画家のアトリエでも事件は起きた。 [気になる下落合]
今年の下落合では、セミたちClick!がなかなか鳴きださなかったせいか、10月も下旬になろうとするのに、まだアブラゼミやツクツクボウシが森や林で鳴きつづけている。この事件が起きたのは9月なので、下落合一帯はいまだセミしぐれが衰えず、うるさいぐらいの環境だったろう。
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1910年代の比較的早い時期から、当時は東京郊外の森や田畑が拡がる下落合には、画家たちが参集しはじめていた。中村彝Click!、二瓶等Click!、大久保作次郎Click!、竹久夢二Click!、あるいは画家ではないが東京美術学校の森田亀之助Click!、目白通りの向い長崎地域には牧野虎雄Click!などが、大正期の前半からポツポツと住みはじめている。
洋画家ばかりでなく、大正期以降は日本画家も数多く住んでいるが、1917年(大正6)という早い時期に下落合で暮らしていた日本画家・寺崎亮山のアトリエで、ある事件が起きて新宿署の刑事たちが出動するという騒ぎがあった。寺崎亮山の家は下落合字丸山370番地、すなわち現在の落合中学校の北側、北東角の一画にあたる。相馬孟胤邸Click!から道ひとつ隔てたすぐ東側のエリアで、相馬坂を上って突き当たった左手の角地だ。
下落合370番地は、過去にも当サイトへ登場している見憶えのある地番だ。そう、竹久夢二Click!が1915年(大正4)に住んでいた住所に相当する。(「彦乃のゆふれい」さんからご教示いただいたので、特に印象に残っている。w) ひょっとすると、寺崎亮山は竹久夢二が転居したあとの、同じ借家に引っ越してきて住んでいたのかもしれない。1921年(大正10)当時の1/10,000地形図を参照すると、下落合370番地には4軒の家々が採取されているが、おそらくすべてが借家だろう。場所的にみれば、相馬坂を拓いた相馬家が経営していたものだろうか?
1917年(大正6)9月21日に発行された、読売新聞の朝刊三面から記事全文を引用してみよう。
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青年画家の妻/毒を仰ぐ
生命は取止めん/原因ヒステリー
二十日午後七時半頃豊多摩郡下落合三七〇青年画家寺崎亮山(二九)氏の夫人トリ子(二五)は亮山氏が庭園に下り立ちて折柄咲乱れ居るダリアの間を徘徊し頻りに画題を求め居れる隙を窺ひ新座敷八畳の間に於て絵画用朱黄の一塊を嚥下(のみくだ)し苦悶を始めしを亮山氏が発見して騒ぎとなり最寄の小野木医師を招きて解毒剤を与へしめしかば生命或は取留む可(べ)く一方新宿署よりも係官出張原因に就き取調をなしたるがトリ子は今春亮山氏の許に嫁ぎしものにて性質勝気なる丈けに能く一家を処理し亮山氏をして後顧の憂ひなく其天才を発揮せしめ居れる程の婦人なるも先頃来強度のヒステリーに冒され居たりと云へば多分其結果なる可しと
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夫の寺崎亮山を「氏」づけで書きながら、妻のトリ子さんを呼び捨てにする表現も気になるけれど、この記事はいったいなんだろうか? 当時から、読売新聞はセンセーショナリズムをベースに、今日のスポーツ新聞のような記事の書き方をするのだが、かんじんの服毒の原因についてはどこにも書かれておらず、妻の「勝気」による「ヒステリー」で片づけられている。
日本画に用いられる絵の具「朱黄」には、おそらく丹(に)=硫化水銀が含まれていたと思われるので、トリ子さんの症状はそれほど軽くはなかったはずだ。それまで、きちんと家の中を取り仕切っていた新婚半年の新妻が、「勝気」な性格のためにいきなり「ヒステリー」を発症して、夫が使っている絵の具を呑んでしまった・・・では、あまりに不自然だろう。前後の見境もなく錯乱していたのなら、いくつかある朱色の中で、毒物の入った絵の具「朱黄」を冷静に選び出して嚥下している状況は、ますます不自然きわまりない。どこか、寺崎亮山ひとりが「いい子」になって、騒動の全責任を妻の「性質勝気」な「ヒステリー」へと、なすりつけている匂いがするのだ。
もっとも、原因を探り出すと寺崎夫妻のプライバシーへ大きく立ち入ることになるので、読売新聞の記者が気をきかせて「ヒステリー」止まりで終息させた・・・という解釈も可能だが、この自殺未遂事件から数年後に起きる、お隣りの御留山・相馬邸Click!の神楽殿炎上事件の記事を見ると、とてもそのような配慮をするような編集方針とも思えない。むしろ、面白おかしくさえあれば「なんでもあり」のセンセーショナリズムによる報道姿勢は、その後も一貫してつづいていくように思える。
