渡仏前の最後に描かれた「下落合風景」。(中) [気になる下落合]
日動画廊の応接室には、佐伯祐三『下落合風景』のほかにも、部屋をグルリと取り囲むように10点ほどの作品が架けられていたのだが、わたしはまったく目に入らず、お邪魔している最中はずっと佐伯の絵に集中していた。帰り際に気がつけば、藤田嗣治Click!の「乳白色の肌」をした婦人像や、佐伯の隣りにはユトリロや梅原龍三郎Click!の風景画など、そうそうたる画家たちの作品ばかりが、さりげなく壁に並んでいたので、じっくり拝見しなかったのをちょっぴり後悔している。それほど、この『下落合風景』がもつ魅力と制作時期に気を取られ興奮していたのだろう。
佐伯祐三Click!は、1926年(大正15)の秋に『下落合風景』Click!をわずか30点ほどのみしか描かなかったのではなく、翌1927年(昭和2)に入ってもつづけて制作していたことは、笠原吉太郎が描く直接の目撃情報的な1927年(昭和2)4月の作品Click!や、諏訪谷に面した曾宮一念アトリエの南側を描いた雪景色にまつわる地元の家々の様子Click!などから、これまで何度も繰り返しここで触れてきている。「制作メモ」Click!の内容や点数に引きずられた単純な解釈ではなく、佐伯が1927年(昭和2)の1930年協会第2回展の直前、または大磯へ避暑に出かける直前まで『下落合風景』を描きつづけていたことは、もはや明らかだろう。
そして、『下落合風景』の作品点数は、このサイトで突き止めて公表している作品だけでも50点ほどなのだが、おそらくこんなに少ない点数ではないはずだ。日動画廊の方のお話によれば、この作品も「佐伯祐三作品頒布会」Click!を通じて広く絵が販売されたのと同じ、関西方面から入手されたとのこと。絵画に興味のない方が所有しているためか、あるいは税務署が怖くてちょっと言い出しにくいせいなのかw、これまで知られずにいる『下落合風景』が、西日本を中心にまだまだ存在していると思われるのは、佐伯が画布600枚をアトリエで製造していたことからもうかがえる。「画布600枚」が大袈裟であり(佐伯は事実をふくらませて話すタイプの人間とは思えないが)、話半分としても300枚の画布のうち200枚ほどが“行方不明”なのだ。
少し横道へそれるが、わたしの手元にもお約束で公表を留保されている『下落合風景』作品の画像データがある。明らかに未公開の作品なのだが、ほかにもサインがなく佐伯作とは気づかれずに眠っている作品Click!、あるいは戦災ですでに消滅してしまった作品もたくさんありそうだ。もし、これまで掲載してきた作品群とは異なる、佐伯の『下落合風景』と思われる作品をお持ちの方がいらっしゃれば、コメント欄へそっとご教示いただきたい。メールで画面写真をお送りくだされば、下落合のどの場所を描いたものか、その描画ポイントを研究・調査して画面写真ともども記事に掲載させていただければ幸いだ。もちろん、いま手元にある未公開の『下落合風景』と同様に、出どころは生涯ご承諾を得ない限り黙して語らず・・・のお約束をさせていただく。
では、炭谷様と日動画廊のご好意でじっくり拝見できた『下落合風景』のテーマにもどろう。この『下落合風景』Click!に描かれたモチーフを、ひとつひとつ検証・特定していくことにする。まず、以前にアップした記事で、佐伯の自宅が描かれているClick!とした本作のバリエーション作品Click!では、佐伯の自宅の特定をまちがえていたことが、より広角かつ繊細なタッチでとらえられた本作の風景から判明した。そして、本作品にこそ佐伯の自宅、すなわち母屋の一部とアトリエの一部が具体的に、まるで『下落合風景』の最終作品を記念するかのように描かれていることもわかった。
まず、右側に描かれている木々は、1923年(大正12)に宅地開発を終えている目白文化村Click!の、第三文化村の敷地に沿って植えられている並木だ。この作品が描かれた当時、投機目的の土地の買い占めが進行中Click!で、第三文化村にはあまり家々が建ち並んでいなかっただろう。関東大震災の直後から、東京郊外の土地は値上がりをつづけ、特に落合地域には西武鉄道による西武電鉄Click!(現・西武新宿線)の建設計画があったためか、かなり極端な値上がりをしていたようだ。この作品が描かれたと思われる1927年(昭和2)の夏現在、西武電鉄は高田馬場仮駅Click!まで開業しており、下落合氷川明神前には下落合駅Click!が建設されていた。
1936年(昭和11)に陸軍によって撮影された空中写真を見ても、第三文化村には空地がまだまだ目立っている。佐伯が「八島邸」そのものを描いた『下落合風景』Click!も、いまだ住宅が建設されない第三文化村の敷地のひとつに入りこんでイーゼルをすえていた。画面右側のパースのきいた道路は、佐伯の『下落合風景』シリーズではもっとも制作点数の多い「八島さんの前通り」Click!であり、1927年(昭和2)当時は補助45号線として拡幅される予定になっていた三間道路Click!だ。その後、青柳ヶ原Click!へ1931年(昭和6)に聖母病院Click!が建設されると同時に、新しく開拓された聖母坂が補助45号線に指定されることになる。この作品の路上には、赤いスカートをはいた女性の歩いている姿が描かれている。八島邸の門Click!から出てきた、八島さんの奥さんClick!だろうか?
