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落合地域への空襲を数えてみる。 [気になる下落合]

早稲田上空1945.jpg
 戦時中の東京地方には、空襲警戒警報および空襲警報が数えきれないほど出されているけれど、それらすべての警報で空襲が実際に行われたわけではない。たとえば、神奈川県や千葉県、あるいは東京郊外にあった市町村や中島飛行機工場Click!など軍需工場群への空襲でも、東京の市街地には警戒警報のサイレンが鳴り響いていた。
 ラジオから索敵情報(敵機の見張り員から入る侵入情報)が、「東部軍管区情報・・・」と流れはじめると東京市街地には間をおかずにサイレンが鳴りわたり、敵機の位置によっては警戒警報、あるいは空襲警報が発令された。でも、敵機の向かっている方角が東京市街地から外れていくと、空襲警報から警戒警報へともどり、やがて警報は解除されることになる。では、実際に東京市街地を襲った爆撃機あるいは戦闘爆撃機の攻撃は、どれぐらいの回数にのぼるのだろうか? 東京都(1943年に東京「府」から「都」)全体をカウントすると膨大な回数になってしまうので、落合地域とその周辺への空襲、ないしは東京への大規模なもののみに限って、ピックアップしてみよう。
★1942年(昭和17)4月18日 ドーリットル隊初空襲
 房総沖の空母「ホーネット」より飛来した16機のB25が、各地を散発的に爆撃した真珠湾攻撃に対する報復の奇襲攻撃。詩人・高田敏子Click!が江戸川橋の先で空襲に遭い、千登世橋をわたって子息が通う落合第一小学校へと駆けもどった物語や、早稲田で入院中の堀尾慶治様が、おそらく早大を軍事施設と間違えて爆撃していったエピソードは、すでにご紹介している。
 このあと、1944年(昭和19)の11月以降、東京地方にはB29による1機または複数機の偵察飛行、あるいは小規模な爆撃が連続しはじめ、11月末から12月にかけては三鷹にあった中島飛行機のエンジン工場が繰り返し、連続5回の反復爆撃を受けている。また、1944年(昭和19)11月29日には、神田地域が初のナパーム焼夷弾の攻撃を受け、つづいて1945年(昭和20)1月1日、元日早々から江東地域が、やはり焼夷弾の攻撃にさらされている。でも、この2回の攻撃はB29の機数が少なかったせいで、いまだ壊滅的なダメージは受けていない。
横須賀上空ドーリットル隊19420418.JPG 数寄屋橋194502.JPG
 空襲Click!の規模が徐々に大きくなり、被害がケタ違いに増加してくるのは、1945年(昭和20)の2月に入ってからだ。2月16日に、B29による関東全域への大規模な空襲、翌2月17日には艦載機が多数来襲し、この2日間は空襲警報が鳴りっぱなしだったろう。2月19日にはB29が100機、渋谷や深川、京橋、赤坂、王子、葛飾などを散発的に爆撃している。つづいて2月25日、空母からの艦載機が100機以上も来襲し、銃爆撃により下谷(上野)地域がほとんど壊滅している。同時に、130機の艦載機が神田、本郷、浅草などを攻撃して大きな被害をもたらした。
 これらの攻撃は軍事目標ではなく、明らかに住宅密集地や都内の繁華街を故意に攻撃して、人的な大量被害を与えることを想定しており、米軍には当初から軍事目標のみに攻撃を絞り、病院や学校への爆撃は避ける・・・などという意図が、作戦上のどこにも存在していなかったのは明白だ。そして、1945年(昭和20)3月10日のジェノサイド(大量虐殺)の日を迎えることになる。
★1945年(昭和20)3月10日 東京大空襲Click!
 午前0時8分、空襲警報さえ発令されていないうちに突然空襲がはじまった。334機Click!(日本側発表130機)のB29による東京の下町Click!を中心とする絨毯爆撃Click!(軍事目標ではなく、病院や学校を含む一般市街地への反復爆撃・ガソリン散布および機銃掃射)で、10万人以上が死亡あるいは行方不明となった。
★同年4月1日
 高田馬場駅および戸塚地区に、爆弾8発の投下を含む小規模攻撃。
東京大空襲194503.jpg
目白文化村194504.jpg 学習院大学19450413.jpg
★同年4月13日 第1次山手空襲Click!
 神田川あるいは妙正寺川の沿岸に展開していた、中小の工場地帯へ170機のB29が来襲した。河川沿いの絨毯爆撃により、工場群はほぼ全滅したほか、下落合では目白文化村Click!の第一文化村と第二文化村Click!が、住宅街の約60%を焼失する大きな被害を受けた。
その後、第一文化村と第二文化村は4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる空襲により延焼していることが新たに判明Click!した。
★同年4月15日/5月24日
 東京の西部へ、200機(4/15)および250機(5/24)のB29が来襲し、大きな被害が出た。
★同年5月25日 第2次山手空襲Click!
 東京西部の山手一帯を250機のB29が絨毯爆撃し、壊滅的な被害を受けた。このとき、落合地域とその周辺は焼け野原となったが、緑が濃い区画Click!はかろうじて島状に焼け残った。
★同年7月8日
 正午ごろ250機のP51が来襲し、おもに東京市街地の鉄道を中心に銃爆撃を繰り返した。
★同年7月28日/30日
 艦載機あるいは硫黄島からのP51とみられる戦闘爆撃機が、東京各地の住宅街を反復攻撃。
★同年8月2日
 未明から、310機のB29が関東地方を全域にわたり空襲し、東京市街地を低空で飛びまわる。
★同年8月3日
 120機のP51が、関東各地を波状攻撃し、焼け残った住宅や建物をねらい銃爆撃。
★同年8月10日
 朝から100機のP51が東京へ来襲し、山手の焼け残った家々をねらい繰り返し銃爆撃。
★同年8月13日
 空母の艦載機とみられる戦闘爆撃機により、東京各地への波状銃爆撃。
 おそらく、高射砲陣地が沈黙し戦闘機の迎撃もほとんどなくなった、1945年(昭和20)7月以降の銃爆撃は、米軍機のパイロットにしてみれば「ゲーム感覚」だったのだろう。彼らには、軍事目標のみをねらい病院や学校施設への攻撃は避ける・・・などという制約などどこにも存在せず、パイロットの顔が地上から確認できるほど低空で侵入しては、焼け残った大きめの住宅へ250キロ爆弾Click!を落とし、逃げまどう住民たちを見かければ、容赦なく機銃掃射を反復してあびせかけていった。聖母病院Click!の屋上へ250キロ爆弾が命中Click!したのは、7月以降に来襲回数が急増するP51または空母からの艦載機による、いずれかの空襲の可能性が高いように思える。
内濠上空194505.jpg 徳山沖大和194504初頭.jpg
 いまに残る日米の記録をたぐり寄せ、事実経過を先入観のない眼で直視するならば、米軍は病院や学校への爆撃を避ける配慮をした・・・などという“神話”は、戦後にGHQの対日工作員がたまたま焼け残った病院を数えあげながら、占領下における日本の世論操作・誘導を行なうためにデッチ上げたと思われる、結果論的な宣伝・付会臭がプンプンするのだ。
 余談だけれど、東京湾沿岸に設置された対空砲火の高射砲陣地のひとつ、晴海の指揮所には、のちにJAZZ評論家となる油井正一が防空指揮官として配属されていた。彼は、ごくたまに炸裂弾が当たり墜落するB29を見ると、「どうかベニー・グッドマンが搭乗していませんように。どうか・・・」と、当時のスウィング系JAZZミュージシャンたちが乗っていないことを祈っていたらしい。

