椎名町と下落合界隈の「グラビアアイドル」。 [気になるエトセトラ]
戦前は、写真館へ出かけ家族や友人同士でポートレートを撮るというのが、ごくあたりまえに行われていた。カメラがいまだ高価だったせいもあるのだが、やはり「正式」で改まった写真館の記念写真と、「手軽」なスナップ写真とでは、用途や“重み”が自ずとちがっていたのだろう。カメラの性能も、写真館のプロ仕様のものと一般のコンシューマ向けの製品とでは、雲泥の差があった時代だ。どこか旅行へ出かけるとき、きちんとした記念写真を残したいので写真師を同伴した・・・なんて話も、大正期から昭和初期にかけては聞いたりする。
下の写真は、伊豆大島へ遊びに出かけた親父の親族たちだが、このとき日本橋人形町にあった写真館のカメラマンを同行している。写真館の主人を連れていったりすれば、店を閉めなければならないので、もちろんサブのカメラマンか助手を同行したものだろう。当時の写真館は、カメラマンを派遣するのも重要な業務のひとつで、以前こちらでご紹介した池田象牙店前Click!の江木写真館Click!による濃尾大地震Click!の記録写真などもそのケースだ。
時代は、1941年(昭和16)の日米開戦直前の大島三原山と思われ、後方には噴煙を上げる火口が写っている。手前にいるのが、府立中学へ進学して間もないころの親父だ。うちは女系家族なので、親父以外はすべて女性だけ(カメラマン除く)の物見遊山だったらしい。「贅沢ハ敵ダ!」という標語が叫ばれていた時代、少し派手めの着物や洋服で歩いていると、駅の改札口などでたすきがけに割烹着姿の国防婦人会から「服装が派手だ!」などと、1960年代中国の文化大革命時のような、「大きなお世話」注意を受けるような、余裕のない殺伐とした世相だった。カラー写真でないのが残念だけれど、写っている女性たちは「バカをお言いじゃないよ、なに言ってるのさ」とばかり、みな着飾っての旅行だったようだ。「モンペなんぞ履くんなら、いっそ洋装でズボンだ」と、最後まで不格好なモンペを拒否した日本橋の女たちが写っている。そんな中で唯一、中学生の親父だけがまるで“免罪符”のように、カーキ色の国民服を着てゲートル姿なのがどこかおかしい。親父の役割りは、いつの時代でも彼女たちの口実づくりClick!や“免罪符”だったようだ。
下落合にも写真館はいくつかあったが、大正期に開業していた小泉写真館と辻井一柳堂は、以前こちらの記事でもご紹介Click!している。下落合の向かい、目白通りをはさんだ長崎地域にも、地元の人たちにはお馴染みの写真館が開業していた。小川薫様Click!がお持ちのアルバムによく登場している作品は、長崎町4119番地に開業していた富士美写真館Click!によるものが多い。それは、小川様の実父である上原慎一郎様が一時期、富士美写真館へ勤めていたせいもあるようだ。同写真館が撮影したとみられる記念写真も残っているが、写真館のスタッフを撮影したポートレートや、スタジオで撮られたモデル写真などが残されているのがとてもめずらしい。
富士美写真館は、昭和に入ってからは長崎南町3丁目4119番地、1939年(昭和14)4月からは椎名町5丁目4119番地となる、目白通りに面した一画に開業していた。わたしが学生時代、親元から独立して最初に借りたアパートのすぐ近くだ。目白通りを目白駅方面へ向かって歩けば、ほどなく小野田製油所Click!の前を経て、すぐに長崎バス通りClick!(目白バス通り)の二又交番にさしかかる。富士美写真館は、椎名町界隈の情景ばかりでなく目白通り(当時は葛ヶ谷通り)の向かい、落合府営住宅Click!や目白文化村Click!が建ち並ぶ下落合の風景も写していたのだろうか。
当時の写真師(カメラマン)は、みなベレー帽をかぶっていた。これは下町も山手Click!も同様で、戦前の集合写真などでベレー帽をかぶっている人物が写っていると、たいがいプロの写真師のケースが多い。新たな芸術分野である写真に、絵画にはないまったく新しい表現の可能性を見いだして、興味をおぼえた人々がたくさんいたのだろう。
