていた水道タンクであるとのご教示をいただきました。(コメント欄参照) 取材をした佐多稲子やカメラマン、あるいは編集者が「戸山アパート」と「新宿住宅」とを混同していた可能性が高そうです。下記の空中写真は、1963年(昭和38)に撮影された空中写真にみる新宿住宅の水道タンクです。
新宿住宅水道タンク.JPG
戸山アパート水道タンク1.JPG 戸山アパート水道タンク2.JPG


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コメント 39

ChinchikoPapa

昔からクッキングスクールというのへ一度通ってみたいのですが、いまだ果たせないでいます。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2010-11-15 10:36) 

ChinchikoPapa

日比谷公園の旧・管理棟は、明治末の建築だそうですが、まるで大正期の文化住宅のような意匠をしていますね。nice!をありがとうございました。>komekitiさん
by ChinchikoPapa (2010-11-15 10:42) 

ChinchikoPapa

高校時代から凝りはじめたアナログ一眼レフカメラの時代、わたしもレンズ欲しい病にとりつかれてしまい、結局55mm標準(F1.2)のほか、6本も交換レンズを持つハメになってしまいました。nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2010-11-15 10:46) 

ChinchikoPapa

ときどき腰痛になるのですが、ヘルニアではなく無理で不自然な姿勢を長時間とりつづけるとなる、いわゆる「ぎっくり腰」(筋肉および神経をいためる)系のものだそうです。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2010-11-15 10:52) 

ChinchikoPapa

現在はCGでさまざまな処理ができますが、いじりすぎると瑞々しさや生々しさが失われて、インパクトのない画像になってしまいますね。nice!をありがとうございました。>りぼんさん
by ChinchikoPapa (2010-11-15 10:55) 

ChinchikoPapa

服を脱がせてみなければ、リカちゃんとツイストちゃんのちがいはわからないわけですね。w nice!をありがとうございました。>tamanossimoさん
by ChinchikoPapa (2010-11-15 10:57) 

ChinchikoPapa

いろいろなものを塗ったりつけたりしなければならず、女性はタイヘンだねというと、男は毎日ヒゲを剃らなければならずタイヘンだよね・・・、確かに。nice!をありがとうございました。>ぷりん&りくさん
by ChinchikoPapa (2010-11-15 11:03) 

ChinchikoPapa

あちこちで、音楽会が盛んな季節です。「ジャンニ・スキッキ」は大林宣彦監督が映画のBGMで使用してから、日本でも人気が高くなった曲ですね。nice!をありがとうございました。>Webプレス社さん
by ChinchikoPapa (2010-11-15 11:10) 

ChinchikoPapa

下見板張りの外壁で、確かにウェハースに着色したように見える美味しそうな建物です。w nice!をありがとうございました。>thisisajinさん
by ChinchikoPapa (2010-11-15 11:13) 

ChinchikoPapa

少し前まで、さまざまな色のベゴニアが街のあちこちで咲いていました。
nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
by ChinchikoPapa (2010-11-15 11:16) 

ChinchikoPapa

このアルバムは、クレジットの「ギル・エバンスオーケストラ」に惹かれて買いましたが、あまり聴いてないですね。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2010-11-15 11:22) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!をありがとうございました。>ラクダさん
by ChinchikoPapa (2010-11-15 13:59) 

sig

こんばんは。
私が出てきた頃には戸山ハイツの住宅群はまだありましたが、行ったことはありませんでした。この記事を読んで、よく見届けておけば良かったと思います。
by sig (2010-11-15 17:32) 

ナカムラ

窪川稲子さんは戸塚の妙正寺川と神田川の合流付近に住んでいらしたみたいですね。偶然ですが、3日ほど前に昭和19年刊行の『若き妻たち』の初版を入手しました。まだ読んでいないですが、楽しみです。
by ナカムラ (2010-11-15 18:42) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
1970年代前半まで、陸軍戸山学校のコンクリート施設がそのまま残っていたようなのですが、わたしも行ったことがなく見損なってしまいました。また、カマボコ状をした射撃場のコンクリート廃墟も、その一部がずいぶんあとまで残っていたそうなのですが、これまた見損なっています。見たいときに、消えてなくなっている「風景」が多いですね。
by ChinchikoPapa (2010-11-15 19:33) 