◆写真上:早稲田小学校の上空を、新宿から大久保方面へ向け低空で飛ぶB29の編隊。夏目坂の周辺は一面の焼け野原で、上方には焼けただれた早稲田大学の本学キャンパスが見える。
◆写真中上は、1942年(昭和17)4月18日にドーリットル爆撃隊から撮影された横須賀市街。は、1945年(昭和20)2月に数寄屋橋上から撮影された銀座・京橋方面。おそらく、同年2月19日に行なわれた100機のB29による東京空襲の写真だと思われる。
◆写真中下は、1945年(昭和20)3月10日の翌日にB29から撮影された東京の(城)下町。まだ火災があちこちで発生しており、延焼は収まっていない。下左は、同年4月13日第一次山手空襲の翌日に撮影された目白文化村(第一文化村)の中村邸周辺。(KikuchiさんClick!ご提供) 下右は、同じく4月13日の空襲で主要校舎が全焼した学習院キャンパス。
◆写真下は、1945年(昭和20)5月に千代田城の内濠上空を低空で飛ぶB29。すでに、対空砲火の弾幕も迎撃戦闘機の姿も見えない。は、B29による偵察飛行では日本じゅうがくまなく撮影されていた。写真は、同年4月初頭に徳山沖で撮影された沖縄へ出撃直前の戦艦「大和」。