手持ちのカメラで撮影したらしい、富士美写真館のスタッフがとらえられた画面には、いまの写真にはないセピア色のやわらかな光があふれている。また、スタジオで撮影されたモデルの写真も何点か残されている。いつも同じモデルのようなので、ひょっとすると写真館で働いていた女性か、あるいはスタッフの妹なのかもしれない。中には、大胆な水着姿の作品もあって、ひょっとすると写真館のショーウィンドウを飾っていたものか。いま風にいうなら、昔日の椎名町あるいは下落合界隈の「グラビアアイドル」ということになる。
※この記事を書いた直後に、東京写真工芸社の現当主・佐藤仁(ひとし)様のもとへお邪魔して、いろいろお話をうかがった。ここに写っている方ご本人がご健在だったので、その物語は後日、改めて記事でご紹介したい。なお、「グラビアアイドル」として掲載したかった水着写真の女性は、「たぶん、本人はイヤだっていうよ~」という佐藤様の言葉で残念ながらカットした。
水着姿を写真館で撮影するのは、当時としてはそれほどめずらしくなかったようで、わが家にも人形町のスタジオで撮影されたと思われる、小学生ぐらいの親父の写真が残っている。白砂青松の海辺を描いたホリゾントをバックに、浮き輪を手にした海水浴スタイルの記念写真だ。日本で初めて海水浴場が開設された湘南・大磯Click!にも、渚の近くには写真館があって別荘の住民や、避暑に訪れる観光客相手に仕事をしていたのではないだろうか?
街中の写真館は、戦争も末期が近づくと出征する兵士たちや米軍の空襲Click!にさらされる街々の、貴重な光景Click!を記録することになる。住民たちの顔見知りだった、近所の写真館カメラマンは、戦時下にカメラを構えていても比較的とがめられることが少なかった。
東京では繰り返される空襲により、それらの写真類は焼けてしまったケースも多い。わが家の戦前写真も東京大空襲Click!であらかた焼失している。残ったのは、親父の手元にあったたった1冊のアルバムだけだ。富士美写真館(現・東京写真工芸社)は戦災Click!をまぬがれているので、椎名町・落合界隈を写した戦前・戦中の貴重な記録写真が残されているのではないだろうか? 小川様のアルバムには、戦前・戦中の写真がまだたくさん保存されているのだが、それはまた、別の物語・・・。
◆写真上:椎名町5丁目4119番地(現・南長崎3丁目)にあった富士美写真館の現状で、名称は変わっているが写真館は創業85年の「東京写真工芸社」として健在だ。
◆写真中上:上は、1941年(昭和16)に三原山で撮影された記念写真。下左は、1925年(大正14)に作成された下が北の「出前地図」に収録された長崎村4119番地の富士美写真館(佐藤様)。下右は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同写真館。
◆写真中下:富士美写真館のスタッフとみられる人々で、女性を除いてみんなベレー帽を着用。
◆写真下:同写真館の作品で、撮影見本としてショーウィンドウを飾ったものもあるだろう。(この部分に、水着姿の「グラビアアイドル」をご紹介予定だったのだが、残念!)
BlueNoteのしぶい定番の1枚ですが、この時期のマクリーンの録音時間は長いですね。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2011-10-01 02:06)
こんにちは。
ほんとにカメラマンはみなさんベレー帽ですね。そういえば映画畑のカメラマンにも多いですね。先端の職業人としての一種のステータスだったんでしょうね。
トップ写真、「東京写真工芸社」の看板が素敵ですね。写真工芸という言葉も。
by sig (2011-10-01 10:35)
以前からとても気になっていた東京写真工芸社。
あのレトロっぽい意匠はちゃんと歴史に裏打ちされていたんですね。
勉強になりました!
