武井武雄が記録した空襲怪談・異聞。 [気になるエトセトラ]
池袋1021番地に住んでいた童画家・武井武雄Click!は、空襲が激しくなると池袋町会の隣り組で組織された防空団第32群の班長を引き受け、1945年(昭和20)4月2日まで池袋の上空を監視しつづけた。その活動中、東京のあちこちで聞かれた「空襲怪談」あるいは「空襲異聞」を、日記の代わりに描いていた『戦中気侭画帳』へ記録している。
わたしも、親から空襲(特に東京大空襲Click!が多い)にまつわる怪談や異聞を、ずいぶん聞かされて育った。1945年(昭和20)3月11日の未明、隅田川の両岸では大勢の人たちが燃えていた。わたしの親たちは、隅田川とは逆の日本橋本町のほうへ逃げたので、おそらく空襲後に焼け跡Click!へもどったあとに聞いた話なのだろう。関東大震災Click!の教訓から、遮蔽物のない大きな河川が炎や大火流による熱風の通り道となるのを聞かされて育ったせいか、親たちは隅田川へは近寄らなかったのだ。風速30m(一説には40m)を超える火事嵐の中、吹きつける炎と熱風で一瞬のうちに人の身体が発火するか、酸素がなくなるために窒息死してしまうような状況だった。
当時、死んだ赤ん坊を背負った母親が、街中を数多く歩いていたのだそうだが、たいがいは熱風による窒息死だったようだ。中には、明らかに赤ん坊は死んでいるのに、あやしつづける母親もいたらしく、自分の身に起きたことをどうしても認められずに、気がおかしくなっていたのだろう。浅草の漫才師・内海桂子が話していた怪談話も、わたしは親から子供のころに聞いている。炎を避け、隅田川へ飛びこんだ人たちに向かって、河岸や橋の上から母親が赤ん坊を両手で突き出し、誰かに受けとめてもらおうと「お願いしまーす!」と、必死で呼びかけている情景だ。大群衆に押された母親の身体はすでに燃えており、とても子供を支え声を出していられるような状態ではないのに、両腕だけが川面に向かって突き出されているというもの。後世の誇張や潤色もあるのだろうが、現実の情景とはそれほど大差ない実話をもとにしているのだろう。
武井武雄が記録した怪談・異聞は、東京大空襲Click!の直前、1945年(昭和20)3月6日の『戦中気侭画帳』に「空襲異聞」として収録されている。武井が「ゲリラ」空襲と呼んでいた、東京各地を少数のB29で散発的に空襲していた時期に、街中で囁かれていた物語なのだろう。
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(1)爆弾落下地点附近に女の足二本地上に直立し居たりし故 掘出して見たらバ買出しの帰途大根を背負ひたる侭逆埋となりしもの 生命別状なく大根を背負ひたるまゝ又のこのこと帰りゆける由 これなどハ愛嬌ある話なり
(2)銀座爆撃の時 日比谷附近の路傍壕に駈込みたる中学生の後ろから今度ハ女学生が飛込みし間一髪 爆弾落下 女学生の方は首も折れ事切れ即死したれど中学生ハ助かる。(ママ) 処が突差(ママ)の間にしがみ付き握りしめし女学生の手 死後何としてももぎとる能はざりし由 中学生ハそのまゝ気が狂ひたりといふ 最も怪談じみたる話なり
(3)これも銀座のはなしなり 危険せまり突差(ママ)の気転にて防空バケツを頭にかぶりたりといふ あとより女の生首がちやんとバケツに収まり たてに起き上ってゐたのが発見されたといふ これを見たる人 気を失ふ 全く画にも描けぬ程の話なり
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(1)は、まるで「犬神家」のような情景だけれど、掘り起こして助けあげたらそのまま無事に、ダイコンを背負って帰っていったとあるので、異聞というよりは笑いのほとんどない当時、「よかったよかった」とホッと息が抜ける笑い話として伝播していったものだろう。それに比べて、(2)(3)の逸話は悲惨で深刻だ。死んでも手を放してくれない話は、このエピソードばかりでなく東京各地に伝わった怪談話のひとつだったようだ。「死んだ女性(女学生)が、つかんだ手や足を放してくれない」というシチュエーションは、銀座ばかりでなく東京各地で類似の話が伝わっている。
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(4)城東方面の某所にて爆弾落下の後始末したるにある家の屋根の上にハ番傘、鍋 釜 シヤモジの勝手道具から床置 下駄など家財道具万端が押すな押すなと古道具市を展開してゐた由、登る者 今度は何が出るか楽しみだと言つてゐた由 これは甚だ童話性に富む話
(5)頭から顔から被服から靴の先までじつくりべつとりと血の池から引上げた様な重傷者失神し居たり、時を移さず救護所へ搬び裸にして傷所を調べたるに全身鵜の毛でついた程のカスリ傷一つなし 忽ち元通りの元気となる これいふ処の返り血なり 救護の事余程落ついて当つてもかゝる事ハ往々あるべし