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コメント 38

ナカムラ

尾崎翠の親友だった樺山千代の住んでいた家の跡を訪ねたさい、地元の方に山手空襲で一直線に絨毯爆撃をされ、一面火の海であったと話されていました。ちょうど落合火葬場の向こうに富士山が見え、そちらから爆撃機の編隊がむかってきたとの事でした。上落合に当時の面影が皆無なのは空襲のせいですね。哀しいです。
by ナカムラ (2011-03-09 01:57) 

SILENT

いっせいに柱の燃ゆる都かな 三橋 敏雄
都の燃える様 
神戸の地震の際 その日の夕焼けが異様な程美しかったのを思いだします。不謹慎なのですが。
by SILENT (2011-03-09 08:03) 

まるまる

以前、曾祖父が中島飛行機工場の関係部品を自宅で作っていたようです。
私の家系は、東京・埼玉に分布しそれ以外にはいないと言ってもいい位の地元です。先代よりいろいろな話を聞きましたが、このように写真付きでの説明はなかったです。
先祖代々このあたりにいたようですが、東京の親戚は空襲で皆いなくなってしまったと祖母が言っていました。女学校に進学を奨められていた祖母は進学が嫌で、向島の叔母さんの家で習い事をしながら花嫁修業をし、婚約したそうですがその後皆いなくなってしまって埼玉に戻ってきたそうです。
その話を思い出しながら拝見させていただきました。
by まるまる (2011-03-09 10:29) 

ChinchikoPapa

下の子がアトピーだった幼児のころ、ふつうの牛豚鶏肉を避けてさまざまな肉を食べましたけれど、中でもシカ肉は美味でした。アイヌ料理のレストランで食べた、エゾシカのステーキもうまかったですね。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2011-03-09 11:19) 

ChinchikoPapa

雪が大の苦手なわたしは、降った日に打ち合わせがあって外出しなければならないと、つい「天は我々を見放した」とつぶやいてしまいます。都内で「遭難」したら、笑いものですね。w nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-03-09 11:27) 

ChinchikoPapa

チーム全員の「気」が、高まっているのを感じられるのはいいですね。きっと、好成績が残せるでしょう。nice!をありがとうございました。>イデケンさん(今造ROWINGTEAMさん)
by ChinchikoPapa (2011-03-09 11:32) 

ChinchikoPapa

ナカムラさん、コメントをありがとうございます。
上落合は、おそらく1945年4月13日に北東部の神田川沿いと妙正寺川沿い(下落合と上戸塚の境界辺)の一部が爆撃を受け、5月に地域全体が被災しているのでしょうね。取材された証言からしますと、夜間爆撃ではないようですので5月25日の夜半ではなく、富士山が見えてということですから翌26日の早朝でしょうか。
東京市と淀橋区が作成したとみられる、「淀橋区建物疎開地区図」の計画内容をみますと、妙正寺川沿いに幅約100mにわたって建物疎開が予定されていますけれど、おそらく実施される前に空襲を受けてしまったものと思われます。詳細は近々、また記事に書こうと思っています。
by ChinchikoPapa (2011-03-09 11:45) 

ChinchikoPapa

写真を拝見していると、また美味しいやき鳥がそろそろ食べたくなってきました。nice!をありがとうございました。>hanamuraさん
by ChinchikoPapa (2011-03-09 11:53) 

ChinchikoPapa

隅田川沿いに映像やスチール、あるいは録音スタジオが増えているようですね。きっと賃料が安いせいでしょうが、夜になると静寂だという理由もあるようです。夜になると人々の喧騒が消えてしまう下町界隈というのも、反面ちょっと寂しいのですが・・・。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2011-03-09 12:02) 

ChinchikoPapa

SILENTさん、コメントとnice!をありがとうございます。
長崎原爆の前日、自然災害ではないにもかかわらず、人々が紅い月を見上げて驚き、不吉な想いを抱いた・・・という証言をあちこちで聞きます。自身の生命に危機が迫るとき、人は予兆のようなものを感じ、なにかを見る本能があるのでしょうか。
千葉側からの証言ですが、3月10日の夜は西の空が暮れなずむような、いつまでも夕焼けのように見えてキレイだった・・・という話が残ってますね。
by ChinchikoPapa (2011-03-09 12:12) 