さて、下落合370番地界隈を調べるため、先日ご紹介Click!した1909年(明治42)作成の最初期1/10,000地形図と、1921年(大正10)の同地図とを見比べていると、1913年(大正2)に相馬邸が建設されるのにともない、御留山Click!の地形が変わっていることに改めて気づく。それは、相馬邸(下落合378番地)の巨大な北斗七星型の母屋Click!を建設するために、御留山の深い谷戸から北側へと切れこんだ谷間のひとつを、ほぼ完全につぶして整地しているせいだ。また、相馬坂を開拓するために、御留山谷戸の最奥部(湧水源)も、少なからず埋め立てられて短くなっている。
母屋建設のために、北側へ切れこんだ谷間を埋め立てた位置は、ちょうど現在の取り壊しを待つ財務省官舎跡から、道路をはさんだ北側の住宅地にまでおよぶとみられる。相馬邸母屋の大半が、この北向き谷戸の埋立地の上に建っていると思われるのだ。おとめ山公園の現状からいえば、北向きの谷間はいまの「上の池」北側に設置された3つのベンチあたりを谷底とし、北北西へ大きくえぐれた谷間だった。財務省官舎跡のほぼすべての敷地と、道路をはさんだ住宅地までが「V」字型の谷間のために窪んでいたのが見てとれる。
ところが、相馬邸が建設されたあと、1921年(大正10)に発行された地形図で同エリアを観察すると、相馬邸母屋の建っている敷地がほぼすべて水平になっているのがわかる。これだけの谷間を埋めて平地にするには、膨大な土砂が必要だったと思われるのだが、どこか近くの山や斜面を削って埋め立てているようには見えず、周辺の地形も変わっていない。したがって、大量の土砂はどこか外部から御留山まで、明治末から大正初期にかけて運ばれてきたと思われるのだ。
先の下落合370番地にあった寺崎亮山の画室だが、御留山側からみればそろそろ傾斜が感じられなくなる丘上にあたり、また北側の林泉園Click!の谷戸側からみても尾根上にあたる位置だ。南北の見晴らしがよかったと思われる寺山家で、いったいどのようなドラマが繰り広げられたのだろうか? 寺崎はその後、日本画家として活躍してはおらず、目立った作品も残してはいない。
◆写真上:下落合370番地(画面左側)にいまも残る、舗装されていない砂利道の路地。路地の奥は下落合341番地で突き当りには落合中学校が建つ、わたしの昔から好きな一画だ。
◆写真中上:上は、1917年(大正6)9月21日の読売新聞。下左は、1921年(大正10)作成の1/10,000地形図にみる下落合370番地で4軒の家々が並んでいる。下右は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合370番地。南北に1列だった住宅が、2列に建て替えられている。
◆写真中下:上左は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる御留山。上右は、1921年(大正10)の同図にみる御留山で、明らかに地形が大きく変わっている。下は、北側へ切れこむ谷間の入り口があったあたりの現状。おそらく、このV字谷からも湧水による渓流があっただろう。
◆写真下:上と中は、1947年(昭和22)の空中写真にみる御留山谷戸の変貌。下左は、下落合370番地と同341番地を分ける路地。下右は、下落合341番地に通う未舗装の路地。
マスコミ発達の初期段階は、このような無責任な記事が多いですね。
もっとも、今もそれほど変わりませんが。
マスメディアの倫理観や危険性が問われる問題の一つですね。
書き手の人格も問われます。(そこまで気にする読み手はあまり
いないとは思いますが・・)
by niki (2011-10-19 10:33)
高校時代の友人が、八王子へ移転した大学に通っていたので当時は利用しましたけれど、最近は高尾への通過駅になってしまいました。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-10-19 13:17)
『Sunbound』は、新譜発売を雑誌で見たリアルタイムの作品です。J.ジャーマンが確か、全部ひとりで演奏しているアルバムでしたね。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2011-10-19 13:24)
どのような物語なのか、楽しみですね。お仕事がスムーズに終わりますよう。nice!をありがとうございました。>hanamuraさん
by ChinchikoPapa (2011-10-19 13:31)
政府の2012年度予算一般会計(要求)の項目を見て、あちこちで気づいたのですが、リスク管理の甘さでは日本政府のほうが民間企業よりもはるかに「上」のようです。官邸危機管理センターのシステムに、無停電用の発電機が存在しなかったことが露呈していますね。電気が消えたら機能や業務が停止する、国家の危機管理センターは呆れるを通りこして、もはや笑い話の領域です。そのほか、あまりにひどいシステム環境なので、近々記事に書きたいと思っています。nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2011-10-19 13:39)