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(4)と(5)も笑い話、あるいはホッとする話の類だ。空襲の初期(1944年暮れから1945年1月末ぐらいまで)は、焼夷弾よりも250キロ爆弾による爆撃が多かったようで、のちの空襲に比べたら大規模な火災は比較的少なかった。また、火災が起きたとしても消防団の活動により、まだ早めに消し止める余裕があった。だから、被害を受けた地域には爆弾で倒壊した家屋が多く、罹災者はあとから自宅へともどり、いろいろなものを掘り出せたのだ。木造家屋が主体だった東京の住宅街では、250キロ爆弾による爆撃は局所的な破壊効果しか得られないと知った米軍は、同年2月ごろから本格的なナパーム焼夷弾による攻撃を開始している。
(2)や(3)とともに(5)の逸話も、爆弾による空襲を示唆しているエピソードだ。おそらく、爆弾で一瞬のうちに肉体が四散した被害者の返り血を、間近で浴びた人の話なのだろう。東京大空襲の負傷者を、(城)下町Click!から聖母病院Click!までトラック輸送した義父の話Click!では、爆弾の被害に遭った人は、ケガの程度よりもそのショックのほうが深刻で、生命が危なくなるほどのたいしたケガでもないのに、爆弾で吹き飛ばされたというショックが原因で亡くなる人が少なからずいたようだ。
武井武雄が北豊島郡巣鴨村池袋1021番地へアトリエを建てたのは、1918年(大正7)秋のことだ。東京美術学校4年生のときで、父親が建設資金を援助してくれたらしい。アトリエは、赤い尖がり屋根のあるかわいい西洋館で、アトリエが20畳、居間6畳、台所2畳などかなり小さな家だった。屋根裏部屋からは、広く長崎方面までが見わたせる野中の1軒家のような風情だったようだ。1989年(昭和64)に六興出版から出版された、武井三春の『父の絵具箱』から引用してみよう。
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庭から見ると、応接間の窓の中にお客様の顔から上が見えるし、家の中へまわると、ドアの鍵孔の高さが背丈と同じぐらいで、覗くと中の大人がよくわかった。/そのころはもう、蛍の塔だけでなくアトリエも郷土玩具がいっぱいに占領して、人間の居場所などなくなっていた。人間用には奧に新しく和風の住居を建て増しし、その中で父は二階の四畳半の座敷を自分の寝室兼仕事場にしていた。でも子どもは、仕事中はその中へは決して入らなかったので、同じ家に暮らしていても、父が絵を描いているのをいつもかたわらで見ていたという記憶はない。
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「蛍の塔」とは、武井が全国をまわって集めた郷土玩具を陳列する部屋のことで、最初は応接間があてられていたようだが、玩具が増えるにつれてアトリエまで占領してしまい、武井自身は別に仕事部屋を増築している。北原白秋が名づけた「蛍の塔」は、1945年(昭和20)4月13日の山手空襲Click!で、数多くの貴重なコレクションとともに焼失している。
◆写真上:1918年(大正7)ごろに撮影された、池袋1021番地の新築アトリエでご機嫌の武井武雄。すでに居間を「蛍の塔」陳列館にしていたようで、郷土玩具の膨大な蒐集品が見える。
◆写真中上:上左は、『戦中気侭画帳』に描かれた1918年(大正7)の新築アトリエ。上右は、同画帳に描かれた(1)生き埋めのダイコン女性。下左は、(2)放してくれない爆死した女学生の手。下右は、(3)女性の頭部とともに飛ばされた「防空バケツ」。
◆写真中下:左は、(4)屋根上の骨董市。右は、(5)血だらけの重傷者の担架搬送。
◆写真下:左は、1945年(昭和20)3月9日の夜に爆撃を受ける大谷口の水道タンクClick!。右は、1947年(昭和22)に撮影された焼け跡の池袋1021番地とその周辺。
このようなイラストも、重要な資料になりますね。
by niki (2011-08-16 01:42)
空襲の怖ろしさが伝わります。静岡市も三菱の工場が多くあって、空襲に遭いました。伝説的な話は墜落したB29の話…を聞きました。
by hanamura (2011-08-16 09:25)
気がつけば、リチャード・デイビス(b)の演奏はあちこちのアルバムのリズムセクションで耳にしてきていますね。知らないうちに彼のディスコグラフィーが手元にそろっている・・・そんなベーシストです。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2011-08-16 09:56)
nikiさん、コメントとnice!をありがとうございます。
武井武雄の絵日記は、自身が町内の防空班長をつとめていたせいもあって、戦時下の生活や空襲に関する記録としてとても貴重だと思います。
by ChinchikoPapa (2011-08-16 10:12)
hanamuraさん、コメントとnice!をありがとうございます。
武井武雄は、山手の空襲が本格化する前に疎開してしまいますので、4月13日と5月25日の空襲には遭わずに済んだのですが、そのまま池袋のアトリエに残っていたとしたら、生命が危なかったかもしれません。