by Nylaicanai (2011-10-01 12:59)
富士美写真館(現東京写真工芸社)の佐藤仁様がご健在で何よりです。私の成人式当日に振袖姿をスタジオで撮影していただいて以来数十年もご無沙汰しています。その写真は母としが静岡へ送ったとおもわれます。当時静岡県内で祖父(実母の父)は写真館を営みながら姉を育てあげ実母と三人でくらしていました。写真を送ったその数ヵ月後に祖父が亡くなり遺言通り看板を降ろしました。
by siina machiko (2011-10-01 15:38)
うちのネコも風呂場が好きですが、湯につかるのは嫌いですね。マイナスイオン効果のある水蒸気が、気持ちいいのでしょうか。nice!をありがとうございました。>BLITちゃんさん
by ChinchikoPapa (2011-10-01 15:41)
kina-us(キナ・ウ<シ>)は、噴火湾寄りのアイヌ語方言では、ひとつの名詞として「草原」となりますので、pirkaが頭に付くと「きれいな草原」という意味になるでしょうか。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2011-10-01 15:59)
ニノン姐さんの「愛は飢餓では死なず、しばし消化不良で死ぬ」は、言いえて妙ですね。nice!をありがとうございました。>nikiさん
by ChinchikoPapa (2011-10-01 16:06)
sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
歩道に面している立体看板が、ロゴの字体とともにシャレてますね。この看板の上には、風見鶏が載っているんですよ。いかにも、老舗の写真館という感じですね。w
by ChinchikoPapa (2011-10-01 16:10)
高円寺は曹洞宗の寺だったんですね、うちの深川のほうの墓寺と同じです。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-10-01 19:02)
Nylaicanaiさん、コメントをありがとうございます。
わたしも、小川様よりうかがっていた富士美写真館が、そのまま東京写真工芸社として創業85年を迎えているとは、つい最近まで知りませんでした。ここ数日の記事は、同写真館がらみの写真やエピソードを連載したいと考えています。
by ChinchikoPapa (2011-10-01 19:07)
エプソンのモニターは期間が終わると、レポート+アンケートを提出するのではなく、確か使用感の取材を受けるんですよね。nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2011-10-01 19:13)
ZENONさんの画面で、おむすびみたいに見えるフォルムはなんでしょうね。w nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
by ChinchikoPapa (2011-10-01 19:15)
清水というと、やっぱり「区」ではなく「市」のイメージがわたしも強いです。
ことらにもnice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2011-10-01 19:16)
富士は標高が高くなると、「山の緑」が味わえないのでよけいに苦しく感じるものでしょうか。nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2011-10-01 19:24)
「浅間」はいまでこそ「せんげん」と読んでしまいますが、もともとは「aso-ma(アソ・マ)」と発音され、原日本語で「おき火の聖域」=「休火山」あるいは「火山を封じる聖域」の意味ではないかと思います。古事記でも、富士山は「アソ」と呼ばれていますね。nice!をありがとうございました。>hanamuraさん
by ChinchikoPapa (2011-10-01 19:30)
siina machikoさん、コメントをありがとうございます。
富士美写真館をめぐる物語は、いくら語っても尽きないほど、たくさん眠っていそうですね。^^ ここ数日の記事も、小川様と同写真館の佐藤様がらみのものとなりそうです。
出征兵士(上落合の叔母様のご主人)が、武運長久を祈願するために参詣した神社が判明しました。戦災で焼けなかった神社にもかかわらず、いまでは拝殿の意匠がすっかり変わってしまってます。だから、わたしがいくら小川様の写真を手に、落合・長崎地域を探しまわったり昔の各社の写真と見比べてみても、見つからないわけでした。w