国土地理院の地図で見ると、半島の海岸線には崖地ばかりの地形がつづきますね。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2011-10-19 13:44)
仕舞いこんである一眼レフフィルムカメラの、カビを抑えるのに苦労します。ファインダーの中にポツンと生えると、なかなか除去するのが難しいですね。nice!をありがとうございました。>paceさん
by ChinchikoPapa (2011-10-19 13:49)
nikiさん、コメントとnice!をありがとうございます。
当時の新聞を読む機会が多いのですが、たとえば「読売」と「東京朝日」、「東京日日」(いまの毎日)では、取り上げるニュースが大きく異なっているのが面白いです。それだけ、編集方針に各紙の主観が直接反映されているわけですが、特に三面記事は三紙三様で、同日の紙面でもまったく異なっていることもめずらしくないですね。
史的な三面記事を取り上げることの多いここでは^^;、同日の各紙を同時にチェック・・・は、できるだけ進めたい作業テーマのひとつとなっています。
by ChinchikoPapa (2011-10-19 14:06)
少し前に江古田へサルスベリを見に出かけたのですが、少し早かったせいか花がまだだったのが残念です。nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2011-10-19 14:11)
「ダイナマン」の主題歌は、確かに70年代前半の歌謡の臭いがしますね。w nice!をありがとうございました。>マチャさん
by ChinchikoPapa (2011-10-19 14:22)
「六本木モスク」からは、イスラムの寺院ではなく多面体としての「人間」を想像してしまいました。表があり裏があり、また裏が表になり表が裏になり・・・という感覚からでしょうか。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2011-10-19 16:36)
自身が乗りなれた艇ではなく、別の艇で身体を馴染ませなければならないのは、しかも1週間で・・・というのはたいへんでしたね。nice!をありがとうございました。>イデケンさん(今造ROWINGTEAMさん)
by ChinchikoPapa (2011-10-19 16:40)
井の頭公園は神田川の湧水源なのに、あまり出かけていないことに気づきます。nice!をありがとうございました。>江藤漢斉さん
by ChinchikoPapa (2011-10-20 18:10)
具合が悪くなったメルちゃん、たいへんでしたね。うちには11歳の牝ネコがいるのですが、やはりそろそろ病気が心配です。nice!をありがとうございました。>まるまるさん
by ChinchikoPapa (2011-10-21 12:39)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2011-10-21 19:55)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2011-10-22 15:47)
さすが読売!今も昔も編集方針は変わらない、というところですね(笑)。
by opas10 (2011-10-23 11:17)
opas10さん、コメントとnice!をありがとうございます。
なんとなく、メディアの出発点に形成された編集基盤というのは、いつまでも抜けない感触がありますね。
by ChinchikoPapa (2011-10-23 18:01)
ごていねいに、少し前の記事にまでnice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2011-10-26 13:09)
少し前の記事にまで、nice!をありがとうございました。>mwainfoさん
by ChinchikoPapa (2011-10-26 13:39)
明治学院のチャペル、うつくしいですね。何度か出かけているのですが、まだ中へははいったことありません。nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2011-10-29 00:11)
こちらにも、 nice!をありがとうございました。>ぼくあずささん
by ChinchikoPapa (2011-10-30 11:34)
以前の記事にまで、nice!をありがとうございました。>alba0101さん
by ChinchikoPapa (2011-12-14 18:20)