ChinchikoPapa

わたしの住んでいる近所を描かれているからばかりでなく、どの作品にも既視感をおぼえるのはなぜでしょう。ピンポイント的に描画場所を特定することはできないのですが、なぜか親しんで馴染み深い街角や風景の感覚をおぼえます。一度も訪れたことのない地域でも、同じような感慨が湧きますね。nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2011-03-09 12:24) 

ChinchikoPapa

中学生ぐらいから、肩を揉んであげることはあっても、揉んでもらうことはほとんどなかったですね。肩凝りがあまりないわたしは、かなり損をしているようです。nice!をありがとうございました。>tamanossimoさん
by ChinchikoPapa (2011-03-09 12:33) 

ChinchikoPapa

まるまるさん、コメントとnice!をありがとうございます。
わたしも、親や祖父からいろいろな話を聞いていますが、実際に当時の写真を目の当たりにすると、伝え聞いた話の細かなディテールが、改めて鮮明に浮かびあがることがありますね。
うちの親は、空襲のさなかも東京をあちこち逃げまわっていたようですが、それが災いして親父の場合は、3/10の東京大空襲(東日本橋)、4/13の第1次山手空襲(諏訪町=高田馬場)、5/25の山手空襲(諏訪町)と、3回の大空襲に遭遇しているにもかかわらず、なんとか生きのびました。疎開しようにも、不運なことに東京以外に頼れる親戚がいなかったんですね。
おふくろのほうは、北鎌倉に大伯母が住んでいたので、そちらへ避難したようですが、それでも横浜にいたとき空襲に遭遇しています。当時の10代の子たちは、召集(男の場合)されなければ工場への勤労奉仕に駆りだされていたので、よけいに疎開しにくかったという事情もあるようですね。
空襲時には、義父母も都内を逃げまわっていました。こちらでも何度か書きましたけれど、義父は麻布一連隊を1940年(昭和15)に退役後、そのまま六本木に住んでいましたので、東京大空襲時には罹災者の救援に駆りだされ、第一師団のトラックで負傷者を健在だった下落合の聖母病院までピストン輸送していました。
当時の写真や映像を見ますと、打ち上げ花火の音や大型プロペラ機の音がすると、緊張したような表情を浮かべていたのが、なんとなく理解できるような気がします。どこまでいっても、想像にすぎないのですが・・・。
by ChinchikoPapa (2011-03-09 13:11) 

ChinchikoPapa

このシェップのアルバムは未聴ですが、YouTubeの音源を聴くと精神性にあふれたシェップらしい演奏ですね。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2011-03-09 13:24) 

ChinchikoPapa

すさまじい積雪ですね。お店を営業している時間より、除雪作業をしている時間のほうが長くなりそうです。nice!をありがとうございました。>cjlewisさん
by ChinchikoPapa (2011-03-09 17:46) 

ChinchikoPapa

滋賀県での「電車の工作」イベント、楽しそうですね。
nice!をありがとうございました。>とらさん
by ChinchikoPapa (2011-03-09 18:25) 

ChinchikoPapa

ラムスペアリブは、赤ワインソースとの組み合わせが絶品ですね。
nice!をありがとうございました。>da-kuraさん
by ChinchikoPapa (2011-03-09 23:39) 

ChinchikoPapa

きょうは、わたしもお昼にラーメンでした。
nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
by ChinchikoPapa (2011-03-09 23:48) 

hanamura

 3月10日東京大空襲
戦災で亡くなられた方に合掌
by hanamura (2011-03-10 05:48) 

ChinchikoPapa

ご紹介の「トマパイ」、ちょっと楽しそうですね。曲データを持ってるか、オスガキに訊いてみます。nice!をありがとうございました。>Webプレス社さん
by ChinchikoPapa (2011-03-10 12:27) 

ChinchikoPapa

hanamuraさん、コメントをありがとうございます。
いまだに、こつこつと行方不明者の捜索が行なわれています。引っ越したばかりの方や、近隣とあまり付き合いのなかった独り暮らしの方など、全滅してしまうと証言者が存在しないため、死者にカウントされないのですね。犠牲者は10万人といわれていますが、そういう人たちを含めるとあと何万人増えるのか、見当もつかないのが事実です。
by ChinchikoPapa (2011-03-10 12:32) 