電柱をはさんで、左側に見える赤い屋根の2階家が、このサイトをお読みの方にはもうお馴染みの八島さんちだ。「八島さんの前通り」は、谷間の淵を走る尾根上の通りであり、道路から画面の左側(東側)にいくにつれて、地形は2~3mほど低くなっている。それは、青柳ヶ原の丘(現・聖母病院)の西側に北へ向けて入りこんだ谷戸地形(不動谷Click!あるいは西ノ谷と呼ばれた)が影響し、1/10,000地形図でも2.5mの等高線が描かれている傾斜地のせいなのだが、現在では戦後の再開発や整地のために、地形の落ちこみはそれほど感じられなくなっている。
八島邸に目をもどそう。八島さんちのすぐ手前(北側)に描かれた、屋根の低い1階建ての住宅が多賀谷邸だ。多賀谷邸からやや離れた、さらに北側には佐藤邸が建っていたはずなのだが、この作品にはすでに描かれていない。関東大震災Click!の直後から、下落合では家の建て替えや新築住宅の建設ラッシュがつづいており、佐藤邸もリニューアルのために一時解体されていたか、あるいはどこかへ引っ越したために地主が新たな借家建設を計画していたのか、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」には採取されていたはずの佐藤邸が消えている。
だからこそ、見通しがきくようになった「八島さんの前通り」が大きくクラックしているこの位置に、佐伯は画架を立てて北側から描いてみたくなった・・・とも考えられる。この作品が描かれてからほどなく、八島邸の北側に建っている多賀谷邸は解体され、相続の課題からだろうか敷地が東西に2分割されている。また、当の八島邸も法務局の地籍簿で調べたところ、1935年(昭和10)前後に敷地の所有権が宇田川家から八島家に移っており、大正末から昭和初期にかけて佐伯が描いた、フィニアルが載る赤屋根で下見板張りの八島邸は、おそらく解体されて建て替えられているのだろう。さらに、佐伯邸の南隣りに建っていた青柳邸Click!も、なんらかの事情が生じたものか、昭和初期になって敷地が南北に2分割され、佐伯が見馴れていただろう青柳邸は消滅している。
このように、当時の下落合では住宅建設ラッシュが押し寄せて、新築住宅があちこちで急増Click!すると同時に、従来建っていた家屋の建て替えや敷地の再開発・再分割などが頻繁に行われている。それは、関東大震災の経験から重たい瓦屋根の家づくりが忌避され、スレート屋根やトタン屋根の流行があったせいでもあるが、せっかく建てた新築の立派な西洋館がわずか5年Click!ほどで建て替えられてしまうという、少なからぬ“混乱”もみられた。それは、昭和初期に日本経済へ大きなダメージを与えた金融恐慌と無関係ではないだろう。さらに、つづく世界恐慌によって打撃を受けた人々は、せっかく下落合に建てたマイホームを手放さざるをえなかったにちがいない。
<つづく>
◆写真上:1927年(昭和2)の6月上旬ごろに、制作されたとみられる佐伯祐三『下落合風景』。
◆写真中上:左は、1926年(大正15)9月~10月に制作された『下落合風景』の制作メモ。この点数は同連作のほんの一部であり、佐伯は同年から翌年にかけて描いた「雪景色」をはさみ、1930年協会第2回展の直前まで『下落合風景』を描いていたことがわかる。右は、1927年(昭和2)4月に制作された笠原吉太郎『下落合風景を描く佐伯祐三』。『K氏の像』でも有名な笠原吉太郎Click!は、佐伯が1927年(昭和2)の春になっても連作をつづけていた直接的な目撃作品を残している。
◆写真中下:赤いスカートをはいた女性が歩く、「八島さんの前通り」の拡大。
◆写真下:上左は、電柱が印象的な八島邸と邸前の三間道路。上右は、八島邸の南側敷地に建つ巨大な2階建て建築の納邸と、北側の敷地に建つ1階建ての多賀谷邸。下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる描画ポイントだが家々の敷地の縮尺や位置、境界線の形状が実際とは大きく異なっているので、正確な描画ポイントと画角が描けない。
膝上派のPCつかいには便利そうですね。
nice!をありがとうございました。>sugoimonoさん
by ChinchikoPapa (2011-11-08 10:07)
滝の水しぶきを浴びて、全身がリフレッシュされそうな写真ですね。nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2011-11-08 12:25)
”南部鉄瓶”風リードのtsというのは、そそられますねえ。どんな演奏をしているのでしょう。w nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2011-11-08 12:29)