その経緯には、とても面白いエピソードが付随していることが、佐藤様のご教示によりわかりました。数日後の記事を、お楽しみに。^^
by ChinchikoPapa (2011-10-01 19:41)
きょうも気温は低めなのですが、太陽が照るととたんに真夏の暑さになり、脱水症を起こしそうになりました。nice!をありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2011-10-01 19:46)
写真館といえば、実はうちの近所にもありました。最近はめっきり少なくなりましたが、たまに通りかかると、グラビアアイドルではないですが(微笑)、素敵な品のよい着物姿の女性の額入り写真が飾っていたりして・・・。
こういう光景がデジタルの進化と共に、東京の街中から姿を消していくのは、なんだか寂しいものがありますね・・・。
by 銀鏡反応 (2011-10-01 20:54)
銀鏡反応さん、コメントとnice!をありがとうございます。
そういえば昔、写真館のショウウィンドウには、いろいろなタイプの作品が飾られていました。結婚式や七五三などのノーマルな記念写真もありましたけれど、主人が個人的に撮影したいかにも表現作品というようなものもありました。店のショウウィンドウ自体が、作品発表の展示場、あるいは主人の技量の見せどころ・・・というような趣きがありましたね。
東京写真工芸社の佐藤様は、お訪ねしたときにPCを操作されていましたので、最新のデジタルデータ対応の今日的な写真館なんでしょうね。w
by ChinchikoPapa (2011-10-01 23:55)
100kmハイクは、くれぐれも体調に気をつけてください。
nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2011-10-02 01:25)
わたしにも、秋の夜長に針を落としたい、あるいはレーザーヘッドをあてたい曲がたくさんあります。nice!をありがとうございました。>マチャさん
by ChinchikoPapa (2011-10-02 11:06)
わたしはABのシダの葉トレーナーを持っているのですが、先日の試合もお話にならないほどの惨敗でした。nice!をありがとうございました。>da-kuraさん
by ChinchikoPapa (2011-10-02 11:10)
バスもトイレも広々としていて、ゆったりできそうなMGMマカオですね。nice!をありがとうございました。>こさぴーさん
by ChinchikoPapa (2011-10-02 11:50)
本というのは、その部屋の空気も吸収しますが、部屋を本の匂いで満たしもしますね。nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2011-10-02 14:27)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2011-10-02 18:26)
書かれているケースは、明らかな雇用契約の一方的な違反で、不当労働行為に当たりますね。nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2011-10-02 21:51)
男子ダブルスカル予選のトップ通過、おめでとうございます。
nice!をありがとうございました。>キャプさん(今造ROWINGTEAMさん)
by ChinchikoPapa (2011-10-03 00:48)
ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>mwainfoさん
by ChinchikoPapa (2011-10-03 00:49)
Papaさん、siina machikoさん、ご無沙汰しております。
我が「トキワ荘通り」では、赤塚不二夫先生がトキワ荘とともに借りていた「紫雲荘」というアパートを活用したプロジェクトを展開中ですが、紫雲荘に赤塚先生が住んでいた事実を私が最初にお聞きしたのも富士美写真館の佐藤仁さんからでした。
トキワ荘の記念碑設置の活動を始めた頃でしたからまだ3年ほど前のことです。
トキワ荘無き今、これはビッグニュースと思い、ここまでいろいろありましたが、やっと紫雲荘のブランディング活動が軌道に乗りました。
おかげさまで、いまだにメディア取材が途切れません(今はテレビ関係が多いです。)
佐藤さんの取材は先を越されてしまいましたが、ここからシリーズ登場ということでとても楽しみです。
写真館の所在地は、大正期は椎名町6丁目というと現・南長崎4丁目になりますが、現在地の南長崎3丁目ですと旧・椎名町5丁目です。
今とはちょっと離れた場所にあったのでしょうか?