ChinchikoPapa

ナカムラさん、コメントとnice!をありがとうございます。
わたしの好きな窪川稲子さん・・・なのですが、いけませんねえ、タイトルが気になる『若き妻たち』は未読です。
現在の、戸塚第三小学校の近くに住んでいたんですね。1930年協会の会員で、1926~27年に佐伯アトリエへ通っていた藤川栄子アトリエのごく近くのようです。だから、窪川稲子に藤川(坪井)栄子に、もうひとりの壺井栄のトリオは誘い合って、おそらく尾行つきの落合散歩を楽しんでいたんですね。w
by ChinchikoPapa (2010-11-15 19:50) 

ChinchikoPapa

チキン料理に目がないわたしは、さっそく試してみたくなりました。
nice!をありがとうございました。>da-kuraさん
by ChinchikoPapa (2010-11-15 20:47) 

ChinchikoPapa

8mほどのシングルスカルは、ほんとに美しい艇ですね。
nice!をありがとうございました。>イデケンさん(今造ROWINGTEAMさん)
by ChinchikoPapa (2010-11-15 23:16) 

ChinchikoPapa

わたしも古いビデオを整理するとき、中身を確認しながら作業をすると、つい長時間見入ってしまうことがあります。20年前の下落合や大磯が映ってると、なおさらですね。w nice!をありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2010-11-16 12:26) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>mwainfoさん
by ChinchikoPapa (2010-11-16 12:28) 

ChinchikoPapa

わたしは、15年ほど前までマンション暮らしだったのですが、戸建てになってから労働量が圧倒的に増えています。これからの季節、毎週つづく大きなケヤキの落ち葉との「闘い」を考えると、今からげんなりしますね。(汗) nice!をありがとうございました。>ponpocoponさん
by ChinchikoPapa (2010-11-16 17:48) 

ChinchikoPapa

どの映画も懐かしいですね、学生時代にあらたか観賞した作品ばかりです。nice!をありがとうございました。>galapagosさん
by ChinchikoPapa (2010-11-17 21:53) 

ひまわり

最初の写真の給水タンク、見覚えがあります。
by ひまわり (2010-11-17 23:18) 

ChinchikoPapa

ひまわりさん、コメントとnice!をありがとうございます。
水道タンクの姿も、時代とともにずいぶん変わっているようですね。最上段の写真は、きっと3代目ぐらいの姿なのかもしれません。
ちょうど記事を拝見しながら、日本酒を飲んでいたところでした。w
by ChinchikoPapa (2010-11-17 23:39) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>漢さん
by ChinchikoPapa (2010-11-18 12:01) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2010-11-18 15:55) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2010-11-21 01:22) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>bunchan0さん
by ChinchikoPapa (2010-11-28 22:45) 

還暦ぱぱ

戸山ハイツと戸山アパートを混同されているようです。箱根山周辺が木造の戸山ハイツで、線路わきが鉄筋の戸山アパートです。共に都営住宅です。
昔、戸山ハイツに住んでました。家賃は当時770円
決してお安くはなかったと親に聞きました。
by 還暦ぱぱ (2011-01-01 19:08) 

ChinchikoPapa

還暦ぱぱさん、ご指摘をありがとうございました。
戸山ヶ原でも、線路よりのアパートが「戸山アパート」だったんですね。その後、同様のコンクリートアパートが箱根山周辺(国立東京第一病院寄り)にも建ってますので、双方の総称が「戸山アパート」だと思っていました。ご教示ありがとうございます。文中に註釈を入れさせていただきます。
by ChinchikoPapa (2011-01-01 20:16) 

はにわじい

こんにちは。
たびたび楽しく拝見させていただいております。
このエリアに長年住んでおりました。

『写真中上:左は、佐多稲子が取材した当時の水道タンク。』
に写っている水道タンクは、本記事で話題とされている「都営戸山アパート」のものではなく、山手線の線路すぐ西横に並んでいた国家公務員住宅の「新宿住宅」のものです。