ChinchikoPapa

プリントミスあるいはエラーのたとえは、意味深長ですね。遺伝子のプリントミスにより、癌細胞が発生・増殖するという研究がずいぶんメジャーになりました。nice!をありがとうございました。>ムネタロウさん
by ChinchikoPapa (2011-03-10 19:37) 

ぼくあずさ

縁故疎開先の旧増戸村から見た東京大空襲を思い出しました。
阿伎留野の上空は赤く染まり、地平線は細い火炎の帯でした。
そこでは逃げ惑う人々が容赦なく生きたまま焼かれたのです。
大隈講堂前の建物が写真で確認できました。合掌。
by ぼくあずさ (2011-03-10 21:07) 

ChinchikoPapa

ぼくあずささん、コメントとnice!をありがとうございます。
人は大火災や大火流が迫ると、つい本能的に水辺に逃げてしまうようですが、遮蔽物のない河畔では熱風と炎が吹きつけて、逆に呑みこまれてしまうようですね。関東大震災のときもそうでしたが、衣服が極端に乾燥してしまうため大火災には絶対に近づくなという「教訓」とともに、親父が口をすっぱくして言っていたのを思い出します。
親父たちは、大川とは逆に日本橋人形町から本町方面へ避難して助かっていますが、大空襲直後の空中写真を見ると、確かに日本橋区の東南部は焼けずに残っているのがわかりますね。
by ChinchikoPapa (2011-03-10 22:54) 

ChinchikoPapa

いままで「赤いサイロ」と「薄荷羊羹」には、出会ったことがないですね。どこかで見かけたら、味わってみます。nice!をありがとうございました。>Simpleさん
by ChinchikoPapa (2011-03-11 00:08) 

sig

こんばんは。
3月10日はまだいなかに居ましたが、私の誕生日なので忘れようとしても忘れられない日です。どれも貴重な写真ですね。
少年の頃「東京上空30秒」というアメリカ映画を観ました。この映画はドーリットル爆撃隊の活躍?を描いたものだと後で知りました。数年前の「パール・ハーバー」でも描いていますが、アメリカでは日本の奇襲に一矢報いたものとして、よほど大事なポイントなのでしょうね。
by sig (2011-03-11 00:30) 

みき

常々拝見させて頂いております。
記事から脱線してしまいますが...。会津八一が最初に引っ越した、第一文化村の辺り(現在は、スーパーマーケットの駐車場となっているあたり。)はマンション建設がはじまるそうです。来週から本格的に工事が始まるようです。空襲で残っていた民家は無くなり、文化村の景色がまた変わってしまうようです。時代ですかね。
by みき (2011-03-11 04:28) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
わたしはまったく生れてもいなければ、両親は出会えてさえもいない時代ですが、空襲の話はさんざん聞かされて育ちましたので、のちにその話の記憶と実際に撮影された当時の映像や写真とが入り混じり、アタマの中でビジュアル化されているから不思議ですね。
ドーリットル隊の初空襲は、山手と下町とを問わず印象的に語り継がれていますので、当時の人たちにとっては「なんで米軍機が、東京上空を飛んでいるんだ?」とかなりショックを受けたのではないかと思います。対空砲火や戦闘機の迎撃を避けるためか、かなり低空で飛んで爆撃したようですので、パイロットの顔までチラッと見えたと証言する方もいますね。
by ChinchikoPapa (2011-03-11 13:14) 

ChinchikoPapa

みきさん、コメントをありがとうございます。
また、文化村の情報をありがとうございました。山手通り沿いですので、かなり高層のマンションを計画しているのでしょうか。大通り沿いのマンションは、敷地さえ十分にあれば何階建てにしようが、事実上法的な規制がないので悩ましいですね。地震をはじめ、日照の問題や電波障害が心配です。
これほどマンションやオフィスビルを造って、いったい誰が入るのかと思うのですが、事実、入居者が集まらないビルも都心には増えているようです。人口が減りつづける将来、こういうビルはどうなるんでしょうね。
通りを歩きながら、防波堤のように建ち並んだビル群に遮られ、空も狭くなって文化村の家々が見えなくなるのが寂しいです。目白文化村周辺は低層建築のまま、せっかくここまでがんばってきたのに、たいへん残念ですね。
by ChinchikoPapa (2011-03-11 13:28) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2011-03-12 12:10) 

ChinchikoPapa

「むらちょこ」なんて、懐かしい名称をご存じですね。w 江戸むらさき(醤油)を入れるちょこ(小さな皿)で、親父も遣っていましたが下町言葉ではないかと思います。nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2011-03-12 22:00) 