by ChinchikoPapa (2011-08-16 10:16)
郷土玩具の中の武井武雄、とても幸せそうに見えます。
ところで、武井武雄の描く人物は彼自身に似ていますね。
by アヨアン・イゴカー (2011-08-16 15:00)
最近、新宿区が三代豊国/二代広重合作の「落合ほたる」手ぬぐいを出しましたので、今度手に入れようとねらっています。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-08-16 17:54)
「文化(文明?)は入るべからず」・・・というのは、どのような“森”なんでしょうね。nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
by ChinchikoPapa (2011-08-16 18:00)
アヨアン・イゴカーさん、コメントとnice!をありがとうございます。
せっかく集めた、これらの郷土玩具の多くが空襲で喪われたとき、その喪失感ははかりしれないものだったでしょうね。戦後の絵日記で、燃えた楽器類の「葬式」を出していますが、玩具についてはあまり触れていません。
by ChinchikoPapa (2011-08-16 18:08)
東京駅は丸の内側の利用が多いせいか、八重洲のラーメン街は知りませんでした。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2011-08-17 00:45)
灯台はネットワークで制御できても、周辺の草刈りはいつまでも手作業に頼らざるをえないですね。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2011-08-17 11:45)
子どものころ、青が鮮やかなトカゲをアオトカゲ、茶色いトカゲをカナヘビと呼んでいました。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2011-08-17 11:48)
その昔、夜道を歩いているとどこまでもストーカーのように尾けてくる、ベトベトさんという妖怪がいるのをどこかで読みました。掌のベトベトとは、まったく関係ないですが・・・。w nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2011-08-17 16:29)
ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>akechiさん
by ChinchikoPapa (2011-08-17 16:30)
先日は、横網の被服廠跡にある戦没者慰霊堂(大震災慰霊堂でもありますが)へ出かけてきました。66年前の8月15日と同様、ものすごく暑い日でした。nice!をありがとうございました。>銀鏡反応さん
by ChinchikoPapa (2011-08-17 20:22)
東大寺の「青衣女人」の物語、面白いですね。きっと、明治以前からいろいろな研究がされてそうですが、突っ込んで調べてみたくなりました。w nice!をありがとうございました。>マチャさん
by ChinchikoPapa (2011-08-17 20:46)
休みの午後、よく冷えたシャンパンを飲みながら、ゆっくりボサノヴァでも聴くというのが「夢」ですが、今年の夏はまだ実現できません。nice!をありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2011-08-18 13:28)
今年の夏は、クライアントごとに休みが見事にズレましたので、なかなか夏休みがとれないでいます。nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
by ChinchikoPapa (2011-08-18 13:31)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2011-08-21 23:12)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>タッチおじさんさん
by ChinchikoPapa (2011-08-21 23:13)
「白鯨」は、アイルランドで撮影されたんですね。初めて知りました。
nice!をありがとうございました。>八犬伝さん
by ChinchikoPapa (2011-08-21 23:17)
ごていねいに、古い記事にまでnice!をありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2011-08-28 15:43)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>tree2さん
by ChinchikoPapa (2012-07-08 22:30)