by しいなまちお・K (2011-10-03 01:14)
しいなまちお・Kさん、いつもコメントをありがとうございます。
「紫雲荘」の記事は、わたしも新聞で拝見しました。その経緯も、佐藤様からの貴重な情報だったのですね。^^
お店のお邪魔をしてはいけませんので、取材におうかがいしたときは30分ほどしかいませんでしたが、ちょうどお話をうかがっている最中に、50年来のお客様がみえたりと、地域に根づいた昔ながらの写真館という印象を強く感じました。また機会がありましたら、ぜひ取材させていただきたいと思っています。
それから、南長崎4丁目のご指摘、ありがとうございます。<(_ _)> 長崎南町3丁目の表記にひきずられたようですね、のちほど訂正しておきます。地図を見ていていつも迷うのが、長崎村/長崎町あるいは椎名町界隈の住所表記なんです。場所によっては、かなり複雑な町名や地番変更の痕跡が見られますので、ときどき「うーむむむ」と表記の仕方に迷いますね。
●長崎村字五郎久保4119番地(1889~1926)
●長崎町字五郎久保4119番地(1926~1932)
●長崎南町3丁目4119番地(1932~1939)
●椎名町6丁目4119番地(1939~1964)
●南長崎4丁目(1964~)
・・・と改めて認識しましたが、これで間違いないでしょうか? ご教示いただければ幸いです。
なお富士美写真館は、開店当初は現在の目白通りに面した店舗ではなく、ひとつ裏側にお店があったようですが、大きな移転はされていないとのことです。
by ChinchikoPapa (2011-10-03 15:18)
Papaさんに、ご教示なんてとんでもございません!
ただ、町名変更は本当にややこしくて、特に落合・長崎地域は画家などの共通の文化が多いので、区の垣根を越えて本当に早見表でも作っていただきたいところです。
「椎名町」という地名は、もともと現・山手通りと目白通りの交差点付近の呼び名だったという説もありますが、1939~1964年まで町名として西武線より南側の地域で使われていました。
西武線の北側は一貫して「長崎町」そして現在でも「長崎」ですので分かりやすいのですが…
1957年の旧・椎名町5丁目南部町会の名簿を見ますと、佐藤さんのお宅は間違いなく4119番(裏側に写真館があった時代)ですのでやはり6丁目ではなく5丁目と思われます。
ちなみに5丁目南部町会は2000番台と4000番台しか記載がありません。
by しいなまちお・K (2011-10-03 19:36)
しいなまちお・Kさん、重ねてコメントをありがとうございます。
先年、佐伯展で図録制作をご一緒した方が、長崎地域の美術史に関して非常に詳しいご専門の方ですので、「今度、機会があったら行政区画無視の落合・長崎地域の芸術マップを作りましょうよ!」とお話しています。w そのとき、住所と地番変更が、すごくやっかいな課題となりそうですね。
落合地域では、およそ1935年(昭和10)前後に大規模な地番変更が行われていますが、それ以来、1960年代の半ばまでほとんど変更がないため、比較的わかりやすいのですが、長崎地域の地番は注意深く調べないと、各所でさまざまな時期に行なわれているような気配がしますので要注意ですね。
重ねてのご教示、ありがとうございました。さっそく、修正しておきます。
by ChinchikoPapa (2011-10-03 20:09)
氷川丸、なつかしいですね。わたしが子どものころ、中が「海洋博物館」のようになっていて、嵐に遭遇したときのバーチャル体験コーナーというのがありました。nice!をありがとうございました。>江藤漢斉さん
by ChinchikoPapa (2011-10-03 20:26)
うちの玄関先にあるキンモクセイも、毎日いい匂いをさせています。すぐ近くよりは、少し離れたほうが香りを強く感じますね。nice!をありがとうございました。>とらさん
by ChinchikoPapa (2011-10-03 20:28)
落合・長崎地域の芸術マップ、是非よろしくお願いいたします。
そこには挿絵画家~漫画家の要素もできる限り盛り込んでいただきたいと思います。
田河水泡の拠点が落合にあったことはPapaさんにご教示いただきましたが、、実は島田啓三は桜台の以前には、千早町あたりに住んでいました。
アトリエ村資料室で、11月19日から「アトリエ村の漫画家たち」展を行う予定です。朝日で取り上げられた「豊島区マンガゆかりの地マップ」の作者の企画です。もちろん当プロジェクトとも連携しています。