アヨアン・イゴカー

>米軍は病院や学校への爆撃を避ける配慮をした・・・などという“神話”は
東京に対しては重要文化財の中心地という認識がなく、京都や奈良にはそのような配慮があったのではないでしょうか?
いずれにせよ、無差別爆撃による東京空襲は人類の愚かさを表す悲しむべき事実です。
by アヨアン・イゴカー (2011-03-13 20:47) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントとnice!をありがとうございます。
昨年も京都のメディアが報道し、関東の一部の新聞でも囲み記事として紹介されましたけれど、いくら規模の大きな「京都空襲」について報道しても、ちっとも日本人に認知されない・・・という問題がありますね。
京都市街も、20回もの反復爆撃を受けているにもかかわらず(死者は300人を超えています)、「京都は米軍が文化財に配慮して空襲を避けた」という伝説が裏取りもなされずにまかり通っているという課題があります。(これも、米軍が意図的に流布したのかもしれません) つまり、東京や横浜、大阪のような大都市とは異なり、大規模な絨毯爆撃は行わなかっただけで、通常の空襲(爆撃)は繰り返し行われています。同じような“伝説”は、鎌倉についても言えるのですが・・・。
奈良は、目標となる工場や大きな市街地が存在していませんので、空襲を行う町としてプライオリティが低かっただけで、戦争が長引いていたら当然爆弾を落とされていたと思います。

by ChinchikoPapa (2011-03-13 21:37) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>ブロガーおじさん
by ChinchikoPapa (2011-03-17 11:20) 

山下 豊

≪早稲田小学校の上空を、新宿から大久保方面へ向け低空で飛ぶB29の編隊。夏目坂の周辺は一面の焼け野原で、上方には焼けただれた早稲田大学の本学キャンパスが見える。≫
この写真を転載させていただきたいのですが。許可をいただけますでしょうか。はじめてコメント欄にメールをさせていただいています。
返信連絡をいただければ、詳細をお知らせいたします。山下
e-Mail : bze24075@nifty.ne.jp

by 山下 豊 (2012-12-17 14:44) 

ChinchikoPapa

山下 豊さん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
米国防省が公開している写真ですので、掲載されるメディアが広告媒体などでなければ大丈夫だと思います。のちほど、メールを差し上げます。
by ChinchikoPapa (2012-12-17 15:14) 

古田

B29墜落の記事を拝見しました。私は学習院下に墜落機があるから一緒に見に行こうと近所の人に誘われて現場に参った覚えがあります。機体の後部に確かに星のマークが付いていてっその傍らに背の高い若い米軍人が立っておりました。全員死亡と書かれておりましたので、記憶のあやまりなのかもしれず、あるいは別の墜落機体だったのかも。
五月末の空襲の夜にはまだ下落合に住んでましたので、その記憶はもっと鮮明であります。
幸い自宅は焼け残り、落四も無傷でした。いまでも信じられません。
by 古田 (2013-04-07 12:50) 

ChinchikoPapa

古田さん、コメントをありがとうございます。
また、貴重な情報をありがとうございました。学習院下の記事は、その墜落現場である国産電気の工場で勤労動員されて働いていた、下落合にお住まいの方に取材して書いたものです。当日は、夜に入って空襲警報が発令され、自宅にいて工場にはいなかったため命拾いをしたそうです。
B29は墜落する際、爆発で主翼が折れキリモミ状態で墜落していますので、搭乗員の全員が脱出できずに戦死した…という戦況は、当時参照した米軍の空襲記録からのものです。おそらく、機体へのダメージが大きい、迎撃戦闘機による体当たり攻撃だったのかもしれません。もし、墜落機体の近くに米兵がいたとすれば、当夜の空襲で撃墜されたB29搭乗員のひとりで、なんらかの事情聴取か証言、確認のために墜落現場へ連行されてきていたのかもしれませんね。
学習院下に墜落したB29と、ほぼ同時に撃墜されて麹町へ墜落したB29のほうは、搭乗員の何人かが脱出できた(パラシュートが確認できた)という経緯だったと記憶しています。捕まった米兵が墜落現場へ連行され、B29機体についての情報や搭載兵器について尋問されていた可能性は高いように思います。もっとも、尋問がすんで調書が作成されたあとは、間をおかず憲兵隊により銃殺されてしまったと思いますが…。

by ChinchikoPapa (2013-04-07 23:07) 

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