「新宿住宅」が昭和60年頃に取り壊されたのに伴い、給水棟も使命を終えました。
「新宿住宅」の跡地には、現在は「西戸山タワーホームズ」という名称で、3棟の高層マンションが建っております。

記事中、佐多稲子により「窓々に灯を点じた巨大な建物が線路すれすれにそそり立つてつづいてゐた。」という描写で描かれているのは、線路からの建ち位置的に、この「新宿住宅」のことではないかとも思います。

正確な築年数は失念しましたが「新宿住宅」も「戸山アパート」も戦後すぐのほぼ同時期に建てられたものと聞いております。

by はにわじい (2011-02-12 02:42) 

はにわじい

補足です。
「新宿住宅」は全部で11棟ほどで構成され、山手線の線路に沿って南北方向に2列並んで建っていました。

昭和20~50年代の航空写真で確認していただくとわかりやすいのですが、線路に沿って南北に並んでいるのが「新宿住宅」で、それより少し西側のエリアで西戸山小学校・中学校の背後に東西に長ーく並んでいるのが「戸山アパート」になります。

給水棟の背後に写っているのがまさに「新宿住宅」の建物でして、4,5階建ての団地形状であることから、一見、戸山アパートと間違えやすいかもしれません。
ご参考になれば幸いです。
by はにわじい (2011-02-12 02:58) 

ChinchikoPapa

はにわじいさん、ごていねいなコメントをありがとうございます。
上記、ご親切な還暦ぱぱさんからの「アパート」と「ハイツ」混同のご指摘で、冒頭の水道タンクが戸山アパートのものでなく、木造の戸建て風の住宅=戸山ハイツ跡近くに建てられた、新たなアパート群のものだということが判明していました。
もうひとつ、ご指摘の『中央公論』に掲載された水道タンクのほうですが、記事中に電気ポンプで水をくみ上げて蓄える水道タンクの記事とともに掲載され、戸山アパートの水道タンクという位置づけで掲載されていますので、どうやら取材をした同出版社のカメラマン、あるいは佐多稲子、さらには写真をセレクションした同誌の編集者が、「戸山アパートの水道タンク」と「新宿住宅の水道タンク」とを、混同していたのかもしれませんね。指摘をされている佐多稲子の文章箇所の表現も含めて想像しますと、三者とも誤解していた可能性が高そうです。
1963年(昭和38)の空中写真から、国家公務員住宅「新宿住宅」の水道タンクを見つけて記事末に掲載いたしました。ちょうど、空中写真の継ぎ目に当たるため、アパートの建物の向きがチグハグで少しおかしいのですが、ご参照ください。はにわじいさんのおっしゃるとおり、『中央公論』に掲載された「戸山アパートルポ」の水道タンクは、同アパートのものではなく明らかに山手線沿いへ南北に建設されていた、新宿住宅の水道タンクの意匠に一致しています。戸山アパートに建っていた、水道タンクのデザインとは異なりますね。
1985年(昭和60)まで建っていたということは、近くのわたしは出かければ実物を目にすることができたわけですね。残念なことをいたしました。貴重な情報をお寄せくださり、ほんとうにありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2011-02-12 21:32) 

はにわじい

お返事にあわせ、更新までしていただき恐縮です。

戸山アパートも新宿住宅も既に存在しない建物のため、
古い地元の者でもなければ、詳細はもはやわかりにくいかもしれません。
いつも楽しませていただいているこちらのお役立てて光栄です。

これは大変懐かしい写真ですね。
新宿住宅にあった給水棟について、当方でも昔撮影した古い写真などを持ち出しつつ、記憶喚起してみました。

この格子柄の給水棟(茶色いコンクリ製でした)は初代のもので、昭和50年代初頭に二代目に交代しています。
二代目は、金属製のタンクと塔で構成された、あまり面白みのないデザインでした。二代目に交代してからほどなく再開発によって新宿住宅もろとも取り壊されてしまい、なんか無駄だなあ...と思った記憶も蘇ってきました。

これとは別に、戸山アパートの給水棟は二本ありましたね。
一本は西戸山小学校と西戸山中学校の間に。
そしてもう一本は淀橋消防署(いまは新宿消防署というらしいですね)の裏手にありました。