やっと児童マンガ文化のルーツをひもといていく素地ができてきました。
by しいなまちお・K (2011-10-03 20:54)
しいなまちお・Kさん、情報をありがとうございます。
洋画家と、挿画家や漫画家(風刺画家・風俗画家)は、戦前の場合かなりの割合で重なり合いますね。洛西館へやってきてプンプン怒った、岸田劉生も新聞に銀座を舞台にした風刺漫画を描いていますから、この界隈に住んだ挿画家や漫画家も含めますと、両地域合わせれば軽く千人単位になりそうです。マップにはとても収まり切らず、各町内ごとにページ割りした小冊子のほうがいいのかもしれませんね。ww
アトリエ村資料室の「アトリエ村の漫画家たち」展、面白そうですね。また、久しぶりにのぞいてみようと思います。企画展がなくても、資料室に集められた画集を観るだけでも楽しいです。
朝日の記事は、拝見してますよ。^^
by ChinchikoPapa (2011-10-03 22:31)
虹を見ると、子どものころに頭へ刷りこまれた「虹につづく道」という歌を思い出します。ドラマの主題歌で、TVで流れていたメロディーが焼きついてしまったようです。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2011-10-06 10:11)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>Cedarさん
by ChinchikoPapa (2011-11-08 00:33)
本日初めて拝読いたしました。写真の女性は佐藤仁の妹です。つまり水着の女性も同一人物です。現在確か80歳ぐらいになっていると思われます。現在の写真館の場所には無くそこから路地を入った2〜3軒入ったところにありました。昔は着飾って写真を撮るということは恥ずかしいとということで質屋と写真屋は路地と決まっていたそうです。
by めい (2012-08-03 22:32)
めいさん、コメントをありがとうございます。
はい、この記事を書いてアップする直前、佐藤仁様のもとへ取材にうかがったところ、「妹は、水着姿が出るのイヤがると思うよ~」ということで、一度登録した画像を残念ながら外した経緯がありました。(とても残念でした。w)
それから、目白通りから少し入ったところで営業されていた件、アルバム写真を提供してくださった小川様もそのように記憶されていました。また、大正期の地図を持参して佐藤仁様へお見せした際にも、路地の少し奥を指摘されていました。実は、バス通りの小出様より、おそらく昭和30年前後に撮影されたとみられる、路地に面した写真館の画像も手もとにあり、いつか機会がありましたらご紹介したいと考えています。w
by ChinchikoPapa (2012-08-03 23:53)
初めまして!
私は、佐藤創と申します。
佐藤仁は私の伯父にあたるのですが、昨年8月に他界しました。
実は、今伯父の生活していた長崎近辺を伯父の話や写真でつなぎ合わせ地図を作り家族新聞で追悼の特集を予定しております。
ブログを拝見していますと、古い地図や写真、何より伯父本人から話もお聞きになっている様ですので、大変興味があります。
是非、お話しだけでもお伺い出来ませんでしょうか?
by hajime (2017-01-11 17:07)
有難うございます!
本当に有難うございます。
改めてメールへご連絡させて頂きます。
よろしくお願い致します。
by hajime (2017-01-12 00:57)
佐藤創さん、コメントをありがとうございます。
ひとつ前の記事は、メルアドが含まれているため削除いたしました。ご了承ください。本文は、下記に再掲いたしました。
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伯父様の佐藤仁様が亡くなられたこと、こころよりお悔やみ申し上げます。実は、近くで250キロ爆弾が炸裂した際、吹き飛ばされた仁様とともに、爆弾の破片が喰いこんで壊れたカメラを、いつか撮影させていただきに上がろうと思っていました。カメラに破片が当たったおかげで、命びろいをしたというお話もうかがっています。
それほど広範囲のお話を、仁様よりうかがっているわけではありませんが、「家族新聞」のお役に立てれば幸いです。下記のメルアドまでご連絡いただければ、近くでお会いできるかと思います。