美容にいい参鶏湯は、なぜかわたしも食べたことがあるのですが(爆!)、赤トウガラシが入ってなくて薬膳のような風味で美味しかったです。w nice!をありがとうございました。>nikiさん
by ChinchikoPapa (2011-11-08 12:32)
先日、木村屋のパンを買って帰ったのですが、なんだか昔より小さくなった気がします。nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2011-11-08 12:36)
近々、わたしも高橋是清邸を取り上げる予定です。w たてもの園に保存された邸の、長押に残る刀瑕か銃剣瑕が生々しいですね。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-11-08 12:40)
霞が関の参謀本部後にある水準原点標も、東日本大震災で2.4cm地盤沈下して先ごろ修正されましたね。関東大震災の隆起が少し解消され、初期の原点標にもどりつつあるということでしょうか。nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2011-11-08 12:52)
エリック・クラプトンのグラミー賞(vo賞)受賞は、案外遅かったのですね。もう少し早かったような印象があります。nice!をありがとうございました。>マチャさん
by ChinchikoPapa (2011-11-08 19:13)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2011-11-08 21:37)
今週から来週は、あまりに仕事が詰まりすぎてますので、きょうはちょっと一息のビールを。でも、残念ながらつまみにプリッツはありませんでした。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2011-11-09 00:30)
GoogleMapにも、「ろう燭岩」のような細かな岩礁は採取されてないですね。ずいぶん前に、相模湾の「烏帽子岩」がないじゃないか・・・と思った憶えがあります。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2011-11-09 14:10)
書かれている代官山のツリーハウスは知りませんでした。今度、遊びに寄ってみようと思います。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2011-11-09 14:16)
わたしもPCの故障は他人ごとではありませんので、バックアップはマメに取るようにしてはいるのですが、突然のトラブルには手の打ちようがないですね。nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
by ChinchikoPapa (2011-11-09 14:18)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2011-11-09 14:34)
夏バテ防止のために、土用の丑の日は蒲焼きを食べよう・・・と吹聴した平賀源内とか、観月会には和歌・俳句でなく狂歌を詠もう・・・と流行らせた蜀山人とか、昔から流行の仕掛人はあちこちにいたようですね。nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2011-11-09 14:43)
ワイナリーの熟成樽が、日本の桶のような仕様をしているのが面白いですね。nice!をありがとうございました。>yokatelierさん
by ChinchikoPapa (2011-11-09 16:16)
わたしもこのところ毎週、蕎麦屋へ立ち寄ってます。新蕎麦が美味い時期ですね。nice!をありがとうございました。>hanamuraさん
by ChinchikoPapa (2011-11-10 00:03)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>ものたがひさん。
by ChinchikoPapa (2011-11-11 10:29)
庭園美術館は休館前のせいか、ずいぶん混んでたんですね。
nice!をありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2011-11-12 01:03)