いずれもつい先ごろ、平成10年代後半までは建っていたでしょうか。
二本ともコンクリ製のどっしりした塔で、ユニークな意匠だったせいか未だネット上でもファンの方が多いようですね。

これからも記事を楽しみにしております。
by はにわじい (2011-02-16 03:19) 

ChinchikoPapa

はにわじいさん、重ねてコメントをありがとうございます。
確かに、いまは存在しなくなってしまった建物については、現場へ出かけても目にすることができませんので、いろいろと誤解しやすいですね。実は、「新宿住宅」から「戸山アパート」のあたりは、戸山ヶ原や陸軍施設について調べるのに、ときどき歩いてはいるのですが、もっと早く足を運ぶべきでした。少なくとも、二代目タンクは見ることができたはずですね。
落合地域でも頻繁に感じていることですが、あと20年、いや10年早ければ実際に目にすることができたのに・・・というテーマが少なくありません。重ねがさね残念です。
記事末の「新宿住宅」水道タンクの下に、戸山アパートにあった2つの水道タンク写真(同じく1963年撮影)を追加で掲載しました。左が西戸山小学校近くの水道タンクで、右が淀橋消防署(現・新宿消防署)近くの水道タンクです。おっしゃるとおり、2つとも面白いデザインをしていますね。
いろいろとご教示いただき、ありがとうございました。こちらこそ、またなにかお気づきの点がありましたら、お気軽にコメントをお寄せいただければと存じます。よろしくお願い申し上げます。
by ChinchikoPapa (2011-02-16 11:32) 

lord

話の流れとはまったく関係ない書き込み失礼します。
70年代を当地で過ごした者ですが、カマボコ型射撃場の跡地を細かく分割して出来た木造平屋の住宅群は、その周辺の高層(といっても4階建て位?)アパートとは全く趣が異なって、一種、福生など基地周辺の米軍住宅(ハウス)のような牧歌的な雰囲気が拡がっていました。各戸の植え込みや所々に小さな畑もあり、平屋のせいで空が広く、家々の壁は薄いピンクで塗られていたような記憶があります。まるで新宿の隣駅とは思えない田舎のような景色でした。
by lord (2015-07-06 03:41) 

ChinchikoPapa

lordさん、貴重なコメントをありがとうございます。
当時のモノクロ写真では、建物のカラーまではわかりませんので、ご記憶されている方の証言はたいへん貴重です。実は、戸山ではないのですが、わたしも薄いサーモンピンクやペパーミントグリーンに塗られた、平屋の一戸建て住宅の記憶があります。下見板張りの外壁ですが、少し以前ならまちがいなく腐食止めのクレオソートを塗って焦げ茶色をしていたと思われる壁へ、ペンキを厚めに塗っていました。
戦後の解放感から鮮やかな色彩に惹かれたものか、あるいはクレオソートにかわる防腐剤入りのペンキが開発されたので、さっそく流行したのかはわかりませんが、おっしゃるとおり、米軍の住宅地のような風情がありましたね。
by ChinchikoPapa (2015-07-06 10:31) 

身崎 とめこ

大変興味深く拝見いたしました。昭和30年代初め、10代の頃ですが学習院女子部からこの戸山が原住宅の間を抜けて、当時東一と呼ばれた病院に通院しておりました。私は現在国立大学の特別研究員で、戦後住宅の研究をしております。お差支えなければこの住宅について佐多稲子のルポの正確な情報と写真についてご教示いただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。
by 身崎 とめこ (2016-05-18 08:06) 

ChinchikoPapa

身崎とめこさん、コメントをありがとうございます。
佐多稲子のルポ「戸山アパート街」が掲載されましたのは、記事中にあります1953年(昭和28)に発行された『中央公論』5月号の「東京通信」です。同号のグラビアには、モノクロ写真で戸山ヶ原跡に建った集合住宅の写真が、まとめて掲載されています。
ただし、はにわじいさんのご指摘にもありますように、同誌グラビアの写真類は「戸山アパート」とタイトルされているものの、国家公務員住宅の「新宿住宅」とを区別なく、ごっちゃにして撮影しているようです。ご参照ください。
by ChinchikoPapa (2016-05-18 13:41) 

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