by ChinchikoPapa (2017-01-12 12:12)
初めまして。
佐藤仁さんの遠縁の者、ということで情報を提供させていただきます。
まず、コメント欄にもありましたが、富士美写真場の位置は、目白通りから現在の東京写真工芸社さんの左の路地を北へ50mほど入った右手へ折れる路地の角にありました。
従ってご掲載の地図「4116番地」にある「佐藤」さんは別人です。
パイプを咥えているベレー帽の男性は仁さんの父、創業者の佐藤孝さん、その右は佐藤仁さんです。
その下の左は多分上原氏、右の女性はR子さんといい、仁さんの妹にあたります。この方は存命ですから、むしろこの写真の方が「肖像権」の対象になりますね。
なお、水着女性の女性二人は仁さんの姪とその友達で、二人ともすでに亡くなっています。
その下の男性二人の写真のうち、右側は若かりし頃の佐藤仁氏です。左はおそらく上原氏だろうと存じますが、仁さんが亡くなったのであれば、確認できる人は居ないかもしれません。二人とも孝氏の弟子にあたるわけで、その時代のものでしょう。
また、本文中、250キロ爆弾で吹き飛ばされたのは孝氏で、仁さんは当時の中島飛行機で戦闘機組み立てに動員されていた筈です。
椎名町と改称されてからの地番は「椎名町5丁目4119番地」です。
以上僭越ながら情報をご提供申し上げます。
ますますのご発展を祈りながら。
by パン屋のおじさん (2017-02-19 09:07)
パン屋のおじさんさん、コメントをありがとうございます。
富士見写真場の位置ですが、仁様もおっしゃっていましたが、角からもう少し奥まったところに店舗があったそうですね。ただし、掲載の地図にはその位置に「佐藤」様も「富士見写真場」の記載もなく、ご覧のように1925年(大正14)の地図へ、ベースにあった印刷文字をわざわざ消して、のちに「佐藤」と書き込まれていますので(地図の持ち主があとで修正していると思われます)、そのまま佐藤様としてご紹介しているしだいです。
こちらには掲載していませんが、仁様の「本人は恥ずかしがると思うから載せないで」といわれた水着姿の女性ですが、上原様のところに保存されている写真は仁様の妹さん、つまりR子さんと同一人物であり、姪御さんやその友人ではありません。上原慎一郎アルバム(長女の小川薫様がお持ちのアルバム)に写る人物は、別の記事にも書きましたが、仁様と薫様双方で人物特定をしていただいています。
また、250キロ爆弾の破片で防空頭巾の右側(耳の上あたり)を切られたのは、仁様によればご自身の経験で、そのとき傷がついたカメラも保存してあるとのことでした。そのカメラを、今度拝見しにうかがおうとしていたのですが、残念ながらお亡くなりになってしまいました。250キロ爆弾については、長崎神社南東側の着弾地についても詳しくうかがっており、三の鳥居が爆風で崩壊した様子(現在は一の鳥居下に部品が現存)も、詳細にご教示いただきました。
by ChinchikoPapa (2017-02-19 16:05)
掲載の地図の経緯はわかりましたが、大正15年の地図に何者が記したものでしょうね。あの位置に店舗を移動したのは、昭和も50年代になってからで、あの角地は戦後ずっと「鮎川自転車店」があったところです。
水着の女性については、そうすると別の写真のよヴすね。
また、爆弾のことは脚色された背景もあるようです。その方が面白いからと言うのはちょっといただけません。あれは父上の孝さんの経験のようです。
以上、失礼ながら書き添えさせていただきます。
by パン屋のおじさん (2017-02-20 05:19)
パン屋のおじさんさん、重ねて貴重な情報をありがとうございます。
おそらく、1925年(大正14)の『下落合及長崎一部案内図(西部版)』に記載された「佐藤」様という文字は、同じく長崎バス通りに店舗をかまえていた所有者の方(仁様と同年代の方です)が書きこまれたか、あるいは元の所有者の方が書きこんで現所有者の方へ譲った可能性が高そうですね。この地図の経緯についても、過去に詳しく記事にしています。
250キロ爆弾が着弾した際、その下の防空壕に退避していた一家が全員亡くなられたというエピソードとともに、仁様には場所も地図で特定してうかがっていました。佐藤孝様のご経験だとすると、破片の傷が残されたカメラはお父様のものということになりますね。
by ChinchikoPapa (2017-02-20 10:07)